Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

学校情報保護について

2006-04-05 08:09:52 | ひとから学ぶ
 学校における個人情報の扱い方についての記事が、信濃毎日新聞にあった。ある学校でケーブルテレビの卒業式の撮影拒否があった。顔が特定されるような放映に対して、卒業生の保護者にアンケートしたところ35%の保護者から生徒の顔をアップで撮影することは拒否だという回答を得たという。それに伴って校長は撮影拒否をした。考えてみれば65%の保護者は了解したわけだから、民主主義でいけばOKなんだろうが、もし悪用されて事件が起きたときのことを考慮すれば、拒否するにこしたことはないという、いわゆる「安全」率の問題だろうか。わたしの地元でもケーブルテレビが放映しているが、けっこうケーブルテレビの視聴者というのは、こうしたとくに地元らしい映像に期待している。加えてわたしの地元のケーブルテレビは完全なる民間企業ではなく、どちらかというと、行政主導で始まったものである。地域の話題を追う際に、そうした撮影拒否があれば、果たしてケーブルテレビの必要性とは何なのかということになってしまう。今回のケースでもケーブルテレビ側は、顔が特定できないような撮影に留意すると説明したがだめだったわけである。

 過剰な反応ともとられがちな事例だが、世の中の人間関係の落ちぶれようを映している。記事では学校における連絡網についても触れている。緊急時の連絡網の意図というのはどういうところにあるのだろう。学校が緊急連絡する場合に、例えば40人いて5人に連絡すればそれぞれ8人に言い継ぎすれば連絡は済む。学校が40人すべてに連絡するよりは早いかもしれないが、途中で止まっているとむしろ遅くなる。だから必ずしも速さを目的とした場合は、一概には言えない。もちろん言い継ぎ段階に間違えて伝えられることもある。わざわざ意図を説明して理解を得るということもあるが、ではその必要性を全員に理解してもらえるような時代はすでに終わっているかもしれない。

 そう考えれば連絡網の必要性はないかもしれないし、同級生の住所録もいらないかもしれない。卒業後にそれが必要になるのは、同級会を開くときに連絡したいときぐらいだ。なければなくてもどうということはないし、全員の一覧も必要ない、ということになるのだろう。OKを出した人だけで名簿を作る、そんなことになるのだろう。情報保護とは、そんなものなのかもしれない。浅い関係といってしまえばそれまでだが、今の世の中をみてみればぴったりだ。

 しかし、そんなことを国が法制化しなければ悪用されるのも残念だし、人と協調することができなくてもなんら問題なし、という社会なのだろう。「本当にそれでよいのか」という気持ちは、昔から生きてきている者には当たり前かもしれない。今だから「えっ、これダメなの」と言っていられるかもしれないが、それが当たり前になって子どものころからそんな世界で育った人たちが世の中に出てきたら、この世の中はどうなっているだろう。マンションでの事件が多発する中で、セキュリティーが話題になるが、いっぽうで地域で子どもたちの登下校時を護ろうなんていっている。どんなにセキュリティーを高めようと、それでいいともいえないし、安全ともいえない。どんな状況であっても完全はない。しかし、安全率の高い方法をとっての事件なら仕方ない、ということになるのだろう。自ら責任がとれない、とりたくない、人のせいにしたい・・・、個人主義だから自分の中で解決すればよいのに、結局はできないから、人に訴えている、そんなように見えて仕方ない。

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