内田良平「日本の亜細亜」131頁~144頁
倭寇の大飛躍
〔八幡船と朝鮮及び支那四百四州の震駭〕
北風起って南風はず、勤王の講將前後して歿する時、獨り東風に乗じて八幡船を操り、朝鮮より支那四百餘州を震駭せしめたものは倭寇である。倭寇に就ては、後村上天皇の正平五年、楠正行戦死の翌年、高麗で『忠定王二年二月、固城、竹株、巨濟等處々に寇す』と東国鑑にあり、支那では元の『至正二十三年八月酉朔、倭人蓬州に冦す。十八年より以來、倭人連りに瀕海縣に寇す。是に至って海途に安からず』と順帝本紀にある。
元は是より四年後、至正二十七年に亡びて明の代となり、高麗も元と前後して亡び李朝となったのであるが、李朝の元祖李成桂は、倭冦を撃って之を破った功で、威名並ぶものなく、八道を風靡して高麗に代り、王位に即くを得たのである。之を以て見るも、朝鮮に於ける倭寇が何に猖獗なりしかを知るに足るであらう。
偉大なりし元朝も倭寇に脅されて僅々八十餘年で滅亡した。然るに倭寇は依然として襲撃を繼續し、明朝二百餘年間、思ふ存分に暴れ廻はり、結局豐臣秀吉の大明征伐となり、明の精兵は朝鮮に於て殆ど殺し盡され、明朝も滅亡することとなった。左に此の間に於ける倭寇の最も驚くべき勇猛振りを發揮せる二三の事件を擧げやう。
〔明史日本傅〕
明史日本傅に「倭寇は杭州北新關西より、淳安を剽め、微の歙縣を突き、蹟谿旌徳に至り、涇縣を過ぎ、南陵に趨り、遂に蕪湖に達し、南岸を燒き、太平府に奔り、江寧鎭を犯し、徑に南京を侵す。
〔杭州より南京を経て林橋迄〕
倭、黄衣黄蓋、衆を卒ゐ、大安徳門及び夾岡を犯し、乃ち抹陵關を超えて去り、漂水より徑陽、宣興を流劫し、官兵太湖り出ると聞き、遂に武進を越え、無錫に抵り、惠山に駐り二晝夜百八十里を奔りて滸野に抵り、官軍の爲に圍まれ、楊林橋に追及して殲さる。
〔賊六七十人、徑行數千里、殺傷四千人〕
是役や賊六七十人に過きず。而して徑行數千里、殺戮戦傷する者幾んど四千人、八十餘日を經て始て滅す。此れ三十四年九月の事也』とあり。此の三十四年は、明の嘉靖三十四年(後奈良天皇の弘治元年川中島戦の年)であって、實に驚くべき行動である。彼等の杭州に上陸せし時は、百人計りの人數であったと見える。
〔皇明實録〕
皇明實録には『六月己已(六日)倭賊百餘、浙江紹興府上虞縣爵蹊所より登岸し、會稽高蟀を突犯し、民居樓房を奪ふて之に據る。知府劉錫、千戸徐子懿等、兵を分て圍守す。賊潜かに木筏を縛し、東河より夜圍みを潰して出づ。卿官御史錢鯨、豐浦に遭ひて殺さる。賊遂に流れを逐ひ杭州を流劫して西し、潜興昌化を經、内地大に駭く』とあり。
〔寧波府志〕
然れども寧波府志には『倭賊九十三人、四月某日に於て錢倉白沙灣より上陸し、奉化の仇村に人り夫れより金峨を經て七里店を突き、此に寧海鵆の百戸劉夢祥を敵殺し、甬東より定海の崇丘鄕に走り、此に定海衞百戸劉夢祥を敵殺し、折れて鄞江橋に趨く。鄞江橋は寧波府郭外南塘河に架する橋にて、府治西南五十里、白龍王廟東に在り。小溪樟村を經て、此に寧海衛千戸韓綱を敵殺し、通明壩を走って曹娥江を渡り、此で御史錢鯨を殺し、夫より蕭山縣を過ぎて錢塘江を渡り、湖酉の富陽へ上った』とあり。
〔寧波府志〕
