日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第二章 戦争指導要領の変化 第五説 フリードリヒ大王の戦争

2018-08-14 09:37:54 | 石原莞爾


     石原莞爾『戦争史大観』
     第三篇 戦争史大観の説明
 

  第二章 戦争指導要領の変化


第五節 フリードリヒ大王の戦争

 フリードリヒ大王が1740年5月31日、父王の死に依り王位に就いた時は年29で、
その領土は東プロイセンからライン河の間に散在し、人口250万に過ぎなかった。
当時墺(オーストリア)は1300万、フランス2000万、英国は950万の人口を有していたのである。


 大王は祖国を欧州強国の列に入れんとする熱烈なる念願のため、
軍事的政治的に最も有利なるシュレージエン(当時人口130万)の領有を企図したのである。
シュレージエンはあたかも満州事変前の日本に対する満蒙の如きものであった。

 あたかも良し同年9月20日ドイツ皇帝カール六世が死去したので、
これに乗じ些細の口実を以て防備薄弱なりしシュレージエンに侵入した。


 弱国プロイセンに対する墺国女王マリア・テレジヤの反抗は執拗を極め、
大王は前後3回の戦争に依り漸くその領有を確実ならしめたのである。

 大王終世の事業はシュレージエン問題の解決に在ったと見るも過言ではない。
終始一貫せる彼の方針、あらゆる困難を排除して目的を確保した不撓不屈の精神、
これが今日のドイツの勃興に与えた力は極めて偉大である。

 ほとんど全欧州を向うに廻して行なった長年月にわたる持久戦争は
戦争研究者のため絶好の手本である。
 仕事の外見は大きくないが、大王こそ持久戦争指導の最大名手であり、
七年戦争は正しく軍神の神技と云うべきである。


 1、第一シュレージエン戦争(1740~42年)

 大王は12月16日国境を越えてシュレージエンに侵入し、
二、三要塞を除きたちまち全シュレージエンを占領し、
1月末国境に監視兵を配置して冬営に入った。

 バイエルン侯がフランスの援助に依りドイツ皇帝の帝位を争い、
墺国と交戦状態に在ったため、
大王は墺国は自分に対して充分なる兵力を使用することが出来ないだろうと考えていたのに、
1741年4月初め突如墺軍が国境を越えて攻撃し来たり、
大王の軍は冬営中を急襲せらるるに至った。

 普(プロイセン)軍は狼狽して集結を図り、
4月10日モルウィッツ附近に於て会戦を交え普軍は辛うじて勝利を得た。
墺軍はナイセ要塞に後退し、爾後両軍相対峙する事となった。


 大王と墺軍の間には複雑怪奇の外交的躯引が行なわれ、
墺軍は大王と妥協して10月シュレージエンを捨て巴(バイエルン)・仏軍に向ったが
大王は墺軍の誠意なきを見て一部の兵を率いてメーレンに侵入し、
ベーメンに進出して来た巴・仏軍と策応したのである。

 しかるに墺軍は逆にドナウ河に沿うてバイエルンに侵入し、
ために連合軍の形勢不利となり墺軍は大王に対して有力なる部隊を差向ける事となったのである。
そこで大王は1742年4月ベーメンに退却し、後図を策する考えであった。

 墺軍はこれを圧して迫り来たり、
大王の戦勢頗る危険であったが、大王は5月17日コツウジッツに於てこれを迎え撃ち、
勝利を得たのである。

 全般の形勢は連合側に不利であったが、
英国の斡旋で大王は6月11日墺軍とブレスラウの講和を結び、
シュレージエンを獲えた。


 2、第二シュレージエン戦争(1744~45年)

 大王が戦後の回復に努力しつつある間、
墺英両国は仏・巴軍を圧してライン河畔に進出した。

 大王はいたずらに待つ時は墺国より攻撃せらるるを察知し、
再び仏・巴と結び1744年8月一部をもってシュレージエン、
主力を以てザクセンよりベーメンに入り、
9月18日プラーグを攻略した。
 プラーグ要塞は当時ほとんど構築せられていなかったのである。

