石原莞爾『戦争史大観』
第三篇 戦争史大観の説明
第二章 戦争指導要領の変化
第五節 フリードリヒ大王の戦争
フリードリヒ大王が1740年5月31日、父王の死に依り王位に就いた時は年29で、
その領土は東プロイセンからライン河の間に散在し、人口250万に過ぎなかった。
当時墺(オーストリア)は1300万、フランス2000万、英国は950万の人口を有していたのである。
大王は祖国を欧州強国の列に入れんとする熱烈なる念願のため、
軍事的政治的に最も有利なるシュレージエン(当時人口130万)の領有を企図したのである。
シュレージエンはあたかも満州事変前の日本に対する満蒙の如きものであった。
あたかも良し同年9月20日ドイツ皇帝カール六世が死去したので、
これに乗じ些細の口実を以て防備薄弱なりしシュレージエンに侵入した。
弱国プロイセンに対する墺国女王マリア・テレジヤの反抗は執拗を極め、
大王は前後3回の戦争に依り漸くその領有を確実ならしめたのである。
大王終世の事業はシュレージエン問題の解決に在ったと見るも過言ではない。
終始一貫せる彼の方針、あらゆる困難を排除して目的を確保した不撓不屈の精神、
これが今日のドイツの勃興に与えた力は極めて偉大である。
ほとんど全欧州を向うに廻して行なった長年月にわたる持久戦争は
戦争研究者のため絶好の手本である。
仕事の外見は大きくないが、大王こそ持久戦争指導の最大名手であり、
七年戦争は正しく軍神の神技と云うべきである。
1、第一シュレージエン戦争(1740~42年)
大王は12月16日国境を越えてシュレージエンに侵入し、
二、三要塞を除きたちまち全シュレージエンを占領し、
1月末国境に監視兵を配置して冬営に入った。
バイエルン侯がフランスの援助に依りドイツ皇帝の帝位を争い、
墺国と交戦状態に在ったため、
大王は墺国は自分に対して充分なる兵力を使用することが出来ないだろうと考えていたのに、
1741年4月初め突如墺軍が国境を越えて攻撃し来たり、
大王の軍は冬営中を急襲せらるるに至った。
普(プロイセン)軍は狼狽して集結を図り、
4月10日モルウィッツ附近に於て会戦を交え普軍は辛うじて勝利を得た。
墺軍はナイセ要塞に後退し、爾後両軍相対峙する事となった。
大王と墺軍の間には複雑怪奇の外交的躯引が行なわれ、
墺軍は大王と妥協して10月シュレージエンを捨て巴(バイエルン)・仏軍に向ったが
大王は墺軍の誠意なきを見て一部の兵を率いてメーレンに侵入し、
ベーメンに進出して来た巴・仏軍と策応したのである。
しかるに墺軍は逆にドナウ河に沿うてバイエルンに侵入し、
ために連合軍の形勢不利となり墺軍は大王に対して有力なる部隊を差向ける事となったのである。
そこで大王は1742年4月ベーメンに退却し、後図を策する考えであった。
墺軍はこれを圧して迫り来たり、
大王の戦勢頗る危険であったが、大王は5月17日コツウジッツに於てこれを迎え撃ち、
勝利を得たのである。
全般の形勢は連合側に不利であったが、
英国の斡旋で大王は6月11日墺軍とブレスラウの講和を結び、
シュレージエンを獲えた。
2、第二シュレージエン戦争(1744~45年)
大王が戦後の回復に努力しつつある間、
墺英両国は仏・巴軍を圧してライン河畔に進出した。
大王はいたずらに待つ時は墺国より攻撃せらるるを察知し、
再び仏・巴と結び1744年8月一部をもってシュレージエン、
主力を以てザクセンよりベーメンに入り、
9月18日プラーグを攻略した。
プラーグ要塞は当時ほとんど構築せられていなかったのである。
