夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

ダ・ヴィンチ・コードじゃなくても芸術は美しい

2006-07-22 | philosophy

 黄金比とフィボナッチ数列のシリーズの最後に芸術を取り上げましょう。予め申し上げておくと世の中の「常識」と異なり、黄金比と芸術はほとんど関係がありません。少なくとも厳密な意味では。……こんなことを言うといっぱい反論があるでしょう。パルテノン神殿やミロのヴィーナスを知らないのか? ピラミッドからダ・ヴィンチの作品まで、いやもっと近代の絵画やモーツァルトの音楽にも黄金比が使われているのを知らないなんて哀れなものだと。

 しかし、私はこう考えます。数学の話である限り、どこかとどこかの比率を取って1:1.6に近いと言っても何の意味もない。5/3や8/5のような分数やπ/2のような黄金比とは別の無理数を使っただけじゃないかという疑いは残るのではないかと。歴史上初めて、黄金比について体系的にまとめたユークリッド(エウクレイデス)なら「もちろんそのとおりだ。100万個の実例があったって証明がなければ無意味だ」と言ってくれるでしょう。

 では、どうやって証明しましょうか? 作品を作った人が黄金比φ=(1+√5)/2≒1.6180339887を意識していたということが裏付けられるかどうかというのはどうでしょう。例えば作者の残した手紙の中に黄金比への言及があるとか、正五角形や☆形、フィボナッチ数列との関係が作品上明確になっているかどうかということです。

 このふるいに古いものから(寒いギャグですみませんw)掛けると、まずピラミッドは失格です。マリオ・リヴィオの「黄金比はすべてを美しくするか?」(69ページ以降)によると、「クフ王のピラミッドの側面の長さと底辺の半分の比が黄金比になっている」とヘロドトスが言っていると主張する人がいて、確かに1.62という極めて近い数字が計算できるんですが、ヘロドトスはそんなことは言っていませんし、それ以上に「ピラミッドの底辺の全周と高さの比が2πになっている」という方が6.28でもっと精度がいいそうです。しかも円筒を回転させて底面を測量していたので、πが自然とピラミッドに組み込まれることもありうる。……まあ、詳細はリヴィオの本を見ていただくとして、黄金比がピラミッドに関係しているとは到底言えないようです。でも、ここでおもしろいのは上の二つの主張をピタゴラスの定理を使って書き換えると、

 √(a^2+h^2)/a=φ と 4a/h=π になって(aは底辺の半分、hはピラミッドの高さです)、これを連立方程式として解くと、

 4/√φ=π となることです。

 実際に計算すると左辺は3.14460551で、πと0.1%も違っておらず、上の二つの主張のどちらよりも精度はいいんですね。もちろんπは超限基数なので、有理数と他の無理数をどう組み合わせても(有限の表現では)書くことはできません。……私が言いたいのは、数学の世界では近いからって言っても大した意味がないってことです。

 さて、次は古代ギリシアの作品です。パルテノン神殿についてはこの連載の第1回に画像を載せましたが、今度はもうちょっと手の込んだものを掲げます。



 見ておわかりのように黄金長方形が秘められているかのように恣意的に寸法を測っているんですね。リヴィオの本の97ページには、この神殿に黄金比が使われているかどうかについて疑念が呈されていますが、サイトをぐぐるとミロのヴィーナスなんかについても同様の「発見」があります。でも、測ってみた以外の証拠がなければ「どの三角形の内角を測って足してみても180度だった。だからそれが真理だ」って言われてるのと同じような戸惑いを感じます。

 さて、ではいよいよダ・ヴィンチ(1452-1519)について採り上げましょう。ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」を読まれた方は、この「ウィトルウィウス的人体図」こそが黄金比とフィボナッチ数列に満ちたものだと思いませんでした?
 


 私は根が粗忽なんで、彼の主張に疑問を持っていながらこの人体図と☆形や黄金比が関連していると書いてあるように思っていました。しかし、そんなことは書いていないんですね。最初にこの図が小説に登場したときの描写はこうです。「この名高いスケッチに描かれているのは、完全な円に内接した男の裸体であり、手脚を大きくひろげている」(上巻86ページ)この個所はショッキングな場面で、☆形(五芒星)も出てくるんで勘違いさせられやすいんですね。次に出てくるのは主人公がハーヴァード大学で授業をしている場面です。

「黄ばんだ羊皮紙に、レオナルド・ダ・ヴィンチによる名高い男性裸体画が描かれている。<ウィトルウィウス的人体図>。題名のもとになった古代ローマの著名な建築家マルクス・ウィトルウィウスは、その著書『建築論』のなかで神聖比率を賛美している。『ダ・ヴィンチは人体の神聖な構造を誰よりもよく理解していた。実際に死体を掘り起こして、骨格を正確に計測したこともある。人体を形作るさまざまな部分の関係が常に黄金比を示すことを、はじめて実証した人間なんだよ』」(上巻174ページ)

 まず、この人体図が黄金比と関係があるとは全く言ってませんね。実際、この図は黄金比やフィボナッチ数列とは無関係でしょう。だって、他の無理やりな主張をいっぱいしているダン・ブラウンでさえそう主張しなかったんですからw。……もうちょっとマジメにマルクス・ウィトルウィウスの言葉を見てみましょう。