 大王は同地に止まって敵を待つ事が当時の用兵術としては最も穏健な策であったが(大王自身の反省)、
軍事的に自信力を得た大王は更に南方に進み、
墺軍の交通線を脅威して墺軍を屈伏せしめんとしたが、
仏軍の無為に乗じて墺将カールはライン方面より転進し来たり、
ザクセン軍を合して大王に迫って来た。

 カールの謀将トラウンの用兵術巧妙を極め、
巧みに大王の軍を抑留し、その間奇兵を以て大王の背後を脅威する。

 大王が会戦を求めんとせば適切なる陣地を占めてこれを回避する。
大王は食糧欠乏、患者続出、寒気加わり、遂に大なる危険を冒しつつ、
シュレージエンに退却の余儀なきに至った。

 トラウンは巧妙なる機動に依り一戦をも交えないで大王に甚大なる損害を与え、
その全占領地を回復したのである。

 外交状態も大王に利なく1744年遂に大王は戦略的守勢に立つの他なきに至った。
そこで大王は兵力をシュワイドニッツ南方地区に集結、
敵の山地進出に乗ずる決心をとった。

 敵が慎重な行動に出たならば大王の計画は容易でなかったと思われるが、
大王は巧妙なる反面の策に依り敵を誘致し得て、
6月4日ホーヘンフリードベルクの会戦となり大王の大勝となった。


 この会戦は第一、第二シュレージエン戦争中王自ら進んで企て自ら指揮したほとんど唯一の会戦であり(大王が最も困難な時会戦を求めたのである)、
大王が名将たる事を証した重要なるものであるが、
全戦争に対する作用はそう大した事は無く、敵はケーニヒグレッツ附近に止まり、
王は徐々に追撃してその前面に進出、数カ月の対峙となった。

 けれども大王は兵力を分散しかつ糧秣欠乏し、
遂に北方に退却の止むなきに至った。

 墺軍はこれに追尾し来たり、
9月30日ゾール附近に於て大王の退路近くに現出した。

 大王はこれを見て果敢に攻撃を行ない敵に一大打撃を与えたけれども、
永くベーメンに留まる事が出来ず、10月中旬シュレージエンに退却冬営に就いた。

 しかるに墺軍は一部をもってライプチヒ方向よりベルリン方向に迫り、
カール親王の主力はラウジッツに進入これに策応した。

 そこで大王はシュレージエンの軍を進めてカールに迫ったのでカールはベーメンに後退した。

 大王は外交の力に依ってザクセンを屈せんとしたが目的を達し難いので、
ザクセン方向に作戦していたアンハルト公を督励して、
12月15日ザクセン軍をケッセルスドルフに攻撃せしめ遂にこれを破った。

 大王はこの日ドレスデン西北方20キロのマイセンに止まり、
カールはドレスデンに位置して両軍の主力は会戦に参加しなかったのである。

 カールは再戦を辞せぬ決心であったが、
ザクセン軍は志気阻喪して12月25日遂にドレスデンの講和成立し、
ブレスラウ条約を確認せしめた。


 3、七年戦争(1756~62年)

 第2シュレージエン戦争後七年戦争までの10年間
大王は国力の増進と特に前ニ戦争の体験に基づき軍隊の強化訓練に全力を尽し、
自ら数個の戦術書を起案した。

 かくて大王はその軍隊を世界最精鋭のものと確信するに至ったのである。
この10カ年間の大王の努力は戦争研究者の特に注目すべきところである。


 イ、1756年
 
 墺国の外交は着々成功し露、スウェーデン、索(ザクセン)、巴等の諸邦をその傘下に糾合し得たるに対し、
大王は英国と近接した。

 また大王は墺国のシュレージエン回復計画の進みつつあるを知り、
1756年開戦に決して8月下旬ザクセンに進入、10月中旬頃ザクセン軍主力を降服せしめ、同国の領有を確実にした。

 

 ロ、1757年

 敵国側の団結は予想以上に鞏固(きょうこ)で1757年のため約40万の兵力を使用し得るに対し、
大王はその半数をもってこれに対応することとなった。

 大王は熟慮の後ベーメン侵入に決し、
冬営地より諸軍をプラーグ附近に向い集中前進せしめた。

 この前進は当時の用兵上より云えば余りに大胆なものであり種々論評せらるるところであるが、
大王10年間の研究、訓練に基づく自信力の結果でよく敵の不意に乗じ得たのである。

