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日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

内田良平「日本の亜細亜」倭寇の發端 

2020-03-19 11:28:54 | 内田良平『支那観』



内田良平
「日本の亜細亜」
(118頁~125頁)
 

倭寇の發端 

〔重盛育王山に冥福を祈る〕
 朝延の遣唐使は廢止せられたけれども、民間に於て互に往來貿易して居たことは、顯著なることにて、高倉天皇の承安三年平重盛が宋の明州育王山に冥輻を所る爲めに砂金を贈った。其の時使として行ったのが、筑前宗像神社の大宮司宗像氏國の家臣許斐忠太妙典であった。



〔妙典は渡天二回入宋七回〕

 妙典は渡天二回、入宋七回と云ふ支那印度通でてあった。之れに見るも九州人は當時既に支鄰は申すに及ばす、印度邊迄交通して居たことが知られる。育王山からは、後ち重盛の志納金に對する御禮として、觀世音を彫刻せる石碑一基を宗像大宮司に屆けて來た。其の時平家は既に沒落した後であったから、石碑は宗像氏の手元に殘り、現在國寳となって宗像社境内に保存されて居る。


〔平家の没落と元寇の遠因〕

平家の沒落は元寇の遠囚とも見らるべき對外關係を拯き起した。
壇ノ浦の落ち武者は、對馬に根據を構へ、其の他九州四國等の各地に潜伏せし連中が、源氏の視線を避け窃かに海外と交通して、力を養ふべく第一に押し渡って行ったのが、最も手近かの朝鮮即ち當時は高麗朝の國であった。


〔平家落武者の朝鮮支那貿易〕

 初めの内は勿論柔順しく貿易に從事して居ったのでてあらうが、朝鮮も支郵の役人も、柔順にして居れは賄賂を貪り、與へぎれば壓迫するを常とする國柄なれば、正直の日本人にして、しかも武士氣質の商人が、貪官汚吏に對して何條我慢することが出來よう。

 遂に衝突を起し、始めは彼等に奪はれしものを奪ひ還さんとする鬪爭であったが、遂には掠奪となり、倭寇となり、倭寇は年を追ふて盛になり行き、高麗をして殆ど倭寇の防禦には手を燒かせて居たのである。



〔高麗倭寇に苦しむ〕

 之れが爲め弘長三年頃、高麗は蒙古に向って倭寇を禁して貰ひたいと哀願して居る。弘長三年は、文治元年平家が壇の浦に敗亡してより七十八年目になるのである。而して蒙古が初めて襲來した文永の役より十二年以前で、高麗王の使節潘阜が蒙古の國書を持って來た文永五年より六年前のことであった。

 如斯く高麗は倭寇に困った結果蒙古の至元元年、我が後深草天皇の正元元年亀山天皇讓位を受けさせらるゝ歳、忽必烈は都を蒙古より燕京即ち北京に移し、大元皇帝の位に即いた。



〔元使の来るは高麗の使節が忽必烈を動かせるによる〕

 其の時高麗より參参賀せしめた使節の趙彜は、忽必烈をして日本を征伐せしめ、自國に於ける倭寇の憂ひを絶減しむるため表面は單に日本と交通を開始せらるることの有利なるべきを論いた。

 忽必烈は之れに動かされて日本に使節を遣はすに至ったことは、元史の日本傅に書かれて居る其の文句を擧ぐれは『至元々年、高麗の趙彜等、日本國に通ずべしと言ふを以て、使を奉すべきものを擇ぶ』とある。



〔東亜國際関係の今昔〕

  以上の筋道より考ふれば、東亜に於ける國際關係は、古も今も同じ軌道を往復しつつあることが痛感されるのである。

 昔日三韓の日本より離れたのは、新羅の金春秋が唐の力を借りた爲めであって、當時の日本は佛教傳來によって上流社-曾の精神を軟弱化し、加ふるに支那文明の崇拜に熱中し、全く武的精御を失ふて居たのであるから、白村江の一敗に腰打ち拔かし、平治の亂に至る五百四十餘年間、外尊内卑の畏縮状態であった。



〔元の呉萊の倭論〕

 元の呉萊の倭論に『漢魏の際、既に中國に通ず。其人弱にして制し易し。唐、百濟を攻む。百濟其の(日本也)兵を借りて白江口に敗れ、乃ち逡巡甲を斂めて退く』と云ふて居る如く、哀れな弱國となって居たのである。


〔當時と近世との對外政策〕

 是れは佛教の慈悲忍柔を教ゆる一方、支那より思想的に征服せられ、武的精神を去勢せられて居た結果であって、恰も明治年間より現代に及ぶ日本の對外政策が頗る軟弱を極め、歐米に對しては、其の文化に教育せられ、思想的に征服せられたるもの共が外交の局に當ること故、追隨屈辱を以て屈辱と心得す甚しき外侮を受けて平然たりしが如くであった。


〔白村江の戦と日清戦争〕

 而して朝鯡が支那勢力を借り日本を抑へんとして日清戦爭を惹起せしは、新羅が唐の力を借りて白村江の戦ひとなりしに比すべく、
〔元寇と日露戦争〕

古の力を導いて元寇の大戦を起したるは、朝鮮支が霧西亞勢力袒を利用して日露戦爭をき起したるに髣髴せるものではないか。


〔八幡船熾に朝鮮支那の沿岸に出没す〕

 蒙古來は日本人の先天性とも謂ふべき武的精神を刺戟し、燃ゆるが如き敵愾心を高調せしめたが、鎌倉暮府に於ては、前後十四年間の對蒙戦費に國力を消耗し、攻勢的進出は絶對に不可能であった爲め、民間の豪傑は八幡般を漕ぎ出し、第二次蒙古襲來の翌年より、高麗を侵し支那沿岸を侵し、忽必烈を戦慄せしめたのは、實に愴快である。

 朝鮓の東国通鑑に『忠烈王六年五月(我が弘安五年)倭賊固城漆浦に入り、又た合浦に寇す』とあり。
元史高麗傳にも『至元十九年、日本其の邊海郡邑に寇し、居室を燒き子女を掠め去るを以て、蒙古軍五百人を發し金州に戍せんことを請ふ』とあり。

 又た元史世袒本紀にも『至元十九年九月庚申補建宣慰使・倭國の牒者を獲たり。旨あり、之を留む』とあり。
又た『至元二十九年六月已巳、日本來って互市す。風、三舟を壊つ。唯一舟慶元路に逹す。同冬十月、日本舟四明に至り、互市を求む。舟中皆な倶に甲を伏す。恐くは異圖あらん。詔して都元帥府を立て、以て海道を防ぐ』とあり。

 元史兵志鎭戍にも『至大二年七月、樞密院臣言す。去年日本商般慶元を焚掠す。官軍敵する能はず。』とあり。

又た『至大四年十月、樞密院官議す慶元日本と相接し、且倭商の爲めに焚燬せらる』とあり。


〔八幡船の強奪〕

 倭寇は支朝鮮の沿岸は勿論、奥地までも襲撃するに至った。其の豪胆不敵なる行動は鬼の如く、八幡船の帆影を見れば悉く色を失ひ、泣く子もを停むるやうになった。前に日本人の至弱なるを説いた呉來の倭論は、今の強暴に驚倒し、左の如く云ふて居る。


〔倭寇の強暴に驚倒す〕

 嚮きに慶元海に航して來りしより、艨艟數十、戈劒戟畢く具らざるはなく、鋒を銛し、鍔を淬き、天下利鐵なし。其の重貨を出して公然貿易し、即ち欲する所に滿たざれは、城鄲を燔爛し、居民を抄掠す。海道の兵、遽に以て應ずる無し。追て大洋に到り、且つ戦ひ且つ郤く。風を妝し濤を鼓し、前後に洶湧し、指顧に失す。相去る啻に數十百里のみならず。

 遼に奈何ともする無し。士気を失ひ国體を虧く、此より大なるは無し。

徒に中國の大を以てして小夷に侮らる。即ち四方何ぞ仰觀を取らんや』と歎息して居る。倭寇の最も猛威を奮ふに至ったのは、南北朝の初期より、文祿に至る時代を甚だしとするが、其の概況を述ふるに先立ち、建武中興前後の事情を誌すことゝせん。


〔南朝と倭寇との関係〕

 是れ南朝が倭寇と大なる關係を有し、五十餘年間吉野の一隅に嚴存したる所以のものも、亦た實に海外に雄飛せる倭寇の後援少なからざるものありしを認め得らるるを以てである。



内田良平「日本の亜細亜」元冦の國難 

2020-03-16 23:04:06 | 内田良平『支那観』



内田良平
「日本の亜細亜」
(112頁~118頁)
 


 元冦の國難 

〔蒙古の使 黒的来る〕
龜山天皇の文永五年正月、蒙古王忽必烈、兵部侍郎黒的を國信使とし高麗の臣潘阜を嚮導とし、方物國書を齎らし太宰府に來った。少貳武藤資能之れを關東に進逹した。


〔北條時宗 蒙古王の書の無禮を怒り返書を與へず〕

 二月北條時宗は蒙古の書を以て朝延に奏上し、四月廟議の結果、從二位菅原長成をして返書を草せしめんとしたが、時宗來書の無禮なるを怒り、返書に及ばずと奏上し、太宰の少貳に命し、黒的及び潘阜を国に歸らしめた。
 同年十二月、蒙古使黒的、殷弘等、高麗の使由思、陳子厚、潘阜等と對馬に來りしが、對馬人拒いて上陸せしめなかった爲め、對馬の土民二人を捕へて去った。
 六年秋九月、蒙古の使者金有成等再び書を齎らして對馬に來り、前に捉へて行った塔次郎、彌二郎を連れ來り之れを返した。太宰少貳之を鎌倉に傳逹せしも時宗依然として返書を與へなかった。
 八年九月、蒙古の使節趙良弼等百餘人、太宰府に來た。少貳は其の書を見んことを求めたけれども、良弼之を示さす少貳急使を馳せて鎌倉に告げたが、時宗依然として動かす良弼等は十二月に引き揚けて歸った。


〔蒙古軍の襲来〕

十年蒙古の使節趙良弼再び太宰府に來る。而も報ぜす。於此文永五年初めて使節を遣はしてより七年目、印ち翌十一年、蒙古軍は高麗人を先導として軍船九百艘を率ゐ、對馬を侵した。島守宗助國之を防ぎ、衆寡敵せずして戦死す。蒙古軍は進んでて壹岐を侵し、守護平景高防戦して数れ、父子共に自殺した。


〔筑紫沿岸 蒙古軍台風に敗れ歸る〕

蒙古軍は怒濤の如き勢を以て筑紫の沿岸を侵し、太宰少貳等奮戦防禦に努めたけれども克つ能はす、頗る危機に陥りたる折しも、大風遽かに起り、蒙古の軍船殆んど破碎せられ、大敗して逃れ歸った。
翌年は龜山天皇、位を皇太子に讓り給ふて、後宇多天皇の建治元年となったの-てあるが、蒙古は杜世忠、何文著、撤都魯丁等を使として派遣した。太宰少貳は時宗の命により、蒙古の使節を鎌倉に護送した。


〔時宗 蒙古の使節を鎌倉に斬る〕

時宗は杜世忠等を鎌倉蘢の口に斬った。之れは當然の所置であって、蒙古は昨年不意に襲來して、對馬壹岐の國民を虐殺し、殆ど全滅せしめながら、其の罪を謝せんともせす再び使節を途り來りたるに至っては許すべきに非ず。斬って以て蒙古の不法を糺すは當然過ぎる程當然の事である。

 襲來前の使節は、書意無禮なりしも無事に使節を歸國しめ、今回は許さゞる所に、我が武士道の凛然たる精華が示されて居る。一般の人々は時宗が蒙古の使を斬った事のみを賞め立てて居るが、夫れは少々見當違ひの賞め方で、時宗も少々不平であらう。使を斬ったのは、開戦状態に在る敵国が平和の申し込みならばいざ知らす勸降状の如き使節を遣はしたるに至っては、之れを斬るのが當然で、別に偉とするに足らぬ。

 時宗を偉とせなけれはならぬ點は、飽く迄も皇国の尊厳を持し、無禮を極めたる蒙古の国書に對しては返書與へず、堂々として正を踏み泰然たりし所にある。


〔時宗の態度と近来の政府當局〕

近來の政府當局者が、亞米利加の國書に脅かされ、帝国の軍備を縮少して、國防を危殆ならしめ、列國協調の名の下に天皇の大權を無視する如きものではないのである。


〔時宗 再び蒙古の使ひを斬る〕

 時宗は西海諸国の守護を選び、沿岸の防備を嚴にして蒙古に備へしめた。弘安二年六月、蒙古の將夏貴、范文虎は、周福、欒忠をして僧本曉房、靈果、通事陳光等と太宰府に到らしめた。七月十二日、太宰少貳武藤資能、周福等を捕へ悉く博多に於て斬った。

 弘安三年、蒙古が多くの戦繿を造るを聞き、時宗は九州四國に令し、軍士を博多に駐屯せしめ、山陽、山陰の軍士をして京師を護衞せしめ、東山北陸の軍士をして越前敦賀の津に屯せしめた。


〔蒙古軍再び来襲〕

 四年五月、時宗が太宰少貳武藤資能、出羽守大友定親、對馬守河野通有、菊池、松浦等をして石壘を博多の海岸に築き、元寇に備へしめつつあった工事が完成を告げた。六月に至り、蒙古の大軍は七萬餘艘の戦艦を連ね、筑紫の沿洋に襲來した。我が軍能く之を拒ぎ、一ルも上陸せしめなかった。


〔神風蒙古軍を悉滅す〕

 時に暴風大に起り、蒙古の軍船悉く沈沒し、十餘萬の軍兵生きて歸る者僅かに三人と云ふ大捷を得た。元の皇帝忽必烈は、三度び日本を襲撃すべく準備に着手し、六年も七年も再擧を謀ったが、八年に及んで其のの計画を放棄した。


〔前後十六年の大國難〕

蒙古襲來は、龜山天皇の文永五年、忽必烈が初めて国書を齎らし來らしめしより七年目の文永十一年に大擧來襲し、更に七年目の後宇多天皇弘安四年に再び襲來し、其の後再擧を謀りしも全く斷念したのは、五年後の弘安九年であるから、前後十八年間に渡った日本皇國の大國難であった。

 蒙古帝國の勢力は。印度方面を除く亞細亞大陸と、歐羅巴の東部を併有して居たのであるから、古今に如此大版圖を領有して居た國はない。其の大元蒙古帝國と戦かったのは、世界相手に戦ったと云ふて可然ものである。

 幸なる哉時の政權は武門に歸し、鎌倉幕府創設以來、質素勤儉を以て武風を練り、拜外思想より日本精神に復活し來りたる際なれば、此の大國難を容易に打開するを得た。

 加之のみならず前世紀に於ける皇祖の舊版圖を恢復すべき潜在意識が勃然として擡頭し來り、八幡船を押し立て高麗を侵し、次いで支那沿岸より印度にかけて進出し、震天動地の大活躍を爲した。蒙古襲來は實に日本人をして本來の面目を復活せしめ、戦術の上にも得る所少なからず、武器の上迄一大變革を生ずるに至らしめた。


〔文永役の敗因〕

文永の役、我が軍の蒙古軍に克ち得なかった原因は、士氣の點でもなく、又た武術の劣ったのでもなかった。

 日本の戦術は、元來一騎打ち的の戦鬪にて、勇將猛士先頭に立ち、敵の先端なり中堅なりを攻撃し、弱兵之れに續いて競ひ戦ふと云ふ方法なりしが、蒙古の軍は隊伍組織の戦術に熟逹し、日本勇士の突撃し來るを引き包み、嚢中の物を取る如く打
ち取るを以て、日本軍猛しと雖も勝つ能はず。彼には又た大砲を有し、砲丸飛來して爆烈するや、日本軍は初めて聞きし大音響に、人も馬も驚倒して如何ともすべからま散々の敗を取ったのである。


〔弘安役の勝因〕

而して弘安四年の役に於ては、前役より七年の時日ありたるを以て、此の間に戦法を練り、蒙古の隊伍組織の戦術も講究し、防壘迄築いて居たのであるから、蒙古軍よりも戦術が上手になって居り、神風の御助けなくとも勝てる位に進歩して居たのである。

 此に日本人の高速度的進歩の素質も認むることが出來るのである。


内田良平「日本の亜細亜」 征韓・外征の功果

2020-03-12 18:33:38 | 内田良平『支那観』



 内田良平
「日本の亜細亜」
204頁~211頁


外征の效果

〔秀吉の雄圖は日本精神の發露〕

 秀吉外征の雄圖は、鬪爭に次ぐに鬪爭を以てする亂世の中より復活し來りたる日本精神の發動であって、御功皇后の三韓征伐が、天祖、國を授け絵ひし豊葦原の國即ち全亞細亞の舊版圖を回復し給はんとせる第一着の事業にして、歴代其の經綸に力を注ぎ給ひたる結果、國勢の降々たること將に支那大陸を壓んとするものありしも、惜哉、外國文明の輸入せらるるありて傳統精神を喪失し、遂に三韓を失ふに至りて全く外尊内卑の思想となり、東海の孤島裹に安逸を貪りて、五百五十餘年間の栄華を恣にせしむることとなった。

 而して藤原閥に代りて平家閥を出現し、平氏にあらざれば人にあらずと云う如き勢力となりしも、政権を掌握すること二十年に満たずして、平氏は源頼朝に減されけ、政権は頼朝の鎌倉幕府創設によって武門にし歸し、茲に従来の政教協力政治より脱却して、政治経済一致の組織に轉向し、政體の一大變革を見しも、未だ海外發展の機運に到らず。

 北條時代となるや、蒙古の襲来を受け、遽に國民の對外的思想を高潮し来たり、八幡船の帆影朝鮮、支那、印度に及び、足利時代には東洋諸国を戦慄せしむるに至った。其れ實に大和民族に遺伝せる租宗の舊版圖回復の潜在意識が發動し來ったもので、秀吉の外征を起こしたるも亦た基因するのである。


〔三成征明に反對〕

 然るに秀吉征明の雄図をして不成功に終らしめたのみならず天下を徳川家康に奪取しめ、徳川氏をして退嬰畏縮の對外政策を立て、自家安全の為め豊臣氏を減ぼすに到らしめたものは、石田三成、小西行長、大谷隆吉、増田長盛等の交治である。三成は當当初より征明不賛成意見を抱き、鳥井宗室が朝鮮支那の國情偵察より歸るや、宗室によって秀吉の外征にを思ひ止まらしめんとし、手段を盡くして頼み込みたるを以て、宗室は已むを得ず三成等諸将を前にし秀吉に彼の地の國情地理等の調査一切を報告したる末、『商人の儀なれば政治上の関係は知り申さざれども、只だ算盤の上より見れば大なる費用をかけて御収りなさるも餘り御得はあるまじく存ぜられます』と私見を附け加へた。

 此に於て忽ち秀吉の氛色を損じ、德川家康の取りなしによって退出することを得たが、後秀吉は宗室の功勞を思ひ再び召し出し懇篤なる慰勞の言葉と色々の賜物を與へられた。



〔鳥井宗室の用意〕

 然るに宗室は其の賜物に關し『殿下の仰せを被り朝鮮支那に出懸けましたが、徒手にては奓らす、數多の商品を携へ行き、貿易しつ、調査に從事致しましたから、存外の利潤を得て歸りましたれば、賜金のみは御辭退申上けます』とて受け取らなかった。秀吉益々其の氣象を喜び、以前にも勝る待遇を興へ、名護屋に於ける軍用品の用達を命ぜられた。

 如斯三成は以前より外征反對なりしが、出征するに及びても尚ほ依然として和議をのみ希望せる結果、智者を以て自任し人にも許されたる三成が、忱惟敬の如き詐欺漢を觀破する能はすして自由に飜弄せられ、内には諸將の和を破りて勢破竹の如くなりし軍氣を弛緩せしめ、外には明朝の軍勢をして充分なる準備を整へし々秀吉の雄圖をして遂に功を全ふせしめなかったことは、才子事を誤るの前轍にして同時に

〔文治派事を誤る〕

 支那外交の狡猾なる常套手段を知るべく、文治とか平和とか云ふ思想の連中は、近世に於ても尚ほ三成と同じ失敗を繰り返して居る。明治維新後、内治主義者たる文治派の人々が、佐賀、熊本、萩、西南の大亂を勃發せしめたる如きは、實に三成が関が原の大戦を起したると同一型に出でたるものにして、又た日露戦後に文治派の政黨者が跋扈を極め、其の結果滿洲問題を閑却して支那の侮慢を招き遂に昨年の滿洲事變を惹き起すに至ったのであるが、是れ皆な同工異曲に外ならぬのである。