曹家江は紹興府治に屬し、紹興府志には『四月松浦の賊、錢倉白沙灣より寧海を抄掠し、樟村に趨き、遂に上虞東門外に至り、居村の房處を燒き、曹娥江を渡りて此に鄞人御史錢鯱に遇ふて之を殺し、皐埠に至る。
〔皇明實録〕
兵備使許東望、知府劉錫、典史呉成器等兵を率ゐて之を圍む。夜に到り兵の倦むに乗じて逃れ去る』とあるに見れは、倭寇の上陸せしは四月の初めであって、皇明實録に『六月己、倭賊浙江紹興府上虞縣爵蹊所より登岸す』とあるは、銭倉の白沙灣に上陸して二ケ月計り後からの行動を記したものであらう。
〔大胆不敵千古無比の偉觀〕
僅か百人内外に過ぎぬ、小勢の倭寇は、杭川より奥地に行進し、安徹省に入った頃は六十餘人となり、尚ほ猪突邁進する剛瞻不敵なる行動に至っては、千古無比の偉觀と謂ふべきである。
〔皇明實録〕
皇明實録は更に記して曰く、『徽州府、隘、官民兵壯五百餘、賊を見て悉く潰ゆ。績溪を流劫して旌徳に到る。典史蔡允、兵千餘を卒ゐ之を禦いで克たず。戦遂に南門より火を縱ち、屠掠して涇縣を過ぐ。縣知丘時庸、兵をゐ埠塘に追撃して敗潰す。賊乃ち南陵に赴く。縣亟覚逞三百人を以て分界山を守り、賊を見て奔竄す。賊遂に縣城に入り、火を縦ちて民居房屋を焚く。乙建陽衞指揮膠印、當途縣亟郭快、蕪湖縣派陳一道、太平府知事郭撲、各檄を承け、兵を以て來り、賊と縣の東門に遇ふ。印等兵を引て之を射る。
〔敵の射矢を攫み取る〕
捍賊悉く手に其の矢を接す。諸軍相顧みて愕怡す。一道率ゆる所皆な蕪湖の驍健なり。乃ち衆を麾て獨り進み、賊の殺す所となる。一道の義男子、身を挺して賊を捍き亦た死す』と。
以上の記事を見るだけにても、倭寇が、驍勇にして何れも精妙なる武術に逹し、敵の射懸くる矢を手にて攫み取りをなし、常に十倍二十倍する大敵と戦び之れを撃破する手並に至っては、百職の勇士てあって、支那全國民が、倭寇と聞けば戦慄したのも無理からぬことである。
〔蕪湖の市街戦に同志十二人を失う〕
倭寇は之れより蕪湖に入り、市街戦に於て失敗し、同志十二人を失ひ、總勢五十餘人となりたるが、加之も屈せず、太平府に赴いた。此處の操江都督御史襄善は、千戸會苧を遣はし、馬蔽に禦がしめたけれども、忽ち撃破せられ、賊の府城に逼り來る河橋を斷って防禦しため賊は遂に引いて江寧に進んだ。
江寧鎭の指揮朱襄、勇士を率ゐて之を禦がんと欲したが、未だ倭の板橋に到るを知らず、方さに祖裼して酒を縱にして居った。そこに突撃せられ盡く殺された。皇明實録には此處で殺された官兵を三百餘人として居る。
〔應天府志〕
萬暦五年細の應天府志には『三十四年秋七月、倭奴五十人、太平より板橋に到り、江に沿ふて焚掠す。指揮蒋陛、千戸朱襄を遣はし、兵を帥ゐて之を禦がしむ。櫻桃園に到りて敗沒し、城中震恐す』とある。
〔僅々五十餘人白昼堂々南京城を刧かす〕
之れは七月二十九日の事であって、翌三十日拂曉に至り、僅か五十餘人の倭寇は堂々として南京攻県に取り懸ったのてある。何んと云ふ大膽、何んと云ふ不敵の行動であるか。古今東門五十餘人の小勢を以て、江南第一の大都城を攻め得たものがあるか。例しも聞かず後世にも爲し得ないことであらう。蓋し之れが日本人の本質的勇猛精神の顕現であるのである。
〔南京城内の震駭〕
