日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

大川周明『頭山満と近代日本』(三)民権運動と国会の開設

2018-11-09 21:15:21 | 大川周明

大川周明 『頭山満と近代日本』 (三)
  民権運動と国会の開設
  

 征韓論破裂より西南戦争勃発に至るまでの数年間は、維新政府に対する反感と不平とが、澎湃(ほうはい)として全国に漲(みなぎ)りし時期であり、政府は屡々危地に出入した。其等の不平は、先づ各地に於ける頻々たる暴動となりて現れ、遂に武力による大規模の政府転覆計画となり、佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱を経て、西南戦争に於て其の頂点に達した。

而も『土百姓』を以て成れる「鎮台兵」が、能く「古今無双の英雄」を奉じたる『標惇決死』の士族軍を破り、見事に戦乱を鎮定するに及んで、天下の形勢は明かに一変し、最早武力を以て政府と争はんとする者なきに至つた。これ西南戦争の終局が第二維新と呼ばるる所以である。

 

 頭山翁が最も景仰せる先輩は、恐らく西郷南洲である。従つて萩の監獄を出でて西郷の長逝を知つた翁は、無限の感慨を抱いだに相違ない。また翁は前原一誠の心事に対しても至深の同情を有つて居た。 

前原が嚢(さき)に朝を去る時の辞、並に事破れし時同志に与へし書簡は、翁が老年に至るまで之を暗誦して、屡々青年に読み聞かせて居た。

 出獄後の翁は、前原・西郷の志を継ぎ、廟堂の廓清と国威の宣揚を目的として、有為なる青年を糾合して堅固なる団体を結成し、以て有事の日に備へるため、同志と相図りて、博多湾を擁する向濱に謂はゆる向濱塾を設立した。即ち塾の北方に続く十万余坪の山林を入手し、半日は山林の松樹を伐採して同志衣食の資に充て、半日は相集つて書を読み武を練ることとした。塾の同人は奈良原至・進藤喜平太・来島恒喜・月成勲・大原義剛其他であつた。

 

 然るに翌明治十一年五月十四日、大久保利通が西郷崇拝者島田一郎等六人のために、参朝の途次、紀尾井坂附近に刺されて無惨の死を遂げた。此報鹿児島に達するや、老幼男女相告げて皆快哉を唱へ、途上相遇ふ者互に御芽出度うを連呼し、戦没者の遺族は赤飯を炊いて慶祝した。福岡に於て此報に接した頭山翁も、島田等の挙を快としたことであらう。
 明治維新の元勲は、言ふまでもなく西郷・木戸・大久保の三人を推すのである。然るに昨年木戸は病を以て没し、西郷は叛して斃(たお)れ、内外の機務は一に大久保の手によつて決せられることとなつたが、其の大久保が今や刺客の刃に発れ、維新の三傑また一人を留めざるに至つた。天下は再び動揺するかに見えた。翁は時を移さず土佐に赴いて板垣退助を高知に訪ふた。

 

 明治十年以前は、政府反対党の中心は鹿児島を以て目せられ、十年以後は高知を以て目せられた。前者の泰斗(たいと)はいふまでもなく西郷南洲であり、後者のそれは板垣退助である。前者は保守主義を執り、武力を以て反対し、後者は急進主義を執り、言論を以て反対せんとする。
 等しく政府と対立するも、其の方針は全く相反する。而して保守的武断党の反対は遂に西南戦争に於て敗れたので、今や進取的言論党が其の全力を現すべき機会が来たと言はねばならぬ。

 板垣は明治八年の所謂大坂会議以後、木戸と共に再び朝に入つたが、幾くもなく政府と説を異にし、島津久光と共に職を辞して野に下りし後は、輿論の力を以て政治の革新を行はんとし、暫く機会を待つて東京に留まつて居たが、明治十年西南の乱起るに及び、郷党の有志が薩軍に呼応して事を起すものあるべぎを慮(おもんばか)り、之を制止するために二月東京を発して高知に帰つた。
 而して予期に違はず林有造・大江卓・谷重喜等が、同志を募りて西郷に応ぜんとし、当時京都に在りし元老院幹事陸奥宗光もまた之に与して居た。

 

 当時高知には三派の勢力が対峙して居た。一は立志社で、明治七年板垣が征韓の廟議に敗れて帰郷した時に設立せるもの、社員、千余人を算へた。洋学所を開き、法律所を設け、自由民権の説を講義し、仏蘭西革命の悲壮を童謡に作り、露西亜革命党の運命を小説に書いて四方に伝唱せしめるなど、日本に於ける最初の政治的結社として最も活発なる運動を開始して居た。