〔文運の興隆と外征〕

秀吉が外征の中道に薨去せられ、其の雄圖を逹成すること能はすして止んだのは頗る恨事であるが、德川時代に至り、文學工藝の欝然として起って來たのは、外征の戦利に負ふ所尠少でなかった。
 桓武天皇以來、京都は學問の淵叢であって、所蔵せられたる圖書の如き幾千萬卷なるを知らす、官民の倉庫は藏書に滿てる有樣であったが、建武應仁の戦亂に於て悉く燒失せられ、叡山の如き、信長の一炬に遇ふて佛像藏書の一片だも殘さす、其の他各地各寺院も戦亂の爲め燒き失はれしもの擧げて數ふべからず、從って學問に志すものがあっても、得難きは書籍であった。

 然るに秀吉の外征により獲來りたる書籍は夥しく、直江山城守が朝鮮より分捕して歸りたるものが、書物はかりであったことは著名なる佳話として殘って居るが、それは山城守のみでなく、諸將中何れも書物を持ち歸らない人はなく、此の外にも書物を求むる爲め特に從軍した人もあった。關山派の勤首座と云ふ出家が、書物を得んが爲め特に秀吉の軍奉行たりし太田飛彈守一吉に請ふて渡海し、蔚山に籠城せし如き其の一人である。

 征韓の役が如何に多くの書物を日本に輸入したかと云ふことは、之れによっても知られるが、德川時代の文運は此の書物によって大に速進せられる資料となった。
 此の外物器及び各種の職人を伴ひ歸り、日本工藝の進歩發逹を助けたことは非常なるものがあった。之れに反し、此が爲め朝鮮の工藝は全滅したと云ふも過言ではなかった。


〔朝鮮國王の諭告〕

 當時朝鮮國王は日本に移住化したる朝鮮人に對し、『歸国するに於ては其の罪を問はざるのみなら相當の扶助料を與ふべし』との旨を諭告されて居る。其の諭告文は今尚ほ余が郷里福岡に所藏せるものがある。

 而して朝群國王は頻りに職工の歸來を希望せられたけれども歸るものとて一人もなかった。如何となれば、鮮人職工は日本で諸侯に優遇せられ、國民に敬せられて居り、故国の惡政下に生活せると、天地産んでい雲泥の差があったからである。



〔征韓役に於ける鮮民の愛撫〕

 當時諸侯が如斯多數の鮮人職工を伴ひ歸ったのは捕虜として來たのではなく、戦時中彼等を保護し優遇したる結果、喜んで連行するを得たのである。後の日本人は豊公の征韓役と云へば、殺戮掠奪の戦鬪のみと心得るものが多いけれども、征韓の諸將は占領地の政治に心を用ひ、善政を行ひ民を愛撫したるを以て、鮮人は之を悅び群集し來って市を爲したものである。

 それは當時我が軍の京城に在るや、朝鮮の士農工商皆な歸來して其の業を勤めたとあるに見ても明かでてある。故に職工の來たのも全く我が德を墓ふて來たのであるから、如何に故國から勸諭せられても歸國しなかったのである。


 秀吉の外征は、千餘年以來初めて日本の武威を示めし支那朝鮮を戦慄せしめたもので、其の征戦は無益に終った如くぞはあるが、德川氏をして三百年間安眠を貪ることを得せしめた功果の少々ならざるものあるのみならす、文學工藝降盛の源泉ともなり、又た明滅亡の原因ともなった。


 而して日本武士道の古今に亘り一貫せる美點をも示された。清正が朝鮮王子に優遇を加へたことは茲に言ふ迄もないが、秀吉は慶長二年九月、五山の僧徒に命じ、京都大佛殿に於て大明朝鮮軍士戦死者の佛事を修しめられた。之れより先き大佛内には耳塚を築き供養を爲さしめて居たのである。



〔日本武士の道の精華〕

 古今東西世界の歴史に、敵人の墓を作り、其の冥輻迄修してやった國は、日本の外決して無いのである。米國が南北載爭の記念碑に、南北兩戦死者を祭ったと云ふことは、同士打ちの内乱だからで、當然過ぎる位當然のことではないか。其の當然のことでさへ彼等は敵を祭ったとして誇って居るのであるが、日本は殘虐至らざるなかりし蒙古十萬の戦沒者に對して蒙古塚を築きて之を弔ひ、又た秀吉は耳塚を造りて五山の僧徒に供養せしめた。

 之が武士道の精華でてあって、日霹戦爭の直後、明治天皇が旅順に於ける露国戦死者のために墓碑を建てしめられた大御心も一貫せる日本精の顯現である。



内田良平「日本の亜細亜」再征の戦況

2020-03-10 17:25:23 | 内田良平『支那観』



 内田良平
「日本の亜細亜」
(198頁~203頁)


再征の戦況


〔唐島の水戦〕

 再征の軍は慶長二年正月、令を諸將に下し二月、總勢十六萬一千九百人を進發せしめた。明國は之を聞き、山東、浙江、四川、廣東の大兵を催して朝鮮救援軍を組織した。
 秋七月、我が諸將は熊川より出て巨濟に向ひ、唐島に於て朝鮮の戦艦千餘艘と戦ひ、大に之を破りて數千人を斬り、戦艦を燒き或は捕獲し大捷を博した。
 又た朝鮮の將元均が明兵と釜山を攻めんとして來りし水軍をも打ち破り、殆ど朝鮮海軍の精鋭を撃滅した。



〔南原城の戦〕

八月南原城を陥れ、三千除人を斬り、進んで全州に迫り、城を棄て、逃るゝ敵を追撃し千人を斬った。


〔黒田長政の力戦〕

 九月、毛利秀元、黒田長政等の軍は進んで忠淸道全義に至った。副總兵解生、日本軍の直に王城に迫らんことを恐れ、兵を稷山、水源に分ちて之を防いた。
長政、解生の軍に遭遇し、家臣栗山備後、後藤基次五十騎を率ゐ、急に解生を撃った。
 參將楊登山、遊撃牛伯英來って之れを園みたるも、備後、基次等カ戦、圍を潰して出で、長政自ら兵を督し進撃したる爲め、解生等は敗走した。
 然るに李喬、劉遇節等が來り援けたので解生復た引返して戦ひたるも、長政奮撃して之を破り、而も秀元其他の諸將が後より進み來りし爲め、解生等は遂に逃れ去った。

 十月、浮田秀家順天城を築き行長をして之を守らしめ、又た蔚山城を築き満正之を守り、梁山城を築き長政其父如水と之を守り、其の餘の諸壘は各諸士に分附し、之を修築して守備に當らしめた。
 明將麻貴、李如梅をして星州谷城を襲はしめたが、城守筑紫上野介、久留米秀包等、防戦して之を却けた。



〔明軍の陣容〕

 十一月、明の經略邪玠、諸軍を督して王城に到り、楊鎬、麻貴と軍事を議し、其の兵を分って三協となし、副總李如梅、左協となり、蘆得功、董正誼、茅国器、陳寅、陳大綱之に屬し、副總高策中協となり、詛承訓、麻貴・李寧、李化龍、柴登科、茫進思・呉惟忠之れに屬し、副總李芳春、解生右協となり牛伯英、方時新、鄭卯、王戡、蘆繼忠、楊萬金、陳愚聞之に屬し、鼓友德、楊登山、擺騫、張維城遊軍となり、監察御史、陳效監軍となり、遼陽分守、張登雲兵器を運び、軍法最も嚴重である。

 邪玠、壇に登り天地を祭り、厚く諸將を犒ひ、數萬の鉞砲を放ち其の儀頗る厳肅であった。既にして楊鎬、麻貴、三協の兵を帥ゐ、慶州に赴き蔚山を攻めんとし麻貴及び高策、呉惟忠は兵を彦陽、梁山に屯し、蔚山と釜山との聯絡を絶った。

 十二月二十二日、宍戸備前守、淺野幸長、太田飛彈守、加藤清兵衛等蔚山に居り、敵の迫り來れるを見て進撃大に戦ひたるに、敵の大軍忽ち殺到し、我が軍戦死する者壹萬八千三百六十餘人に及び、幸長等辛ふじて城に引揚ぐるを得たるも、李如梅、楊登山大軍を以て園み攻め、遊擺賽城に逼り來つた。



〔清正の蔚山籠城〕

 城兵撃って之を敗り、明兵死する者多數であった。蔚山と島山との間に一河あり、李方春、解生を舟を浮べ火を近里に放った。城兵砲を放って舟を破り、明兵溺死する者多く、方春、解生等、僅かに身を以て逃れ去った。

 加藤清兵衛、急を酉生浦に在りし清正に告ぐ。淸正直に到り城に人った。麻貴、茅国器、兵を合せ進んで島山を攻めた。城兵防戦し、麻貴敗走した。清正の蔚山に人るや、明軍大擧して來り攻む。
 其の兵三十餘萬、揚言して百萬と稱した。城中殊死して戦ひ、屢ば明軍を撃退した、邢玠、復た兵を増し之を攻園すること頗る急で、楊鎬、部下の計を用ゐ、營を列ね城を園んだ。城中水乏しく糧盡き、飢困甚しきものがあった。



〔蔚山城の救援〕

 三年正月、毛利秀元は蔚山の園まれたるを聞き、之を援くるため黒田長政を先鋒と爲し、蜂須賀家政、加藤嘉明、生駒一正、毛利壹岐守、熊谷内蔵允、竹中源助、山口玄蕃、安國寺惠瓊等を率ゐ、西生誧より進んだ。
 其の兵几そ五萬人で、秀元、家士西村、今藤の兩人をして蔚山に赴き近く援兵の至るを告げしめたるに、城兵は大に悅んだ。



〔明兵潰退、追斬五萬餘級〕

 楊鎬、援兵の至るを見るや、夜に乘じ園を解いて去らんとした。長政、嘉明等追撃し、淸正も援軍を見て突出した。
 秀元、直茂、家政等の諸軍も亦た之れに繼ぎ、亂撃首を斬ること五萬級、直茂勝に乘じ遠く追撃んせんとし、家政之を留め、諸將之に依て追撃を停めた。
 然るに軍士猶ほ竸ひ進んだが、呉惟思、茅国器は身を忘れて防戦したので敵軍は僅に其の全滅を免かれた。



〔秀吉薨去〕

 六月、秀吉病を得、七月に至りて危篤を告げ、徳川家康、前田利家を召し、軍國の政を家康に委ね、秀賴を利家に托し、八月遂に薨去し、出征の師を班さしむることを遺言した。
 依て喪を秘し、淺野長政、石田三成、筑紫に赴き、密かに秀吉の遺命を朝鮮の諸將に傳へた。明の降兵、郭国安、秀吉の薨去を知り、明の諸將に告け、明軍は大に喜んだ。



〔明軍大擧島津義弘を襲ふ〕

十月、明軍大擧して泗川の城を圍んだ。島津義弘、門を開き打て出で、大いに明軍を破る。北ぐるを追ふて晋州に到り、首を得ること三萬八千七百餘級に及んだ。
 明將董一元、大兵を率ゐ義弘の新塞を攻めた。又た撃って之を破り、首級三萬餘級を獲、其の鼻を斬りて大樽に盛り、日本に送った。此に於て明兵、朝鮮兵、日本軍の兵威に畏縮した。



〔諸将師を班す〕

十一月、明經略邢玠日本軍の撤退するを聞き、陳璘を以て水路提督となし、副總兵陳蠶、鄧子蘢等を遣はし、海口に分市せしむ。清正蔚山を去り、行長順天を撤し、義弘泗川を出づ。陳璘、鄧子蘢及び朝鮮李統制を遣はし日本兵を遮る。
 行長之れと遭遇し、大に戦ふ。子龍、李統制皆な死し、陳蠶等行長の舟を圍む。
 行長突出加徳に到り、義弘と相ひ會し、諸將各々釜山に集り博多に到る。長政、三成之を勞はり秀吉の遺言を告ぐ。


 諸將直に伏見に赴き、外征の雄圖も此に終焉を告けた。


内田良平「日本の亜細亜」秀吉、征韓の擧

2020-03-09 12:19:00 | 内田良平『支那観』



内田良平
「日本の亜細亜」
(190頁~198頁)
 



秀吉の財政

〔黄金時代の現出〕 
 元弘、建武以來天正年間に至る貳百四十餘年間、全國の民は兵亂に禍せられ、窮乏其の極に達したる状態は、實に慘憺たるものてあった。然るに秀吉の天下を統一するや、忽ち國民生活は安定せられ黄金時代を現出し、大阪城の瓦は金泥を以て塗り、外國人をして其の美観に驚歎せしめ、爛漫たる桃山時代の美術工藝興り、德川時代の美術の母胎たる盛況を呈した。

 而して征韓の役は前後七年をやし乍ら、少しも財源涸渇の状なく、綽々として餘裕有りしは、抑も如何なる手段を以て如斯を致したるか。秀吉は夙に鑛山事業に着眼し、攝津国川邊郡の金山、但馬国生野の銀山等を聞き、川邊郡の金鑛のみにても四億餘萬兩の黄金を探掘して、慶長小判の基礎を作り、又た日本の上地制度が、各地に割據したる群雄の爲めに全く紊亂せしめられ、租税も區々にして隱田多かりしを以て、秀吉は從來六尺二寸平方を一坪としたる度衡を六尺平方一坪となし、所謂天正の竿入れ即ち丈量をなして、土地臺帳を作製し、土地制度を一新して、鎌倉慕府の定めたる五公五民を改め三公七民乃至四公六民を越ゆるを得ずとし、賦に厚薄の弊なからしめ、国民を救ひ国家の收人を増さしめたのである。


韓國々情調査
〔秀吉の幼時と遠征者の現実談〕
 秀吉の大明征伐を思ひ立ったのは一朝一タの事でてはない。或は幼少の時より其の志があったのかも知れぬ。秀吉が未だ松下嘉平治に仕へぬ以前、日本国内に驥足を展はすことの出來ぬ幾多無名の英雄が、八幡船を乘り切り、朝群支方面に押し渡りて破天荒の活劇を演じ、唐人どもの肝膽を寒からしめた桃太邸の鬼が島征伐よりも尚ほ壯快なる現實談を聞きて、血を躍らせ時既に遠征の志を起こして居たのではあるまいか。

 徳川時代に至って、倭寇や貿易船の歴史は滅せられ、單に談話を爲すことすら憚かった爲め、自然倭寇に關する傳説も失はれたのてあるが足利時代に於ては、遠征者の齎らす財寳と武勇談とは全國に充ち満ち、青年の冐險心を唆って居たに相違ない。
 如斯時代に生長し、絶倫の大志を抱きたる秀吉としては、常に海外事情に耳を傾け、信長の部將となっては、貿易業者の集窟たる泉州堺の商人等に聞き、宣教師等に糺し各方面より得たる知識の材料は豊富なるものがあったに相違ない。


〔鳥井宗室と朝鮮支那の調査〕
 而して征討に先ち筑前博多の豪商島井宗室に命じ、審かに朝鮮支那の地理國情を調査すべく派遣したのである。宗室は朝鮮より北京に至る里程国情を親しく調査して正確なる報告を爲した。秀吉より偵察として派せられたるものは島井一人にあらす、他にも多くの人ありしならんも事蹟傅はらす島井の記録のみ世に殘された。
 秀吉の大陸經綸に要する内的準備は、多年の間、人に知られす整へられて居たのである。


征韓の擧
〔征韓の擧〕
 果せる哉秀吉が小田原を陷れ、關東東北を平定して京にる帰るや愈よ征韓の擧に決し、天正十八年九月、恰も朝鮮国王の使節黄允吉、金誠一、許箴等が來して国書を奉呈した際、秀吉は其の返書に「遠からす大兵を率ゐて大明を征する筈なれば、朝鮮も兵を催し先導者となるべし」と論したが、夫れより直ちに諸將の部署、航海の造船、及び大本地と定めたる肥前名護屋城の建築、其の他外的準備に着手し、十九年の一ケ年を費し、
〔諸将進發〕
 翌文祿元年三月京を發し、四月名護屋に到着、諸將を進發せしめた。小西行長、加藤清正先鋒となり、慶尚、全羅、忠清、京畿の諸城を陷れ、忽ち王城に進み、之を占領した。国王は義州に逃れ二王子は成鏡道の鏡城に走った。


〔二王子生擒〕
清正は行長に王城を先取せられ、後に從ふを潔しとせず三王子を追ふて成鏡道に進發し遂に二王子を生擒した。


〔明軍の全滅〕
 行長は平壌に進み、明の將祖承訓、史儒三千の軍を破りて之を全滅せしめ、史儒を殺し祖承訓は身を以て逃がれた。
〔忱惟敬和議を説く〕
 明の朝野震愕し、大司馬石星は説客忱惟敬をして行長に就き和を説かしめ、其の間に於て兵備を整へた。

〔明軍の逆襲、碧蹄館の大勝〕

 二年春、李如松、明兵五萬を事ゐ朝鮮安定館に着いた。朝鮮兵の之に屬するもの二十萬計り、合せて百萬と稱し、咄嗟平壤を園んだ。行長破れて京城に退去したので、明軍は追ふて京城に迫り、小早川隆景、苙花宗茂、碧蹄館に迎へ撃って大に之を破り、殆ど李如松を獲んとした。


〔和議假成す〕
 如松開城に退き、援兵を明帝に乞ふた。忱惟敬は開城に來て如松と計り、行長と假りに和議を媾じ取り敢へず、日明兩軍の朝鮮撤退を約した。諸將京城を發して釜山に歸り、附近の要地に城砦を築き固く之を守った。


媾和間題と戦爭 
〔忱惟敬名護屋に來る〕
 文祿二年五月十五日、忱惟敬は徐一真、謝用梓と共に名護屋に來り、秀吉に講した。然るに媾和條件の段となり国に歸って明帝に奏し、然る後に決定せんと答へ、要領を得なかったので国に歸らしめた。


〔晋州城の攻略〕
 秀吉は釜山の諸將に命じ、曩に我軍の失敗した晋州城を攻めしめた、六月諸將、小早川降景の計を用ひ、加藤清正、黒田長政、伊逹政宗、毛利秀元等、城を攻めて之を陥れ三萬五千人を斬った。朝鯡の書物に時の状況を記して『野に鶏犬の聲なく生とし生けるものは悉く殺された』と書いて居る。
 日本人は左標に残酷なることは爲さないのてあるが、當時城中に籠って居たものや逃走するものなどは悉く斬ったに相違ない。

〔清正と兀良哈〕
 清正は行長の和議を憤り、晋州より再び成鏡道に赴き兀良哈に入った。
 兀良哈は現在の琿春地方で、露領パセット灣方面のことである。淸正より縊田信雄に送られたる書簡を見るに『此の地方の人は、朝鮮人よりも勇悍にして、言語服裝も異って居る』と書いてある。之によるも清正は豆滿江を越えて滿州の地に路み込んで居たことが證せをられる。
 清正の如き猛進的氣象が總ての諸將に有ったならば、明軍を撃減する位は容易てあったと思はれるが惜し哉諸將に統一を缺き軍氣を殺いだ。之れは媾和と云ふ甘味と總師秀吉の出馬がなかったに因るのてある。


〔清正の金鉱発掘〕
  淸正は六月兀良哈に向ひ、九月の末に至り糧食乏しく兵を班した。此の間、僅々四箇月であったが、この四箘月間に驚くべき仕事が爲されたのである。夫れは朝鮮に金鑛の豊富なるな見て、江原、咸鏡道各地の駐屯兵に命じて之れを探掘せしめ、其の採取した黄金を秀吉に献じ、『「將来軍用の一端を補ふに足る見込みあり』と報告した事である。(其の金は阿蘇神社にも奉納されて居る)秀吉大に喜び、特に感状を與へられた。


〔當時の英雄豪傑〕
 當時の英雄豪傑は武邊一方でなく、政治、経済、土木、建築の技術に至る迄卓絶したる知識才能を備へて居た。故に秀吉の天下を平ぐるや、三百年來の兵亂に疲弊し切って居た國民に對し、忽にして之れを救灘することが出來たのである。清正の如きは其の中でも最も傑出した人物であった。
 彼は曾て物價の騰貴により人民の苦むを見て『物價の騰貴するは通貨の多きに過ぎるからである。我れに天下の仕置きを命ぜらるれば、現在通貨の半はを海中に投け棄てる』と云ふて居る。何んと驚くべき識見ではないか。


〔和議成立〕
 一面に戦ひ、一面に進められつつあった媾和問題は四年十月に至って明の媾和使節の來朝の運びとなり、慶長元年入月、正使楊方享、副使忱惟敬及び朝鮮使黄愼、朴弘長等泉州堺に到着し伏見に來った。


〔征韓の失敗と支那外交の今昔観〕
 明国が文祿元年十月初めて平壤に於て小西行長に對し和議を申込みしより二十九ケ月、部ち三年越しに媾利條件が成立し、更に二十ケ月目の二年越しになって此の使が來朝したと云ふ始末にて、媾和に前後五ケ年の長年月を費したものは古今東西支を除いては何處の國にもなき所でてあらう。

 支那は此の引き延ばしの間に有らゆる挽回の策を廻ら
さうとしたので、結局和議破れた後、秀吉が怒っての再征も、天秀吉に壽を假さす、其の病歿によりて失敗に歸し、彼の引延し策を成功せしめたのである。之れが支那の傅統的外交手段であって、昔も今も變りのない所である。即ち彼等は其の手段であるから、約束を實行する誠意などは全然ない所であって、曩に倭冦に困り果てた末、足利義滿を日本國王に封じた古智に習ひ、媾和條件を勝手に改め秀吉を以て日本國王に册封して來たのである。於此秀吉は大に怒り、小西行長を責めて再び征明の兵を催すことなった。


