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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

生業と祭り

2018-09-12 23:59:30 | 民俗学

 長野への出張の帰りに、穂高町嵩下の舘宮神社例大祭のお囃子の練習に立ち寄った。ここでは4日間の練習日を設けている。練習日程の通知には「小学校3年生以上中学1年まで」とその対象を記しているが、今年参加予定の子どもたちの名簿には小学3年生から6年生までの33名が掲載されており、名簿上では中学生の参加はなかった。毎年のことのようだが、対象としては中学1年生までであるものの、実際は小学6年生がお囃子の中心になるよう。したがって中学生はサポート役となる。もちろん年代によって子どもの数も異なるので、その年毎対応は異なるかもしれないが。

 かつては四つあったという曲は、今は二つ。その二つも子どもたちは1番と2番と呼んていて、名前はない。太鼓とジャンジャン(鉦)を担うのは男の子であったが、決められたことというわけではないようだが、自然と男の子が担うようだ。その場に居合わせた氏子総代によると、笛は女の子の方が上手だから、とも言う。

 舘宮神社でのお船の曳行は、参道の範囲だけだという。集落内の曳行をしなくなってずいぶんたつようで、氏子総代の方たちに「子どものころどうでした」と聞いても、参道の間だけしか曳かなかったという記憶のようで、はっきりしたことはわからない。曵き手が減って現在の形になったとも聞くが、本当のところもはっきりしない。もっと高齢の方に聞いてみないとわからないという状況だ。そもそも氏子総代のひとりに言わせると、今は総代をしているので祭りに関わっているが、それまではほとんど祭りに来たこともなかったという。ようは過去の記憶も薄らぐほど、祭りに関わらないかぎりあまり具体的なところはわからない。「嵩下舘宮神社へ」で触れた通り、祭りの準備と執行役は当番常会となる。常会は7つあるから7年に1度(聞くところによると小さな常会があって、その常会が当番の時は、複数の常会で担うとも聞いたので、必ずしも7年に1度とは限らない)レベルの関わりとなる。そう考えると、わたしの住む地域の御柱祭と祭りとの関わり方は似ている。さらに、曳行範囲の省略化や、ふだんは祭りには来ていないという氏子総代の話を重ねていくと、祭りに対する関わり方の地域性のようなものが見えてくる。

 昨年の重柳ほど、地域の祭りへの関わり方は強くないという印象。とはいえ、船造りの様子や、祭りの準備の様子を見ていると、同じような関係性を持つ祭りは、わたしの住んでいる周囲ではあまり見られない。これは、地域の生業とかかわると考えられる。そもそも高齢者に祭りの昔の様子を聞き取ろうとしたら、今は収穫作業が忙しいからやめて欲しいと言われたという。お船祭りは9月に実施するところが今は多いが、そもそも今は9月といえば米の収穫時期にあたる。もちろん昔はもっと遅かったわけだが、この忙しい時期に祭りを行うということの意味はどう人々はとらえているのか。そう捉えると、祭日がかつて変更されたことの意味が見えてくる。結局、生業に合わせて祭日が変更されることもあっただろう。今でこそサラリーマン化して休日に祭日を、という流れになったが、かつてはもっと大きな枠で祭日変更が行われたと見られる。

 わたしの暮らす地域は、かつて大果樹園地帯だった。果樹が忙しいと生業を優先した。もちろん娯楽も必要だったたせろうが、現在に引き継がれた神社の祭りから見られるのは、絶対的に生業を優先させたという姿がうかがえる。こうした事例からたとえば舘宮神社の祭りを見てみると、集落の大きさ、そして生業との関わり、そういった背景から現在の祭りが引き継がれているのではないか、そう思うわけである。

 

今年初参加した3年生への個別練習

 


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