夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

「わたしにつまずく」とはどういう意味か?

2017-08-16 | philosophy
 以前に挙げた記事で「つまずいた」という言葉を使ったけれど、ぼくとしては聖書を意識したものであり、とりわけ上の画像のマタイ福音書26章31節に基づくバッハのマタイ受難曲が念頭にあった。この後、一番弟子のペテロが逮捕されたイエスを否認し、すべてがイエスの言ったとおりに事が進んで、深い悔悟の涙にくれる場面は感動的だ。でも、石につまずいたり、計算問題につまずいたりすることはあっても、イエスにつまずくとはどういう意味なのか、ずっと違和感と意義深さを感じていた。例えば男の子から「君につまずいちゃったよ」と言われた女の子は「あたしは石ころじゃないよ。国語の勉強したら?」って言うんじゃないだろうか。

 ネットをいくつか見たけれど、ぼくの疑問に答えてくれるものはなかった。2つほど例を挙げよう。

山下正雄
「つまずく」と言う言葉は、文字通りには何か障害物につま先を取られて前へよろけることを言います。そこから転じて、比喩的な意味で挫折したり失敗したりする時にも「つまずく」と言う言葉を使います。
 しかし、キリスト教会で「つまずく」と言う場合には、もっと独特な意味があります。その場合、障害物となるのは、大抵は人の言動や教えです。正しい教えについていけなくて「つまずく」という使われ方もあります(マタイ13:57、1ペトロ2:8)。しかし、大抵は人の正しくない言動に「つまずく」という使われ方です。しかも、それは神を信じる共同体の中での出来事として「つまずく」という言葉が用いられるのです。


高橋淑郎
「つまずく」と訳されたギリシャ語は「スカンダロス」(「スキャンダル」の語源)で、「憤った」とか「嫌悪の念を抱いた」という意味です。今日読む聖書の中で「人々はイエスにつまずいた」と書かれています。人々は主イエスの何につまずき、何に嫌悪の念を抱いたのでしょうか。
 主イエスはお育ちになったナザレの町へ行き、ある安息日に会堂で神の国の福音を語り始めました(ルカ4:16)。所が集まった人々のイエスに対する関心は次第に別の方向に向けられて行きます。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹達は皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」と驚きました。大工という職業そのものに人々の軽蔑や差別意識が働いていたとは思えません。問題はそのような貧しく、社会的地位の低い家庭の息子がどうして?と言う驚きです。このような不信仰を主イエスは嘆いて「あなた方は謙らなければ神さまの恵みから漏れますよ」と警告を発しましたが(ルカ4:25~27)、これが人々の激高を買い「大工の息子ふぜいが何を生意気な!」という反感に変わって行き、ついには恐れ多いことにこの主イエスを殺そうと思うに至ったと言うことです。人々は語られている内容に耳を傾けようとしないで、語っている人の学歴や家柄や資格、そのようなことばかりに気を取られて、肝心要(かんじんかなめ)の、神さまからの恵み深く、きよいみ言葉を聞き漏らしてしまったのです。
 聖書が言う「つまずき」とは、単に小石に足をとられた時に使う以上に深刻な意味を持つ言葉です。これは人間関係を危うくする大きな力があり、ひいては神さまとの関係さえ破壊してしまうほどの恐ろしい力を持つ言葉です。ゆめゆめ恵みから漏れることのないように、謙ってみ言葉に聞き従う者となりましょう。


 正しくない言動につまずくというのは無理なく理解できるが、それではイエスにつまずくことの理解から遠くならないだろうか。高橋牧師は語源から説いてくれているのでヒントにはなったが、つまずきが憤りや嫌悪だという解釈はイエスが弟子たちに言った意味とは思えない。弟子たちは自分の弱さから否認したり、逃げたりしたのであり、それを恥もし、悔みもしたのあって、自己嫌悪であってもイエスに対するものではないし、それをイエスが見抜けないはずがない。