〔秀吉の冊封書引裂きに就いて〕
 囚に秀吉の册封書を見た時其の書を引き裂いたと云ふことは、日本外史などに書かれて居る所であるが實際は引き裂かれたのではなく、昔しあった歴史を秀吉に附け加へ、秀吉憤怒の状を活躍しめる爲めの文飾であると思はれる。夫れは引き裂かれた筈の冊封書が未た完全に現存して居ることが明治時代に發見されて居る。
 昔しあった事
實と云ふのは、應神天皇の時、勾高麗の国書が無禮であった爲め、皇太子莬子稚郎子(ウジノワカイラツコ)が怒って其の書を引き裂き棄てられたことである。



内田良平「日本の亜細亜」 秀吉の大陸経綸

2020-03-08 22:07:42 | 内田良平『支那観』



 内田良平
「日本の亜細亜」
(183頁~189頁)  


秀吉の大陸經綸 
 信長の死後、後繼の大業を成就したものは羽柴秀吉で、秀吉の仕事は速成主義でてあった。秀吉は到底兩立すべからざる柴田勝家を減すや、徳川家康を雌伏せしめ、長曾我部、島津を討って四國九州を平定し、次で北條氏を討滅して関東々北を平げ、天下を統一すると共に、宿志の大目的を逹すべく直に實行に着手した。


〔秀吉の大目的〕
其の目的は明國を征伐して日本の亞細亞を建設し、大和民族の潜在意識として傳統せる大陸の舊版圖を回復するに在ったのである。蓋し當時に於ける我が國民の海外發展は、既に久しき經驗と鞏固たる基礎を有し、朝鮮、支那、南洋、印度にかけて八幡船の帆影を印せざ名所なき勢力を振ひつつありしを以て、秀吉の明國征伐は、秀吉「己の慾望を滿足せしむる發意計畫にあらずして、國民總ての希望意志であったと謂ふべきでてある。


〔欧羅巴諸国の東侵〕
 況んや歐羅巴諸國の東洋に向って進出し來れる勢力は、やがて日本に肉薄して衝突の免かるべからざるに至るべき烱眼なる秀吉の夙に觀破せる所でてあったに相違ない。天正六年頃、露酉亞の胡索克兵は鳥拉爾山を越えて西比利亞に進入し、洪水の堤を決する如き勢を以て東方に突進し來りつゝあり。


〔鐵砲の傳来、耶蘇教の渡来〕
 西班牙、葡萄牙、和蘭等の国人は既に日本に渡航し來り、天文十二年八月には鐵砲を傳へ、天文十三年十二月には耶蘇教の宣敎師等薩摩に来りて天主教を弘め、信長其の布教を許して之れを援助せる爲め、耶蘇敎を信奉するもの全国的となり、日本人の世界的知識は之れに依って充分養成せられて居たのである。


〔學者の盲目〕
然るに徳川鎖国時代の學者は全く世界と隔絶し、世界的知識の皆無となりたる頭腦を以て秀吉の批判を爲し、明國征伐を單に朝鮮征伐となし、朝鮮征伐を無名の師となし、先づ第一に己れ等が朝鮮征伐により各種の利益を興へられたる現實の恩惠を無視して德川氏に阿ねり、又た一面には外国事情を書いて外國と交通なし居る嫌疑を被るなきやを恐れ上下悉く海外關係の書類を家に残さす就中倭寇關係の如きは一紙も留めざる迄に堙滅したる爲め、益々世界的知識の盲目に陷ったのであった。


〔現地人に傳はる誤謬〕
 而して共の盲目的傳統は現代迄繼續せられ、現代の學者政治家等は明治以前の日本人を以て全然世界的知識を缺き、徳川氏が切支丹を恐れたる如く國民の凡ても意氣地なかりしものの如く憶齭しつつ、己れ等が歐米人を恐るることも亦た德川氏と同樣なる滑稽を演じて居るのである。


〔秀吉は日本の産した大英雄〕 
 元來秀吉は日本の産したる最大の英雄なれば、秀吉を批判する文人論客などが、其の凡眼を以て大英雄の心事を忖度する資格がなく、また解し得る筈もないのである。秀吉が信長より中國征伐の總司令を命ぜられた時、秀吉が信長に向って「期年ならすして中國を平定し、九州を取らん。秀吉に給ふに九州三年の租を以てせよ。臣は朝鮮に入り之れを服從せしめ、大明を討たん」と述べたるに、

〔秀吉大言の意味〕
 信長大笑して『藤吉郎又た大言を爲すか』と云はれたことは史上に明記せられて居るが、此の信長の『又た大言を爲すか」と云はれたのは、法螺を吹くかと云はれた意味ではない。秀吉の大言は必す實現せしめぬことはなかった。

 之れが爲めに草履取から大將となり、遂に中國征伐の總大將に任ぜられたのである。信長は秀吉が此の大言を實現せしむる男なるを以て、愉快の感に堪ず「又た大言を爲すか」との意味に言はれたので、兩雄の對談は呼吸も吐かれぬ興味がある。此の間の消息に至っては、英雄 英雄を知るの外、門外漢の窺知を許されぬ所である。
 信長の耶蘇教援助も、志の存する所は自己の數寄や内政上に使はるるのではなく、他に大に期せられたものがあったと認められる。常時日本人の意氣精神は、外國思想に征服せられたる現代學者の想像だも思ひ及はぬもの
があったのである。


〔秀吉の経綸準備〕
 秀吉の大陸經綸は、驚くべき内的準備が整へられて居た。第一日本人が外國人を支配するに足る精御的基礎、第二財力、第三敵國の國情調査である。秀吉の明國征伐を發表するや、『支那語を學はする必要あるべし』と言ふた人があった。之れに對し『日本語を彼に用ひしめん』と答へた。

此の言葉こそ日本人が外國人を支配する日本精神の基礎でてある。
秀吉は天皇を奉じて大陸帝國を建設せんと計書された、是れ天皇が日本精神であり國民精神の顯現であるからである。


〔扇子に地圖と日用語〕
 而して軍事に民治に、其の国語の必要なるは言はずと知れたことで、之れは早くより準備られ、扇子の地紙に朝鮮支那の地圖を書き、上に日用の支那語を書かしめ、諸將に頼布したるが如き周到なる用意が整へられて居た。

秀吉が外國と戦ふに先って日本精神の下に國民思想の統一を期圖したと見るべきことがある。夫れは耶蘇教の禁止令であった。宣教師及び信徒等は頻りに禁止令を解除せしむべく猛運動を行ひ、宣教師は直接秀吉に謁して懇願した。


〔秀吉宣教師に答ふ〕
 其の際秀吉は『貴設の如く那蘇教は歐洲に於ては善き宗旨ならんも、日本に在っては昔より神と佛の兩教ありて、三つも宗敎を有する必要なし』と答へた。宣教師は理の當然に返す言葉なく引き退った。其の顛末は酉教史の記述する所である。

 之を以て見るも、秀吉の思想が明かに窺はれるであらう。秀吉は四百餘年聞暴威を振ひたる佛敎徒の退治に大英斷を行ひたる信長の部將として、有ゆる體驗を持って居る。
 既に著しく日本化したる佛教でさへ、歴代の爲政者を手古摺らせたるに、外國人に直接布敎を許し、宗教上彼等に勢力を得せしめたる曉には、其の害毒の恐るべきものあること、龜トを俟たずして明かである。之を以て秀吉の耶蘇教を禁止したるは單に政治の上よりするも適當の處置としなければならぬ。


内田良平「日本の亜細亜」日露戦争

2020-03-07 09:13:31 | 内田良平『支那観』



 内田良平
「日本の亜細亜」
(237頁~243頁)



日露戦爭

〔露西亜の進出と支那の分割〕
 日戦後酉亞は三国干渉の報酬として北滿鐵道の敷設權を獲得し内伯利鐵道の豫定幹線を變更し、三十一年には、曩に露清密約を結び、攻守同盟の下に日本より遺附せしめた遼東半島の内、大連、旅順を租借し、滿洲全部を擧げて露西亞の勢力圏となし、彼が多年の希望たる不凍港を得るの目的を逹した。
 而して獨逸は膠州灣を、英國は威海衞を、佛蘭西は廣州湾を割取したで、支那は自ら保つ能はざる國状を暴し此の時日本の志士は支那保全を唱へ、遂に政府をして支那保全の國是を立つるに至らしめた。



〔挙匪の亂と日本の地位〕
 然るに列國が無法なる支那分割を決行したる結果、支那人をして排外熱を高潮せしめたのて三十三年五月、挙匪の亂突如として起り、北京に駐在せる列国公使館は包圍せられ、將に全滅せんとする危急に陷った。
 列國政府は大に驚き置に軍隊を増派して救援に努めんとしたけれども歐米諸國は本国と遠隔せるため、寡兵如何ともする能はす、日本の援助を求めたので、日本は直に大軍を發して列國軍を率ゐ、忽ちに北京を陷れて救援の功を奏した。英獨佛等の諸國は此の拳匪の亂によって、支那の領土を分割することの不得策なるを悟に至った。



〔列國の覚醒と支那保全主義の一定〕
 彼等は、日淸戦爭は日本軍が強かりしが故に勝ったのでてはなくして、支那軍か餘りに弱かりしが故に負けたのであると誤解して居たのである。然るに拳匪と戦うに及び、支那人が案外に強く且つ歐洲諸國は支那に出兵することの困難なるに反し、日露は出兵の容易にして迅速なるを體驗し、領土分割の方針を變せざるに於ては、結局日露をして優勢の地位に立たしめ、己れ等の不利に陷るべきを察し、直に豹變して支那保全主義となり、其の方針の下に拳匪の亂に對する平和條約を成立せしめ、公使館守備に要する各國の兵數を定めて、規定外の兵は、一年以内を期して悉く撤せしむることした。


〔露西亜の傍若無人と韓國政府〕
 然るに露西亞は、其の期限を經過するも、滿洲駐屯の軍隊を撤せざるのみたらず、三國干渉以來朝鮮に進出し來り、韓國の君臣を籠絡して日本の勢力を壓倒し、殆ど韓國の政治を左右することゝなった。其の大膽にして眼中日本なき外交政策は、全く傍若無人の概があった。
  而して此處に到った原因は、韓国政府が日本の恩義に背き、露西亞の勢力を利用して日本勢力を牽制せんとせしより起ったもので、支那の常套外交と其の就道を同じふし、且つ小國なるだけに、陰柔にして危險性を件ふて居た。



〔日本志士の奮起と閔妃〕
 明治三十一年、親露黨の一味は排日の暴擧を計畫し、將に發せんとするに先だち、日本志士の一團は、不意に宮中に入り、大院君をして政府の改造を行はしめた。


〔韓國皇帝の露国公使館潜幸〕
 此の混亂裏に、閔妃殺害せらるるの惨劇を生じ、皇帝の抱かれたる恐怖心に乗じ、親露黨は巧みに皇帝を欺き、王城を棄てて露西亜公使館に赴かしめ、韓國の政は露西亜公使館より出づるといふ始末となり、露西亜公使は、肯定を擁して勧告を支配する如き地位となった。
 數ヶ月の後、皇帝は漸く王城に還幸せられたるも、日本黨は影を潜め、日本公使の謁見さへ容易ならぬこととなり、十餘萬の居留民を有せる日本より、一人の居留民無き露西亜の勢力は隆々として旭日昇天の如きものがあった。


〔京都無隣庵の會合〕
 露西亞は、日本の外交が事毎に譲るに重ぬるに讓るを以てし、少しも彈力性を有せず、未だ嘗て自國の主張を貫きたることなきを見て、國民全體も亦た斯の如く意氣地なきものなるかど見縊り、其の結果滿洲と併せて韓國をも領有すべく企て、其の計書の卞に鎭海灣を租借せんとし、同地方の土地を買収し或は欝陵島租借を試み、鴨綠江の木材採伐權を獲得し、木材會社を起すなど着々として侵略の歩武を進め來りたるを見て、
 我が元老當局は、露國との外交開始に先ち、樞密院議長伊藤博文、總理大臣桂太郎、山縣有朋等は三十六年四月、京都無隣庵に會して窃かに熟議を遂げ、滿洲に於ける露国の權域を認むると同時に、韓国の我が權域をも認めしむるを讓歩の最極限とし、若し露国にして満洲を超え、韓國に侵略し來る場合には、国命を賭しても戦はざる可からすと決定し、次いで御前曾議を開き、外務大臣小村壽太邸をして露國に對して之れが談判を開始せしむることとした。



〔軟弱常習の外交〕
 露國との交渉は、滿洲撤兵問題より韓國問題に渉りて遲々として進まず、國論は日露開戦を主張して政府當局を鞭撻したが、軟弱常習の廟堂者中に於ては、無隣庵會議や、御前會議にて決定せられた讓歩の最極限をすら、更に讓りて韓國の大同江以北を以て露酉亞の權域と認むべしと主張するものあるに至った。
 其の議端なくも民間に洩れ來るや、不穩の形勢天下に滿ち邃に當局をして硬化せしめ、三十七年二月六日、栗野駐霪公使を以て宣戦を露国政府に通告し、茲によ日露の開戦を見ることとなった。



〔日露の開戦〕
 蓋し日本は未た露國が支那と攻守同盟の密約あるを知らず支那保全の上より、拳匪條約の規定に原きて滿洲撤兵を迫り、併せて韓國問題を協定せんとしたものてある。

 然るに露国の滿洲撤兵を肯ぜざりしは、支那が既に満洲守備の實權を霧國に附興して居たからであった。又た韓国問題に於ても露國は日本の讓歩に付け込み、漢江以北の地を己れの權域となすべく主張し來り、遂には鴨綠江を越えて龍岩浦に出ぞ、砲壘を築かんとしたので、三十六年十二月二十一日小村外務大臣が駐日露国公使ローゼンと會見し、露國政府に考慮を求めたのを最後として、茲に宣戦の通告を見るに至ったのてある。



〔全國民の憤慨と敵愾心〕
 日露の国交愈々斷絶するや、旅順港外に於ける露艦の襲撃、仁川港外に於ける露艦の撃沈等悉く我が國民の血を沸騰せしめた。維新前には一時は對州を占領せられ、屡々北海道、樺太を冒され、明治八年には千島と交換の名の下に樺太を奪はれたるなど、國民の憤恨殆ど骨髓に徹するものがあった。

 しかも露國の横暴は愈々出でて、愈よ加はり、曩には戦勝によりて獲たる遼東半島を以て、東洋の平和に害ありとして之を日本に還附社しめながら三れは平然取って之に代るのみか、朝鮮半島に迄も其の爪牙を延ばさんとし、市々として東洋侵略の野望を進め來りたる事故、此の傍若無人なる霹国の行動に對し、三國干渉以來、所謂臥薪甞膽一劒を磨き來りたる全國民の敵愾心は忽ち茲に爆發して、仁川港頭一發の砲聲と共に、海に陸に連戦連勝、遂に露國を屈伏して和議を講ぜしむるに至り、日本は一躍して世界一等強國の班に列したるのみならず、從來白人に征服せられたる有色人種をして、自人恐るるに足らずとの信念を呼び起さしめ、白人世堺に一大變化を起さしめんとする原因となった。



内田良平「日本の亜細亜」日清戦争

2020-03-06 10:09:50 | 内田良平『支那観』



内田良平
「日本の亜細亜」
231頁~236頁)

 

日淸戦爭

〔京城の暴徒我が公使館を襲ふ〕 
 日本は朝鮮と修交條約を結ぶや、京城に公使館を設けて國を聞かしめたが、朝鮮國王が内爭により、支那の兵力を借り來って攝政大院君を退けられたので、支那は其勢力を朝群に延ばし、日本の勢力を驅逐して朝鮮を其の屬国となさんとし、朝鮮人を煽動したる結果排日の氣風大に起り十五年七月、暴徒大擧して我公使館を襲撃するに至り、公使花房義質は、館員と共に纔かに逃るるを得、外國船に救助せられて日本に歸來した。

〔金玉均事件〕
 之れが明治十五年の朝鮮事變たるものであったが、十七年には、金玉均、朴泳孝等の開化黨が日本と結び、クーデターを行ふて國政を改革せんと謀り、事破れて支那兵、我が公使館の護衞兵と衝突し、公使竹添進一郎は仁川に退き、日本に引き揚げて來た。

 於此我が廟議は、伊藤博文を以て全權と爲し、李鴻章と談判して一段落を告けた。其時締結したる條約が所謂天津條約であって、其の内容は日清両國は朝鮮に軍隊を駐屯せしめざること、萬一出兵の場合は、豫め通告することと云ふにあった。


〔北洋艦隊の示威訪問〕
 其後支は、旅願蔵海衞に軍港を築造し、鎭遠定遠の大戦鬪艦を造り、北洋艦隊を組織して、武威東洋を壓した。明治二十四年、司令長官丁汝昌は北洋艦除を率ゐ日本を訪問して來た。其の目的は、日本を脅威するに在ったので、廟堂の當局等は愕然として驚き、歡待至らざるなかりしに係らず、北洋艦隊は到る處の寄港地に於て傍若無人の振舞をしたので、國民は切齒して憤り、其の長崎に上陸して暴行するや、市民は奮鬪して彼等を懲らしめ、僅かに国民の溜飮を下げしめたことがあった。


〔自由民権論の勃興〕
 朝鮮事件により清國と交渉せる外交問題も平和和的解決を告ぐるや、對外問題は專ら條約改正に移り、外務大臣井上馨、大隈重信等の改正計畫も相次で失敗に終り、政治は全く内爭のみとなりたるが、之れより先き、板垣退助は、征韓論にて廟堂を退きたれども國會開設の主張者となり、自由民權を唱へ、大に国の輿論を喚した。

 此の時に當り、政權の武力を以て爭ふ可からざるを體驗したる征韓論の殘黨は、悉く雷同呼應して國會開設を迫り、明治二十三年を期し、國會開會せらるべき御詔勅を拜するに及び、朝に於ては憲法の制定、野に於ては政黨の創設、言論機關の設備等、立憲政治に對する有らゆる準備に汲々たりしが國會は愈々開會せらるに至りたるも、國民の窮乏は少しも救はれす、負擔は却って壻大し、国家の隆盛亦た期し難きものあるを見て、國の志士は、今更の如く西鄕南洲等の卓見に感奮興起したのでてある。


〔帝國議會と政権争奪〕
 帝國議會は政權爭奪の機關に供せられ、政黨者は蝸牛角上の爭に日も維れ足らず、國權の伸張らせられざる、民福の増進せられざるは彼等の意とする所にあらす。官僚の徒は、英文を解し英語を半解すれは、立身出世疑なく歐化に心酔して隣邦を顧みず、大臣宰相は藩閥維持の外他念なく、薩長の提携を以て國家安全の基礎なりと心得、西南の乱後明治二十七年に至る十年間は、殆んど太平の観ありしも、

〔暗殺事件の頻発〕
 二十一年、憲法發布式の當日文部大臣森有礼の殺さるるあり、二十二年、霞が関に於て外務大隈重信の爆弾により傷きたるあり、二十四年、來朝せる露國皇太子の傷けられたる大津事件が有った。


〔東亜問題と志士の奮起〕
 之れより先き憂國の志士は、征韓論の精神を體し、支那朝鮮に入り、東亜の經綸に心血を注ぐもの少なからす、此れ等の志士は東亞問題に關する日本の指導者となって居たが三十七年に到り朝鮮に於て東學黨の變亂起り、其の勢ひは猖獗にして當る可からす清國政府は之を機として朝鮮を手中に收め、名實共に附庸國たらしめんとし、天津條約を無視し、日本に通告せずして出兵した。於日本も出兵して遂に日清戦爭となり、海に陸に連戦連勝、淸國を屈せしめ三十八年、媾和成って朝詳を獨立せしめ、朝鮮王は韓國皇帝となられ、遼東半島及び臺灣を割讓せしむるを得た。


〔三國干渉〕
 然るに支那は、露西亞、獨逸、佛蘭西の三國をして、日清媾和倏約の内容に干渉せしめ、日本が遼東半島を領有するは東洋の平和に害ありとなし、三國聯合の武力を以て日本を脅迫し、遂に遼東を還附せしめた。


〔支那の伝統的外交〕
 支那の行爲は、古より傳統せる外交政策であって、宋の時代に於ては、金より攻められ、蒙古と結びて金を滅亡せしむるを得たが、自國も次いで蒙古に減ぼされた。抑も眞の國家なるものは、獨立獨歩すべきものえ、列國の均勢や、夷を以て夷を制する的の他力本願によって存立すべきもでない。他國の力を借れば必ず禍を招ぐは、歴史の昭々たるものがある。然るに係らす日本と開戦せる責任者たる李鴻章は、自己の失致を糊塗する爲め、三國干渉を誘導して日本と締結せる講和條件の不利を一時輕減せしめたに相違なかりしも、其の結果は日本より取り返したるよりも幾十倍の大損害たる領土分割の端を開き、日露戦爭迄も惹き起して、遂には清朝自らを滅亡せしむるに至った。