 5月6日プラーグ東方地区で墺軍を破り、これをプラーグ城内に圧迫した。
プラーグは当時既に相当の要塞になっていたので簡単に攻略する事が出来ず、
5月29日より始めた砲撃も弾薬不充分で目的を達しかねた。

 ところが墺将ダウンが近接し来たり、
巧みに大王の攻囲を妨げるので大王は止むなく手兵を率いてこれに迫り、
6月18日コリン附近でダウンの陣地を攻撃した。

 しかしながら大王軍は遂に大敗し、
止むなくプラーグの攻囲を解き、
一部をもってシュレージエン方向に主力はザクセンに退却した。


 大王のコリンの失敗はほとんど致命的と云うべき結果であったのに、
更に仏・巴軍が西方および西南方より迫り来たったので形勢愈々急である。

幸い墺軍の行動活発ならざるに乗じ大王は西方より迫り来たる敵に一撃を与えんとした。

 敵は巧みにこれを避け大王をして奔命に疲れしむるとともに
墺軍主力はシュレージエンの占領を企図したので、
大王も弱り抜いて10月下旬遂にシュレージエンに転進するに決した。

 その時西方の敵再び前進し来たるの報告に接しただちにこれに向い、
11月5日2万2千の兵力をもって6万の敵をロスバハに迎撃、
これに甚大の損害を与えた。


 この一戦はほとんど絶望の涯てに在った普国を再生の思いあらしめた。
しかしシュレージエン方面の状況が甚だ切迫して来たのでただちにこれに転進、
途中ブレスラウの陥落を耳にしつつ前進、12月5日有名なロイテンの会戦となった。

 この会戦は3万5千をもって墺軍の6万5千に徹底的打撃を与えた、
大王の会戦中の最高作品であり、
大王のほとんど全会戦を批難したナポレオンさえ百世の模範なりとして極力賞讃したのである。

 墺軍はシュレージエンに進入した9万中僅かにその四分の一を掌握し得、
大王は約44万の捕虜を得てシュワイドニッツ要塞以外の全シュレージエンを回復、
平和への希望を得て冬営についた。


 ハ、1758年

 マリア・テレジヤの戦意旺盛にして平和の望みは絶え、
露軍は昨年東普に侵入退却したが、
この年1月22日遂にケーニヒグレッツを占領し、
夏にはオーデル河畔に進出を予期せねばならぬ。

 幸いロスバハ、ロイテンの戦果に依り英の態度積極的となり、
仏に対する顧慮は甚だしく減少した。

 しかし大王の戦力も大いに消耗、
もはや大規模な攻勢作戦を許さない。
またいたずらに守勢に立つは大王の性格これを許さぬ。

 ここに於て大王はなるべく遠く墺軍を支え、
為し得ればこれに一撃を与え、
露軍の近迫に際し動作の余地を有するを目的とし、
4月中旬シュワイドニッツ攻略後主力をもってメーレンに侵入、
オルミュッツ要塞を攻略するに決心した。

 あたかも1916年ファルケンハインの
いわゆる「制限目的をもってする攻勢」であるベルダン攻撃に似ている。

 5月22日から攻囲を開始したが、
敵将ダウンの消耗戦略巧妙を極めて大王を苦しめ、
6月30日4千輛よりなる大王の大縦列を襲撃潰滅せしめた。
大王は躊躇する事なく攻城を解き、8月初め主力をもってランデスフートに退却した。

 露軍は8月中旬オーデル河畔に現われスウェーデン軍また南下し来たったので、
大王は主力をもって墺軍に対せしめ、
自ら一部をもって露軍に向い、
8月25日ズォルンドルフ附近に於て露軍と変化多き激戦を交え、
辛うじてこれを撃退した。

 大王の損害も大きかったが露軍は墺軍の無為を怒り、
遠く退却して大王の負担を減じた。


 墺軍主力はラウジッツ方面よりザクセンに作戦し、
西南方より前進して来た帝国軍(神聖ローマ帝国に属する南ドイツ諸小邦の軍隊)と協力してザクセンを狙い、
虚に乗じて一部はシュレージエンを攪乱した。

