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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「鍾水豊物」余話後編

2011-03-07 12:30:34 | 西天竜

前編より

 原隆男氏は「「鍾水豊物」夜話-西天竜幹線水路完成記念碑について-」(『伊那路』485号/平成9年/上伊那郷土研究会)において、父に当たる原孝也氏の「日本一の碑を建てるぞよ」という言葉を紹介している。原孝也氏の回想録にもあるが戦時下ということもあって「忠魂碑を建てろ」という言葉もあったようだ。地元と縁がある将官に依頼して碑文を書いてもらうことが多かったという忠魂碑だけに、記念碑建立に係った伊沢多喜男も「忠魂碑なら別だが」と快く受けたというわけではなかったようだ。原孝也氏の回想を整理すると次のようになる。

 昭和19年2月24日 仙台市稲井村まで石を求めて行く
 昭和19年3月26日 40トン車に積み込み輸送
 昭和19年10月 銘
 昭和24年 木下駅より引き付け始まる
 昭和25年1月1日 竣工

 飯田線木下駅に昭和19年から24年の5年間寝かされていたのである。前編で触れたように「大東亜戦下」において、食糧増産という大義によって大事業を決行しようとしたのだろうが、さすがに戦火が激しくなり、建碑をためらったのではないだろうか。当時の新聞の囲み記事を二つほど見つけた。いずれも信濃毎日新聞のものである。

昭和19年5月7日信濃毎日新聞
▲今どきこれはどうかと思ふ風景―飯田線木下駅へ卸された花崗岩はその偉大さにちょっと目を曳く、これは西天竜耕地整理事業が完成した記念碑で中箕輪と南箕輪の境界久保地籍へ建てられるのだがこの巨岩は仙台市外石ノ巻付近から送って来たもの
▲長さ五間巾一間半厚さ二尺といふしろもの、運賃から建立まで三萬円もかかろうといふ
▲三萬円はいいとして一反歩の土地をつぶしこの不急の荷物を毎日多数人夫が現場へ運び入れるさわぎに土地の人たちは顔をしかめている

昭和19年8月5日信濃毎日新聞「戦列を乱すな」
開田一千二百町歩、正に県下隋一の大耕整事業―上伊那西天竜耕地整理組合が開墾記念として今建立しつつある大記念碑が憤激の対象なのである幾たびか更正したこの事業何と三萬円(これでもたりさうがないといふ)飯田線木下駅へ下された原材巨岩は仙台市外石の巻付近産の花崗岩、長さ五間巾八尺厚さ二尺重量四十トンといふ代物畳にして凡そ八畳敷、これがアノ客貨輻?の四月はるばる送り込まれたものだ、地元の駅長すら“発駅も発駅だ、ナゼこんなものを受付けたらう”と憤慨した位だ、これに細字一千二百字ほかに篆額文字を刻むため東京から石工四人が来て一ヶ月半で漸く三分の一が終わったところ、二三日中まだ石工が増員されるといふ、ここまで運ぶのに十五人づつ三日かかった、これから建立地までの運搬が又大変、敷地が三反歩潰されのだから凡そ決戦下にあっては事の理窟はどうあらうも萬人をうなづかせるしくみではない
石工までが“忠魂碑か何かなわわっちらも張合ですがネ……”とこれも不服の口吻、これでよいであらうか―とは地区農民らの憤怒が雄弁にこれを物語っている

どちらも地区農民は怒っているという表現だ。回想録に記されたのは推し進めてきた人たちだからそのあたりについてあまり触れていない。やはり戦時下という状況ではなかなか難しい事業だったということが解るとともに、記事にもあるように3反という面積を潰してまで建てるものなのか、という土地が大事な時代を反映している記事でもある。8月5日の「戦列を乱すな」という囲みタイトルは、当時としてはかなりインパクトのあったものではないだろうか。


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