〔日清戦争と條約改正の成立〕
 日本は三國干渉の屈辱を被り、外交には失敗したけれども、戦勝國の威名は世界に輝き渡り、其の結果從來の難問題たりし倏約改正の如きも、却て列国より申し込み來り、何等の力を用ひずして容易に對等條約を成立せしむることが出來たのみならす、商工業も亦た勃然として興り、國運の隆盛を招ぐを得るに至った。



内田良平「日本の亜細亜」歐化と條約改正、日清戦争

2020-02-11 22:29:16 | 内田良平『支那観』



 内田良平
「日本の亜細亜」
220頁~236頁)


 歐化と條約改正

〔條約改正と歐化政策〕
 西南の役平らぎ、大久保暗殺せられて後の正解は、恰も巨木伐採後における山林の如く、平々凡々雑木離々たる光景を呈し、政府者は歐洲文明の模倣に没頭し、遠謀深慮の経綸あるなく、思想的に歐化征服せられた結果、日本精神を喪失して、美風良俗漸次悪化し来たり、二重生活三重生活の不経済なる國民生活を營増しむるに至り、情弊の牢乎として抜くベからざる社會状態を現出せしめた。


〔歐化政策の醜態と條約改正の失敗〕
 而して對外卑屈の精神を以て條約改正の計畫を為し、治法権を撤せしむるには、文明の制度法律を完備しなければならずとなし、外人の習慣になりし制度法律を、其儘翻訳して之を施行、我が國民の利害関係など毫も剰さへ外人の歓心を買ふべく舞踏會を開き、上流の風俗を壊亂せしめ、上流婦人にして碧眼赤髪の児を生み、夫たる大臣仰天しせしめたるなどの醜聞を出し、

 我が國道徳の根本たる婦人の貞操迄外人に弄ばれながら尚ほ平然とし彼等の意を迎へ、條約改正を計ったが、利害の外に情實なき國際問題は如此き手段にて解決せらるるものにあらず、列國が承諾しなかったのみならず、興論の非難を受けて失敗し、次に企てられたる改正案は外人が我が司法権に参与せしむる條項ありて、満天下の激怒を招き、遂に霞が関の爆弾に遭ひて粉砕せられて終わった。


〔内治論の誤謬と征韓主義の實効〕
 國戚發揚られずして國権は伸張せらるるものてなく、國權伸張せずして國利民福は塘進せらるるものにあらず。内治派の政見は、根本に於て誤謬があった。條約は改正せられず、商工業は振はず世界に於ける日本の地位は支那以下の劣等国と見做され、露西亜よりは千島を以て樺太と交換せられ、支那、朝鮮には輕蔑せられ明治八年、我が雲揚艦は朝鮮の江華灣に於て無法なる砲撃を受くるに至っを。


〔雲揚艦の江華灣砲撃と日韓修好條約の成立〕
 艦長井上良馨之れを機として砲壘を陥れ武威を示したので、翌九年、漸く朝鮮と修交條約を締結することを得た。是に於て我國は征韓論の日的を達したのであるが、其の實政府は朝鮮問題が紛糾して、帝國の體面を踏み潰さるること愈よ烈しくなったのて不得止軍艦を派遣するに至った結果によるもので、初めは征韓論に反對しながら、遂には其の道を歩まなければければならなくなった其の無定見は、維新當時の岩倉、大久保とは全く別人の観がある。


日淸戦爭
 日本は朝群と修交條約を結ぶや、京城に公使館を設けて國を開かしめたが、朝鮮國王が内争により、支那の兵力を借り來って攝政大院君を退けられたのては其勢力を朝群に延ばし、日本の勢力を驅逐して朝鮮を其の屬国となさんとし朝鮮人を扇動したる結果排日の気風大に起り、十五年七月、暴徒大擧して我公使館を襲撃するに至り、公使花房義質は、館員と共に纔かに逃るるを得、外国船に救助せられて日本に歸來した。

 之れが明治十五年の朝鮮事變なるものであったが十七年には金玉均、朴泳孝等の開化黨が日本と結び、クーデターを行ふて國政を改革せんと謀り、事破れて支那兵が我が公使館の護衛兵と衝突し、公使竹添進一郎 は仁川に退き、日本に引き揚げて来た。


〔天津條約の締結〕
 於此我が廟議は、伊藤博文を以て全権となし李鴻章と直談判して一段落を告げた。其の時締結した條約が所謂天津條約であって、其の内容は日清両国は朝鮮に軍隊を駐屯せしめざること、萬一出兵の場合は、豫め通告することと云ふにあつた。
 其後支那は旅順、威海衛に軍港を築造し、鎮遠、定遠の大戦艦を造り、北洋艦隊を組織して、武威東洋を壓した。


〔支那北洋艦隊の示威訪問〕
 明治二十四年、司令長官丁汝昌は北洋艦隊を組織して日本を訪門して来た。其の目的は、日本を脅威するに在つたので、廟堂の當局等は愕然として驚き、歓待至らざるるなかりしに係らず、北洋艦隊は到る處の寄港地に於て傍若無人の振舞をしたので國民は切歯して憤り、その長崎に上陸して暴行するや、市民は奮闘して彼等を懲らしめ、僅かに國民の留飲を下げしめたことがあつた。


〔自由民権論の勃興〕
 朝鮮事件により清国と交渉せる外交問題も、平和的解決を告ぐるや、對外問題は専ら條約改正に移り、外務大臣井上馨、大隈重信等の改正計畫も相次いで失敗に終り、政治は全く内争のみたるが、之れより先き、板垣退助は、征韓論にて廟堂を退きたれども、國會開設の主張者となり、自由民権を唱へ、大に國民の與論を喚起した。

 此の時に當り、政権の武力を以て争うべからざるを體験したる征韓論の残黨は悉く、雷同呼應して國會開設を迫り、明治二十三年
を期し國會開會せらるべき御詔勅を拝するに及び、朝に於ては憲法の制定、野に於て致黨の創設、言論機関の設備等立憲政治に對する有らゆる準備に汲々たりしが、議會は愈々開會せらるるに至りたるも、國民の窮乏は少しも救われず、負担は却って増大し、国家の興隆亦た期し難きものあるを見て、憂國の志士は、今更の如く西郷南洲等の卓見に感奮興起したのである。


〔帝国議會と政権争奪〕
 帝國議會は政権争奪の機関に供せられ政黨者は蝸牛角上の争いに日も維れ足らず、國権の伸張せられざる、民福の増進せられざるは彼等の意とするところにあらず。


〔暗殺事件の頻發〕
 官僚の徒は、英文を解し英語を半解すれば、立身出世疑なく歐化に心酔して隣邦を顧みず、大臣宰相は藩閥維持の外他念なく、薩長の提携を以て國家安全の基礎なり心得、西南の亂後明治二十七年に至る十年間は、殆んど太平の観ありしも三十一年、憲法發布式の當日文大臣森有禮の殺さるるあり、二十二年、来朝せる露國皇太子の傷けられた大津事件があった。


〔東亜問題と志士の奮起〕
 之れより先き憂國の志士は、征韓論の精神を體し、支那朝鮮に人り、東亞の經綸に心血を注ぐもの少なからず、此れ等の志士は東亞問題に關する日本の指導者となって居たが三十七年に到り朝鮓に於て東學黨の變亂起り、其の勢ひは猖獗にして當る可からす、清國政府は之を機として朝鮮を手中に攻め、名實共に附庸国たらめんとし、天津條約を無視し、日本に通告せずして出兵した。於此日本も出兵して遂に日清戦爭となり、海に陸に連戦連勝、清國を屈せしめ二十八年、講和成って朝鮮を獨立せしめ、朝鮮王は韓國皇帝となられ、遼東半島及び臺灣を割譲せしむるを得た。

 然るに支那は、露西亞、獨逸、佛蘭酉の三国をして、日清講和條約の内容に干渉せしめ、日本が遼東半島を領有するは東洋の平和に害ありとなし、三國聯合の武力を以て日本を脅迫し、遂に遼東を還附せしめた。
 支那の行爲は、古より傳統せる外交政策であって、宋の時代に於ては、金より攻められ、蒙古と結びて金を滅亡せしむるを得たが、自国も次いで蒙古に減ぼされた。抑も眞の國家なるものは、獨立獨歩すべきもの列國の均衡や、夷を以て夷を制する的の他力本願によって存立すべきものでない。

 他國の力を借れば必ず禍を招ぐは歴史の昭々たるものがある。然るに係らず日本と開戦せる責任者たる李鴻章は、自己の失敗を
糊塗する為、三國干渉を誘導して日本と締結せる講和條件の不利を一時軽減せしめたるに相違なかりしも、其の結果は日本より取り返したるよりも幾十倍の大損害たる領土分割の端を開き、日露戦争迄も惹き起して遂には清朝自らを滅亡せしむるに至った。


〔日清戦争と條約改正の成立〕
 日本は三国干渉の屈辱を被り、外交には失敗したけれども戦勝國の威名は世界に輝き渡り、其の結果從來の難問題たりし條約改正の如き、却って列國より申し込み來り、何等の力を用ひずして容易に對等條約を成立止一しむることが出來たのみならず、商工業も亦た勃然として興り國運の降盛を招ぐを得るに至った。



内田良平「日本の亜細亜」明治維新、征韓論

2020-02-10 22:50:26 | 内田良平『支那観』

内田良平「日本の亜細亜」220頁~228頁)

 明治維新

 

〔勤王討幕論の擡頭〕 
 徳川幕府は外國に強迫せられて鎖国の門戸を聞き、母屋を潰さんとする騒動が起った。

 其騒動の起った遠因は、黒船の来航した嘉永より六十餘年以前の寛政時代に於て、早く既に幕府の存立を許されざるべき國論が少數の国學者志士等より主唱せられ、其の主張が國民の傅統的潜在意識たる琴線に触れて觸れて、強烈なる首響となり、防止することの出來ぬ形勢となって居た。


〔代表的先覺人物〕
 其の學者志士の代表的たる人物は、佐藤信淵、林子不、高山彦九郎、蒲生君平等にして、佐藤は天皇が世界を知ろし召すべき天職のあることを説き、窃に字内混合秘策を著はし、軍事的に世界を統一する用兵計書を立て、其の準備として日本の社會組織を改造する立案をなし、養老院、託児所、慈恵病院等を設備する必要あることより、

〔佐藤信淵の社会政策と『泉源法』〕
 大學校を設け、大學は大臣宰相を育成する所なれば天地神審祗を祭り、總長たるものの資格は宰相の上位に居らしむべしとなし、又た更に泉源法を著はして、全国民に毎日二時間づつ普通の勞働時間より永く働かしめ、其の収入金を擧げて貯金となし、社會公共資金に用ひて産業を起こし、内地の商業と外国貿易とを營むこととし、之を百年間蓄積する時は、數百億の巨額に達すべしと精密なる數字を擧げ、實行法を教へて居る。

 而して此の社會公共資金の所在金庫は、國家の兵を以て保護せしむべきものなれど、資金は役人に取扱はしむる可からずと戒めたる如き、實に卓見である。


〔佐藤信淵〕
 信測の志は、豊太閤を學者にした位に雄大なるもので、日本の社會改革を為し、財力を蓄へ世界を統一せんとする積極的経綸にあつた。

〔林子平〕  
 林子平は海外事情を研究し、海国兵談を著はし、其の計畫は消極的國防にあったが、對外的憂國の至情に於ては二者共に異る所はなかつた。

〔高山彦九郎〕 
 高山彦九郎は勤王を唱へて、同志を天下に求め、王政復古の秘密運動に從ひ、遂に幕府の注目を惹くに至り、志を齎らして自殺した積極的行動の先願者でてあった。


〔蒲生君平〕
 蒲生君平は同じく勤王の志厚く、山陵誌を著はし、王政復古の消極的運動を起こしたのである。北の後ち學者志士相継いで起り、勤王論と對外思想は、燎原の火の如く燃え壙がって居た。
 其處に黒船が来たのを動機として、天下の議論は二派に分れ、相爭ふこととなった。


〔尊王攘夷論〕
 一は尊王攘夷論にして、一は開港佐慕論てあつた。尊王攘夷論者中には、積極と消極とがあって、積極は王政復古世界一を目的とし、消極派は王政復古と外夷斥攘に在った。開港

 佐幕は、幕府を佐け外國と交通すべしとするもの、即ち現状維持者である。而してその中には少數の勤王開国論もあつたが、眞の積極論者は不可能なる攘夷を以て幕府に迫り、開港の責任を問ひ幕府を倒して天皇御親政の御代となし、進んで世界統一の経綸を行はんと志す傑出せる人物等であつた。

 然るに清極論者の多くは、只だ外國人を打ち拂ひ鎖国を継續せんと希望せるものであるから、若し幕府に攘夷の気力があれば、佐幕でも差支へなかりしものとせざる可からず。
 
尊王攘夷論者中には如斯積極と消極との抱負を異にせるものがあったので、他日廟議の分裂は、端を此に發したのである。


〔開港佐幕論〕
 次に開港佐幕論者は、維新後に於て攘夷論者の組織したる政府が攘夷を行はすして、外國と交通し歐洲文明を歡迎したるを以て、頗る先見の明ありし人の如く見らるるも、其の先見の明ありしにあらず、外國に強迫せられて止むを得ず開港條約を締結したに過きず、頗る意気地なしの結果に出たものである。

 故に各藩に於ける佐幕黨は、地位の高き大祿を有したる人に多く、之れが爲め黒の來た嘉永年間より慶應三年に至る二十年近き長年月を要して、漸く幕府を倒し、王政を復古せしめ得た次第である。

征韓論


〔征韓論の破裂〕
 王政復古によりて新政府は樹立悲られたが、其の中には積極と消極の攘夷論者や開国論者があったので、施政方針の上に、對外政策の上に、意見の衝突を免れざるべきは、豫想に難くなかったが、果せる哉、明治六年征韓の議起るや廟議二派に分れ征韓論者は悉く袂を連ねて朝を去り、政権は内治論者の手にられて仕舞った。


〔内治論の實體〕
 此天下の不平は諸所に於て爆裂し、七年佐賀に於ける江藤新不の亂、九年熊本の敬紳黨、萩の前原一誠の亂、筑前秋月の亂等引續いて起り、十年には薩摩私學校徒が暴動を起し、西郷南洲を擁して西南の大亂亂となった。

 内治論者は対外問題よりも内治を急務なりとし、先づ内亂を起こさしめて、政策の失敗を如實に暴露したるのみならす、明治七年には、臺灣征討の對外戦爭を起して、曩に征韓論に反對した自らの主張を裏切り、平然として無定見の政治を爲し、無方針を以て方とする政府の範を作り、未く国家の進運に禍した。


〔征韓論の精神〕
 西郷南洲等の征韓論は、直に韓國を討っと云ふのてはなく、韓国政府が維新以来我が使節を侮辱し國書を拒絶したるのみならす國民を煽動して排日を行ひ我が居留民の困弊甚だしきものあるにより、其頑迷を聡、新たなる修好条約を締結せしむることを以て目的とし、南洲自ら使節となり、韓国にして依然我が勧告を容れず、佛国と戦ひ、米國とも戦いひしが如く、萬一西郷使節を殺すことあらば、其の時初めて彼を討つべしとするのであった。 

 西郷が一身を挺して此の任に當らんと希望せられたる所以のものは、對外的對内的の両方面に関する大なる思慮が廻されて居た為と認められる。


〔征韓論の對内的考慮〕
 元来討幕の軍は、幕府が外國の強迫に畏縮し、朝命を無視して通商條約を締結したる問責から起こりしものなるが故に、明治の新政府たるものは、幕府の締結したる條約を継承して其儘何等為す所なかりせば、内は攘夷論者が積極者も消極者も共に不平を抱き、廢藩置縣等幾多の改革に伴ふ不平分子も、共に起って如何なる事孌を生ぜんも計り難き形勢あるを以て、

天下の人心を韓國問題に向かはしめ、内亂を未發に防ぐと共に、従来亜細亜の諸國を侵略し来った白人等が、其爪牙を東漸し来り、天保十一年鴉片戦争を手始めとして
支那の蠶食に着手し、更に朝鮮に迫り、次いで日本に殺到し来りたる勢力に對し速に東亜聨盟の基礎を作りて西力の東侵に對抗し、彼を制するに足るの實力を養ふにあらざれば、皇國萬世の安泰は期すべからず。


〔征韓論所論の論争〕
 加之のみならず、積極的攘夷の目的たりし皇謨を世界に光被せしむるの経綸は、遂に行ふ可からざるに陥り、殉國の先輩同志とも、地下に見ゆる顔なきに至るべきを憂ひ、深く國家の将来を慮り、一身を犠牲にしてこの大経綸を行ひ、同時に天下の士気を作興せんことを期し、心血を征韓の議に注がれたのであらうと思はれる。

 即ち西郷が征韓を主張したのは、其一面には内亂を未發に防がんとする意思も含まれて居たのであるが、それが容れられずして廟堂を去り、遂に亂徒に擁せられて自ら内亂の首領となり、之れに反して岩倉具視、大久保利通は内治を先にして國力を充實せしめんと欲して、征韓論に反対し、却って内亂を激發して江藤、前原、西郷を始めとし、國家の石柱樽多數の俊英を殺し、大久保亦殺され、岩倉は纔かに免かるるを得たるけれども、國家民人をして悲運のドン底に陥入れた。


〔征韓論破裂の結果〕
 世相の轉孌、實に不可思議の覿があるけれども、要するに治亂興廢の岐るる處は人に在るので、執権者たる岩倉、大久保等が歐米を視察して物質文明の盛大なるに眩惑せられ、歐化の霧中に聡明を失ふて歸つた為め、日本の國情を無視して横暴にも天皇御裁可済みの廟議を蹂躙したる結果、遂に彼の如き大國亂を惹起したものである。

 若し征韓論にして行われたらんか、内亂起らず、又日清日露の衝突も済んだであろうし、假令其の衝突や三國干渉の如き事件に遭遇したとするも、國運の隆興は慥かに二十年を早め得たと確信せられるのである。


内田良平「日本の亜細亜」粉骨砕身の功、日韓合邦漸く成る

2020-02-08 16:54:43 | 内田良平『支那観』



 内田良平
「日本の亜細亜」
  日韓合邦
(301頁~319頁)

〔統監府員の妄斷〕
著者は清本の好意を謝し、李容九と協議の上、各種の秘密書類を燒棄し衙ほ必要缺くべからざるものは他に隱匿した。然るに犯人を糺間せる結果、彼等の一團は風説の如く初李會長及び著者等を刺さんとしたが、李完用をも併せて刺すべしと主張するものがあったので、李在明なる者が之を決行したといふ眞相が判朋したので、一進會に對する嫌疑は茲に解くるを得た。
 之れは十二月二十二日の出來事であった。

 先是寔十二月十六日、著者は駐屯軍参謀長明石元二郎を訪ひて、合邦問題に就き相談する所があった。
 明石は著者と同鄕にして、憲兵司令官時代より合邦意見を抱懷せる人なので、密に著者を支援し、酉小門外ソンタクホテルに於て、屡々密倉して協議打ち合せをして居た。


〔明石元次郎と著者〕
一日、明石は著者に説いて日く、「方今合邦断行の機既に熟し、此の潮頭に乘じて成立せしめざる可からざるは何人と雖も之を知る。然れども千載一遇の大事を遂行するに當り、其の事に與り其名聲を博せんとするは、又た衆人の齊しく熱望する所である。
 然るに君は先づ身を挺して其の断行を策し、卓厲風發、世の視聽を聳動したるが故に、衆妬悉く君の一身に集ってゐる。今、君の爲めに、謀るに暫らく京城より身を潜め、東京に去るの意なきか。君は既に合邦の導火線に點火して、宿志の一半を遂げたのでてある。然らは餘功を世人に譲るは、是れ亦た逹士身を安んずるの道てはないか」と。


〔衆妬一身に集まる〕
 著者日く『將軍の高見は卑意と会致り。余は曾禰統監の態度に見て、合邦の速行し難きを知り、徐ろに謀る所あらんと欲して杉山に諮り、既に其の返電を得た。然れども統監は余に退韓の命を下さんとするものの如し。
 吾人が多年食を忘れて、日韓の根本的解決に力を盡し、合邦を提議せしめた所以のものは、一身一家の私を圖るが爲めではないのである。然るを統監の余に對する處置は、到底忍ぶべくもなきが故に、余は統監と共に倒れんと欲し、歸朝を念ふて尚ほ未だ退京せざる所以である』と。

 將軍日く、『退韓の件は左る暗影の潜みしことありしやも測られす。然れども吾人ある以上は、斷して這般の暗影を實現せしめじ。君は之を念頭に置くことなく、大勢進行の途を聞くべきである』と。
 余は是に於て日を期して歸京すべきを約し、十二月二十四日京城を發して三十五日朝下關に着し、同所に待機中の宋秉畯と會見して、京城の形勢を語り、協議の上三十六日東京に歸着した。