大王は同地に止まって敵を待つ事が当時の用兵術としては最も穏健な策であったが(大王自身の反省)、
軍事的に自信力を得た大王は更に南方に進み、
墺軍の交通線を脅威して墺軍を屈伏せしめんとしたが、
仏軍の無為に乗じて墺将カールはライン方面より転進し来たり、
ザクセン軍を合して大王に迫って来た。
カールの謀将トラウンの用兵術巧妙を極め、
巧みに大王の軍を抑留し、その間奇兵を以て大王の背後を脅威する。
大王が会戦を求めんとせば適切なる陣地を占めてこれを回避する。
大王は食糧欠乏、患者続出、寒気加わり、遂に大なる危険を冒しつつ、
シュレージエンに退却の余儀なきに至った。
トラウンは巧妙なる機動に依り一戦をも交えないで大王に甚大なる損害を与え、
その全占領地を回復したのである。
外交状態も大王に利なく1744年遂に大王は戦略的守勢に立つの他なきに至った。
そこで大王は兵力をシュワイドニッツ南方地区に集結、
敵の山地進出に乗ずる決心をとった。
敵が慎重な行動に出たならば大王の計画は容易でなかったと思われるが、
大王は巧妙なる反面の策に依り敵を誘致し得て、
6月4日ホーヘンフリードベルクの会戦となり大王の大勝となった。
この会戦は第一、第二シュレージエン戦争中王自ら進んで企て自ら指揮したほとんど唯一の会戦であり(大王が最も困難な時会戦を求めたのである)、
大王が名将たる事を証した重要なるものであるが、
全戦争に対する作用はそう大した事は無く、敵はケーニヒグレッツ附近に止まり、
王は徐々に追撃してその前面に進出、数カ月の対峙となった。
けれども大王は兵力を分散しかつ糧秣欠乏し、
遂に北方に退却の止むなきに至った。
墺軍はこれに追尾し来たり、
9月30日ゾール附近に於て大王の退路近くに現出した。
大王はこれを見て果敢に攻撃を行ない敵に一大打撃を与えたけれども、
永くベーメンに留まる事が出来ず、10月中旬シュレージエンに退却冬営に就いた。
しかるに墺軍は一部をもってライプチヒ方向よりベルリン方向に迫り、
カール親王の主力はラウジッツに進入これに策応した。
そこで大王はシュレージエンの軍を進めてカールに迫ったのでカールはベーメンに後退した。
大王は外交の力に依ってザクセンを屈せんとしたが目的を達し難いので、
ザクセン方向に作戦していたアンハルト公を督励して、
12月15日ザクセン軍をケッセルスドルフに攻撃せしめ遂にこれを破った。
大王はこの日ドレスデン西北方20キロのマイセンに止まり、
カールはドレスデンに位置して両軍の主力は会戦に参加しなかったのである。
カールは再戦を辞せぬ決心であったが、
ザクセン軍は志気阻喪して12月25日遂にドレスデンの講和成立し、
ブレスラウ条約を確認せしめた。
3、七年戦争(1756~62年)
第2シュレージエン戦争後七年戦争までの10年間
大王は国力の増進と特に前ニ戦争の体験に基づき軍隊の強化訓練に全力を尽し、
自ら数個の戦術書を起案した。
かくて大王はその軍隊を世界最精鋭のものと確信するに至ったのである。
この10カ年間の大王の努力は戦争研究者の特に注目すべきところである。
イ、1756年
墺国の外交は着々成功し露、スウェーデン、索(ザクセン)、巴等の諸邦をその傘下に糾合し得たるに対し、
大王は英国と近接した。
また大王は墺国のシュレージエン回復計画の進みつつあるを知り、
1756年開戦に決して8月下旬ザクセンに進入、10月中旬頃ザクセン軍主力を降服せしめ、同国の領有を確実にした。
ロ、1757年
敵国側の団結は予想以上に鞏固(きょうこ)で1757年のため約40万の兵力を使用し得るに対し、
