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日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

内田良平「支那観」三 農工商社會

2020-06-23 10:30:36 | 内田良平『支那観』


内田良平「支那観」
      


三 農工商社  

 支那の普通社會とは、農工商の加き、唯だ個人の利を逐うて生活するものを謂ふ。
彼等は全然個人本位にして、個人の生命財産だに安全なるを得ば、君主の如きは戴くも可なり。
載かざるも可なり。
  
 其の國土の何なる國に属するが如き、強いて問ふ所にあらす。
数千年来、彼等の國王には、或は姓劉なるあり或は姓李なるあり、姓趙、性奇渥恩、性愛新覚羅、皆固より問ふ所にあらざるなり。
一朝にして其姓變じて、英となり、露となり、佛となり、獨となり、若くは日となり米となるも、又た固より問ふ所にあらざるな。彼らの祖先の謠ひし所、井を鑿(うがち)
飲み、田を耕して食ふ。

 帝力我に於て何かあらむとは、實に能く彼等の性格を表白せるものにして、彼等はただ租税を徴せらることの少きを願ふのみ。
徭役の累なからんことを願ふのみ、文法の繁苛ならざることを願ふのみ。

 彼等は數千年來の謂ゆる爲政者なる者、種々の文法を設けて百姓の錢財を奪ひ、既に錢財を得れば、自己の房室を營み、自己の衣服を營み嘗て百姓の休戚を以て其心頭に置かざるを熟知し、終に賊と官とを同視するに至る。
故に彼等は、個人の利益とならざることは決して爲すを好まざるなり。

 政事上の爭闘の如きは、彼等に在ては寧ろ其産業を妨害するの一大非行にして、其事や政治社界一流の人に屬し、一般人民は、其理非を問ふの要なきものとなすなり。
政事上の闘爭と雖も、固より正不正の別なきに非るべし。然れども支那社會の感想に於ては如何なる正義の者をも、自己の利益を損して之を助くるが知きは其分に非ずとなすなり。

 彼等は唯だ力あるものに届従して、自己の生命財産を全うすれば、以て足れりとなすなり。
政爭者の理非善悪を評する如きは史家の任務にして後世心ず定論あるべく、普通社會の之を云々するが知きは唐喪難唾、極めて無用の事なりとなすなり。

 吾人嘗て西漢の文人楊惲が其友に送るの書を讀む。
曰く、
君子道に遊び、樂しんで以て憂を忘る、小人驅を全うし、説(よろ)こんで以て罪を忘る。
窃かに自ら思ふ、長く農夫と爲り以て世を沒(おわ)らんと是故に身妻子を率ゐて力を耕桑に戮(つ)くし、園に灌ぎ産を治め以て公上に給す。
田家苦と作す、歳時伏臘(=夏まつりと冬まつり)、羊を烹、羔を炮り、斗酒自ら勞す。

 家本(もと)秦なり、能く秦聲を爲す。
婦は趙の女なり、雅(が)と善く瑟を皷す。
歌ふ者數人、病後耳熱すれば、天を仰ぎ缶を拊て鳥々と呼ぶ、其詩に曰く、彼南山に田す。
蕪穢治らず、一頃の豆を種うれば、落て萁(まめから)となる。

 人生は行樂のみ、富貴を須ふる何の時ぞと是(この)日や衣を拂って喜び、袖を奮って低昻し、足を頓て、起舞す。誠搖荒にして度なきも其不可を知らぎるなり。
賤を糶し貴を販して什の利を逐ふ。

 菫生云はずや明々仁義を求めて常に民を化する能はざるを恐るる者は、卿大夫の意なり、明々財利を求めて常に困乏を恐るる者は、庶人の事なりと、故に道同からざれば相爲に謀らず。
看るべし支那の農工商社會が、自己利益以外の事を以て我れ関せず焉となすは、其由來極めて遠く、今日支那の覺醒と稱するものも畢竟一部外國遊學生等の洋籍を生呑活剥したるに過ぎずして、一般國民に在ては、政爭のために自家の産業を妨害せらるるは、事ろ其苦痛に耐へざるものたる事を。

 或は云はん舊日の支那は實に此くの如し。
 今日の支那は大に其面目を一新せりと、然れども、支那の一般國民にして、眞に悉く世界の潮流に促されて其の頑夢を一掃し國家の何物たるを解し、憲法の何物たるを解し、民權の何物たるを解し、自由の何物たるを解せしめば、我が帝國が今夫の革命に對して如何に好意を表したるかを聞くに及んで、彼等は涕泣して感謝を表せざるべからざるに非ずや。

 然るに事實は全く之に反し、袁世凱政府の欺瞞、革命煽動の責任を帝國に嫁するや、彼等は早くも我商品に對して排貨運動を開始したるを見は、彼等は依然如何なる政爭と雖も、自己の産業を攪亂するに過ぎざるものとなすを知るべし。
 吾人は我が政論家中、毫も此消息に通ぜぎるものあるを見て、轉た慨歎に耐へざるなり。

 伊集院査吉、袁世凱の譌に圖り、大養毅、孫文黄興諸輩の爲に圖り、各其の説を作し、之を以て其旗鼓を樹つ。
然れども是れ南北支那政爭の是非荷する所あるのみ、支那一般農商工社會に在りては、敢て関する所に非す。
 但だ我政府の對支方針は、畏首畏尾疑懼を間に彷徨し、南方諸人には威信を曠ふし、北方諸人には怨憤を買ひ、笞後の姦夫の如く爾るもの、吾曹の遺憾となす所なり。

 我兄只だ日本帝國を基礎として對支政策を論す。
其民俗性能を説いて、此一節に入る、百尺竿頭一歩を進めたるものと謂はざる可からず。
                                   (權藤成卿)


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