 十二月二十八日、龜井警視總監は、桂首相の内命により、著者を島森濱の家に招待し、慰勞の宴を張ってくれた。


〔杉山の名言〕
 著者は杉山茂丸に面會し、合邦提議以來の經過と京城の近状を述べしに、杉山日く『今回の擧は園碁に譬ふれば五日中手を打ったのである。如何に曾禰や世間が騒いでも、目潰しとなって居るから、大局上既に勝ってゐる。憂ふるに足らず』と。之れより杉山は智嚢を傾け谷邦進捗の途を打開するに苦心し、先づ第一着の仕事として、曾禰統監を更迭せしむべく首相を説き、歸朝の招電を發せしめた。

 然るに統監は數回督促を受けた後、漸く一月
に至りて東京に入り、首相とは一回會見せるのみにて片瀬の別莊に引き籠り、病を養ふこととなった。著者等は、曾禰の如き人物を長く統監の要職に常らしむるは、国家の大事を誤る所以なりとて、猛烈に其の罷免を元老及び當局に要求した。

 山縣公先づ著者等の要求を容れ、首相も更迭の外良策なぎを言明したが、議合開會中にて遂に遷延することとなった。而して此間杉山は二月二日、首相に迫りて合邦に關する覚書を得、一進會をして隱忍せしむることとした。


〔桂首相と杉山の合邦に関する覚書〕

       覺書 

 本日桂侯爵より拙者へ左の内訓ありたり。
(一)一進會及其他の合邦意見書は其筋に受理しめ、
    合邦反對意見は悉く却下し居ることを了解すべし。

(二) 合邦に耳を傾くると然らざるとは、日本政府の方針活動の如何にある事故、
    寸毫も韓國民の容喙を許さず。

(三) 一進會が多年親日的操志に苦節を守り、穩健統一ある行動を取り、
    兩国のめ盡瘁し來りたるの誠意は、克く了解し居れり。

(四〕右三條は、尚ほ當局の誤解なき樣、其の筋に内訓を發し置くべし。

右の内訓を聞くと同時に、拙者は一進會に左の事を聞陳すべし。
(一) 一進會の誠意は已に十分日本政府に貰徹し居れるを證すると同時に、
    頗る同慶の意を表すべし。

(二)一進會が政治を批議するの从態は、過慢放恣にして毫も保護国民の委なく、
    其の不謹愼の言動は頗る宗主国民の同情を破壞するの傾あり。

(三) 常に黨與の間に、動搖の状態を以て間斷なく空論に屬する政治意見を提け、
    總て不遜の言動を以て、政府の政治方針を己れの意見通りに左右せんとするの観を示すは、
    頗る戒飭を要すべし。
(四) 政治を論議する志士にして、官史に對する感情より常に慷慨を説くは、
    耳を傾くるの價値なきを自覺せらるべし。


 一進會にして、右等の事を知了せすして尚ほ言動を擅にせんと欲せば、
  推者と關係を斷ち、自由の行動を執らるは隨意たるべし。


   明治四十三年二月二日
      杉山茂丸

 是に於て吾人の運動は正に成功し、其目的は殆ど貫徹したるものである。


〔合邦の目的貫徹す〕
 當局者にあらざるよりは、是れ以上には進み且つ採るべき手段無きが故に、一進會が合邦請願書を上りて運動を開始したる目的は、此の一事に由りて其根本を決定したるものにして、著者等は總ての妨害反対に逆行して、遂に勝利の凱歌を掲ぐるを得たのである。 
 唯だ尚ほ著者等の任務として残存せるものは、曾禰の罷免と合邦の實行監視すること即ち是である。


〔曾禰統監の憤懣〕
 曾禰統監は片瀬に引き籠りたる以来、病骨を抱いて世評の面白からざると、元老大臣等の一人として病を問ふものなきため、憤懣の念に驅られて益々病勢を嵩進せしめた。杉山は曾禰と舊交ある小美田隆義をして合邦に對する曾禰の真意を叩かしむべく之を病床に見舞はしめた。


〔小美田隆義の訪問〕
 小美田は統監を訪ひ、雑談の末『合邦問題に関し、岡喜七郎や小松隆などの小役人を首相の許に使せしめられても、事宜を得ることは、出來ない。若し吾輩を副統監に任命せられなば、直ちに阻隔を通ずべし。吾輩の副統監は無月給にして辭令書の必要もない』との諧謔を交へた言葉に、統監は計らす胸中の秘懷を洩らして曰く、『合邦は豫て爲さヾる筈になって居る。


〔統監秘懐を吐露す〕
是れは伊藤公辭職の砌、公が桂と余と三人にて約束されたことである。韓国の現状、列国の關係、日本の内情との三者よりして、名を捨て實を取り置き、茲七八年間形勢を観るべしとの伊藤公の言に、桂も同意して外間の急進論者を防ぐことになって居たのに、過般來の合邦提議は、桂が命ぜるものか又は杉山、内田等が勝手に演ぜるものか、余は之を知らざるも、内田を處分せんとするも、桂が之を許さぬのは不可解てある。

 而して余に招電を發しながら、歸朝後一言も合邦の事に及はす故に當所に引き籠り居る次第てある。聞く所
に依れは谷邦の事は進捗しつつある模樣なるが、實に怪しからぬ事である』と、涙を浮べて憤慨した。
 是に於て小美田は曾禰を慰め、『好きことを聞かされた。早速首相に談じ、貴下の安心さるる様に取り計ふべし』とて直に歸京し、杉山及び著者に此の願末を語り、首相を訪間して三人密約の件を話したるに、首相は大に驚き「曾禰がそんたことを君に語ったか』と顏色を髪へられた。

 小美田は是に於て『曾禰さんが話さなければ私の知る筈もなきことにあらずや。曾禰さんは時勢の推移を知らす、伊藤さんさへ既に合邦を賛成するに至って居られたのに、尚ほ約束を守って今日の境遇に陷られたはの気の毒なれば、早く因果を論して辭職せしめては如何』と云ひしに、首相は承知して、『三人の約束一件は他に洩すな』と云はれしも、小美田は轉じて小田原に赴き、事情を山縣公に告げたるに、公日く、『曾禰は正直ものなれば密約を守って居りたるならを之れぞ什禰の不可解なりし行動も解った』とて、萩原通商局長、平井軍醫總監等を片瀬に遣はし、其の容體を見舞はしめられた。

 首相も曾禰の嗣子寬治に對し、『吾々の口より直接に明言し難きも、曾禰の病氣は甚だ重態で、回復至難のやうである。卿より懇々加餐を勸めよ』とて暗に挂冠を諷せしめられたが、曾禰は尚ほ辭意無き樣子であった。


〔曾禰統監の責任に関する質問書〕
此の如き形勢にて合邦は徒らに遷延さるるのみなので、著者は之れを憂ひ、政府の與黨たる中央供樂部をして統監の不信任を鴫らさしめなば、曾禰に取りて大打撃たるべきを信し、年來の同志たる秋田鯀選出代議士にして同供樂部員たる近江谷榮次に議りたるに、近江谷は大に之に賛したるを以て、左の要件の質問書を議會に提出すべく、同供樂部の總會に提議せしむることとした。

韓国統監の責任に關する質問主意書 
一、從來統監歸朝の場合は統監代理を置き、緩急の事務を處理するの例なりしが、
  現統監曾禰荒助君は朝已に二ケ月以上を閲し、
  代理を置かざるのみならす病軀任に耐へず、重職を曠ふするの觀あり。
  事局多端なる韓国の現状に對し、政府は之を放置するや否や』。

二、一進會が合邦の提議をなせし際、統監曾禰荒助君は、韓国大臣會議を開かしめ、
  其の提議を却下しめ、押し返し提議三回に及び、漸く之を受理せしめたり。
  「而して合邦反對の提議は當初より之を受理し、
   本邦政府の命令あるに及び始めて之を下せしめたり。

   統監の措置、其日本政府の方針と反封に出でたるは明確なる經過にして、
   當然其責任を負ひ、處決する所なかる可からず。政府は之を默認するや否や。

三、韓皇室と米国人コールプランとの共營なりし京城電氣事業は、
  曩に日韓瓦期會社の買收約束履行に際し、
  統監曾禰の嗣子曾禰寬治等瓦斯會社重役は、コールプランと共謀し、
  其日韓瓦斯會社より拂渡すべき金員をコールプラン獨自の手に攫取せむと擬し、
  韓皇帝の御璽を押したる文書を提出せしも、其御璽は形状を異にし、偽證の疑あり、
  之れが爲め今に同事件の落着を見ず。政府は之に對し如何なる處分を取るの方針なるや。

四、昨年初夏、宋秉畯の中樞院顧問親任の際は、李完用共代理として辭令を受領せり。
  而して今日に至る迄、辭令書及び俸給の下附なし。
  當然統監の管掌す可き大官の任命待遇に對し、是の如き現情に關し、政府は如何なる處分をなす乎。

    右及質間候也

 近江谷は以上の四箇條を提け、緊急動議として同總會に提出し、遂に之を通過して、宮崎縣選出肥田景之、熊本縣選出安達謙藏の両代議士と共に委員に選定せられたるが、其の手續は先づ首相に會倉見して質問を試み、首相が之を容れざるに於て、始めて議會の問題となすも未だ遅からずとなし、
 三月二十一日、貴族院室に於て、該委員は首相と會見し、質間の趣意を逾べたるに、首相は質間箇條を悉く承認し、曾禰統監の解職並に合邦の斷行を誓った。



〔上下驚動〕
此の會見顛末が翌二十三日の新聞紙上に公けにされるや、天下を擧げて驚動し、新聞界の輿論は掌を反すか如くに驚導し、翕然として合邦の急切なるを論ずるに至った。是より先、統監府より買収せられたる京城に在留せる新聞通信記者等は、請願書の受理せられし頃より其の論調を燮へ
『韓人の分際として合邦論を爲すは不都合なり。日本に必要あらば日本の考によりて併呑すべし』と勝手なる暴論を吐き乍らも、漸次に合邦の必要を唱へ来たり、又た東京にて、最初與論を指導せしむべく森山吐虹に依頼して組織せしめたる朝鮮問題同志會の如きは、合邦は最初よりの目的なりしも、是れ亦た一時著者に對する排擠より著者を苦しむるものありしが、著者は元來合邦を成立せしむるの外何等の念願なきものなれば、前年末京城より歸り爾來潜行運動を專らとし、表面に立たざるを以て尚ほ敵国視されては居たが、同志會は次第に悪感情を和らけつつ、熾んに民間運動に從事して居た。



〔山県公の曾禰解職勸告〕
而して當局の間でぞは、山縣公は、中央倶樂部委員が首相と會見した前日寺内陸相と相携へて首相を訪問し、曾禰解職、合邦斷行の二案を勸告された。
 是に於て後任者選定に關する問題となり、元老大臣の一致したる適任者は陸軍大臣寺内正毅と決し、寺内も合邦斷行の目的を以て之を承諾した。


〔寺内陸相 統監となる〕
 斯くて今は曾禰を辭職せしむるのみとなり、寺内をして曾禰を訪ひ、因果を含めて辭職の已むべからさる所以を説かしめ、終に辭表を提出するに至らしめた。寺内正毅が韓國統監に任命せられ、同時に山縣伊三郎が副統監に任ぜられたるは五月三十日であった。

 寺内新統監の京城に人るや、内部次官岡喜七郎、警務局長松井茂等、従來曾禰の手足となり合邦の大策を阻碍し居たる一派を罷免し、明石駐屯軍參謀長を以て憲兵警察を統制せしめたが、合邦に關しては豫備的準備を完成するに至る迄は、表面殆んど關せざるものの如き態を装ひつつありたるも、其準備成るや、萩に在りし宋秉畯を下關に出-でて、滞在せしめ、李完用にして若し合邦斷行の意なければ、急に床を宋を招きて内閣を組織せしめんとするの氣勢を示し、遙かに李完用を威嚇させた。

 斯の如き四圍の状勢を觀取したる李完用ハ、七月三十一日、北郊翠雲亭に於て、内相朴齏純、農相趙重應と密議を凝らし、合邦賛否に對する内閣の決心を定め、翌八月一日、新統監着任後第一回の閣議に臨み、越えて十六日李完用、統監邸を訪問し、寺内統監、山縣副統監と密談三時間餘に及んだ。
 此時統監初めて日韓合併の止むべからざる所以を説き、韓皇自ら進んで統治權を我が天皇陛下に譲らせらるゝは時宜に適應せる措置なるべきを提言した。


〔粉骨砕身の功漸く成る〕
李完用は曩にに決意せる所であったので、同夜直ちに閣議を開き、合邦實行を決議し、宮中に人りて合邦の巳むべからきる所以を伏奏した。
 皇帝は毫も之を呑まるる色なく、直に勅許を與へられたのでて、李完用は更に轉じて太皇帝に謁し、同じく合邦の議を奏請したるに、太皇帝も固より御覺俉の事とて、容易に之れを容れられたが、李完用出後、侍臣に向はせられ、『曩に一進會が合邦を提議せる時、臣等は死すとも這の売國の擧を敢する能はずと慣慨せるは彼れ完用に非ずや。
 然るに彼、今、何の顔あって朕に合邦の已むを得ざるを言ふや。然れども合邦は天命なリ。如何ともすべからず』と言び終つて慟哭せられたたと云ふ事である。

 茲に於て、日韓併合條約は八月二十二日に調印せられ、韓国皇帝の詔勅 日本天皇の御詔勅は八月二十九日に至って同時に發布せられ、著者等が多年粉骨碎身せる所のものは漸くに實現した。


〔總督政治の機構は希望を裏切る〕
 此の百難を排して成立せしめたる日韓合邦は、總督政治によりて統治せらる事となったが、總督政治の機構は主唱者等の希望を裏切りて、東亞聯邦組織の基礎とならざるのみならず、一進會百萬の大衆を満州に移住せしむる計畫さえも畫餅に歸したのであつた。

 始め桂首相は、李容九、宋秉畯の計晝であった合邦後一進會員をして滿洲に移住せしむる事業に就ては大に賛意を表し三百萬圓や、三百萬圓位の補助金は與ふべき旨を云はれて居たが、愈よ併合の曉となるや、一進會の解散は已むを得ずとするも、滿洲移住費の如きは一文も與へられなかったのみか、解散費として僅に十五萬圓を下附せられたるに過ぎす。

 即ち其の解散費は會員百萬人に分配する時は一人常り十五錢となるのであるが、七年間、多大の犠牲を拂ひ、奮闘の結果漸く目的を達して、合邦を成立せしめた其報酬が此の十五錢を得たに過ぎぬこととなるので、會員は悉く怨を飲んて四散し、李容九は病を得、四十五年の春轉地療養の爲め須磨に來たのであった。

 著者は此時恰も支那革命に奔走の際にて病を訪ふ能はず、四月二日に至って須磨に赴き病床を訪ふた。


〔李容九の晩年〕
 李容九は大に喜び著者の手を握りて曰く『我々は馬鹿でしたなあ」と。
 蓋し馬鹿を見たの意味てあった。
 著者は之を慰めて曰く
『他日必す顯あらん。今日の馬鹿は他日の賢者なるべし』と。
李容九大に笑ひ『解りました』とて、又た過去を語らす五月二十二日午前九時、遂に永民した。是より先き病危篤の報天聽に逹するや、勳一等を賜ふた。

 野人にして直に壹宰勳章を賜はった例は未聞の破格事なの-で、著者は此の優渥なる天恩の旨を枕頭に語り聞かせたるに、人爵の榮を知らざる李容九も、眞に感激の色を浮べ、『有り難ふ』と答へ、東方に向って拜伏した。


〔薄命の英雄失意の裡に逝く〕
 鳴呼薄命の英雄、彼は崔時享門下の麒麟兒にして東學黨の亂、慶尚道方面の主将となり、戦に傷き捕はれて拷問に足を挫かれ、僅かに死を免かれて北韓に逃れ、日露戦爭には教徒を率ゐて日本軍の爲に獻身的努力を爲し、次でて一進會々長となり、東亞百年の大計を策して、日韓合邦を主唱實現せしめたが、未だ其の志を得すして不歸の人となった。

 凡そ百年の大計は目前の成敗によりて之れを決せらるべきものではない。西鄕南洲等の大陸經綸は當時に敗れたるも、其の死後に於て着々實現されたる如く、李容九等の精神理想想とする東亜聯盟は、併合の目的達成後に於ける當局の無理解冷酷なる處置によりて頓挫を來したるが如きも、今日滿洲問題の解決印ち滿洲國の成立は、漸く其の一歩を進め來りたるものて、之れが全目的を逹成して、其の靈を慰めることは、著者等の常に責任を痛感するところである。


〔政府當局の刻薄と西洋思想の弊〕
 著者は茲に日韓併合を叙するに當り、一進會に對する我が政府當局の刻薄を記した所以のものは、是れ亦た西洋思想の弊害たる功利主義の結果に出でてたるものにして、明治以來朝鮮に支那に、常に斯くの如き事が行はれて來たのに對して、日本精神とは絶對に相反するものなることを明かにすると同時に、再び之れを繰り返さしめざらんことを戒しむるが爲めに外ならぬ。


内田良平「日本の亜細亜」日韓合邦(4) 李完用襲わる

2020-02-03 09:50:24 | 内田良平『支那観』



内田良平
「日本の亜細亜」
  日韓合邦
(288頁~301頁)


〔上奏文及び建議書提出の手續議定〕
 會を驅りて苟も一日を緩ふすべからざるに至らしめたるものあり、内田等の渡韓にして遲延せば、彼等は獨力事を擧げんとすとの電報頻々として來り居り、徒らに之を看過するに於ては、不測の變を生するを免かれざる勢となれるを以て、先づ内田を急行せしめ。次いで宋を派せんとする斤を報告し、且っ共の同意を求めたのてある。 


〔桂首相断然同意を示す〕
 首相は一時決を鈍らせ、居りたるも、茲に至りては断然同意を表せられたる旨、二十七日の夜、島森濱の家に於て、著者の送別と協議會とを兼ねて開きたる席上にて杉山から報告を受けた。

 著者は渡韓の途中、下の關に於て暴風雨に沮まれ、豫定より一日後れて三十一日乘船、十二月一日京城に入り、即夜淸華亭に李容九、武田範之、菊池忠三郎の三人と會合して、携帶せる合邦の上奏文及び建議書を李容九に渡し、之が提出の手順を議定した。蓋し建議書を武田の歸韓の際に托せざりしは、提出の機に至る迄内容を絶對秘密にする必要ありたると、我が政府當局との交渉纏まらざる裡に提出せらるることありては、大事を破る憂ひありたる為であつた。


〔李容九擧國一致の結束を圖る〕
 李容九は合邦運動を開始するに當り、擧國一致的ならしむべく三派の提携を成就し、基督教青年會、褓負商團體、儒生仲間等、有ゆる方面に亘りて同志を求め、在野の者は既に與國一致と謂ふべき準備を整へて居た。唯だ提携の直後より分裂すべき懸念があった。

 それは大韓協會の前身が自強會と稱する極端なる排日黨であって、韓皇譲位の際、暴動を起したる張本なりしため解散を命ぜられ、其の中の穩和分子と見るべき者等が大韓協會を組織したのであったが、協會の顧問大垣丈夫は、豫て自強會の顧問たりし人物で、自強會が決死隊を募って暴動を起し、韓国の大臣及び一進會長並びに同會顧問たる著者をも暗殺せんと謀った時、大垣は、著者を狙ふ決死除に教へて、内田は武術に達し、酒も嗜まず、油斷なき男なれは、刀劒を以ては敵し難かるべく、銃器を用ふるにあらざれば
目的を逹すること能はざるべしと云った由で一進會の密偵にして決死除に加はりしものが之を開き、大に驚いて本部に報告し來りたることもあった。


〔三派提携の妨害〕
 斯の如き人物が會禰統監の許に出入し、大韓、酉北の二會は自分の頤使に甘んじ居り、元來彼等は排日を敢てするものにあらざるも、内田等が一進會を率ゐて親日を專賣とするが故に之に反撥されしに過ぎずと説き聞かせ居りたるに、突如三派提携が成立したので、統監に對する面目を失ひ、且つ己の立脚地を失はんことを恐れ三派提携を破るべく捏造の材料を新聞通信員等に與へ、言論機關を利用して讒謗中傷を試みたの-てある。

 十月十日發行の萬朝報、時事新報、大阪毎日新聞等の紙上に、京城電報として、『三派提携の目的は日韓合邦に在りとふる者あれども、是れ日人雜輩の爲にする所ある流言に過ぎす、三派の迷惑尠からざるにより、其の首腦者等は凝議の上、之れが辯明に關する宣言書
を表する事となった』との記事を掲げたる如き、皆大垣の所行であった。彼は又た李完用、趙重應等に買收せられ、一進會の計畫打破を企て、其の手段として自ら一篇の馨明書を草し、大韓協會の尹孝定に交附して、彼の手より社會に配布せしめんとしたが、尹が諾せなかったので、

