Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

貧乏暇なし

2007-02-22 08:15:27 | つぶやき
 不思議なことだとわたしは思うのだが、きっと世の中は違うのかもしれない。先ごろあったスキーバスが大阪府の吹田で事故を起こしたニュースは、意外にも毎日のように長野県版ではなく、全国版のニュースの話題に上っている。毎日のように変死体が見つかっただの殺人事件があっただの報道されているのに、そうした凶悪事件の方が隅に追いやられているようにも思う。

 長野県松川村のあずみ野観光バスは、家族ぐるみの営業をしていたようで、過酷な勤務状態だったようだ。スキーバスという季節労働的な部分もあったのだろうが、そこまでして働かないと、人並みの生活ができないのか、それともそこまでしてお金を稼ぎたいのか、どうなんだろう。運転手が21歳、亡くなった添乗員が16歳と聞いた時、「なんでそんなに若い衆がやっているんだ」と耳を疑った。大型二種で21歳となれば免許取りたてにのようなものだ。それでもって毎日のように運転していて休みがなかったという。なぜこんなに若い人がそこまでして働くのか、驚きというか、それほど運送業界を含めて、この世界は大変なことになっているのだろうか、と改めて認識する。いっぽうで派遣社員が若い人たちに多く、正規雇用でない人たちは自ずと所得は低くなる。なぜ、こうも労働というものがちぐはぐなんだろう。そう思いながらも昨日もまた、ずいぶん遅い時間にわたしも帰宅した。そんな遅い時間でも世の中は、まだ仕事をしている人たちが多い。年齢を重ねると、とても午前様の仕事はできそうもない。しかし、帰宅しながら灯りの点く建物を目の当たりにすると、やはり「なぜこうも働くのだろう」なんて思ってしまう。無駄なことばかりしているから、手が遅いから仕事が進まないんだと、常に自らに諭している。しかし、そうこうしながら、わたしの無駄が世の中のエネルギー消費を増やしている。

 妻がよく使う言葉にこんなものがある。「コンピューターなんかを使うようになったからおかしくなった」と。妻はコンピューターが使えない大変珍しい人だ。いや、わが家でコンピューターを使っているのは、わたしぐらいのもので、コンピューターを毛嫌いしている母は、息子にもあまり使わせない。わたしはそれは正当だと思うが、今まで使ってきたわたしから、それを取り上げられたら自分が消えてしまいそうだ。しかし、なくなってもけして困らない暮らしを想定している自分もどこかにいるから、絶対なくてはならないものではない。つい先ごろまでフィルムカメラは生き残れるか、なんていう活字を見て先々を案じていたら、フィルムカメラ撤退が相次いだ。今やアマチュアカメラマンといって群がる集団も、ほとんどデシタルカメラのようだ。こんな大胆変化はとてもわが家の生きる世界ではない。でもそれをよく考えると、まるで山奥の老夫婦みたいだ。だからこそ、危険な労働を綱渡りしている人たちが、とても立派に思えるが、もっと気楽にできないのか・・・なんて思うばかりだ。こんなに働いている人たちがいるのに、お金はどこへ行ってしまっているのだろう。芸能人が、趣味で絵を描いたり、旅行に行ったりと、けっこう自由に生きている。とても忙しいと思うのに、いつ絵なんか描いているんだ、なんて思うことがよくある。まさに「貧乏暇なし」が体感できる世界に、わたしはいるんだ、と知るわけだ。

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