大王はその半数をもってこれに対応することとなった。
大王は熟慮の後ベーメン侵入に決し、
冬営地より諸軍をプラーグ附近に向い集中前進せしめた。
この前進は当時の用兵上より云えば余りに大胆なものであり種々論評せらるるところであるが、
大王10年間の研究、訓練に基づく自信力の結果でよく敵の不意に乗じ得たのである。
5月6日プラーグ東方地区で墺軍を破り、これをプラーグ城内に圧迫した。
プラーグは当時既に相当の要塞になっていたので簡単に攻略する事が出来ず、
5月29日より始めた砲撃も弾薬不充分で目的を達しかねた。
ところが墺将ダウンが近接し来たり、
巧みに大王の攻囲を妨げるので大王は止むなく手兵を率いてこれに迫り、
6月18日コリン附近でダウンの陣地を攻撃した。
しかしながら大王軍は遂に大敗し、
止むなくプラーグの攻囲を解き、
一部をもってシュレージエン方向に主力はザクセンに退却した。
大王のコリンの失敗はほとんど致命的と云うべき結果であったのに、
更に仏・巴軍が西方および西南方より迫り来たったので形勢愈々急である。
幸い墺軍の行動活発ならざるに乗じ大王は西方より迫り来たる敵に一撃を与えんとした。
敵は巧みにこれを避け大王をして奔命に疲れしむるとともに
墺軍主力はシュレージエンの占領を企図したので、
大王も弱り抜いて10月下旬遂にシュレージエンに転進するに決した。
その時西方の敵再び前進し来たるの報告に接しただちにこれに向い、
11月5日2万2千の兵力をもって6万の敵をロスバハに迎撃、
これに甚大の損害を与えた。
この一戦はほとんど絶望の涯てに在った普国を再生の思いあらしめた。
しかしシュレージエン方面の状況が甚だ切迫して来たのでただちにこれに転進、
途中ブレスラウの陥落を耳にしつつ前進、12月5日有名なロイテンの会戦となった。
この会戦は3万5千をもって墺軍の6万5千に徹底的打撃を与えた、
大王の会戦中の最高作品であり、
大王のほとんど全会戦を批難したナポレオンさえ百世の模範なりとして極力賞讃したのである。
墺軍はシュレージエンに進入した9万中僅かにその四分の一を掌握し得、
大王は約44万の捕虜を得てシュワイドニッツ要塞以外の全シュレージエンを回復、
平和への希望を得て冬営についた。
ハ、1758年
マリア・テレジヤの戦意旺盛にして平和の望みは絶え、
露軍は昨年東普に侵入退却したが、
この年1月22日遂にケーニヒグレッツを占領し、
夏にはオーデル河畔に進出を予期せねばならぬ。
幸いロスバハ、ロイテンの戦果に依り英の態度積極的となり、
仏に対する顧慮は甚だしく減少した。
しかし大王の戦力も大いに消耗、
もはや大規模な攻勢作戦を許さない。
またいたずらに守勢に立つは大王の性格これを許さぬ。
ここに於て大王はなるべく遠く墺軍を支え、
為し得ればこれに一撃を与え、
露軍の近迫に際し動作の余地を有するを目的とし、
4月中旬シュワイドニッツ攻略後主力をもってメーレンに侵入、
オルミュッツ要塞を攻略するに決心した。
あたかも1916年ファルケンハインの
いわゆる「制限目的をもってする攻勢」であるベルダン攻撃に似ている。
5月22日から攻囲を開始したが、
敵将ダウンの消耗戦略巧妙を極めて大王を苦しめ、
6月30日4千輛よりなる大王の大縦列を襲撃潰滅せしめた。
大王は躊躇する事なく攻城を解き、8月初め主力をもってランデスフートに退却した。
露軍は8月中旬オーデル河畔に現われスウェーデン軍また南下し来たったので、
大王は主力をもって墺軍に対せしめ、
