Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

監査員という立場で

2009-02-26 23:34:17 | ひとから学ぶ
 昨日は社内の内部品質監査なるものがあって先月以来という伊那谷からの脱出であった。行動を示すという面ではすっかりさまざまな集まりにも出席しなくなったわたしは、経験からくる無意味さをつくづく感じている。それでもそういうことを実践することは、自分より若い人たちに対してどういう印象を与えるか、などという優等生的な質問は、既に愚問である。それによって何が得られるかなどということは、経験者だから言えることであって、ではその経験を生かして意義あるものにすれば良いではないか、などという意見も確かなるものではあるが、それを覆すだけの土壌が会社にない以上、空回りは繰り返されるだけである。どれほどそのために努力してきたかなどとまた口を滑らせると、「努力がまだ足りない」などという叱責を受ける。「何が必要か」ということをよく考えなさいと指導しても、どうも発想の原点がわたしとは違っていて、こちらが発信側でない以上、無駄な時間は軽々と過ぎていくことになる。それを何度も何度も経験してきたわたしは、これ以上不可能と判断したに過ぎない。

 この内部品質監査というもの、いわゆるISO関連のもので、お客様との関係と実際の業務実態とを照らし合わせると、「必要」とは少し言いがたいシステムである。それでも導入した背景にはさまざまな問題があってのこと。その問題をクリアーしたからには、導入は成功ということになるだろう。しかし、そのいっぽうで新たなる問題も感じている。果たしてわが社にとって品質とは何か、ということである。造作もないほどに整然と規定類を整え、それに沿って監査にほころびを見せないように整えられた資料。「こんなに整然と整えられて、現実の商品の品質は向上しているのか」ということになる。もちろん我が出先でもそれと同様に整備がされているが、実際に働いている我々には何もその整然さは説かれていない。ようは雲の上の世界で「どこか間違いがある?」みたいに整えていて、商品を製造している側には何もその意識は伝わっていないのである。体制とか考え方の理論が伝わっただけでOKとも言えるが、すでに導入して10年に近い。とすればその範疇を超えて違う視点が必要だし、そうなるべきだとわたしは考えている。

 だからこそ、発信される側で意図するものが得られない会議に出席することを思うと、自らの思いで行動できる監査は、ある意味わたしの思うように進められる。あらためて自らの仕事、あるいは品質というものを考える意味でも、この場面はとても価値あるものだと認識している。そのとおり、わたしの質問に対して、まじめに答えようとしているその出先のトップたちの思いは、手に取るように解る。しかし、素朴な疑問を投げかけ、それをISOに基づくところにおいて問題なく処理しようとする考えは、本来の品質ということに関しては愚かな行動だとわたしはそこで感じたりする。この感覚、体験はとても自分にとっても教えとなるし、この場面でしか感じ得ないものである。監査員の誰もがわたしのような思いを持つとも思えないが、少なくともこれは監査員として行動しない以上は体験できない。さらにいえば、自分より上司の人たちに対して、こんな具合に試問できることは、この場しかないといってよい。この体験、実はもっと多く(若い)人たちにも味わって欲しいと思う。そしてわたしのような思いができない監査員に対しては、逆に被監査側として質問を投げかけてみたいものである。冗談ではなく、まじめにやりとりされるどれほどの愚問であっても、この場でわたしのような思いをして、素朴な問いを解いていってほしいのである。

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