Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

本当に必要なものとは・・・

2010-03-30 12:28:34 | つぶやき
 何度も同じ言葉を綴ってきた、と窓の外を眺めて思う。最終列車からうかがえる明かりは、けして強い意志のあるものではない。いずれ消える明かりの中で、どこかわたしの思いを吸い取ってくれる。それほど弱々しい明かりがわたしには似合っている。ひとの生き様を「こんなもの」と思えば「こんなもの」なのである。それ以上の何ものでもない。でもどこかでわたし自身が活きてさえいれば、誰かが必ず見ている。それが人と人の社会なのである。もしそんな関係がないと言うのなら、人と人の社会の連携は寂しいものだ。

 妻と息子が東京に向かう手段を探した。先日は高速バスで新宿まで向かった。朝5時のバスで出ると、新宿には9時代に着く予定だ。しかし実際はバスは当たり前のように遅れるから10時近くにはなる。「もっと早く着かないのか」と他の方法を探す。例えば岡谷まで車で行って、そこから中央線に乗るなんていう方法だ。ところが中央線の始発は、松本を6時代だ。乗客の少ない飯田線ですら6時前に電車は動いているというのに、中央線と言う非ローカル線ですら6時前には電車が動いていない。これには驚きであった。かつて深夜に発車する夜行があったのに、そのような列車が無くなって久しい。鉄道の現実は、地方にとってなんという冷たいものかと思う。いいや、地方がそれを求めなくなったという現実がそこにある。この春に退職する同僚は松本から伊那まで通っていた。彼に言わせると、長野県はバス文化だという。高速バスがこれぼと利用される地域は近在にはないのかもしれない。当たり前のように高速バスを足だと思っている。高速バスが5時代が始発なのに、それから数えること1時間も後に電車の始発だと言うのだから、そう言われても致し方ない。もっと早い電車があると思っていたわたしの認識の甘さである。結局新宿到着が当たり前のように遅れたとしても、最も早く、そして利用し易い足が高速バスになっているのである。そんな現実を見て、また同僚が言う。「本当のところはリニアは来て欲しくない」と。ようは在来平行線の関係で、足早な中央線がローカル線化され、加えてバス文化が淘汰されることを懸念してのこと。今で十分なのに、そこに迷惑な意識が生まれて欲しくないというもの。果たしてこの思いを例えば自治体のリーダーたちは認識しているのか、というあたりはとても疑問である。経済効果が本当のところどうなのか、そして住民が求めているモノは何なのか、もっといえば住民がそうした事実を天秤に掛けたときに、住民自らが判断できうる材料を自治体は示しているのだろうか、とそんなことを思うばかりである。

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