自ら一部をもって露軍に向い、
8月25日ズォルンドルフ附近に於て露軍と変化多き激戦を交え、
辛うじてこれを撃退した。
大王の損害も大きかったが露軍は墺軍の無為を怒り、
遠く退却して大王の負担を減じた。
墺軍主力はラウジッツ方面よりザクセンに作戦し、
西南方より前進して来た帝国軍(神聖ローマ帝国に属する南ドイツ諸小邦の軍隊)と協力してザクセンを狙い、
虚に乗じて一部はシュレージエンを攪乱した。
大王は寡兵をもって常に積極的にこれに当ったが、
ダウンの作戦また頗る巧妙で虚々実々いわゆる機動作戦の妙を発揮した。
10月14日大王はホホキルヒで敵に撃破せられたけれども大体に於て能く敵を圧し、
遂にほとんど完全に敵を我が占領地区より駆逐して冬営に移る事が出来た。
この戦は両将の作戦巧妙を極めたが、
結局会戦に自信のある大王がよく寡兵をもって大勢を制し得たのである。
ニ、1759年
辛うじてその占領地を保持し得た大王も、
昨年暮以来墺軍の防禦法は大いに進歩し、
特に有利なる場合のほか攻撃至難となった旨を述べている。
大王の戦力は更に低下して最早攻勢作戦の力無く、
止むなく兵力を下シュレージエンに集結、
敵の進出を待つ事となった。
6月末露軍がオーデル河畔に出て来るとダウンは初めて行動を起し、
ラウジッツに出て来たが、
行動例に依って巧妙で大王に攻撃の機会を与えない。
大王は止むなく墺軍を放置して露軍に向い、
8月12日クーネルスドルフの堅固なる陣地を攻撃、
一角を奪取したけれども遂に大敗し、
さすがの大王もこの夜は万事終れりとし自殺を決心したが、
露軍の損害また大きく、殊に墺軍との感情不良で共同動作適切を欠き、
大王に英気を回復せしめた。
9月4日ドレスデンは陥落した。
露軍はシュレージエンに冬営せんとしたが
大王の巧妙なる作戦に依り遂に10月下旬遠く東方に退却した。
大王はこの頃激烈なるリウマチスに冒されブレスラウに病臥中、
カール12世伝を書いて彼の軽挙暴進の作戦を戒め、
会戦は敵の不意に乗じ得るかまたは決戦に依り、
敵に平和を強制し得る時に限らざるべからずと述べている。
病気回復後、大王はザクセンを回復せんと努力したが、
11月21日その部将フンクがマキセン附近でダウンに包囲せられて降伏し、
墺軍はドレスデンを固守し両軍近く相対して冬営する事となった。
ホ、1760年
大王の形勢ますます不良、
クラウゼウィッツの言う如く
敵の過失を発見してこれに乗ずる以外また策の施すべき術もない有様となった。
ダウンは自ら大王をザクセンに抑留し、
驍将ラウドンをしてシュレージエンに作戦せしめた。
大王は再三シュレージエンの危急を救わんとしたが、
ダウンは毎度巧みに大王の行動を妨げてこれをザクセンに抑留した。
しかしシュレージエンの形勢ますます悪化するので大王は8月初め断固東進、
8月10日リーグニッツ西南方地区に陣地を占めた。
ダウンは大王と前後して東進、
ラウドンを合して10万となり、
3万の大王を攻撃する決心を取って更に露軍をオーデル左岸に誘致するに勉めた。
大王は苦境を脱するため種々苦心し色々の機動を試みたが、
14日払暁突如ラウドンと衝突、
適切機敏なる指揮に依りこれを撃破した。
リーグニッツの不期戦は風前の灯火の感あった大王を救った。
大王は一部をもって露軍を監視、
主力をもってダウンをベーメンに圧迫せんとしたが、
露軍と墺軍の一部は10月4日ベルリンを占領したので急遽これが救出に赴いた。
露軍の危険は去ったので是非ザクセンを回復せんとして南下したが、
ダウンはトルゴウに陣地を占めたので大王は遂に決心してこれを力攻した。