南京に於ては、倭寇の襲來を聞き、驚愕猤狽の状は實に想像以上のものであった。七月二十一日倭寇が南陵縣城を占領した頃、指揮王漢に、新江口の水軍一千人を統領して釆石鎭を守らしめ、又大勝關、龍江關、觀音港等へも夫れんぞれ、兵を配して守備を嚴重にした。又た此の日指揮朱襄に勇士五百名、指揮蒋陛に官軍一千三百名を引率せしめ、龍山場に出で、伏を設け憸に據り截殺せしめんとした。之れが二十八日に全敗したのである。
而して南京城の守備は、指揮張鵬、夾欽及び各把總指揮に、各々官軍一千三百名を附して外門を守らしめ、内十三門、亦た各手分けして嚴重に守備し蕕ほ總督楊宜、巡撫曹邦輔、操江御史褒善等に檄を飛ばして各來り助くる事を嚴逹した。
〔皇明實録〕
『賊遂に南京に赴く。其酋、紅を衣、馬に乘り、黄を張り、衆を整へ、大安徳門を犯す。我兵城上より火銃を以て之を撃つ。賊、外城小安徳、夾岡等の門に沿ひ、往來窺覘す。たまたま城中その遺す所の諜者を得たり。賊乃ち衆を引き、舖岡より抹陵關に赴きて去る』と皇明實録は記せり。
〔學者の目撃記〕
此の時南京城中狼狽の有樣は、現に城内に在りて目撃して居た二人の學者の自記に依り、眼前に浮ぶやうに観られる。曰く『某恰も試事を以て都に在留す。寇、蕪湖より邐迤南下、直に安徳門に抵るを聞き、擧城鼎沸。某、時に亦た周章を免かれず。之を詢ふに及んで逋寇五十餘人に過ぎざるのみ。覺えす天を仰ぎ活歎胸を推し、泣を飲むもの之れを久ふす』と、歸震川は書いて居る。
〔何良俊の記録〕
次に何良俊の記録に『乙卯年、倭賊、浙江より嚴衢に由り、饒州を過ぎ、激州寧國、太平を歴て南京に至る。纔かに七十二人の南京兵之と相對し、兩陣把總一指揮を殺し、軍士死者八九百(南京に来る迄の戦を云ふ)、七十二人一人を折らずして去る。南京十三門緊閉、傾城百性皆な點して城に上り、堂上諸老、各司屬と各鬥を分守し、賊退くと雖も尚ほ敢て嚴を解かす』と記してゐる。
〔何良俊の又記〕
次に何良俊は『夫れ敵人、鬼と爲り蜮と爲る。詭譎萬端、前有の賊、嚴浙より歙州に由り、寧國太平を歴て、南京に抵る。たヾ五十七人のみ。
巳に安德門外に至る。而して探細の者猶ほ言ふ五百人、或は言ふ千人。蓋し賊人六七群を爲し草莽に竄伏し、一去一來、一起一伏、循環の如く然り其の端を測るなきによる。此れ正に所謂寡を以て衆と爲し、弱を以て強と爲す。蓋し兵法の妙を得るもの矣』と。
〔倭寇の戦術見るが如し〕
之れに由って見れば、何良俊が前に七十二人のみと書けるは誤聞にて、五十七人の正しきを知らるるのみならず、倭寇の戦術に巧みなる行動が眼のあたりに見るが如く書かれて居る。
〔二年前の倭寇〕
此の南京襲撃は、初めて爲されたものにあらず、之より二年前、倭寇の常州に到りし時も、南京を震動した。應天府志に『三十三年四月、倭寇窃かに發す。居民皆な逃避して城に入る。守臣復た外兵を調して屯聚し、依りて民をして磚を運び、城に上らしめて防護し、燈火晝夜に徹す。數月乃ち定まる』とある。
此の時は支那の土匪多數を引率したる倭寇であったが、今回の五十餘人が南京を襲ふたのは、第二回目で、我が弘治元年であった。同年は武田上杉川中島三度目の合戦頃であって、織田信長二十二歳、秀吉二十歳、家康十四歳の頃である。
