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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

下伊那那喬木村の木地屋

2024-07-18 23:56:51 | 民俗学

 『長野県史民俗編総説Ⅱ』の巻末には、「長野県民俗関係文献目録」というものがまとめられている。明治以降平成2年12月末日までに県内で刊行された単行本及び雑誌論文から関係のものをまとめたものだが、それ以降の文献目録は作成されていない。かつてホームページを作成したころ、長野県民俗の会のページに文献目録を、とおもって始めたものの、いまもって中途半端な状況となっていて、この先もそれが形になって公開できるかは不透明だ。しかし、文献目録はこの時代は検索が容易だけに、あれば価値があるはず。いつかは、と思うものの、とても先は見えていないが、この作業も誰かがしなくてはならないことだとは認識している。

 その文献目録に、どこで探しても閲覧できないものが掲載されている。例えばわたしが結成していた会のものは、どこにも公開されていない。編さん当時、編さんにかかわっている方たちと民俗の会を通して交流があったことから、わたしの会の「通信」をいくつか渡したこともあって、そこに掲載されていたものが、文献目録にいくつか掲載されている。どこで探してもこの報告は閲覧できないため、ここに掲載しておくこととした。文献タイトルで検索すれば、とりうえず閲覧は可能ということになる。もちろん報告文は稚拙なものではあるが…。


下伊那那喬木村の木地屋

 ① 木地屋の由緒
 木地屋は木地師、あるいはろくろ師ともいい山中に仮小屋をつくって、ろくろで主に椀や盆などを製作することを業としていた。材料の木は主として栃・楢・桂などであったが木が欠乏すると良材を求めて自由に山々を移動する特殊な工人であった木地師の起源は二説あり、一つは近江国えち郡に住む秦氏(大陸から渡来した工人)の末であるともいい、もう一つは親王緑起説である。平安時代文徳天皇(八五〇~八五八)は紀名虎の女静子との間に長子惟喬親王があり、これを東宮にと思い召されたが第二子惟仁親王の生母が藤原氏であったため、政治上の勢力関係によってこの惟仁親王が東宮になられ、やがて清和天皇となった。惟喬親王は不遇の中に天安元年十四歳で帝劇をうけられ四品を授けられた。後、僧となり都を出て近江国愛知郡蛭ケ谷に世を忍ばれた。時に年二十九歳、一説には蛭ケ谷ではなくその奥君ケ畑であるともいう。随従者として小椋大臣実秀・大蔵大臣惟仲・河野大納言・堀川中納言等の名が伝えられているという。ある日親王はこの山中で樫の実の苞を拾われ、これより椀を思いつかれたと言い伝える。木地師はこの一族と称し、木地製作の法を学んで散在するに至ったという。
 木地師はいわゆる木地屋文書といわれる由緒書や御綸旨と称するもの、及び諸役御免許等の写しを家宝として所持し、いろいろの伝承をもっている。
 木地師は定紋に十六弁二重菊花紋と、裏紋に五十七の桐紋とを用いたが、明治五年菊花紋が禁止されて裏紋に輪を加えたもののみを許されるに至った。

 ② 木地屋の分布
 信濃は山国で木地師に最も適した土地であったから、相当古くから入山したものと思われる。伊那谷では伊賀良(いがら)下殿岡公文所、矢沢氏蔵の天正の貴文帳などに「木ちし」と出ているのが最も古いといわれる。喬木村にはじめて木地屋が入って来たのは何年頃か明確でないが、村に残っている記録としては小川高見原氏所蔵の「なわだか」(慶長八年)・「小川郷石高帳」(慶長四年)などに出ているものが古い。これらによると、木地師のまま土着し、既に本百姓になっていることがわかる。
 木地屋の根源地である近江の蛭ケ谷部落の筒井八幡宮社務所と、君ケ畑部落の太皇大明神社務所の「氏子狩帳」をみると、下伊那地方の木地屋の分布の状況がわかる。氏子狩帳というのは木地屋の根源地である蛭ケ谷、及び君ケ畑の各氏神社の修理費維持費等を、全国に散在する氏子とみなされる木地屋たちから取り立てに巡回した時の旅行記兼奉加名簿である。これらから江戸後期の喬木村内分布は、小川川水系に君ケ畑系、加々須川(かかすがわ)水系に蛭谷系の木地屋がいたことがうかがえる。また、阿島(あじま)に多くいて、後に「傘ろくろ師」として伝統的産業である『阿島傘』を形成していった。

