Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

筆書きの「家内安全」碑

2010-12-15 19:08:17 | 民俗学

 誰も気づきはしないような家の裏手の水路際に、こんな石碑が建っていた。・・・「石碑」と言えるかどうかも疑問かもしれない。大きさにして高さ20センチほどのものだし、そこらの河原から拾ってきた程度の石だ。そしてそこには手書きで「家内安全」と書かれている。それも少し消えかかっているあたりがなんとも問題だ。もしこれを建てた理由が本気だったら、消えかかっているという状態が、果たして家内に問題を引き起こさないかなどという心配さえ浮かんでくる。本気なのか?、と疑問を持っても、この空間に石が集められているというところに少しばかり本気度を感じたりする。そもそも水路の端に建てられているのも何とも意味ありげだ。かんがい期間はともかくとして、冬場はまったく水も流れない。考えてみればこの水は天竜川から引かれ、いずれまた天竜川に戻っていく。盆にやってくる仏様ではないが、お帰りいただくにはちょうど良い。そして盆にはしっかり水は流れている。

 ここは中央自動車道伊北インター近くの集落内の一角である。昭和50年代にこのインターが開通した後に、このあたりは工場がたくさんできた。それに合わせるように住宅も増えたのだが、それまではまったくの水田地帯だった。ここから下ると、やはり天竜川から取水された羽場用水に水は落ち、ずっと段丘崖を沿って箕輪町松島の町の中まで流れていく。昔ならいざしらず、ここに物を流せば、マチの中で迷惑なことになるわけだ。しかし、用水路の端に建つ石碑に何かしら黄泉へのつながりを意識したりする。

  手書きで書かれた石碑がまったくないわけではない。平成3年、わたしが企画していた「遙北」という会の通信に、諏訪の平出一治さんが筆ではなくペンキで書かれた水神の話を寄せていただいた。諏訪市豊田有賀下村の防火水槽の隣にこの水神が祀られていたという。台石の上に祀られたその水神は、碑高74センチもあるというから、一応しっかりした石碑である。また同じころ、現在は飯田市に吸収されてしまったが、遠山谷の上村程野の奥で筆書きの道祖神を訪れた。文字で「道祖神」と書かれているもので、薄くなった「道祖神」をなぞったようにも見えた。消えかかれば書き加えれば筆書きでも十分というわけだ。不思議なことにこの谷には筆書きの道祖神が他にもある。旧上村役場のすぐ近くの川沿いの巨岩の上にも墨で書かれた「道祖神」が祀ってあった。あれからもう20年近くなるが、その後も「道祖神」が確認できるようになぞられているかは定かではない。竹入弘元氏は、『伊那谷の石仏』(昭和51年/伊那毎日新聞社)において筆書きの道祖神は飯田市鼎名古熊や同じ鼎町下伊那農業高校東方、旧高遠町東高遠のさいの神坂にもあると述べている。また、この上村役場近くの巨岩の上に建てられている道祖神について、巨岩そのものが道祖神だったのではないかと述べている。納得である。


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