 大石彌太郎等の「派は、之に対して静倹社を樹立し、漢学を修め、山野を開拓し、純然たる封建思想を護持して居た。其の保守的態度は全く立志社と対蹠的であつたが、政府の施設に不満なりしは同一であつた。

 第三は中立社と言ひ、佐々木高行・谷干城等之を率ゐ、立志社・静倹社の間に立つて常に政府の施設に賛成する官権主義の一派であつた。此等の三派が鼎立して互に相容れなかつたことが、板垣をして上佐青年の薩南呼応を阻止せしめ得た一原因でもあつた。
 西南の乱容易に定まらず、人心恟々(きょうきょう)として動揺するや、板垣は片岡建吉を立志社代表として京都行在所(あんざいしょ)に至らしめ、政治改良の上奏建白をなさしめた。

 蓋し板垣は之によつて一は薩南に呼応せんとせる過激の社員を制止し、一は政府の窮困に乗じ、迫りて改革の素志を遂げんとせるものである。而も政府は建白書中陛下に対し奉り不遜の言ありとして、之を却下して通ぜしめず、片岡が数回理由を陳べて上奏を請ひしも遂に志を得なかつた。

 

 然るに翌年に至り、大江卓・林有造・片岡健吉等前後頻りに獄に下されたので、世人は図らずも政府が薩摩に次で土佐征伐を行ふに非ずやと疑ひ、或は嫌疑の板垣に及ばんことを憂へた。而も板垣は知己朋友の捕はれて東京に護送せらるるもの頻々として相次いでも、毫も屈することなく、民権思想の鼓吹に努めて青年の志気を奨励して居た。
 従つて天下の政府に不満なる者、皆密かに望を高知に属し、遙に来りて教を板垣に請ふ者少なくなかつた。それ故に単り頭山翁のみならず、磐城の河野広中、越前の杉田定一、伊勢の栗原亮一、備前の竹内正志、豊前の永田一二の諸氏、皆前後して土佐を訪ふて居る。

 

 翁が高知を訪ふたのは、板垣が四十二歳、翁は二十四歳の時である。此時翁は板垣に向つて 『決起の意志なきやを糺(だだ)した』 と、後年自ら語つて居るが、翁の決起とは恐らく挙兵の意味であつたらう。而も板垣は徹底せる合理主義者であり、立志社員の決起をさへ制止したのであるから、板垣の返事は翁を失望せしめたに相違ない。

 また板垣が力説せる自由民権の思想も、翁にとりては全く耳新しきものであり、その抱懐する尊皇思想と背馳するものの如く思はれた。さり乍ら自由民権の主張、民選議院設立の要望は、既に述べたる如く其の根底を明治維新の尊皇精神と同じくするものであり、皇室を永遠に安泰ならしめ奉るために、公論を以て政治を行はねばならぬとするものである。
 もと明治政府は広く英才を天下に求むることを標榜したが、年を経るに従つて維新の際に功勲を樹て、背後に武力を擁する薩長両藩が、自然に政権を掌握するやうになり、天皇を奉じて政治を専行すること、往年の幕府と異なるところ無からんとするかに見えた。

 皇政復古の真義を発揮するためには、官僚をして私曲を営む余地なからしめねばならぬ。輿論政治は東洋に於ても決して新奇な主張でない。孔孟の教へたる王道も、輿論政治と一致するものがある。例へば孟子が 『左右皆賢と曰(のたま)ふも未だ可ならざる也。諸大夫皆賢と曰ふも未だ可ならざる也。国人皆賢と曰ふ、然る後に之を察し、賢なるを見れば、然る後に之を用ふ。左右皆不可なりと曰ふも聴く勿れ。諸大夫皆不可なりと曰ふも聴く勿れ。国人皆不可と曰ふ、然る後に之を察し、不可なるを見れば、然る後に之を去る』 と言へるが如き是れである。

 

 板垣は翁に向つて、武力を以て政府と抗争するの不可なること、また仮令可なりとするも之を可能とする時代の既に去れることを説き、宜しく言論を以て武器に代へ、自由民権の旗印の下に、全国民の輿論を味方として藩閥政府と戦ふべきことを力説し、遂に翁を説得した。

 

 先是(これよりさき)明治七年一月、民選議院設立を建議し、愛国公党本誓を発表せる際、板垣は同志を会して安全幸福社を設けたが、翌八年二月、各地の有志を大阪に会し、之を愛国社と改称して同志の団結を図つた。然るに此年三月、所謂大阪会議の結果、板垣は再び参議に復して政府に入つたので、此の運動は暫く中絶の姿となつて居た。大久保の刺殺に昂奮して土佐に集まれる四方の有志は、いまや愛国社の再興を企て、翁を初めとし、杉田定一・栗原亮一等最も熱心に板垣に勧めて其の賛成を得た。 

