夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

出来合いのクッキーとの出会い

2009-03-02 | diary
日曜日にいつになく寝坊をして、10時くらいに目が覚めた。ブランチでもいいかと思って、パスタを作った。中華なべで固めにゆでて、パスタを上げたところにレトルトのキノコとクリームソースを入れ、それだけじゃつまらないからオリーブオイルと鷹の爪と塩辛とにんにくも投入する。そこにパスタを絡めればちょっとはましなものになる。レトルトを湯煎したり、レンジであっためるより料理した気にもなる。

食べ終わって片付けるとかえって物足りない気がする。まだ午前中だから何か作ろうかなと思って、戸棚にクッキーとマフィンの粉があるのを思い出した。ぼくはどうせ作るならパウンドケーキの時のように一から作りたいから無視していたが、出来合いのも寝坊したいい加減な休日には合っているような気がして、かまってやろうかなと思った。

どちらも玉子とバターが必要だが、マフィンは牛乳も必要だ。ぼくはふだん牛乳は飲まないし、ヨーグルトは毎朝、チーズもしょっちゅう食べてて必要もないから常備していない。シリアルもヨーグルトに入れる方が多い。で、クッキーの方にした。例によって手順が悪いからバターがなかなか室温に戻らないで、粉になじませるのに手間取る。

玉子が二つ残っていたが、200グラムの袋で半個しかいらない。2つの袋が入った箱だから二つ作ればちょうどいいし、ココアや抹茶を入れてもいいでしょうと書いてある。ではということで二つのボウルを駆使して、もう一袋ココア入りを作る。こちらの方はバターを予熱しているオーヴンに入れてちょっとやわらかくした。しゃもじで混ぜているうちにむらむらともう1個の玉子も入れちゃえという気になる。お菓子の分量を変えるのは間違いの元だが、小麦粉を足せばいいだろという悪魔の声が聞こえる。

玉子を増やしたせいか、バターがなじんだせいか、ねちょねちょし過ぎている。粉をふったまな板代わりのプラスティックの板の上で、形抜きしようとしてもぐにゃっとなる。小麦粉を混ぜてやり直す。…一体に料理の記事の時はなんでこんなに事細かに書くのだろうと思う向きもあるだろう。書いている本人がそう思うのだから間違いない。しかし、これはそうした面倒な感じを出すための文章上のテクニックであって、小学生の作文のように感じるとしたらアンリ・ルソーの絵を見て笑った法廷の人たちと変わらない。

やる前はあんなに楽しそうに思えたのにいつも裏切られる。洗濯機の上の収納から見つけた形抜きはどうもクリスマス用でツリーや靴下やダビデの星だが、お目にかかったことがない。そういうのがやたらあるというのも摩訶不思議な家だ。作ってもらえなかった粉と使ってもらえなかった形抜きがぼくを呼んだのだろうか。そう思うと哀れでもある。打ち捨てられた甘い夢といったことか。

お菓子作りなんて手間から言えば「明月記の満ち欠け」の比ではない。定家の和歌や「明月記」だけでなく、達磨歌を調べるために鴨長明の「無名抄」や慈円の「拾玉集」や上覚の「和歌色葉」といった本を探し出し、読み込み、あれこれ考えるのはいくら好きでやっているといっても楽ではない。年々症状がはっきりしてくる花粉症のお蔭で、活字を読むと目がしょぼついて仕方がない。それから逃避したくてクッキーを焼いたりしている。この記事も週末に考えをまとめるところまでいかなかったから書いている。顰蹙を買うのを承知で言うのだけれど、家事なんて仕事の次に簡単だ。頭休めにちょどいいものを手を抜こうとするからかえってイヤになるんだろう。

ゆるい生地をクッキングシートになんとか並べて焼き始める。170度で12分とか書いてあったが、まだまだやわらかい。大きいせいなのか、オーヴンレンジの火力が弱いのか、両方だろう。結局、30分ほど掛かった。ココア入りのを190度で焼きながら、ハーブティを相手に2つほど食べる。さすがは出来合いの粉で、さっくりしっとりできている。

いつものことながら出来上がるとなぜこういう作らなくてもかまわないものをわざわざ作ったのか本当の意味がわかるような気がする。楽しいことも、悲しいことも、一人暮らしだとその夜や翌日に反動が来てしまう。単調な毎日だけが似つかわしいのかもしれない。ココアもあまり変わり映えしないなと思いながら、写真を撮っていると「シナモンでもかけてみたら?」と言われた。たくさんあるからまたいろんなことを言うだろう。


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