〔妨害運動に對する李容九の防止〕
 更に呉世昌、權東鎭の徒を説き、豫て三派間の意見交換を目的として組織せる政見研究會に提出し、一進會多年の宿題たる合邦論の基礎を根底より破壊せんと試みたけれども、李容九が全力を擧げて之を防止したる爲め、漸くにして事無きを得た。 


〔李完用反間苦肉の策を用ふ〕
 適ま伊藤公の国葬に參列した一進會の副會長洪肯燮其の他の人物が東京より歸來し、李容九が東京に在りて日韓合邦運動を開始せんとする計晝あるを傳ふるや、之れを聞き込みたる李完用は大に驚き、一進會の目的は全然首を日本に渡すものなりと揚言しつつ、一方大垣及び愈吉瀘等を使嗾して反間苦肉の策を用ひ、大韓協會を攪亂した。此に於て大韓協會よりは一進會に封し、曩に政見研究會に提出せる大垣の手に成りし聲明書發表の督促状を發すると同時に、該聲明書の全文を韓譯して其の機關紙大韓民報に掲載した。 

 李容九は大韓協會を失ふも、西北學會とは、首腦者たる鄭雲復と堅く結合せるものあり、其の他の團體に至っては、少しも動搖せしめざるべく、結束を堅め居ることなれば、著者の來着を待ち、三派提携を断絶すると同時に、合邦請願書提出の準備を整へて居たのてある。 


〔一進會合邦上奏文を可決す〕
 十一月二日、武田は一進會中の能文家崔永年と共に、合邦の上奏文其他の字句修正を行ひ、李容九にも熟讀せしめて愼重に協議する所ありしが、僅か二三句を刪正したるのみにて之を終り、能筆家たる崔永年の子息をして、一室に籠居淨書せしめた。三日、一進會は三派の提携を断絶すると同時に、本部に於て大會を聞き、合邦の上奏案を討議し、滿場一致を以て一気呵成的に之を可決した。李容九は著者等が大倉の結果を待ち居りたる清華亭に馳せ來り、欣然として之を報じ、共に祝杯を擧げ、旅館天眞樓に歸宿した。


〔上奏文及び請願書提出〕
 十二月四日、一進會は愈々會長李容九外一百萬人の名を以て、韓国皇帝陛下及び韓国統監曾禰一、總理大臣李完用に對し、合邦に關する上奏文及び請願書を上った。此日、一進會は合邦の聲明書を機關新聞たる国民新聞の附録として普く配布した。


〔民間団体合邦賛成の聲明書を発表す〕
 一進倉の合邦提議を爲すや、褓負商團即ち大韓商務組合七十三萬人は季學宰を、漢城普信社二千二百四十名は社長崔品圭を代表とし、又た各道の儒生團體並に耶蘇教徒の一部も、鑟々として合邦賛成の聲明書を發表し、李容九が多年苦心して聯絡したる同志は悉く起ち上り、遂に国民同志賛成會が組織され、會長李範賛、副會長徐彰輔等も亦た合邦賛成の請願書を曾禰統監、李總理に提出するに至った。


〔李完用等内閣派の意圖 〕
 一進會が迅電疾風的に合邦請願書を提出するに至りたるは、三派提携斷絶の急に迫られて居た爲めのみならす、更に他の強敵たる李完用等内閣派が計畫せる攪亂策の裏を掻く策戦に出たのである。


〔桂首相の言明〕
 是より先き趙重應が伊藤公の葬儀に奓列するや、桂首相を訪ひ、告ぐるに李完用に一進會解散の意あるを以てしたるに、首相は『一進會は解散せしむる理由なし。韓国の事は統監の權限に屬するも、總理大臣は更に之を監-督するの権限あり。故に余は總理の資格を以て、解散の斷じて行ふ可からざるを答ふ』と云はれ李完用の計畫圖に外づれたので一進會に對して愈よ合邦建議提出の擧に出て來る時は、之を受理すべきか却下すべきか却下するも、日本政府の意圖此にあらんか、遂に内閣辭職の止むを得ざる窮地に陷り、一進會をして取って代らしむることとなるため、速かに同會を解散して、其の患を除かんと欲し、曾禰統監を使嗾して目的の達成を計って居たので、此の計畫を知りたる李容九は、機先を制して合請願を提出したのてあった。


〔一進會の持重〕
 李完用は之を見て大いに驚き、彼の兄李允用及び宮内官吏等を中堅とし、最近組織せしめたる政友會をして、十二月五日を期し、國民大演説會の名の下に一進會攻撃の演説會を聞かしめ、一進會員の必す憤慨して妨害せんことを豫期し、無賴漢を驅使して大爭鬪を起さしめ、治安を妨害すとの理由の下に、行政處分に依りて一進會を解散せしめんと計書した。然るに李容九は一進會員嚴戒して其の術中に陥らしめなかつた。 


〔韓人擧つて合邦を賛す〕
 合邦間題に關し、韓国在野の人士は擧って之れに賛成し、排日の結晶と見るべき諸團體に至るまで殆ど反對の聲を發せず、唯だ極力反對の運動を起こせしものは李完用の御用黨のみで、之れは當然過ぎる程當然の行動とせなければならなかった。然るに茲に不思議の現象とも見るべきは、最も合邦を歡迎しなければならぬ筈の日本人側より、驚くべき反對非難の聲が一齊に擧げられたことである。


〔京城に於ける日本記者の態度〕
 京城に於ける日本の新聞記者及び通信記者等に對し、合邦の上奏文捧呈の當日、著者は李容九に代り、彼等を天眞樓に招待して其の顛末を發表せしに、一同意外の感に打たれ、其場では遽かに可否を言はなかったが、翌日に至りて反對の鋒鋩を現はし來り、捏造虚構の通信を亂發し、果ては著者を目するに策士を以てし、人身攻撃をなすに至った。

 著者は自己の水平線下に居る地位も顧みず、徳不徳も念頭に置かず、合邦の一事のみは、国家百年の大計にして、東亞民族和合興隆の礎となるべき事業なれば、本問題が、縱令何人より主唱せらるるとも、日本人側に於て異論の起るべしとは、全く思ひ設けざりしことなので、聊か面食らひの感なきにあらざりしも、豫て一死を賭して着手したる仕事なるので。此等の反対を顧慮せず、一意邁進することとした。


〔一新聞記者の暴論〕
 此時新聞記者等が合邦反對の態度に出て來つた原因は、統監府の扇動に出でたるものであつて。時事新報特派員某、大阪朝日新聞特派員某の如きは『内田が一進會をして合邦提議を爲さしむるに當り、先づ吾人に謀らざりしは不都合なり。斯かる策士は葬らざる可からす』と云ふが如き暴論を吐きて憚らぬやうな状態となった。


〔正論代表の記者團〕
 蓋し之れ等は統監府より買収せられたる多數の記者等が、内田排斥の空気を作った結果であったが、此の悪気流中に立ち敢然として著者を支援せる新聞社通信社関係の萩谷籌夫、山道襄一、井上信、小幡虎太郎、井上堅、細井肇、前田學太郎、高村謹一、平岩佐介等の国家的崇高たる情義に至っては、著者の忘れんとして忘るる能はざる所である。

 日本人側の反對氣勢が上述の如く頗る盛んなるを見て、李完用は此の機に乘じて大演會を開き、一進會を正面より攻撃せしめんとしたが、有鑿の曾禰統監も、此に至りて默過する能はざりけん、平和を害するものと見倣し、印刷物の配布を禁ずると同時に、演説會及び其の他の集會をも併せて禁止せしめたので、李完用派の運動は是より頓に内面的となった。
 會禰統監は初め合邦請願書を却下すべく決心したが、重大なる事件なれは桂首相に其の意見を問ひ合せたるに、首相より『-受理すべし』との命に接したのて大なる矛盾に陷り、自ら處すべき途に窮することとなった。


〔合邦請願書の受理と統監の窮境〕
 彼は既に新聞通信員等を煽動し莫大なる機密費を振り撤き、猛烈なる合邦反對の氣勢を揚げしめ居ることなれば、今茲に請願書を受理するに於ては、賛成行爲となるのみならす、軈て合邦を實行せざる可からざる前提となり、直に自己の進退を決せなければたらぬ破目にるのであったが、統監は請願書を受理して、尚晏如たる態度を示してゐた。


〔李完用の心事を洞察して合邦の前途を楽観す〕
 李完用は統監の態度を見て、始めは請願書を却下し、却下すれば又た提出し來り、押し返すこと兩度に及びたる後、統監の受理に決したるを知るや、遂に之を受理することとなった。此に於て著者は李完用の心事を推測し谷邦の前途を楽観するを得た。甞て著者が宋秉畯、杉山茂丸と三人協議の節、杉山は『一進會内閣を組織して合邦の局に當るは下策なり。李完用をして之に當らしむることこそ上策なり』と云った。
 
其時宋日く『李完用の恐るる所は一進會に内閣を取らるるに在り。彼の最も恐る、所に乘じて事を爲さば、合邦固より容易なり。故に合邦を提議し、彼にして反對行動に出づるあらば、合邦の賛否を云々するに及はす、統監は紛擾の責任を問ひ、辭職せしむるの意を仄かさば、彼より進んて合邦案を持出し來るであらう』。


〔宋秉畯の眼光〕
 著者は之に賛し『我が見る所も然り』と云ったことがあるが、宋の眼光は克く李完用の肺腑を透視して居たのであった。機敏なる李完用は、早くも日本政府の意向を察し、請願書を受理するに至ったのである。是れ著者が前途の光明を認めた所以で曾禰統監の無能さには今更の如く驚かされた次第でてあった。


〔暗殺計画洩れ来る〕
 十二月十九日、一進會警務部の偵察員より、『舊自強會系の間に一進會長及び内田を暗殺する計畫あり、警成を要す』と知らせて來た。著者即ち李容九に對し、『僕の身は軽し。君の一身は重し。若し萬一のことあらば、合邦運動は根本より覆さるる恐れあるを以て、一切外出する勿れ。外出の止むを得ざる場合は護衛を嚴にせよ』と戒めしに、李容九日く『不平の肉塊を何時まで保存するも、不平は益々増大するのみにて毫も減退せず不平を併せて殺しくるるものあらば、此の身を與へん。然るに今は不平を亡ぼす時にあらす。貴命に從はん』と。


〔刺客の出没〕
 其の頃著者は天眞樓を引き揚げて自宅に起臥してゐた。自宅は北部齊洞の丘上にあって、附近には未た日本人の居住するものなく、毎朝韓人の人車に乘り、竹洞なる李容九の宅に通ったのである。
 二十日の日に雲蜆宮の附近四迂の所に通りか、ると、一韓人が車上の著者を窺はんとして接近し來り、著者が之に眼を注ぐと、忽ち立ち去ったが、斯の如きこと三日間に及んだ。 


〔李完用襲はる〕
 初は警察の探偵ならんと思ひしも、擧動に怪しき點あるのて、李容九に『先頃の刺客説は事實なるやも測られず、用心に如くはなし』と對談中、金時鉉なる者が飛び込み來り、「今此處に來る途中、明治町佛蘭西教會堂の坂の中途に於て、李完用が刺客の爲めに襲はれし光景を目撃して來た』と知らせた。李容九は之れを聞き『兇行者の何者なるかは未だ詳かならざるも、一進會員激昻の際と云ひ、殊に反對派より吾々を殺さんとするの風説がある際故、多數なる會員中には、或は血氣の徒ありて、我より手を下したるやも知る可からす。若し斯かることありては一大事なり』とて、頗る憂色を浮べ居たる折しも、憲兵隊特務清元熊蔵が訪ね來り、密に著者に告げて日く、『李完川刺客に襲はれし報告に接し、統監は極度に驚き、長官石塚英蔵は一新會の所爲なりと速斷し、警察に會員の檢擧を命じた』と。



内田良平「日本の亜細亜」 日韓合邦(3) 伊藤統監暗殺の影響

2020-01-31 11:01:17 | 内田良平『支那観』



内田良平
「日本の亜細亜」
  日韓合邦
 (272頁~287頁)

〔辭職同盟を結び統監を動かす〕
伊藤統監の辭職は豫て吾々の期待せる所-てあって々縷々之を勸告せしも用ひられず著者は宋秉畯と辭職同盟を結び、伊藤統監をして辭職せしむべく計書したのである。吾々兩人が辭職すれば、統監も辭職せらるべき關係が存在して居たのぞあって、知遇を被った伊藤統監に對し、其の辭職を希望し、之を勧告するに至った理山は、伊藤統監の在任中は、日韓合邦の大事を決行せしむら能はきる事情の潜在するを認識したからである。


〔合邦と支那革命の関係〕
 著者が斯くの如く日韓合邦を急いだ所以は、支那革命の機運既に熟し機運既に、数年を待たずして勃発すべき形成にあるを以て、支那革命に先立ち合邦せざるに於ては、韓国の人心支那革命の影響を被り、如何なるなる變化を生ずべきか測るべからざるものあるのみならす、満蒙獨立の経綸も行ふ可からざることとなるべき憂ひがあった。


〔抜本的對韓方針〕
 故に統監に對し支那革命の切迫せる形勢を説き、扱本的對韓政策を進言すること再三であったが、只だ聽き置かるる程度で、當初より立てられたる政策は少しも變更せらるべき模樣なく、千載一遇の好機を逸せんとする虞れあるにより、縱令知遇の恩に背くも、国家百年の計には換へ難しとなし、茲に統監の辭職決意せしむるに至ったのてある。

 宋柔畯は辭職後東京に留り、李容九も滞在して居て、三人協力合邦運動に導心從事する一面、著者は『淸国動亂の機』と題する意見書を執筆し、之を朝野の人士に頒布して支那革命の日前に迫れる理由を具體的に説明し、注意を促し。


〔元老大官の合邦賛成〕
 又た中央亞細亞の精密なる地圖を製作發行して、東亞聯邦組織の理想を現實的ならしむべき準備を整へ、樞密院議長山縣有朋、總理大臣桂太郎、陸軍大臣寺内正毅等の元老當局を説き、日韓合邦に對しては、殆んど異議なきに至らしめた。而して伊藤統監は愈々辭職を決せられたが、後任者を定むるに就いて行き惱みを生じた。

 宋秉畯及び著者は、副統監曾禰荒助の如き凡庸愚劣なる人物を以て統監足らしむるに於いては一進會は断じて反対運動を開始すべしと主張した。伊藤統監も最初は曾禰を後任者に擬し、韓帝廃立後は副統監制を設けて曾禰を推薦せられたのてあるが、彼の闇昧なるを知って、後任と爲すことを躊躇せられた。



〔杉山茂丸の調停〕
 斯の如き折柄、一進會側の反封の聲を聞き、容易に決定さるるに至らず遷延しつつあった時、著者等と元老大臣間の連鎖となり、合邦運動を援助せる杉山茂丸は桂總理と謀り、曾禰荒助と李容九、宋秉畯及び著者間の問題を桂の代理とも調ふべき關係あれば、統監就任の上は、必ず合邦問題を解決せしむべしと云ふ桂總理の保證條件にて説得され、著者等は大に滿足して上京中の會禰と會見することとなり、遂に韓国統監の更迭を見るに至った。

 伊藤公の統監を辭し、曾禰荒助に替らしめんとするや、最後の仕事を計畫した。夫れは韓国の司法權を委任止せしむる一件てあった。宋も著者も之れに對する諮問を受けたが、宋は手を斬り、目を抉ぐるが如き虐殺手段を執らずとも、韓国は首を延べて断頭を待って居る。 『何そ快刀一揮せられざるや』と答へ、著者は司法權の委任に關して、「一進會は賛成もせす、反對もさヾる可ければ、何等顧慮せらる必要なし』と答へた。

 李容九は統監の更迭と合邦問題局面の展開とを認めて歸国するに決し、六月四日、伊藤公は李の爲めに霊南坂官邸に於て催されたる大なる逡別宴を開かれ、桂總理、寺内陸相等の大官も出席し、李はこの懇篤なる待遇を受けたことを感謝して居た。



〔伊藤公韓國を去り會禰新統監となる〕
 かくて李容九は歸國し曾禰新統監も赴任され、伊藤公は韓皇室其他に訣別の爲め渡韓せられ、此の機會を以て、豫定の通り司法權を委任せしめ、四年間在任されたる韓国の山河を後にして、堂々歸朝されたのである。京城に歸った李容九は韓國在野黨の全部を擧けて合邦に賛同せしむべく、一石二島の謀略を廻らし、其の計書を實現せしめた。 

 李容九の計書は、李完用内閣の横暴に憤りたる西北學會及び大韓協會と提携して内閣攻撃を開始し、李完用内閣を打倒して一進會内閣を組織するを得れば最も好都合なれども、若し若し内閣を打倒する能はさる時は、二派の者を激せしめて、合邦運動に出づるの止むを得ざる勢に赴かしむべく、兩派の中に於て、李容九に心を寄せたる同志の士と策謀し、三派提携の議を縟め、著者と宋秉畯との渡韓を促がして來た。


〔三派の提携〕
 著者は宋秉畯、杉山茂丸とも塾議を重ね、桂總理及び伊藤公を訪ひ、李完用内閣打破の挙に出でんとする三派提携の成立せる事情を述べ、此の時此の際、彼等を利導して我が用を爲さしめざる可からざる所以を力説し、九月十六日、著者のみ渡韓することとなり、十八日京城に着し、直に李容九と要務を議し、二十三日、曾禰統監を訪間した。

 其の時、統監は、『三派合同は政權爭奪の爲めならば、固より賛する能はざるところなる、若し之に反し、齎らす所の大賚あらば歡んで之を迎ふべし』と云った。



〔存外なる土産〕
 著者は之に對し、『如何にも存外なる土産あらん』と語って辭去し、三派合同の懇親會に臨み、三派提携は茲に成立した。二十五日、李容九の母堂が時疫の爲め遽に逝き、至孝なる李は喪心せん計りの悲哀に沈み、且つ一週間も外部との交通を斷せられた爲め、慰問することも出來ぬ不幸に遭遇した。此の日杉山茂丸の派遣した菊池忠三郎が來着した。

 菊池は豫て統監より一進會に附興せられた授産金の事に就いて渡韓したのでこの授産金は二十六萬圓の内十萬圓は伊藤公の在任中下附せられ、殘りの十六萬圓は新統監の手に保管せられて居たのを、杉山に於て監督すべき條件にて交附せらるることとなり、菊池は其の會計監督として來たのであった。然るに李容九は隔離せられて面會することを得ず、菊池は著者に向って會計監督の方法を間ふた。


〔會計監督の要諦〕
 著者曰く、「韓人に交附せる金錢の取収支を監督する如きは寘に無用のことで、彼等の感情を害ふに過ぎず余は従來、金錢利用の大本を指示するに止め、未だ曾て收支の末に留意したことなし。只だ大目的に向かって一新會を指導すれば足ると思ひ居れり。區々たる金錢の収支に容喙すべきに非す。君宜しく一進會の報告を鵜簽みにする覺悟を以て監督せよ』と答へたるに、菊池は之に賛し、この方針に従ひ、日韓合邦を成立せしむる上に大なる貢獻者となった。

 二十七日、韓國駐屯軍奓謀長明石元二郎を訪ひ、三派提携の經過を陳べて合邦の序慕に入りたるを告げ、彼の援助を約して歸り、十月一日、明月館に於て三派聯合會を開き、三日京城を出發し歸途に就いた。



〔断乎合邦に向って進む〕
 著者は歸京後直に杉山茂丸及び宋秉畯と兪見し、形勢此處に迫りては最早躊躇すべからざるを以て、斷然合邦に向って歩武を進むべしと協議一決に及び、具體的合邦案を以て當局を説くこととなつた。時に伊藤公の滿洲出遊の擧あり。


〔伊藤公決意を示す〕
 之れに先だち著者は大森に公を訪ひ、三派提携の現状及び合邦の斷行し得べき所以を述べたるに、公は意外に『余も爾か思ふが故に、先日の樞密院會議に於て、韓國處分期の到來せることを説きたり』と言はれた。公の口より初めて此の決然たる意見を聞き、大に喜び話頭を轉じて滿洲行の危險なるを注意したるに公は、『韓人にして余に危害を加ふる如き愚擧を取てするものあらざるべし』と笑って意に介する所がなかった。

 杉山は又た伊藤公出發前に於て、桂首相を三田邸に訪ひ、三派提携の顛末を報じ、合邦の機迫れるを論し、首相の不同意ならざる色を見て更に言を進め、『我にして既に此の意あらば、彼等は必ず合邦を請ひ來るべし。其の際首相は如何に處せんとするか。』
 首相曰く、『果して然るを得ば實に是れ良策にして、列国も亦た異議を挾むの餘地無からん。』 杉山曰く、『然らば此の方法を以て決行せしめん。』


〔桂首相合邦に賛す〕
 首相曰く、『合邦の實行には自ら其時期あり。猪突猛進して累を生ぜしむる勿れ。』杉山曰く『時期に至りては一に首相の指揮に従はん。唯た合邦断行の決意を爲せば足れり。』首相家曰く『然らば可なり』とて議漸く決した。