 どうもすっきりしない。そういう時はやり方は2つあって、他の用例を見ることと語源に遡ることだ。聖書の他の用例は便利なサイトがあって「つまずく」で検索してみた。それでわかったことは旧約は石などにつまずく物理的な意味が多く、新約は山下牧師の言うような精神的な意味が多いということだった。ただ旧約のホセア書の14章10節の表現はイエスの発言に影響を及ぼしているかもしれない。

知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。わきまえある者はそれを悟れ。主の道は正しい。神に従う者はその道に歩み
神に背く者はその道につまずく。


 神の正しい道を歩もうとしても歩めないことを巧みに表現している。

 次に語源の方はさっきも出てきたスカンダロスだが、次の記事の方が詳しい。

スキャンダル scandal
 スキャンダルとは、「よくない噂」とか「醜聞」、「みにくい事件」と訳される。政治家、教育者、宗教家、芸能人等、社会的に著名である人間が脱税、汚職・不倫、暴行傷害などを行い、それが発覚したときに「スキャンダル」として明るみに出る。従って発覚しなければスキャンダルではない、というのが私の見解である。
  スキャンダルの語源はギリシア語スカンダロン 「わな」である。ギリシア語の七十人訳旧約聖書ではへブライ語の 「わな」をスカンダロンと訳した。(ヨシュア記23:13 参照)
 それが新約では 「わたしにつまずかない者は、さいわいである (ルカ7:23)」とか、「こうして彼らはイエスにつまずいた (マルコ6:3)J 等 「さまたげとなる物」や 「罪の誘惑や原因となる物」の意味で使用されている。ローマ・カトリックのラテン語聖書ウルガタは、スカンダルムの形でギリシア語を借用した。これを欽定訳を始め各国語聖書に訳すときにはトラップの類が多く使用され、スキヤンダルの形は使われなかった。研究社の英語語源辞典には、英語では1200 年頃の[Ancrene Riwie] という書物に出ているとある。
 1590年代になると、シェイクスピアがいくつかの作品でスキヤンダルということばを使用している。「ジュリアス・シーザー」の第一幕第二場でシーザー暗殺をブルータスにほのめかすキヤシアスが、「And aRer scandalthem;あとじゃさんざんの悪口(中野好夫訳)J と言っている。辞典を信用するとすれば、1 6世紀以前にはこの言葉は、さきの[Ancrene Riwie]以外には見られなかったことになる。つまり、英国には古フランス語か或いは後期ラテン語からl 6世紀に再借入されてから、一般的になり、シェイクスピアも使用するようになったらしい。
 ところで、ラテン語の聖書を長らく使用してきた国々では、スキヤンダルという言葉は聖職者の誰もが知っていただろう。辞書にはフランス語ではスカンダル、ドイツ語ではスカンダール、スペイン語ではエスカンダロと出ている。キリスト教国、特に規律の厳格なプロテスタント系の国々では、社会を指導する立場にある者が道徳的に許されない行為をしたとき、スキヤンダルとして厳しく指弾されただろう。しかし日本では、特に芸能人中心の興味本位のゴシップ (うわさ話) 扱いと変わりないようだ。ゴシップの語源は古期英語の 「名付け親 god-sib」で、それが親しい者同士のむだ話の意味に変わり、結果として「うわさ話gossip」の意味も生じたようだ。(「ことばのロマンスP197」)
 私たちの年代の者にとって、戦後の世界でスキヤンダルの最たるものは、プロヒューモ事件だろう。英国の現役の閣僚が高級娼婦と関わっていたことが発覚し、内閣が総辞職した。クリスチン・キ-ラー嬢という相手の方は、これがきっかけで有名になり、手記など書いて金持ちになったとかいう。これに比べれば日本の宇野首相の事件などつまらぬものだ。
 アメリカのケネディ兄弟とマリリン・モンローの関係もスキヤンダルに近いものであったが、すでに三人とも他界しており、時効に近いものとなっている。
[2011.5.6]
(用語)
スカンダロン (Gk.) skandalon;スカンダルム (L.) scandalum;ゴシップ (E.) gossip;
スキヤンダル (各国語)(E.) scandal,(F.) scandale,(Gm.) Skandal,(Sp.) escandalo;
マルコ伝6:3 「こうして彼らはイエスにつまずいた」
(Gk.) kai eskandalizonto en auto:.(L.) Et scandalizabantur in illo.
ル力伝7:23 「わたしにつまずかない者は、さいわいである」
(Gk.) kai makarios estin hos ean me: skandalisthe: en emoi.
(L.) et beatus est quicumque non fuerit scandalizatus in me.