 大王は寡兵をもって常に積極的にこれに当ったが、
ダウンの作戦また頗る巧妙で虚々実々いわゆる機動作戦の妙を発揮した。

 10月14日大王はホホキルヒで敵に撃破せられたけれども大体に於て能く敵を圧し、
遂にほとんど完全に敵を我が占領地区より駆逐して冬営に移る事が出来た。

 この戦は両将の作戦巧妙を極めたが、
結局会戦に自信のある大王がよく寡兵をもって大勢を制し得たのである。

 ニ、1759年

 辛うじてその占領地を保持し得た大王も、
昨年暮以来墺軍の防禦法は大いに進歩し、
特に有利なる場合のほか攻撃至難となった旨を述べている。

 大王の戦力は更に低下して最早攻勢作戦の力無く、
止むなく兵力を下シュレージエンに集結、
敵の進出を待つ事となった。


 6月末露軍がオーデル河畔に出て来るとダウンは初めて行動を起し、
ラウジッツに出て来たが、
行動例に依って巧妙で大王に攻撃の機会を与えない。

 大王は止むなく墺軍を放置して露軍に向い、
8月12日クーネルスドルフの堅固なる陣地を攻撃、
一角を奪取したけれども遂に大敗し、
さすがの大王もこの夜は万事終れりとし自殺を決心したが、
露軍の損害また大きく、殊に墺軍との感情不良で共同動作適切を欠き、
大王に英気を回復せしめた。


 9月4日ドレスデンは陥落した。
露軍はシュレージエンに冬営せんとしたが
大王の巧妙なる作戦に依り遂に10月下旬遠く東方に退却した。

 大王はこの頃激烈なるリウマチスに冒されブレスラウに病臥中、
カール12世伝を書いて彼の軽挙暴進の作戦を戒め、
会戦は敵の不意に乗じ得るかまたは決戦に依り、
敵に平和を強制し得る時に限らざるべからずと述べている。

 病気回復後、大王はザクセンを回復せんと努力したが、
11月21日その部将フンクがマキセン附近でダウンに包囲せられて降伏し、
墺軍はドレスデンを固守し両軍近く相対して冬営する事となった。


 ホ、1760年

 大王の形勢ますます不良、
クラウゼウィッツの言う如く
敵の過失を発見してこれに乗ずる以外また策の施すべき術もない有様となった。


 ダウンは自ら大王をザクセンに抑留し、
驍将ラウドンをしてシュレージエンに作戦せしめた。

 大王は再三シュレージエンの危急を救わんとしたが、
ダウンは毎度巧みに大王の行動を妨げてこれをザクセンに抑留した。

 しかしシュレージエンの形勢ますます悪化するので大王は8月初め断固東進、
8月10日リーグニッツ西南方地区に陣地を占めた。

 ダウンは大王と前後して東進、
ラウドンを合して10万となり、
3万の大王を攻撃する決心を取って更に露軍をオーデル左岸に誘致するに勉めた。

 大王は苦境を脱するため種々苦心し色々の機動を試みたが、
14日払暁突如ラウドンと衝突、
適切機敏なる指揮に依りこれを撃破した。

 リーグニッツの不期戦は風前の灯火の感あった大王を救った。
大王は一部をもって露軍を監視、
主力をもってダウンをベーメンに圧迫せんとしたが、
露軍と墺軍の一部は10月4日ベルリンを占領したので急遽これが救出に赴いた。

 露軍の危険は去ったので是非ザクセンを回復せんとして南下したが、
ダウンはトルゴウに陣地を占めたので大王は遂に決心してこれを力攻した。
大損害を受け辛うじて敵を撃退し得たがダウンは依然ドレスデンを固守して冬営に移った。

 トルゴウの会戦は1918年のドイツ軍攻勢にも比すべきものである。
ともに困難の極に達したドイツ軍が運命打開のため試みた最後的努力である。
ただし大王は1918年と異なりなお存在を持続し得たのである。