〔合邦建議書の起草〕
 是に於て杉山は、歸路芝區町なる宋秉畯邸に到り、電話にて著者を招き、三人鼎座の上、右の顛末を語り、且つ曰く『君は宋君と共に合邦建議書の案文を草せよ。余は乃ち豫め之を桂首相に提示し、首相をして期に臨んで變心せしめざるを期すべし』と。
 余即ち宋と上書の大綱を談合して宅に歸り、川崎三郎、葛生能久の兩人を招き、三人攻究の末、韓国皇帝に上る書、統監に上る晝、及び幃国首相に上る書の三通の文案を草し、宋秉畯に一一覧せしめ、異議なきを以て杉山に渡したるに、彼は佳なりとし稱し、轉じて桂首相に提示した。 



〔懸隔せる主張の統合〕
 宋秉畯は合邦提議の方法を決定する必要あるより、頻りに李容九と書信を往復して内容の説明を爲したるに、李容九の主張と頗る懸隔を生じたるを以て、著者は『合邦の内容は日本天皇陛下の叡慮に依って決すべきものにして、韓人の上るべき合邦建議書中には之を記載すべきものに非す』となし、此の意を傅へたるに、李より『君等の意思は之を解するのみならす、僕も同意する所なれども、今説くに皇帝の廃位、内閣破壊等を以てせば、多くの賛成を得んことは至難である。
 僕は一人でも賛成者の多くして勢力の強盛ならむことを欲し、敢て此の要求を爲す所以でてある」と答へて來た。



〔合邦の大標題を掲げて解釋を自由に任す〕
 李容九の要求は同より至當であって、彼は百萬の會員を率ゐ、且つ大韓協會西北學會以下雑駁なる黨派團體を糾合し、合邦の大目的に向って歩武を進めしめんとするものなれば、所調合邦なるものは如何なる形式を具備するものたるか、之を説明して首肯せしめることは洵に至難の業であり、
 宋秉畯も亦、衆人をして釋然諒解せしむべき説明を書信に依って通ぜんとするは益々困難なるを以て断然説明を廢し、単に合邦の大標題のみを立て置き、之を聯邦と解し、或は政權委任と釋くものあるべきも、それは總て各自の解釋に任せ、彼等を統率し節制して進行せば、結局統治權全部の授受を完成するを得べしとなし、此の旨を以て李容九を同意せしめた。



〔伊藤公暗殺事件と其影響〕
 十月二十六日、伊藤公暗殺の報突如として哈爾賓の天より飛來し、朝野愕然として一大衝動に襲はれ、之に關する衆議は紛々として起った。然かも此機に於て合邦を斷行すべしと唱導せるものは、一大阪毎日新聞ありたるのみにて、他は多く公の遭難を悼み、刺客安重根の兇悪を憤るに過きす、桂首相に至っても豹雙せんとするものにあらずやと見らるる態度あり、廟堂の内に於て早くより合邦を希望せる山縣公、寺内陸相の如き人々も、尚ほ多少躊躇の色あるに至った。


〔合邦躊躇の事由〕
 蓋し諸當局が併合實行に躊躇したる所以のものは、是より先き日漬日露の兩戦役に際し、韓國の獨立を扶植すべき御詔勅のあるあり進んで合邦する時は、聖徳を損ひ、列國の抗議を招來する憂ひあり、之が爲めには指導權を墨守するの外なしとして、根本的解決を爲す能はざる事情に在ったので、著者は韓國より合邦を提議せしむるに於ては、列國をして異議を挿む餘地なからしむるのみならず、以て聖徳を發揚せしむるに足るものであるとの見地から、爾來四年間寢食を忘れて韓人を導き、漸く之を實現し得べき大勢を作り、初めて合邦の手段方法を説明し、首相等を賛成せしむるに至ったのでてある。 


〔合邦實現絶好の時機〕
 然るに今日に及び、首相の合邦の提議に逡巡の色あるは憂慮に堪へす此機會を以て合邦を斷行するは絶好の時機なるのみならす、伊藤公の死を有意義ならしむるものなれば、此際飽く迄之が断行を決せしめんことを期し、恰も伊藤公の國葬に派遣せらる、一進會副會長洪肯燮をして、京城より武田範之利尚を同件歸朝せしめ、武田をして合邦の建議書を草せしむる爲め、宋と協議の上、其の電報を發した。武田は著者と天佑俠以來の同志にして博學且つ韓国流の漢文を書くことに於て一人者であった。同人の漢文は韓人が之を讀んで、日人の筆に成ったと観るものなき程の文章家である。


〔武田範之合邦請願書を漢譯〕
 武田の着京するや、曩に杉山より桂首相に内覧同意せしめたる合邦請願書の草案を示し、原文の意を以て漢文となさしむる爲め、芝浦竹芝館に居せしむること一週日の後、上奏文及び韓国統監に上る書、總理大臣李完用に上る書の三通を脱稿し、準備は茲に全く完成した。


〔朝鮮問題同志會会の設立〕
 然かも首相の心中ほ疑はしき點あり。合邦請願の後、廟堂諸公にして變心することあらんか、一進會百萬の大衆其他韓國の同志悉くを死地に陥るる憂あるを以て、我が民間の興論をして後援せしむるの素地を作り置くの必要あるを感じ、同志森山吐虹に日韓合邦の計畫を打ち明け、國内興論の喫起に常らんことを懇囑した。

 森山は新聞通信社等の有力なる同志を説き大谷誠夫、福田和五郎、倉辻明義、松井廣太郎等及び小川平吉外數名の有志と兩三度相談會を聞き、十一月十三日、以上の同志主催者となり、芝公園三縁亭に於て發起會を聞き、朝鮮間題同志會を設-立した。



〔淺薄者の僻見〕
 その後、會の發展と共に多數の人士入會し来りしが、其の一部には高く志士浪人を以て標置するも、胸最狭小にして識見淺薄なる人物あり、森山を目するに後藤新平一派なりとし、著者を目するに藩閥の走狗なりとし、批難攻撃するものあるに至った。
 元来國家的の實行間題は、政府と民との協力に待って始めて成立するものにして、政府を措きては終に成功を挈むべからす。

 別して韓国間題の如き政府の決心と施設を本として途行さるべき事業に對し、藩閥に關係あるが故に相提携するに堪へずと思惟する短見者流ありしが如き、頗憫笑すべきものである。著者は此状勢に對し、既に輿論喚起の機爛開けたる同志會を成立せしめたる上は自ら會に在る必要なきに至ったので、自然之に遠ざかることとなつた。



〔形勢良好成算歴々〕
 十一月十四日、著者は宋秉畯を訪ひ、京城より來りし報告書を示したるに、宋も彼の手に達したる報告書を出し、形勢の良好にして成算歴々たるものあるを喜び、翌日武田を京城に向け出發せしむるに決し、十五日、杉山を訪ひしに、杉山告ぐるに『山縣公、桂首相に武田起草の上奏文を示し、一進會は之を提出して合邦を請ふの手順となれるを語り、更に寺内陸相にも示し、陸相の質間に対し答解し置きたる』を以てし、其問答を覺書となし來り、之を著者に交付した。


〔講座中傷に関する桂首相の注意〕
 合邦運動は漸く此處迄進行し來りたるが、之より先き京城に於ける統監曾禰荒助の感情態度俄かかに一變し、書を山縣公に寄せて著者を批難し、又た岡喜七郎も統監の意を承け、公に對して盛んに著者を攻撃し來れる旨を桂首相ゆおり杉山に注意され、杉山は之に對し、合邦を遂行せんとするには必ず統監の賛同なかる可からず、然るに続監の感情彼が如しとせば、圓滑なる進行を期すべからず。因て速に誤解を釋くの道を講ぜよと著者に勧告して来たので、著者は書を會禰統監に贈って感情の融和に努めた。 
 時に十一月四日のことであった。期すべからす。囚て速に誤解を釋くの道を講ぜよと著者に勧告して來たので・著者は書を曾禰統監に贈って感情の融和に努めた。時に十一月四日のことてあった。



〔龜井總監の盡力〕 
 十一月二十入日、著者は倉よ合邦請願書を携へ、京城に出發すること、なり三十六日桂首相、寺内陸相を訪問したが、生憎何れも留守中なりしを以て書面を兩相に致し、又警視總監龜井英三郎を訪ふて程を告げた龜井は熱心なる合邦賛成者にして、首相に對する斡旋其他陰に陽に力を致せること少なからす、其後に於ても終始盡力する所があった。
 杉山は二十六日首相に面會するを得、著者の渡韓に關して述ぶる所があった。

 是より先き首相は合邦に賛成したるも、時期の點に就ては未だ確定し居らざりしを以て、杉山は此會見に於て、内田及び宋が此機蓮に来じ、合邦論者を統率して其の蓮動を實現せしむるとすれは、政府者に於て或は事情の不可なるものあらんも、四邊の形勢は今や一進會を驅りても一日を緩ふすべかざるに至らしめたるものあり、内田等の渡韓にして遅延せば彼等は獨力事を挙げんとすいるとの電報頻々として来り居り、徒らに此れを看過するに於ては、不測の變を生ずるを免れざる勢となれるを以て、先ず内田を急行せしめ、次いで宋を派せんとする旨を報告し、且つ其の同意を求めたのである。

 首相は一時決心を鈍らせ居りたりては断然同意を表せられたる旨、二十七日の夜、島森濱の家於て、著者の送別と協議會とを兼ね開きたる席で杉山から報告を受けた。




内田良平「日本の亜細亜」 日韓合邦 (2)

2020-01-29 16:46:53 | 内田良平『支那観』



内田良平
「日本の亜細亜」
  日韓合邦
 (256頁~272頁)


韓国皇帝秘使を海牙に派遣す

 然るに続監は韓国指導の大任を負ひ、未た幾何の年月も経ざる裡に合邦を断行するき大問題に關し、容易に是非を言明せらるべき筈なく、
 著者や宋秉畯の主張する合邦論には耳を傾けられざるにあらざるも、賛意を表明しないで、婉曲なる言葉を以て設論せらるるに過ぎなかったから、非常に焦慮苦心して居る際、偶々海牙に開催せられし萬國平和會議に韓國皇帝が密使を派遣し、日本に委任したる外交權を蹂躪せんとした事件が現はれた。


〔攘夷運動の凝議〕
 それは明治四十年七月二日の事で、此事實が暴露すると、韓国の大臣等は狼狽して爲す所を知らず、宋秉酸は李容九及び著者を招き相談して日く、
『統監が合邦に賛成せられ之を實行する場合に至っても、李熈皇帝の在位中は、其の裁可を得ること困難なるは、新協約締結時の例に徴しても明かなり。故に今回の事件に乘じ、皇帝をして譲位せしめ置かば、合邦は自ら容易ならん。兩君の意見如何』と。

 李容九日く、『夫れは豫て必要を認めたる根本問題なるが故に一進會より讓位蓮動を開始せん』と。


〔重大運動の方策定まる〕
 宋日く、待たれよ、余は先づ李完用總理を説く、閣議にて決定せしめん、若し閣臣にて斷行する能はざる時は、一進會大衆の力を以て目的を貫徹しては如何』。
 季容九曰く、『可なり』、宋は更に曰く、『會長は直に地方に赴き、閣臣失敗の報を聞かば大衆を率ゐて人京せよ。聯絡は内田に一任せん。而して讓位は統監に對し豫め相談すべきことにあらざれば、其の賛否を保し難きも、内田は宜しく統監の意向を探って内報することにせられたし』と、
 斯くして協議は一決し、李容九は一進會の幹部二十數名を随へ、三南地方に向って出發した。時に明治四十年七月十三日であった。


 宋秉酸は李完用をして讓位奏請の決心をなさしめ、閣議を纒めて最初は李總理一人奓内し、皇帝に拜謁して、『海牙密使事件は明かに日韓新協約の違反にして、統監より重大なる問責の來るべきは、日本の外務大臣が既に東京を出發したる報道によっても察知せられる。


〔局面急激に展開し韓皇譲位す〕
 此際畏れ多けれども、陛下が身を以て國家を救はせられるの外に道なかるべし』と説き、讓位の巳むを得ざる所以を奏請したけれども聽許せられす、翌日各大臣打ち揃ふて謁見し譲位を奏請したが尚ほ容れられす、第三日即ち七月十八日に至り、各大臣死を決して奓内し、宋秉畯が毫も忌憚する所なく直練したる結果、漸く譲位せらるゝことに決したのてある。


〔宋の直諫〕
 此間に於て著者は統監の讓位に封する意向を確め、宋を激勵し、李容九と聯絡し聲息を通じて居たが、第三日目に至り三回の失敗を見て統監は頗る不安の念を起し、宋を招き嚴談せられたのて宋は著者に一進會の在京會員を招集して王城を圍み、宮中と聯絡を計り、大臣等に聲援を興へんことを依頼した。

 仍って具然壽を總指揮とし、王城内に在る警務顧門府を宮中との聯絡所となし、終夜奮闘の結果、漸く譲位の目的を逹することを得たのである。


 此間李容九は三南の出張先から靆位の成否を氣第ひ、頻りに一進會の大衆運動開始を催促して來たが、共の都度進行の經過を通報して置き、愈よ讓位の成立するや、電報を以て歸京を促したのであった。


〔日韓新々協約成る〕
 又た伊藤統監は、外務大臣林董の着京を待ち、本國政府の意向を聽取して協議の上、韓国政府と海牙事作に関する交渉を開かれ、七月二十四日新々協約が成立した。其の條件は頗る寬大なもので、彼の讓位に反封して京城を暴動化せしめた排日派すら意外の感に打たれ、『此の如き程度の要求ならは敢て騒擾するにも當らざりしに」と言ひ合った位でてあった。

 宋秉畯は著者に向ひ、『統監は政權委任程度の條件を持ち出さるるならんと思ひしに、意外にも、新協約の補綴に過ぎなかった。政權委任ならば日韓聯邦説を主張し一気阿成に目的を逹するのであ
ったが、惜しき事をした。

 之れによって考ふれば、統監の合邦に賛成せられざるは、表面だけにあらずして眞實其の意思なく、吾人の期待と大なる懸隔があるが如きも君の察は如何」と。

 

〔断乎たる日韓合邦主唱者の決心〕
 著者曰く、『統監は既定の方針に従って進まるるのみにて、何處迄行くも統監ならん、統監政治よリ聯邦政治に轉換せしむるは、吾々の努力如何によるべきもので、他より轉ろがり來る可きものにあらず。如何となれは日韓合邦の主唱者は吾にして、仙人ではないからである。

 従って東亞經錀の基礎たる日韓合邦の成否は、吾々の決心一つにあるのなるが故に、時宜によりては大臣の椅子も投け出し、命も投げ出さねばなるまじ」と。
 
 宋は固より同感にして、夫れより種々運動方法の打ち合せをなしたるが、著者は重ねて、『合邦は伊統監の同意を得るにあらざれは絶對に成功せざるべきこと、統監をして賛成せしむるには、先づ山縣有朋、桂太郎、寺内正毅等の武人派を賛成せしめて廟堂の空気を作るのほか道なかるべきこと』を説き、著者は自ら主として此の方面の運動に當ることとなった。 



〔韓国軍隊の解散〕
 新帝即位の直後・韓国の軍は解散せられることとなったが、肯んぜすして反抗した兵營もあつた。
 此の日、著者は友人を停車場に見送り、路南大門に到ると、遽かに銃聲が起り、同門守備の我が軍隊は之れに應戦し初めた。

 不意の出來事に狼狽する通行人の状態を眺めて居る裡、調練院に於て解散されつつある状況は如何であらうかと思ひ付き、天眞楼に在せる友人を誘び、其の方面に赴いた。

 此處には解散さるるとも知らずして、将校に引率せられ、次々に出て来る兵士に對し、解散命令を聞かせ、手當金を渡して居たが、兵士中には將校に縋り付いて泣く者もあり、そぞろに悲哀の光景を呈して居た。泣いて去るも怒って戦ふも其の情は一で、悲壮両面の状況が一場に展観させせらたので、何とも言ひ知れぬ感慨に打たれたのであった。



〔悲壮両面の状況一場に展開〕
 著者は豫て統監及び寀秉畯に向ひ、一時に全軍隊を解散するの危險なるを説いたが、用ひられずして此日の解散となったのである。果たせる哉、暴徒は軍隊解散に囚って起り、一年有餘の間之が鎭定に苦しめられることとなった。
 伊藤統監は韓帝譲位後の處置を終り、一先づ帰朝せられたが、阜太子殿下御渡韓あらせらるることとなり、有栖川威仁親王及び太郎、東郷平八郎等、陸海軍の大将が扈従し奉り、十月十六日仁川に到着せられた。

 著者も統監と前後して東京に在ったが、統監の帰任に先つて京城に歸りしに、李容九來訪して、『一進會は日本皇太子殿下奉迎の歡迎門を作り、夜間は提灯行列を催すべく其準備中たるが、外に御旅情を慰むる方法あらは示教せられたし』と云ふたので、『殿下の御渡韓は未曾有の事にして、日韓一家成立の瑞兆である。


〔一進會の献納品〕
 此機會に於て、一進會は新古の物産を全国より蒐集し、之を獻納すれば、生活器具の末に至る迄も臺覧を得、韓国を知ろし召す上に大なる御發明もあるべく、且つ御帰国の後 陛下の天覧に供へさせらるることあらば、一層一進會の誠意を天に通ずることとならん』と語った處、
 李容九は非常に喜び'『宋秉畯と相談の上全国の支部に打電し、直に蒐集に着手すべし』とて辭去したが、僅々一週間の短時日内に、古代の物品より現代の鞋靴に至る迄取り揃へ獻納することになつた。
 殿下京城御着の際は、韓国皇帝を始め日韓の文武百官悉く南大門に奉迎し、鶴駕肅々として統監邸に人らせられた。



〔神秘的なる荘厳の光景〕
 一般の韓民も亦た盛裝して雲の如く集り熙々然と歡迎し奉つた盛況は、誠に崇嚴とはいはんか壮偉といはんか、一種特異の感想に堪へざらしむるものがあつた。
 葢し當時地方に於ては暴徒既に蜂起して京城の人心も穏やかならざるものありしに、殿下の御着と共に和氣城内に満ち、春風の吹き到れる如くなりしは、全く皇徳の然らしむる所なるべく、深く感激した次第である。
 一進會の準備せる獻納品は、表文を添へ、統監を通じて臺覧に供へたが、非常たる御滿足にて、後、上野の表慶館に陳列せしめ、衆庶に拜観するを得せしめられた。



〔暴徒と自衛團の組織〕
 皇太子下御還後の韓国は、暴徒の横行甚だしく、襲撃の目標とされたものは日本人と一進會員であって一進會員の害さるるもの頗る多く、宋秉畯は義勇軍を組織して暴徒を鎭定せしむるやう、東京滞在中著者に書面を寄せ來りしも、
 著者は軍隊を解散して義勇軍を組織するのは政策の矛盾であり、統監の威信にも關するものあるを思ひ、歸任するまで待つやう制止して置き帰韓後一進會をして暴徒に關する各面の調査を爲さしめ、
 十一月二日に至り、李容九を招き、『義勇軍よりも行はれ易くして有効なる方法あり。夫れは各村に自衛團を作り、官憲に力を併せ暴徒を防せしむるに在り。

 而して其自衛團は、政府をして命令を發せしめざれば普ねく行はれざるべきを以て、會長より李完用總理を説き、總理より統監に相談せしめよ。統監には豫め賛成せしめ置く故、事は速に成立すくし』と云ひしに、李容九は『妙案なり』と同意し宋秉畯に告けて夜 李總理を訪ひ、自衞團組織の必要を勧告した。

 總理は『統監に諮って決定すべし』と答へ、統監の意向を伺った處、統監は既に著者から聞いて賛成して居られたることとて、忽ち政府より自衛團組織の論告を発する運びとなり、京城府尹を會長とする自衛團組織後援會をも設せしめ、一進會員は後援會員となり地方を勧誘して自衛團を組織せしむることとなった。

 一進會は各道に會員を派造して自衞團組織に着手し、會長李容九も亦暴徒の最も猖獗なる江原道方面を遊説すべく著者の同行を求めた。

 著者は武田範之、高村謹一、大賀八三郎、須佐嘉橘、通譯岡本慶次郎の五名を伴ひ、四十年十一月二十三日、李容九一行二十數名と共に京城を出發した。
 前日、李容九と共に統監を訪ふて別を述べた時、両人に拳銃一挺を與へられた。著者に與へられたものは、統監が嘗て英国にて購はれたモーゼル式自動拳銃であった。
 一行は議政府、揚州、漣川、鐵原、金化、華川等を經て十二月十一日春川に到着した。翌日副統監曾禰荒助より著者に宛てた十二月九日附の書信に接した。



〔副統監讒問に誤る〕 
 披見すると、書中、『一進會が黨勢懭張に汲々たる結果、時々或は暴行又は脅迫し、或は断髮を強制し、良民は之が為めに却って不安の念を生し、容易ならざる形勢に立ち至り居候樣に相聞え候(中略)前段に陳るが如き處置あるに於ては、無用捨斷然たる處分に出るの外途なきに至るべく候(中略)一進會の巡視を暫時御見合可然とも存候云々』(下略)とあった。