 このように詳しいことは詳しいのだが、ヘブライ語、古代ギリシャ語、ラテン語の関係が不明確で、何より旧約には石につまずくといった表現が多くあるのに、罠という意味だと主張してしまっているのはおかしいだろう。いずれにせよここで問題にしている「わたしにつまずく」というイエスの発言が「わたしのわなにかかる」というのは受け入れがたい。古代ギリシャ語がわかるわけではないのだが、グーグルブックスを利用させてもらって、聖書の原文を見てみた。



 実はここのσκανδαλισθη(スカンダリステ)「つまずく」という表現は欧米のキリスト教徒にとっても理解しにくいものらしい。マタイ福音書26章31節を"Tonight all of you will desert me."すなわち「今夜、あなた方全員が私を見捨てるのです」とNew Living Translation(NLT)は訳し、New International Version (NIV)も同様に"This very night you will all fall away on account of me"と訳している。これはこれで弟子たちの行動の予言でわかりやすいと思う。だが、わかりやすいのが宗教にとっていいか悪いかはまた別の問題だ。新約での用例を見るのも兼ねて、ヨハネ福音書の11章の9-10節を新共同訳とNLTを並べて掲げよう。

9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。
10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」

9 Jesus replied, “There are twelve hours of daylight every day. During the day people can walk safely. They can see because they have the light of this world.
10 But at night there is danger of stumbling because they have no light.”


 つまずきと光というわかりやすい対句的表現、説教上重要な要素であるレトリックを損なってまで、stumbleという単語を9節で避ける意味はないだろう。さすがにNIVは"Are there not twelve hours of daylight? A man who walks by day will not stumble, for he sees by this world's light.It is when he walks by night that he stumbles, for he has no light."としている。

 バッハが作詞したドイツ語だが、今更ながら"In dieser Nacht werdet ihr euch alle ärgern an mir"は「今夜、あなた方全員が私に憤るのです」という意味なのである。バッハは宗教改革のきっかけとなったルターのドイツ語訳を使っていて、世界史上の偉人2人を相手に言うのは畏れ多いのだが、自分に弟子たちが悪感情を持つようになるという予言はさっきも言ったように感心しない。しかし、ドイツ語でこの曲を理解できる人はぼくのようにここでそれこそつまずいたりしないだろう。バッハももちろんそうだったのだろう。だのに冒頭の対訳がそうであるように聖書からの引用は原典に忠実な共同訳をそのまま使うことが多いから、かえって歌詞とはズレが生じてしまう。音楽にヒントがないかとリヒターの名盤に耳を凝らしていた大昔のぼくは、結局は無駄なことをしていたことになる。

 長々書いてきながらちゃんとした結論は出せないのだけれど、ぼくの憶測を書いて終わりにしよう。イエスは弟子たちに何を言いたかったのか。イエスが弟子たちの行動や感情の予言をしてみせたと思わない。自分に起こることをきっかけにして、彼らの本性とか正体といったものが自ずから明らかになると言いたかったのではないか。まるで石にけつまずいてはっとなるように。それはイエスの問題ではなく、彼らの問題であり、そうならざるをえないことなのだ。意図せずに自分の本質をふと見せてしまう。ぼくがつまずくという表現を使うのはそうした場合なのだ。







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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2017-08-23 04:01:06
翻弄されるような予感
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Unknown (夢のもつれ)
2020-12-18 13:17:16
そうかもしれませんね
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