テレビを見ていると、何もかもわかったような気になる。富士山に登ったこともないのに、テレビで富士山頂の映像を見ると、何だか富士山というものがわかったような気になる。登った気になるのではなく、わかったような気になる、のである。
わかったような気になっても、実際には登っていないのだから、実際に登ってみると全然違う。テレビで見たことがある現実に気付くのだろう。かくして、現代人は非常に身近なテレビという虚像で疑似体験をして生きている。すべてバーチャルである。疑似体験から現実体験、バーチャルからリアルという経路はテレビの産物である。テレビ以前はなかった。
しかしながら、しょせんはバーチャルである。虚構である。虚像である。実際に富士山に登ってわかることはいくらでもある。逆に言えば、テレビで分かったような気になっても、実は全体のうちのごく一部分しかわかっていない。テレビは時間の制約上、余分な部分はカットしてしまうからだ。
本当にわかろうとしたら、実際に行くしかない。テレビでがまんしていてはいけない。富士山は登らねばならないし、ニューヨークもロンドンもカイロも行ける限り行かねばならない。行ってみないと本当のリアルはわからないのだ。行った人間でなければ、それを語る資格はない。スタジアムに来ない人間にサッカーファンであるという資格はないのだ。