内田良平「日本の亜細亜」(118頁~125頁)
倭寇の發端
〔重盛育王山に冥福を祈る〕
朝延の遣唐使は廢止せられたけれども、民間に於て互に往來貿易して居たことは、顯著なることにて、高倉天皇の承安三年平重盛が宋の明州育王山に冥輻を所る爲めに砂金を贈った。其の時使として行ったのが、筑前宗像神社の大宮司宗像氏國の家臣許斐忠太妙典であった。
〔妙典は渡天二回入宋七回〕
妙典は渡天二回、入宋七回と云ふ支那印度通でてあった。之れに見るも九州人は當時既に支鄰は申すに及ばす、印度邊迄交通して居たことが知られる。育王山からは、後ち重盛の志納金に對する御禮として、觀世音を彫刻せる石碑一基を宗像大宮司に屆けて來た。其の時平家は既に沒落した後であったから、石碑は宗像氏の手元に殘り、現在國寳となって宗像社境内に保存されて居る。
〔平家の没落と元寇の遠因〕
平家の沒落は元寇の遠囚とも見らるべき對外關係を拯き起した。
壇ノ浦の落ち武者は、對馬に根據を構へ、其の他九州四國等の各地に潜伏せし連中が、源氏の視線を避け窃かに海外と交通して、力を養ふべく第一に押し渡って行ったのが、最も手近かの朝鮮即ち當時は高麗朝の國であった。
〔平家落武者の朝鮮支那貿易〕
初めの内は勿論柔順しく貿易に從事して居ったのでてあらうが、朝鮮も支郵の役人も、柔順にして居れは賄賂を貪り、與へぎれば壓迫するを常とする國柄なれば、正直の日本人にして、しかも武士氣質の商人が、貪官汚吏に對して何條我慢することが出來よう。
遂に衝突を起し、始めは彼等に奪はれしものを奪ひ還さんとする鬪爭であったが、遂には掠奪となり、倭寇となり、倭寇は年を追ふて盛になり行き、高麗をして殆ど倭寇の防禦には手を燒かせて居たのである。
〔高麗倭寇に苦しむ〕
之れが爲め弘長三年頃、高麗は蒙古に向って倭寇を禁して貰ひたいと哀願して居る。弘長三年は、文治元年平家が壇の浦に敗亡してより七十八年目になるのである。而して蒙古が初めて襲來した文永の役より十二年以前で、高麗王の使節潘阜が蒙古の國書を持って來た文永五年より六年前のことであった。
如斯く高麗は倭寇に困った結果蒙古の至元元年、我が後深草天皇の正元元年亀山天皇讓位を受けさせらるゝ歳、忽必烈は都を蒙古より燕京即ち北京に移し、大元皇帝の位に即いた。
〔元使の来るは高麗の使節が忽必烈を動かせるによる〕
其の時高麗より參参賀せしめた使節の趙彜は、忽必烈をして日本を征伐せしめ、自國に於ける倭寇の憂ひを絶減しむるため表面は單に日本と交通を開始せらるることの有利なるべきを論いた。
忽必烈は之れに動かされて日本に使節を遣はすに至ったことは、元史の日本傅に書かれて居る其の文句を擧ぐれは『至元々年、高麗の趙彜等、日本國に通ずべしと言ふを以て、使を奉すべきものを擇ぶ』とある。
〔東亜國際関係の今昔〕
以上の筋道より考ふれば、東亜に於ける國際關係は、古も今も同じ軌道を往復しつつあることが痛感されるのである。
昔日三韓の日本より離れたのは、新羅の金春秋が唐の力を借りた爲めであって、當時の日本は佛教傳來によって上流社-曾の精神を軟弱化し、加ふるに支那文明の崇拜に熱中し、全く武的精御を失ふて居たのであるから、白村江の一敗に腰打ち拔かし、平治の亂に至る五百四十餘年間、外尊内卑の畏縮状態であった。
〔元の呉萊の倭論〕
元の呉萊の倭論に『漢魏の際、既に中國に通ず。其人弱にして制し易し。唐、百濟を攻む。百濟其の(日本也)兵を借りて白江口に敗れ、乃ち逡巡甲を斂めて退く』と云ふて居る如く、哀れな弱國となって居たのである。