大損害を受け辛うじて敵を撃退し得たがダウンは依然ドレスデンを固守して冬営に移った。
トルゴウの会戦は1918年のドイツ軍攻勢にも比すべきものである。
ともに困難の極に達したドイツ軍が運命打開のため試みた最後的努力である。
ただし大王は1918年と異なりなお存在を持続し得たのである。
ヘ、1761年
同盟軍はダウンをして大王の軍をザクセンに抑留し、
ラウドンおよび露軍をもってシュレージエンおよびポンメルンに侵入せんと企てた。
大王は一部をザクセンに止めて自らシュレージエンに赴き、
ラウドンと露軍の合一を妨げ、
機会あらば一撃を加えんとしたが敵の行動また巧妙で
遂に8月中旬5万5千の兵をもって15万の敵に対し、
シュワイドニッツ附近のブンツェルウッツに陣地を占め、
全く戦術的守勢となった。
露軍はその後退却したがラウドンは大王の隙に乗じてシュワイドニッツを奪取、
墺軍は初めてシュレージエンに冬営する事となり、
北方の露軍また遂にコールベルクを陥してポンメルンに冬営するに至った。
ト、1762年
ナポレオン曰く「大王の形勢今や極度に不利なり」と。
しかし天はこの稀代の英傑を棄てなかった。
1762年1月19日すなわち大王悲境のドン底に於て露女王の死を報じて来た。
後嗣ペーテル三世は大の大王崇拝者で5月5日平和は成り、
2万の援兵まで約束したのである。
スウェーデンとの平和も次いで成立した。
大王はこの有利なる形勢の急転後、
熟慮を重ねてその作戦目標をシュレージエンおよびザクセンに限定した。
しかも極力会戦を避け、
必要以上にマリア女王の敵愾心の刺戟を避けその屈服を企図したのである。
露援軍の来着を待って7月行動を起し、
シュワイドニッツ南方にあった墺軍陣地に迫り、これを力攻する事なく、
一部をもって敵の側背を攻撃せしめて山中に圧迫、
更に10月9日シュワイドニッツを攻略、ザクセンに向い、
ドレスデンは依然敵手にあったが他の全ザクセンを回復し、
一部の兵を進めて南ドイツの諸小邦を屈服せしめた。
英仏間には11月3日仮平和条約なり、さすがのマリア・テレジヤも遂に屈服、
1763年2月15日フーベルスブルグの講和成立、大王は初めてシュレージエンの領有を確実にしたのである。
クラウゼウィッツは大王の戦争を、
1757年を会戦の戦役、
1758年を攻囲の戦役、
1759~60年を行軍および機動の戦役、
1761年を構築陣地の戦役、
1762年を威嚇の戦役、
と称しているが、戦争力の低下に従って止むなく逐次戦略を変換して来た。
そして状況に応ずる如くその戦略を運用し、
最悪の場合にも毅然として天才を発揮し、
全欧州を敵として良く七年の持久戦争に堪えその戦争目的を達成した。
それには大王の優れたる軍事的能力が最も大なる作用を為しているが、
しかし良く戦争目的を確保し、
有利の場合も悲境の場合も毫も動揺しなかった事が一大原因である事を忘れてはならぬ。
持久戦争に於ては特に目前の戦況に眩惑し、
縁日商人の如く戦争目的即ち講和条件を変更する事は厳に慎まねばならぬ。
第一次欧州大戦ではドイツは遂に定まった戦争目的なく
(決戦戦争より戦争に入ったため無理からぬ点が多い)、
戦争後になって、戦争目的が論じられている有様であった。
そしてこれが政戦略の常に不一致であった根本原因をなしている。
【続く】 石原莞爾 『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第二章 戦争指導要領の変化 第六節 ナポレオンの戦争