〔北京襲撃〕
倭寇は南京のみならす、北京も襲撃して居る。威海衛も全減させて居る。北京攻撃は嘉靖二十九年八月(後奈良天皇の天文十九年)即ち五十人組の南京攻より五年前のことであって、彼の史に記する所によれは『帝奉天殿に御して一詞を發せず、諸將皆な壘を堅ふして一矢を發たず。虜、城外盧舍を燒き、火光天に燭す。
〔御史の記録〕
内地に縱横する凡そ八日、掠むる所巳に望に過ぎたり。乃ち輜重を整へ圍を解いて去る。諸將遺屍を收斬し、八十餘級を得、睫を以て上聞す』とあり。
〔城内の恐怖と昔も変わらぬ欺瞞手段〕
支那人の欺瞞的報告ほど滑稽なものはない。一矢も發せず壘を堅ふして守った人々に倭寇の殺せる筈はなく、倭寇に戦死者の出來る筈もなければ、諸將が遺屍を收斬したと云ふ其の屍は、倭寇に殺された自國人であることは、何人が見るも疑なき所であらう。
〔威海衞襲撃〕
威海衞襲撃は嘉靖年代よりずっと遡った永樂四年(後小松天皇の応永十三年足利義満時代)のことであって、『倭寇帆を劉公島に揚げ、聲言して曰く、百尺崖を攻めんと。而して卒かに威海衞を撃ち、幾ど礁類なし』と威海衞史に記して居る。
倭寇が二百餘年間に亘り、朝鮮、支那の各地方を襲撃報復したる状況は、兩國の書史に記載られたみもの頗る多く、其の概要を摘記するだけにても幾千頁の書物を編することが出來るであらう。
〔倭寇の目的性質〕
元來倭冦なるものは初より掠奪を目的としたのでなく、元寇の報復より一變して貿易となり、頗る平和となり來りたるも、支那の貪官汚吏と、狡猾なる商人に欺き愚弄せられ、且つ彼等が日本人を輕侮するより、公憤私憤一時に破裂し、再び報復膺懲を加へんとする爲め、武力鬪爭を開始したるものと認めらるる節あり。
而して支那特有の土匪は、強き日本人の傘下に集り來り、大掠奪を行びたる爲め、土匪の暴虐と混合せられたる點あり。
〔鄭曉の著書〕
鄭曉と云ふ人の著書に(嘉靖三十一年也)倭奴黄厳巖に入りてより今に到る十年、閩、浙、江南、廣東の人皆な之に從ふ。賊中皆な華人、倭奴十の一二に居る』と。
〔都御史章煥の記〕
又た都御史章煥の記に『倭夷何に依って至るや。首亂あり、脅從あり、導引あり、此を明にして後に理す可き也。夫れ吾民、重困盜を爲さんとするや久し。然れども時に執へらるるの思あり。賊間に入り之が用を爲してより、進んで望外の獲あり。退て盗賊の形なく、海濱關隘の阻詰するなく、柔櫓輕舟、往來甚た捷。賊と連衡し、良民と維居し、賊未だ至らざるや皆良民也。賊至るや良民去りて奸民留る。賊去る又皆良民也。これ禍の獨り難き所以なり』と云ふて居る。
〔江南經略書〕
江南經略書には『凡そ海賊一起、陸地の賊機に乘じて窃發す。所謂土倭子是れ也』とあり。
〔皇明實録〕
皇明實録にも此の寇源を叙して嘉靖二十八年四月の條に『抑も海上の事、初め内地の奸商、中國の財物を輸出し、蕃客と市易せしより起り、遂に島夷及び海中の巨盜を勾引し、所在劫掠、汛に乘じ岸に登り、動もすれば倭寇を以て名と爲す。其の實眞倭幾ばくもなし。蓋し患の從起する所者微矣』とあるによっても證せられる。又た倭寇は襲撃掠奪の猛威を逞ふするも、子女を姦し無抵抗者を殺戮するなどの暴虐行爲は敢てしなかったのである。