 

 かくて栗原は愛国社再興趣意書を草し、栗原・杉田以下の諸有志、それぞれ畿内・北陸・山陽・山陰・四国・九州の各地に遊説して其志を告げることとなつた。頭山翁の晩年は沈黙を以て聞こえたが、土佐滞在の一個月中には、屡々立志社の演壇に立つて演説した。而して其の帰るに当りては、立志社中雄弁第一の称ありし植木枝盛を福岡に伴つた。

 

 福岡に帰れる翁は、直ちに演説会を開き、民権思想の鼓吹に全力を傾倒した。植木の雄弁は常に会場に溢れる聴衆を引付け、演説会は極めて盛況であつた。翁もまた屡々演壇に立つたが、態度荘重、音吐朗々、漢学の素養が相当に深かつたので、よく経史の章句を引用し、論旨また明瞭徹底、人をして其の意外の雄弁に驚かしめた。

 

 かかる間に愛国社再興の準備は着々進められ、明治十一年九月、大阪に第一回大会を開くこととなつた。
 土佐からは板垣を初め立志社の幹部西山志澄・植木枝盛・安岡道太郎・山本幸彦、福岡からは頭山翁及び平岡浩太郎・進藤喜平太、小倉からは杉生十郎、佐賀からは木原義四郎・鍋島克一・武富陽春、久留米からは川島澄之助、熊本からは佐野範太、宮崎からは宮村三太、福井からは杉田定一、三重からは栗原亮一、其他鳥取・岡山・松山・高松・愛知の各地から、皆一騎当千の士が参会した。結社式は九月十一・十二両日に亘りて盛大に挙行せられ、愛国社合議書を作り、全国響応して民間勢一を統一し、以て活発なる政治的運動を開始することとなつた。

 かくて大阪本部には立志社の山本幸彦・森脇直樹等幹事として社務に当り、植木枝盛・安岡道太郎・杉田定一・栗原亮一等は遊説員として全国各地に遊説するに決し、其他の出席者は各自の郷里に帰りて民論の鼓吹に努めることとなつた。此時より日本全国、各地に政治結社の勃興を見るに至った。

 

 明治十二年春、頭山翁等は向浜塾を閉ぢ、福岡本町に新に向陽社及び向陽義塾を設立し、箱田六輔を社長として、志ある青年の薫陶に従つた。塾は漢学の教師として高場乱女史、女史の従弟坂巻関太及び亀井紀十郎を聰し、法律・理科・英語の教師として一人の英国人を傭つた。当時は中学校が無かつた頃のこととて、多数の青年が来り学んだが、其中の人に後年支那公使となりし山座円次郎も居つた。

 

 一方愛国社は、此年三月第二回大会を大阪に開いたが、四国・九州・中国・大阪以東の四団体二十一社の代表者が集まつた。
 次で十一月第三回大会を又大阪に開いた。此時立志社員島地正存は、速かに国会の開設あらんことを天皇陛下に請願し奉るべしと建議し、多数の賛成を得て茲に国会開設請願運動を全国的に開始することを決議した。福岡に於ては此年十二月、之に応じて頭山翁・箱田・平岡・進藤等が相図り、此の運動のために筑前共愛同衆会を組織した。

 

 明治十三年は、国会開設請願運動のために、政界最も多事の年であつた。そは愛国社の首唱に基づくものであつたが、岡山県の志士が前年の暮、悲壮激越なる激文を四方に飛ばし、全国の新聞紙皆之を掲載して人心を教動せることが殊に与つて力あつた。
 而して翁等の筑前共愛同衆会は、逸早く箱田六輔及び南川正雄を総代として上京せしめ、一月十六日国会開設、条約改正の二件を元老院に建白し、次で岡山県有志総代もまた上京して建白書を元老院に提出した。

 かくして国会開設を要望する運動は澎湃として全国に起り、東西饗応して四方より建白書を提出するに至つた。而して愛国社は前年十一月の決議により、此年三月大阪に会合して国会開設請願書を作成し、片岡健吉・河野廣中の両人其の奉呈委員となり、東京・大阪・山形・福島・茨城・広島・愛媛・石川・島根・岐阜.堺.高知・福岡・宮城・新潟・兵庫・長野・愛知・岩手・長崎.徳島・大分・熊本・佐賀の一府二十二県総代九十七人、請願人無慮八万七千の代表として上京し、携ふるところの請願書を太政官に奉旱した。