「人体の中心となる点は、当然臍である。というのも、人間が仰向けに寝て手足を広げると、コンパスの針を臍に置いて、そこを中心に描いた円に手足の指先が触れることになるからだ。また、人体からは円形の輪郭だけでなく、正方形も見つかる。なぜなら、足の裏から頭のてっぺんまでの高さを測り、左右に伸ばした腕の長さも測ると、真四角の面と同じように幅と高さが等しくなるからだ」(リヴィオ167ページ)

 これを元にダ・ヴィンチの図が描かれたことは明らかで、黄金比が入り込む余地はないでしょう。彼が解剖の結果、人体の中に黄金比を見ていたかどうかは膨大な手稿やスケッチを見てみなければ何とも言えません。……「モナ・リザ」について、さっきのパルテノン神殿と同じような「発見」をした画像があったので挙げておきます。



 ここでちょっと脇道にそれて、ハーヴァード大学の場面についてからんでおきます。この場面は、間違いやミスリードがいっぱいあって、なんだか詐欺商法だかマルチ商法のパンフみたいです。ここだけ他から浮き上がっているし。……オウムガイについての間違いはこの連載でも採り上げましたが、興味深いのはミチバチの群れの雄と雌の個体数の比率です。ミツバチの巣の中の雄の数が黄金比どころじゃないくらい雌より少ないのはよく知られた事実ですが、何か科学的な意味合いがあるような気がしたんで調べてみると、ミチバチ愛好家の方のブログでこういう記事を見つけました。ミツバチの雄は単性生殖で、雌は両性生殖で生まれるんで、一匹の雄の系統図を書くとフィボナッチ数列になって増えていきますし、各世代の雄と雌の比率はフィボナッチ数列の隣り合わせの項の比になっているので、つまり次第に黄金比に近づいていきます。これは前に掲げたウサギのつがいの図を逆にしたような感じで、1項ずつずらしたフィボナッチ数列を合成してもやはりフィボナッチ数列ができるのでこうなるんですね。もちろん個体数は全然別で、雄は1割くらいだそうですから、ブラウンはたぶん何かの文献で見たのをうろ覚えで書いたんでしょう。

 さて、芸術の方に話を戻すとブラウンはまだまだいろんな名前を挙げて黄金比に従っていると言いますし、リヴィオは(すべてが重なるわけではありませんが)いろんな作品について検討を加え、おおむね否定的な結論を導き出しています。それらを並べ立てても仕方ないのでやめておきますが、音楽についてだけちょっと触れます。……ネットをさまよっていると奇妙なページに出会うことがあります。ピアノの黒鍵は2つと3つ、合わせて5つ、白鍵は8つ、合わせて13、音楽はフィボナッチ数列!なーんてページです。あまりにも見事すぎて言葉もありません。21、34、55……と永遠に続くフィボナッチ数列についても説明が与えられるならば。

 モーツァルトのピアノ・ソナタの提示部と展開・再現部の比率が黄金比だっていうのもあります。そんなのは絵画と同じで「測り方」でどうとでもなるでしょう。最初に言ったように「親愛なるパパ! ぼくの今度のクラヴィアのためのソナタには、かの神聖なる黄金比をそっと入れておきました。……ロバの耳の大司教にはわかりっこないでしょうけどね」なんて手紙でも発見されなければ証明にはなりませんw。

 唯一可能性があるのがバルトークのようです。エルネ・レンドヴァイっていう音楽学者が一生懸命作品を分析して、「バルトークの音楽のスタイルを分析した結果、彼が変化音を多用するのは、各楽章で黄金分割の法則を守るためだとの結論に至った」んだそうです(リヴィオ231ページ)。邦訳もあるんですが、この引用を見てバルトークの音楽がわかってない人の本を読んでも仕方ないなって思って買うのをやめました。で、ネットで探しただけですが、「舞踏組曲」の分析を見てもずいぶんつまんないことをやったものだと思いません? 






 バルトークが仮に黄金比やフィボナッチ数列を意識して作曲したとしても、それは調性やソナタ形式といった従来の音楽語法を捨てて作曲する上での拠り所がほしかったからじゃないかと思います。だからと言って何より聴くものである音楽作品の理解には関係ないでしょう。そんなものがなくてもバルトークの音楽は美しいし、そういうものがあるから優れた芸術作品になるわけでもないんだろうと思います。自然が美しい理由の一つは法則に従うことだと思いますが、芸術の美しさを法則の有無で律するのは弊害しかないように思います。



最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
う~ん… (ぽけっと)
2006-07-24 14:05:34
でも、聞かれたら作曲の方法論を必ず説明できる音楽がクラシック、ていうことになっていて、だからこそ現代音楽でもクラシックって言うし、いえ現代音楽こそクラシックといえるかも知れません。

だから絵画の場合は知らないけど音楽の場合、法則と美しさは関係ない、て言ってしまうと定義がくつがえるような気がするんですけど、ちがうかなあ…(自信なげ)





フィボinピアノ鍵盤の間違いはさすがの私にもわかりますよ。

だって黒鍵を5つ、てするなら白鍵は7つだもん。

返信する
うろたえてますねw (夢のもつれ)
2006-07-24 22:13:12
音楽に限らず芸術における形式美とか法則性はもちろん重要だと思いますよ。作者が意識してるかどうかは別として。……それが黄金比だとかフィボナッチ数列とかだけで説明できるような話があやしいっていうことです。



最初オクターヴで8つって書いたんですが、リヴィオの本で白鍵で引用してあったんで、そっちの方がおかしさアップかなとw。



返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。