Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「民俗学の座標」という問題

2010-03-29 12:25:14 | 民俗学

「ソヨゴとり」より

 野本寛一氏は永池健二氏の「<日本>という命題-柳田国男・「一国民俗学」の射程」を引用してこのところの民俗学を批判する(『伊那民俗』80/柳田國男記念伊那民俗学会)。引用文とは次のようなものである。


 現代の民俗学の様々な潮流に共通して見てとれる「日本」の欠落には、日本という命題に最初から何の関心も興味もないという、忘却無関心の立場もあれば、「日本」という問題の立て方をそもそも必要としないという不用・無用論の立場もある。さらに進んで、「日本」という枠組をもって構想すること自体を誤謬や悪として退ける否定・反発の立場、「反日本」とでも呼ぶべき立場もある。「日本」を一つの統一的存在と見なすことを忌避する「多元主義」や個人の内面的な自由を抑圧、規制するあらゆる外的な権威を認めない「多文化主義」の主張などは、そうした立場の最も尖鋭的なものであろう。無自覚、無意識なものから意図的、攻撃的な否定、反発までその立場は様々であるが、そこには揃って大きな共通性を見てとることができるように思われる。その一つは、「日本」を見る主体の位置と眼差しの問題である。彼らの多くは外部者の眼差しで「日本」を見る。あえて日本の外に身を置き、外から日本を見ようとする。今眼前に繰り広げられている「日本」の現実は、そこに生きる私たちすべてにとって、自らの問題であるはずだが、「日本」は、彼らの外にあるものに他ならない。そして、そうした自らの主体としての位置と眼差しについて、そろって無自覚であることも共通している。


というものだ。何を言っているのか具体的でないため意味不明に聞こえるが、これはわたしが民俗学に遠くから関わっていて感じているイメージそのものなのかもしれない。ようは研究者たちは外から「日本」という題材を食い散らかしているに過ぎないというもの。内なるところからこの国の事情を見ていないといってもよいだろうか。以前にも書いたが、フィールドワークを基本としている分野なのに、そのフィールドですら内なる視点で捉えていないという批判でもあろう。野本氏はこの永池氏の指摘の対極にあると考えて「民俗学の座標」なるタイトルを『伊那民俗』80号に寄せたのだ。しかし、その議論そのものもまた内なるもの、ようは座標と言うならば明確な位置情報が欲しいのだが、そこまでは解明されていない。野本氏はこの永池氏の指摘に呼応してこう記す。「現実社会にかかわり、役立っ学であること、これを柳田国男も後藤総一郎も目ざしていた。まことに悲しいことながら、民俗学の実態は永池氏の批判の通りである。地域興し、町興し・町づくりといった言葉が纏うある種のにおいがないわけではないが、その日ざすところに異議はない。本来ならば、民俗学にかかわる者にはこのような活動の至近距離にあり、関係者と協働して事を前に進めなければならないはずである。ところが、民俗学界を眺望してみても、町や地域を再生・活性化させる仕事にかかわっている者は稀少である。こうした実情は、民俗学が「忘れもの」をしてきていることであり、民俗学にかかわる者の努力不足であることを物語っている」と。ここに野本氏は地域興しや町づくりに対して「目指すところに意義はない」と言っている。ようはもっとこうした動きに関わるべきだと言いたいようだ。わたしもどこかでそういうものが欠けているとはもう10年以上前から感じていたが、拙速であってはならないと最近は思っている。なぜならば、○○興しそのものがさらなる地域の衰退につながりかねないからだ。野本氏の言うような「この国の庶民の伝承してきた多様な民俗世界には決して棄捨すべきでない重い宝が多々ある」という回顧的言葉を素人が聞くと、どうしてもこぞって回帰してしまいかねない錯覚のようなものがどこかに生まれる。変化や変容を受け止めて人びとのこころの動きを捉えてきた部分もあり、例えば遠山谷という地域だけを看板化した物言いは適正とは思えないのだ。

 遠山谷の現実的な問題を目の当たりにして、あえて「座標」という言葉で民俗学の行うべきことを指摘したのだろうが、実はわたしは遠山谷の現実的な問題など大きな「日本」という中ではそれほど重大ではないと思っている。もし特別な地域だけから座視できるものを拾うというのならそれもあるだろうが、大勢の人々が暮らす平地農村、あるいはそこから中山間に結ばれた地域にこそ大きな問題が横たわっている。「日本」という問題に内から関われというのなら、もっと関わらなければならない問題、場所、そして座標があるのではないだろうか。


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1 コメント

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レンチャン「雇ってくれない」 (山間僻地)
2010-03-29 16:47:14
trx_45さんに対するコメントではありませんが

>今眼前に繰り広げられている「日本」の現実は、そこに生きる私たちすべてにとって、自らの問題であるはずだが、「日本」は、彼らの外にあるものに他ならない。
★実際「日本」の外に存在しているのですから、
それを批判されても、、、。
彼ら、彼女らが、理不尽な理由で解雇され、
「日本」に落ちれば、少しは理解するでしょう。無理でしょうが、、。

>「現実社会にかかわり、役立っ学であること、これを柳田国男も後藤総一郎も目ざしていた。まことに悲しいことながら、民俗学の実態は永池氏の批判の通りである。地域興し、町興し・町づくりといった言葉が纏うある種のにおいがないわけではないが、その日ざすところに異議はない。本来ならば、民俗学にかかわる者にはこのような活動の至近距離にあり、関係者と協働して事を前に進めなければならないはずである。ところが、民俗学界を眺望してみても、町や地域を再生・活性化させる仕事にかかわっている者は稀少である。こうした実情は、民俗学が「忘れもの」をしてきていることであり、民俗学にかかわる者の努力不足であることを物語っている」
★コメント
違うと思います。
現時点で「可視化」できないのは、努力不足ではなく能力不足です。
早く、今すぐ、お仕事をお辞めになり、「日本」に落ちて来て下さい。

ではでは
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