 ③ 木地屋の生活
 喬木村には今でも大島の中ロや氏乗(うじのり)の本谷などに「きじやしき」と称する地名が残っている。木地屋は五、六年経て山内の用木を伐り尽くせば他の山へ移動するが、その際山の選定は同族職者との通信によって取り決めをしていた。移動の時、世帯道具その他の運搬は、里人の荷運びを業とする者を頼んで行なった。荷物は主として木地職の道具類・食糧・ふとんなどで、山へ入る時はたいてい同族が先にいる場所へ行くので仲間に頼み、木屋を構えて仲良く共同生活をする。
 山に木屋を建てる場合は、土地の神主に祈祷をしてもらうが場所は木地の原料となる栃の樹の近い所を選び、山崩れや大水の出る様な危険な場所を避ける。もちろん飲み水の有ることも考慮し、木屋の大きさは二間半に四間半(五m×九m)位のものが多い。木屋には常時しめなわを張りめぐらしてあった。
 木地屋の家族構成は氏子狩帳にみえるが、それによると一戸平均およそ四人で、内男二人、女二人の割合である。
 木地屋の食生活は、村里の農家が自給自足を原則としていたのに対し、米・みそ・醤油・塩・魚など主要食糧はほとんど買っていた。主食は米ばかりで雑穀は食べないといわれ、野菜としては大根・芋などを木屋の周りに少々作った。
 婚姻習慣は、血族・同族の縁組を守り、木地屋は土地の人に対し「我々は公卿の末裔である」といい、また土地の人は木地屋を「渡り者」「新参者」として互いに融和せず、従って両者の間においては結婚は行なわれなかった。
 木地屋は本拠地である江州小椋村の蛭ケ谷か君ケ畑に籍をおいて、遠く「出稼ぎ」をしている形式になっていた。したがって戸籍調べに江州から神官が廻回して来た。子供が生まれても地元の役所には届けず、廻国の時初めて神官に届けていた。
 明治初年までは全国各地に散在する木地屋を蛭谷村、及び君ケ畑村で支配して来たが、信濃・飛騨・美濃等の山中に散在するので「それ等全部を従来通り本村において支配することはできないからどうにかしてほしい」との嘆願書が両村の戸長から滋賀県令に当てて出されている。その結果滋賀県令から 「各所在地の県庁へ願い出てその管轄を受けよ」との指令が出さおた以後各地へ入籍するようになった。

 ④ 木地屋の墓
 山に生まれ山で果てる木地屋衆は、全く世間から遠ざかった人たちで、したがって近親の死にあっても僧を招くこともできず、埋葬は土葬にしていたが、墓はその土地土地でつくった。戒名は木地屋の根源地である江州の蛭ケ谷の帰雲庵、君ケ畑の金竜寺の僧が廻回して来た時に、頼んでつけてもらい供養した。
 喬木村小川川上流氏乗字槙立は、宝暦から明治初年にかけて木地屋集落のあった所であるが、ここに木地屋の墓がある。かつては二箇所にあったものであるが、林道改さく工事の際現在地に移された。墓地の一段上の小平地に三峰神社の小桐があるが、かつては木地師がその墓を山犬からの害から護るために祀ったものといわれる。
 墓地には宝暦四年(一七五四)、明和八年(一七六八)、天明七(一七八三)、寛政三年(一七九一)等の石仏が十七基、内菊花紋章を刻んだものが六基現存している。

 


『遥北通信』79 三石稔

 


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