 然るに太政官は、政治に関する人民の請願を受理する成規なしとの理由を以て、之を受理することを拒んだので、片岡・河野両人は更に之を元老院に呈した。而して元老院もまた建白書の外は受理する職権なしとして之を却下したので、両人は遂に請願の志を果さず、其の始末を各地の総代に報告した。

 

 政府は全国各地の有志が頻繁に総代を選んで上京せしめ、太政官の門前、国会詰願書を以て埋まり、新聞紙が盛んに之を報道し、政談演説が毎日都鄙(とひ)に開かれ、天下騒然として物情の穏かならざるを見、集会条例を発布して厳重に政治運動を取締つた。

 さきに請願書を斥けられたる愛国社は、社名を国会期成同盟会と改め、必ず国会の開設を見ざれば巳(や)まざるの意を示したが、集会条例のために検束せられて、各地の結社が互に通信往来すること能はざるに至つたので、更に会名を大日本国会期成有志公会と改め、普(あまね)く全国の同志を糾合し、此年十一月十日、二府二十二県十三万人の有志総代六十四名東京に会し、先づ議長以ドの委員を公選した。
 議長は河野廣中、副議長郡利、請願書起草委員には長野県の松沢求策、高知県の林包明、福岡県の箱田六輔、岩手県の鈴木舎定、群馬県の新井毫を挙げ、幹事には石川県の杉田定一、福岡県の小田切謙明、香月恕経、郡利、京都府の沢辺止修が選ばれた。

 

 此の会議に於て、有志者の或者は重ねて請願書を提出せんと主張し、或者は嚢(さき)に請願書を却下せる所以を以て政府を詰責せんと唱へ、其議未だ決せざる前に、或者は単に国会開設を期するのみならず、進んで自由主義の政党を樹立すべしと提議し、此等の政党論者は別に団結して自由党を組織した。

 此の自由党は国会期成同盟会とは別個の団体であり、当時は甚だ微力のものであつたが、翌十四年十月、国会開設の聖詔下りたる時、両者合して更めて自由党を組織し、板垣退助を総理に戴くに及んで、始めて大なる勢力となつた。

 

 さて土佐より帰りて福岡に民権運動の基礎を置いた後、明治十二年の暮、頭山翁は同志四人と共に薩・摩への旅を思ひ立つた。それは予て憧憬せる大西郷の故山を訪ひ、既同志を残存の薩南志士の問に求めるためであつた。
 一行は懐中無一文で、福岡から鹿児島まで徒歩で往つた。先づ武村に西郷の故宅を訪ふた。時に西郷家には、西郷が沖永良部島流謫(るたく)中に相識の間柄となれる川口雪蓬が、西郷の死後も其家に留まつて遺児の薫育に当つて居た。川口雪蓬は大塩平八郎の養子格之助であるとの説もあるが、未だ真偽を決し難い。

 

 とにかく罪ありて沖永良部島に流され、西郷に後れて赦された学者で、白髭を蓄へ、眼光燗々、犯し難い風手の老人であつた.翁の一行が来意を告げると、老人は慰勲に応対し乍ら言った。 『鹿児島は今や禿山となつた。先年までは天下有用の材が茂つて居たが悉く伐り倒された。今から苗を植付けても容易に大木とはならない。わけても西郷ほどの大木は百年に一本、干年に一本出るか出ないかだ』 と。

翁は晩年に当時のことを回想して、其頃の鹿児島は誠に川口老人の話の通り、何とも言へぬ寂しさであつたと述懐して居る。

 

 翁は川口老人から西郷の話を聞き、また其の遣品を見て、西郷に対する尊敬の念を深くした。此時老人は、西郷が愛読せる大塩平八郎の 『洗心洞箚記』 を翁に示した。西郷は幾度びか繰返して此書を読んだものと見え、摺り切れた箇所には自ら筆を執りて書入れたり、また紙の破れた箇処もあつた。また西郷愛蔵の大塩平八郎の書幅もあつたが、その表装が極めて立派なのを見て、翁は西郷が深く大塩に傾倒して居たことを知つた。

 翁は洗心洞箚記を借りて旅宿に帰り、熱心に之を読んだ。而して薩摩を出立する時に借りたまま福岡に持ち帰つた。川口老人は翁が秘蔵の本を無断で持ち去つたので大に怒り、其後福岡の有志が鹿児島に赴く毎に、翁の処置を非難した。翁は之を聞いて一書を川口老人に送り、折角拝借した以上は存分に味読したい、此書の精神を体得した上で返上すると告げ、其後程なく返送した。

            〔続〕 

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大川周明 『頭山満と近代日本』 (二) 征韓論と民選議院論  






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