〔當時と近世との對外政策〕
是れは佛教の慈悲忍柔を教ゆる一方、支那より思想的に征服せられ、武的精神を去勢せられて居た結果であって、恰も明治年間より現代に及ぶ日本の對外政策が頗る軟弱を極め、歐米に對しては、其の文化に教育せられ、思想的に征服せられたるもの共が外交の局に當ること故、追隨屈辱を以て屈辱と心得す甚しき外侮を受けて平然たりしが如くであった。
〔白村江の戦と日清戦争〕
而して朝鯡が支那勢力を借り日本を抑へんとして日清戦爭を惹起せしは、新羅が唐の力を借りて白村江の戦ひとなりしに比すべく、
〔元寇と日露戦争〕
古の力を導いて元寇の大戦を起したるは、朝鮮支が霧西亞勢力袒を利用して日露戦爭をき起したるに髣髴せるものではないか。
〔八幡船熾に朝鮮支那の沿岸に出没す〕
蒙古來は日本人の先天性とも謂ふべき武的精神を刺戟し、燃ゆるが如き敵愾心を高調せしめたが、鎌倉暮府に於ては、前後十四年間の對蒙戦費に國力を消耗し、攻勢的進出は絶對に不可能であった爲め、民間の豪傑は八幡般を漕ぎ出し、第二次蒙古襲來の翌年より、高麗を侵し支那沿岸を侵し、忽必烈を戦慄せしめたのは、實に愴快である。
朝鮓の東国通鑑に『忠烈王六年五月(我が弘安五年)倭賊固城漆浦に入り、又た合浦に寇す』とあり。
元史高麗傳にも『至元十九年、日本其の邊海郡邑に寇し、居室を燒き子女を掠め去るを以て、蒙古軍五百人を發し金州に戍せんことを請ふ』とあり。
又た元史世袒本紀にも『至元十九年九月庚申補建宣慰使・倭國の牒者を獲たり。旨あり、之を留む』とあり。
又た『至元二十九年六月已巳、日本來って互市す。風、三舟を壊つ。唯一舟慶元路に逹す。同冬十月、日本舟四明に至り、互市を求む。舟中皆な倶に甲を伏す。恐くは異圖あらん。詔して都元帥府を立て、以て海道を防ぐ』とあり。
元史兵志鎭戍にも『至大二年七月、樞密院臣言す。去年日本商般慶元を焚掠す。官軍敵する能はず。』とあり。
又た『至大四年十月、樞密院官議す慶元日本と相接し、且倭商の爲めに焚燬せらる』とあり。
〔八幡船の強奪〕
倭寇は支朝鮮の沿岸は勿論、奥地までも襲撃するに至った。其の豪胆不敵なる行動は鬼の如く、八幡船の帆影を見れば悉く色を失ひ、泣く子もを停むるやうになった。前に日本人の至弱なるを説いた呉來の倭論は、今の強暴に驚倒し、左の如く云ふて居る。
〔倭寇の強暴に驚倒す〕
嚮きに慶元海に航して來りしより、艨艟數十、戈劒戟畢く具らざるはなく、鋒を銛し、鍔を淬き、天下利鐵なし。其の重貨を出して公然貿易し、即ち欲する所に滿たざれは、城鄲を燔爛し、居民を抄掠す。海道の兵、遽に以て應ずる無し。追て大洋に到り、且つ戦ひ且つ郤く。風を妝し濤を鼓し、前後に洶湧し、指顧に失す。相去る啻に數十百里のみならず。
遼に奈何ともする無し。士気を失ひ国體を虧く、此より大なるは無し。
徒に中國の大を以てして小夷に侮らる。即ち四方何ぞ仰觀を取らんや』と歎息して居る。倭寇の最も猛威を奮ふに至ったのは、南北朝の初期より、文祿に至る時代を甚だしとするが、其の概況を述ふるに先立ち、建武中興前後の事情を誌すことゝせん。
〔南朝と倭寇との関係〕
是れ南朝が倭寇と大なる關係を有し、五十餘年間吉野の一隅に嚴存したる所以のものも、亦た實に海外に雄飛せる倭寇の後援少なからざるものありしを認め得らるるを以てである。