パート1よりもパート2の方がいいと言われる数少ない作品の一つで、この映画の成功をきっかけに続編にパート2とつけるのが流行ったようです。でも、単に正編が売れたから柳の下のドジョウのように作られたものと違い、この作品ではパート1の前後の時間を描くことで、見る人に重層的な形でファミリーの歴史を浮かび上がらせることに成功しています。
主人公のマイケルが上院委員会で査問を受けた場面で、マフィアの「ファミリー」とふつうの意味での「家族」のどちらの意味なのか混乱が生じますが、これはこのシリーズ全体のテーマを端的に表わしたものだと言っていいでしょう。シチリアでマフィアのボスに家族をことごとく殺された少年ヴィトがアメリカに渡り、犯罪に手を染めながら次第に地元の顔になり、自分の家族を創り上げていく過程とヴィトの死後、ファミリーのドンになった末の息子のマイケルが第1作のヴィトの姿をなぞりながら自分の家族と軋みを生じていく過程が交互に語られます。
この映画の最大の長所はこのほとんど2つの映画といっていいような数十年を隔てた2世代の物語をうまく組み合わせたところでしょう。こういう場合にしばしば「緻密な計算の下、緊密に構成された」といった修辞が使われるような気がしますが、私はそうは思いません。別に個別に分析をしたわけではありませんし、仔細に見ればそういう点も多いのかもしれませんが(今はDVDでそういう見方をするのも容易で一種の流行りなのかもしれませんが)、2つの物語の関係がつかず離れずだからいいんだろうと思います。例えば交響曲の楽章の関係のようなもので、それぞれの楽章の調性や主題と展開やパッセージの処理がありながらも、なんとなく統一感があるといったようなことです。これをギチギチに構成しちゃうとあそびも広がりもなくて楽しめないものになってしまいます。
何よりこの作品はパート1に登場したマーロン・ブランド演じる完成された理想のゴッドファーザーであるヴィトが観客のイメージにあって、それとパート2の人物とを頭の中で対照することでおもしろさが増すわけですから、なおさらこの作品の中でまとまりすぎない方がいいんだろうと思います。つまり第1楽章に続く2つの楽章といった趣きで、三角形の構造を持っていると言ってもいいのかもしれません。
さて、この映画の欠点も挙げておきましょう。それはここまで述べた長所の反面で200分と長すぎることです。特にキューバ革命前後の場面はおもしろいことはおもしろいのですが、アメリカの恥ずべき過去を告発するといった政治的意図のために作品としてのバランスを失しているように思いました。また、日米開戦時にマイケルが従軍したことを告げて、やがて父を迎えにみんなが出て行き、彼が一人残される最後のシーンは印象的でもあり、暗示的でもあるんですが、視点もマイケルのものですし、画面のテイストも異質で、パート1に回帰するコーダを無理につけたような浮いた感じは否めないと思います。そんなこんなでエピソードに耽溺したがるテレビドラマをまとめて見せられたような気がしてしまいます。
深いところで落ち着けますね。
そうかあ、パート2ってこれがハシリ、そういわれればこのタイトルをかっこいいと思った記憶が蘇りました。
プレイバックパート2もその影響だっけ。
そんなこと言うとまたかなりの年齢ですねって言われそうだけどw