〔一進會受難の状況〕
 これは實に驚くべき書物であって、一進會は黨勢擴張や暴行脅迫等をなす如き所にあらず、一會員たるが故に暴徒襲撃の目標とせられ、斷髮せるが爲めに一層危害を被り、既に千餘名の黨員を殺害せられ居り、
 他に向って斷髮を強制するなどと云ふ如きことが出來得べき筈もなく、自衛團組織さへ一進會の名に於てする時は、却て地方人をして暴徒の目標となる鬼貽を抱かしむるなきやを慮り、
 自衛團組織後援會を創立し、其の會の名に於て遊説せる位なるに、副統監が此の如き誤解をなすに至った原因は、京城に居住せる両班富豪の財産は、彼等が地方に於て所有せる土地てあって、暴徒蜂起の爲めに小作料も徴収する能はす困却しつつある際、
 一進會の進言に成れる自衞團組織は非常なる期待を以て好評を博し、一進會を嫌悪せる人士さへ稱讃するに至りたるより、反對派たる政敵は一進會の勢力増大を恐れ、曾禰の不明に乗じ讒間したのである。

 著者は此の書を李容九に示し協議の上日程を變史して歸京することに決定し、十三日春川出發、十四日京城に歸着した。



〔危険を極めた旅行〕
 此の旅行僅かに三週間に過ぎざりしも、寒風凛烈、加ふるに暴徒出沒して、到る所の村落は荒され旅行の困難にして危險なること非常のものありしに拘はらず、報効の赤心より勞劬を厭はず、獻身的活動をなせるに對し、副統監の與へた一書は、一進會の衆徒をして抑ふべからざる憤りを起さしめ、後、合邦提議に際し、大波瀾を惹起する原因ともなった。


〔自衛團の組織妨げらる〕
 伊藤統監は十二月に入り歸朝せられ、留守を預かる曾禰副統監は雑輩の言を信じて居たので、著者は一進會の行動に就き審かに説明したるに、表面は了解したる如くなるも、裏面に於ては自衞團組織を妨げ、成功の見込みなき形勢に立ち至らしめた。

 著者は親しく統監に顛末を報告すると共に、他に期する所あり、十二月二十四日、京城を出發して東京に歸り、四十一年一月、大磯滄浪閣に統監を訪ひ、統監府屬託辭任を乞ふた。著者が此の決心を爲すに至ったのは、日韓合邦を促進せしむる爲めであって、統監府員としては、統監の對韓方針に反する行動は絶對に避けきる可からざるのみならず、廟堂の有力者に向かって日韓合邦の潜行運動を為上に於て、一介の野人處士たる立場に在るを便利とし、斯くは辭職の申し出でをなしたのである。



〔一進曾授産金問題〕
 然るに統監は聞き届けられず、四月に及び、韓国に歸任せられんとするに臨み、著者を大森恩賜館に招き一進會授産金問題もあれば、今一度歸任して同問題を處理せよと懇論せられため為辭意を翻へして留任することとした。

 一進會授産金問題と云ふのは、一進會々員に産業を與へ、彼等の窮乏を救ふ必要あるを感じ、韓皇廃立事件の直後、四十萬圓内外の授斎資金を一進會に與へられたしと、其の方法を具して進言したるに、統監は大に賛成せられ、歸朝の上他に謀って決定すべしと云はれ、四十年八月歸朝中、五十萬圓を調達したが、未だ一進會に交附されないて居たものを指されたのであって、著者に取っては大なる責任の存する事柄であった。



〔授産金と将来の大計画〕 
 如上の事情により、京城に歸任して見れば副統監の意見として、統監の調逹せられたる五十萬圓の内二十六萬圓を一進會に交附することとしたが、此資金のみにては不足なので、日本の事業家に出資せしめ、合資會社を組織する純然たる事業本位の計畫が廻らされて居た。


〔満蒙の独立を図る〕 
 著者の計晝は豫て李容九、宋秉畯と熟議の結果、日韓合邦の後は、一進會百萬の大衆を率ゐて滿洲に移住せしめ、支那革命の機に乗じて満蒙を獨立せしめ、日韓聯邦に倣ひ、滿蒙聯邦国たらしめんと企畫し、既に間島には多數の一進會員を移住せしめ、其の素地を作って居たのてあるから、授産金の交附を受けなば、他日滿洲に活躍する基礎的事業を起し、第一線に立つべき満蒙移民の母胎とする考案でって、何處迄も東亞聯邦の目的を達成する手段に供せんとするものてあつた。

 故に普通の営利會社では面白からず、況して日韓合邦の根本問題は未だ統監の賛成を得す或は国民的請願運動に出づるの外、道なきに至るやも計り難く、萬一斯る場合に陥らば授産金を以て根本解決資金に運用しなければならぬ事情も存し、かたがた、副統監の立案は、一進會に取り好ましからざることであつたので、之を如何に處置すべきかと、茲に兩人と協議の末、最後の手段に出づべく決定した。


 それは宋秉畯が先づ農商工部大臣を辭職し、著者も亦た統監府を辭して全く在野のものとなり一進會内閣を出現せしむるか、その不能なる場合は、國民運動を起し合邦速成を期するにあった。

 以上の方針を定め、五月下旬宋は統監を訪ひ、李完用内閣の失熊及び之れに對する国民の不平、並びに一進會の憤激甚たしく辞職の巳むを得ざる事情を陳べた。
 
 李完用は統監から宋の辭意あるを聞き、内閣の瓦解を恐れて頻りに飜意せしむべく努力したが、却って宋より内閣失態の諸點を責められて頗る窈し、李完用、趙重應の兩人は統監に失政を謝することとなる、宋も席に立ち会わされ、老練なる統監の為、辞職する筈の宋は却って内部大臣に推され、突如として内閣の改造が行わはれた。

 一進會の會員は農商工部大臣の宋秉畯が内部大臣になれるを見て喜ふべしと思ひきや、大に憤慨して動搖を生じ、著者の鎭撫により僅かに事なきを得、統監も宋秉畯も深く喜びしも豫期の辭職問題は頓挫するに至った。
 
 斯くて九月に及び、統監と前後して東京に歸り、李容九も去て上京して永く滞在することとなり、是れより幾多の迂餘曲折ありて、翌四十二年二月又々宋秉畯が辭職を申し出た。統監は之の慰留に苦み、暫く東京に遊べと勧告し、伴ふて歸朝せらるる途中、下関に於て遂に宋の辭職を許されるることとなつた。次いで著者の辭職も許され伊藤統監も亦辭職を決心せらるるに至った。




内田良平「日本の亜細亜」 日韓合邦 (1)

2020-01-28 12:17:42 | 内田良平『支那観』



内田良平
「日本の亜細亜」  
  日韓合邦 (243頁~255頁) 

[満州は日本が没収すべきであった] 
 日露戦爭の結果、我が国は韓国に於ける優越権と、満洲に於ける露西亞の敷設せる南滿鐵道並に大連旅願の租信權、及び樺太半部を割讓せしめしのみにて、滿洲の領土は清朝に引き渡してやつた。
 當時若し露清間に攻守同盟の密約が存在せることを知って居たならば、決して滿洲を清に返す必要はなかったのである。如何とたれば、支那は日露開戦の責任国であり、且つ露酉亞と攻守同盟せる敵国なれば、假令軍事行動を爲さずとするも、其の不義を責め、滿洲を沒収すべきでてあった。

 

[日本志士の計画]

 清国は日本軍が破竹の勢を以て露軍を撃破したる威力に恐れ、中立を宣言して形勢を窺って居たにすぎず、若し日本が遼陽戦或いは奉天戦に失敗失敗して居たならは、必す露軍に應し、日本攻撃に奓加したに相違ない。

 日本の志士は豫め斯の如きことあるを期し、六年前より計画する所があったので、清国政府が霹軍に參加したる場合は、直に革命の火蓋が切らる、ことになって居たのである。 

 惜哉、露清密約の内容が攻守同盟なりしこと未だ世に知られず露国政府も軍事行動に出ざりし爲め、孫文の擧兵計晝も延期せざる可からざることとたったのである。

 此の間の事情は後段支那革命の條に説くこととする。
 
 抑も日露戦爭の端は日清戦爭に發し、日淸戦爭は朝鮮間題より起こり日露戦爭も亦た朝鮮に関する處、重且つ大なるものがある。

 

[日韓新協約と統監府の創設]  
 東洋發亂の禍根が常に朝鮮に在りしを以て、日露講和條約の成立するや、伊藤博文全權大使となり、三十八年十月京城に到り、日韓新協約を締結し、韓國の外交櫂を我が国に収め、内政も亦た我が指導に従はしむることとし、

 韓國統監府は創設せられ、伊藤博文は統監となって赴任することとなった。統監府は昔の任那府が三韓を統督せし如きもの天智天皇の.時代に於て任那府を撤退しより、千二百年にして祖宗の盛時に復舊したのである。

 

[統監政治の困難]  
 伊藤統監は韓国の外交を行ひ、内政の指導を為し、諸政の改革に着手せられたが百年の積弊を除くは容易の業にあらす韓國の内閣は主權者と指導者の二頭を戴き、此の間に在って進退兩難の場合少なからず、宮中の雜輩は陰謀のみを事とし、統監の指導を妨げ、頑固の徒輩を煽動して内亂を起さしむる等、奸計至らざるなき有樣であった。
 然れども伊藤統監の威望は韓國の上下に重く、宮中の肅清を行ひ、指導啓發に全力を注いて居られた。

 時は明治三十九年九月、極めて小なる一事件が起った。而も夫れが日韓合邦の端緒となり、日韓一家を實現せしむる發芽となった。其の事件と云ふのは、百萬人の黨衆を有する韓国唯一の大政黨たる一進會の領袖宋秉畯なるものが、突然警務廰に拘引せられて投獄せられたこことでてある。
 宋の拘引は罪人隱匿罪と称するのであって、實は投獄するにも富らない程の開係のことであった。宋の隠匿したとする罪人は韓国皇帝の信用厚く智謀測る可かざる怪人物として知られた李逸植であった。

 李逸植なるものは、嘗て洪鐘宇をして日本に亡命せる金玉均を上海に誘殺せしめ、自ら朴泳孝を生擒して朝鮮に送らんとし、發覺して日本を追放せられ日清戦役後、露西亜の勢力を韓国に導き、これに依って李完用等を頤使し、皇帝を露酉亞公使館に潜幸せしめた元兇である。

 日露開戦に及び、日本の歡心を得て身を完ふせんと欲し、豫て親交ある京釜鐵道會社々員守部虎壽なるものの宅に來り、自己の本心が決して親露に非ざることを陳辯し、將來日本の爲めに力を盡さんとする旨を誓ったので、守部は之に答へて「辯解よりも實行なり。 君にして親日の識意あらば其の實を示せ」と云った處、彼は諾して去り、皇帝の勅許を得たる二十餘種の利權を持って來た。

 此二十餘種の利權は、韓国に於ける重要なる鑛山、漁業、山林、未墾地等の一切を網羅して居るのであって、殆んど韓國利權の大部分を日本に興へんとするものであった。守部はり利權の大に過ぐるに驚くと共に、韓国の親露政策が皇帝と李逸植の合作に出て居り、李逸植の保身は皇帝の保身と連蔕關係にあって、恐怖心も共通せるが故に、斯の如き利權を勅許せられたるものなるを知り之れは無名の守部如きが取り扱ふべきものにあらす天下に認められたる人格者に托して之を處置せしめざる可からずとなし、押川方義、巌本善治に委托したるも、我が公使の反對する所となり、李逸植は遂に玉璽を盜用せるものとしてその罪に間はる、こととなり、

 統監府の創設されし頃、裁判確定して流刑に流刑に處せられ、未だ刑の執行を受けずして自宅に居たのである。

[宋秉畯投獄の経緯] 
 馬鹿を見たのは李逸植であつて得難き利權の勅許を得、之を日本人に與へて日本公使の抗議に遇ひ、それが為に罪を得て流人とならねばならぬ破目に陥入ったのである。併し窮境に處して尚智術に窮せざる彼は、偶々政敵宋秉畯が日本人の經菅する清華亭といふ料亭に遊べるを窺ひ知り、突然其の席に入って救済を求めた。宋は此の窮鳥に飛び込まれて我が家に伴ひ歸った爲め、罪人隱罪に問はることとなったのである。

 未だ刑の執行を受けず自宅に在った逸植が、宋の宅に二日や三日居たからとて、日本に對し尠なからざる功勞のあった宋秉畯をむざむざ投獄せしめたる如きは、裏面に李逸植問題以外何事か伏在して居らなけれはならなかった。果せる哉、それは統監府の警務部及び韓国警務顧問府が、一進會を崩壞せしむる方針と、
平常反目せる憲兵隊長小山某を陷れんとする隱謀を策し、宋と小山とが親交ある故、宋を捕へて證據を握るべく計晝したものであった。

 

[東學黨と一進會の歴史] 
 一進會は日清戦争の動機となった東學黨の變形したもので、東學黨は儒教、佛教、道敎を究極した綜合的の敎を立てた宗教團體であった。

 東學と稱した所以は、西洋の學に對する東洋學の意味より名付けられたものの由で、崔済む霍愚と云ふ人が此の教を開いたのである。然るに開祖は邪敎人を惑はすと云ふ廉にて、大邱府に於て斬殺せられ、高弟の崔時享が其の後を繼ぎ、明治二十六七年頃には十萬の教徒を作って居た。

 其の教徒が積年の虐政に堪へかね國王に訴願したのが發端となって騒亂を起し遂に大亂となって全羅道全部及び慶尚忠淸兩道の一部も東學黨軍に響慮するもの多きに至った。共の首領は崔時享の高弟全琫準と云ふ傑物で日本の志士十四名は天佑侠と称して東學黨軍に投じ彼らを援助して居た。

 後に日清戦爭となり、日本が朝鮮の政治を指導
するに及び、東學黨は對外事情に暗き爲め誤った行動に出づることとなった。彼等は最も憎悪せる閥族政治が少しも改められず、日本人は閥族を擁護して人民を擁護せざるものと誤解し、再び兵を擧げたが、日本守備兵の爲めに撃破せられ、全琫準は傷いて捕はれ、朝鮮政府は之を機として東學黨の全滅を計り数萬人を殺戮した。

 崔時享も捕らえられて刑死し、高弟孫秉熈は上海に逃れ、李容九は江原道より咸鏡道に人り東學黨を改めて天道教と構し、懸命に布敎した結果、明治三十七年頃には五十萬人に達する信徒を得て居た。

 

[宋秉畯と李容九の提携] 
 日露開戦となるや、亡命して、永らく日本に在留して居た宋秉畯は長谷川軍司令官付通訳官と云ふ名義にて京城に歸った。
 宋は韓國政府が日韓同盟協約を結びながら、首鼠兩端を抱き、露に志を通するもの多きを見て之を慨し、舊獨立協會を組織せしめ、日韓同盟の實を擧げんと計畫し、李容九と提携することとなった。

 

[一進會の活動と貢献]
 斯くして李容九は天道教徒を稱し、斷髮するを以て會員章とすることとなし、舊弊打破に邁進し、頑迷なる官吏と鬪ひ、一面に於ては北韓輸送隊を編制して日本軍の咸鏡道に於ける軍事行動を援助し、又た六萬四千七百人の會員を發して京義鐵道の工事速成を援助せしむる等、偉大なる實力を示した。日露戦後、伊藤全權の京城に來り新協約を締結悲んとするや、韓廷は容易に之を許諸しなかったが、一進會は其際裏面から成立に援助した。 

 

[兩班階級の策謀] 
 元來一進會は、韓国の階級制度即ち文武兩班の出にあらざれば文武の官途に就くを得ず、官吏は終身官にて、現官を辭するも地方に於て人民を搾取し、不法の權力を振って人民を納税機械の如くに扱ひ、牛馬の如く使役する悪制度を打破せんと欲し、東學黨の前身時代から鬪爭し來ったものでてあるから、韓国政府並に兩班階級の者は、之を悪むこと蛇蝎の如く、機會あらば一進會を倒さんと策謀して居たのである。

 斯くの如き際に、統
監府が創立せられ、統監府員が韓国政界の事情に頗る疎きものあるに乘じ、彼等は盛んに一進會誹謗の宣傅をなし、遂に統監府員をして、韓国指導上妨げとなるものは一進會にあらずやとする懸念を抱かしむるに至った。一進會にとりては不利なる空氣の漂へる漂へしも、小山憲兵隊長に對する警務部の陰謀と李逸植問題とが起って、宋秉畯は投獄せられたのでてある。

 

[一進會苦境に陥る] 
 此時一進會の有力なる幹部連は、創立以來大運動に要した黨費を醸出して既に家産も蕩盡した後であり、一方宋秉畯の奇禍により、政敵の悪宣傅が盛んに行はれる有樣で、地方黨員の動搖漸く甚だしく、從來毎月五銭(日本貨の二銭五厘に常る)の黨費を徴收して、半額は支部費に充て、半額は本部費に納人せしめ、其額六七千圓を下らざりしものが忽ち半減以下となり、財政的にも大危機に陷るに至った。

 

[韓国指導の妙体諦] 
 著者は天佑侠同志中の一人として、東學黨軍に投じて居たこともあり、韓国問題に就いては古き關係があるの故を以て、伊藤統監より招聘を受け、一矚託となって帷幕に參して居たのであるが、宋秉畯事件起るや、一見小事件の如くして實は容易ならざる大事件なるを認め、窃かに統監に向って説く所があった。

 其意見は、『統監にして韓国指導の目的を逹せられんとするには、親日、排日の兩派を駕御し、兩派をして統監の信用を得べく竸爭せしむる所に指導の妙諦あらんも、今、親日の一進會を滅ぼして、親清派より親露派となり排日派と変化し來れるもののみを存在せしむるに至るは策の得たるものに非ざるべヘし』と云ふにあった。

 

[日韓合邦史上記念すべき重要会見] 
 統監は頗る之に同意せられたるを以て、九月二十六日、一進會に關する報告書を提出し置き、一進會々長李九を招きて、『日韓の將來に對しては如何に考へらるるや。其目的にして一致するに於ては、宋秉畯の奇禍を救ひ、併せて一進會を援護せん」と述べしに、李容九は「自分の意見は丹方氏の所謂大東合邦にある』と答へた。
 丹方氏とは大和の人、攤樽藤吉の雅号で、樽井は大東合邦論を著はし、『東洋諸国力を一にして
西方に對抗すべき亞細亞聯郵を結成すべし』といふ意見を發表したのであった。李九は日清後、日本視察に來た時、此の書を得て深く共鳴したので、今、此の言をしたのである。

 

[李容九日韓合邦の志を述ぶ]  
 豫て樽井と親交ある著者は、李容九の言を聞いて直にその意を解し、大に喜んで『亞細亞聯邦を成就するには先づ日韓聯邦の一家を實現し、諸國をして之に倣はしめねはならぬ』と云ふと、李容九は、『勿論』と答へ、著者が重ねて、『宋秉畯を始め一進會百萬の大衆が之れに同意すべきか』と問ふと、彼は『一進會員は天道の宗教を奉じて居る。天道を行ふに當り、一人の異議あるべきものにあらす、況んや宋秉酸の志も亦た此大業に在り。
 之を達成する爲めに吾人と血盟して居るのてあるから、宋を失ふは大業建設の技士を失府も同然なsり。切に救助を乞ふ』と答へ、熱誠面に溢れ、人をして感動せしむるものがあった。

 

 著者は即ち宋の救解に盡力すべき旨を答へ、共に倶に日韓合邦を實現せしめ、更に亞細亞聯邦の大業を成さんと堅く誓ひて一進會の顧問となり、十月二十日に至りて宋秉畯を救ひ出し、次いで一進會の財政を整理し、進んて朴齊純内閣を倒し、李完用一進會の聯立内閣を組織せしむることとなり、新内閣には宋秉畯が入って農商工大臣となった。

 

[合邦実現の実際的運動計画]
 日韓合邦に就いては、李容九・宋秉畯と屡々密議を凝らして實行計畫を立てた。其の最も安全なる方法は、一進會内閣を組織し、閣議に於て決定實行すること。
 若し一進會内閣を組織すること能はざる場合は、一進會員を以て十三道の地方長官となし、地方官會議に於て發議せし
むること。地方官も獨占する能はざる時は全國民の輿論として請願書を提出し、竹槍赤旗に訴へても實現せしむること。

 

「一死を以て大業を誓ふ」
 而して先づ第一に確めざる可からざる必要あるは統監の意志如何の點で、統監さへ同意せらるに於ては、一進會内閣の出現も可能となり、合邦は易々として實行せらるることとなるべきを以て、豫め統監の意中を探り、若し反對なる時は説得して同意せしめ置くにあらざれば、到底合邦の大事を成就すること能わざるべしとなし、三人は一死以て之に當るべき宣約を結び、その運動に着手したのである。