Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

食と農さまざま

2009-02-15 22:42:56 | ひとから学ぶ
 先ごろ古家晴美氏の「自然と食のイデオロギー」(『日本の民俗4 食と農』2009/1 吉川弘文館)に触れた。同書の中に紹介されいている事象でいくつかなるほどと思わされる部分があったので、少し触れてみることにする。

 田中宣一氏の「米の配給制は、都市部では米食を制限することとなったであろうが、逆に水田の少ない山村や山がちの農村、漁村に米を普及させる効果があった」という事例に触れ、次のように述べている。「群馬県白沢村では「配給制度になったので、、そばがきはあまり食わない」、香川県高見村では「このごろの配給では……米だけで余るほどあるため、麦の消費はかえって減少した……以前は麦を多く食べた」という回答が寄せられている。漁業を生業とする沖縄県糸満町でも主食の「三度三度が芋で」あったが、「食料品の統制がおこなわれてからは、芋の値と米の値段との差があまりないので、だんだんと米の飯が多くなってきた」と報告され」云々とある。配給制による節米という思惑とは異なった動きが地域によってはあったという。もともと米が収穫できないような地域にとっては、主食としての穀類があったのだろうが、それを駆逐するように配給米が入ってきた。それが強いては潤いにまでなったのかもしれないが、果たしてその後の歴史は、潤いであったかどうかは、地域ごと異なることなのだろう。

 立科町のある集落での戦後の変化を捉えている。昭和「40年代半ばにさまざまな家庭電化製品が持ち込まれると、夜なべをやるような雰囲気ではなくなったという。(中略)景気が上向きになると村にもさまざまな工場が誘致され、観光開発が進んだ山林には立派なホテルが建てられたので、出稼ぎに出なくても働き口を求めることが可能になった。また、日常生活の中で、子供の教育費など家庭電化製品の購入以外にも現金が必要になってきたために、夫が勤めに出て農業を妻に任せるか、あるいは妻たちもパートに出るという兼業農家が激増した」まさにそんな世の中にわたしは幼少期を過ごした。農村は明るい未来に向かって進んでいるようにも見えたが、実は子どもの目にも、その先の時代が不安に浮かんだ。いや、子どもの目ではなく、「わたしの目には」と言った方が正しいだろうか。

 「それまで茶碗二杯食べていたご飯が一杯になった。これは副食が数多く食卓に並ぶようになり、主食で腹を満たす必要性がなくなったからだろう」という具合に農村の、農民の暮らしは大きく変わっていく。そして今や「勤め帰りにスーパーで惣菜やインスタント食品を買い、帰宅後、それをパッケージごと食卓に並べるという風景は珍しいことではなくなった」のは農村も同じである。ときおりパッケージごと食卓に並べることに嫌悪感を示す人もいるが、もはやそれを否定するのは男たちの特権をかざした過去を引きずっている人たちだけかもしれないが、実はそうはいえない悲しい意識の退廃なのかもしれない。

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