 ヘ、1761年


  同盟軍はダウンをして大王の軍をザクセンに抑留し、
ラウドンおよび露軍をもってシュレージエンおよびポンメルンに侵入せんと企てた。

 大王は一部をザクセンに止めて自らシュレージエンに赴き、
ラウドンと露軍の合一を妨げ、
機会あらば一撃を加えんとしたが敵の行動また巧妙で
遂に8月中旬5万5千の兵をもって15万の敵に対し、
シュワイドニッツ附近のブンツェルウッツに陣地を占め、
全く戦術的守勢となった。

 露軍はその後退却したがラウドンは大王の隙に乗じてシュワイドニッツを奪取、
墺軍は初めてシュレージエンに冬営する事となり、
北方の露軍また遂にコールベルクを陥してポンメルンに冬営するに至った。


 ト、1762年

 ナポレオン曰く「大王の形勢今や極度に不利なり」と。

 しかし天はこの稀代の英傑を棄てなかった。
1762年1月19日すなわち大王悲境のドン底に於て露女王の死を報じて来た。
後嗣ペーテル三世は大の大王崇拝者で5月5日平和は成り、
2万の援兵まで約束したのである。
スウェーデンとの平和も次いで成立した。

 大王はこの有利なる形勢の急転後、
熟慮を重ねてその作戦目標をシュレージエンおよびザクセンに限定した。

 しかも極力会戦を避け、
必要以上にマリア女王の敵愾心の刺戟を避けその屈服を企図したのである。


 露援軍の来着を待って7月行動を起し、
シュワイドニッツ南方にあった墺軍陣地に迫り、これを力攻する事なく、
一部をもって敵の側背を攻撃せしめて山中に圧迫、
更に10月9日シュワイドニッツを攻略、ザクセンに向い、
ドレスデンは依然敵手にあったが他の全ザクセンを回復し、
一部の兵を進めて南ドイツの諸小邦を屈服せしめた。
  

 英仏間には11月3日仮平和条約なり、さすがのマリア・テレジヤも遂に屈服、
1763年2月15日フーベルスブルグの講和成立、大王は初めてシュレージエンの領有を確実にしたのである。


 クラウゼウィッツは大王の戦争を、

  1757年を会戦の戦役、
  1758年を攻囲の戦役、
  1759~60年を行軍および機動の戦役、
  1761年を構築陣地の戦役、
  1762年を威嚇の戦役、
と称しているが、戦争力の低下に従って止むなく逐次戦略を変換して来た。

 そして状況に応ずる如くその戦略を運用し、
最悪の場合にも毅然として天才を発揮し、
全欧州を敵として良く七年の持久戦争に堪えその戦争目的を達成した。


 それには大王の優れたる軍事的能力が最も大なる作用を為しているが、
しかし良く戦争目的を確保し、
有利の場合も悲境の場合も毫も動揺しなかった事が一大原因である事を忘れてはならぬ。


 
 持久戦争に於ては特に目前の戦況に眩惑し、
縁日商人の如く戦争目的即ち講和条件を変更する事は厳に慎まねばならぬ。


 第一次欧州大戦ではドイツは遂に定まった戦争目的なく
(決戦戦争より戦争に入ったため無理からぬ点が多い)、
戦争後になって、戦争目的が論じられている有様であった。 

 そしてこれが政戦略の常に不一致であった根本原因をなしている。


【続く】 
石原莞爾 『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第二章 戦争指導要領の変化 第六節 ナポレオンの戦争

 


『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第六章 将来戦争の予想 第三節 将来戦争に対する準備

2018-08-14 08:57:01 | 石原莞爾

石原莞爾『戦争史大観』第三篇 戦争史大観の説明 
 
 第六章 将来戦争の予想


第三節 将来戦争に対する準備

 科学文明の急速なる進歩が最近世界を狭くし、遠からず全世界は王道、覇道両文明の二集団に分るる事となるべく、その日は既に目前に迫りつつある。

 その二集団が世界統一のための最終戦争を行なうためには、これに適した決戦兵器が必要である。静かに大勢を達観すれば、世界二分と決戦兵器の出現は歩調を一にして進んでいる。それは当然である。

 この二つの間には文化的に最も密接な関係があるのである。即ち、兵器の発達は自然に人類の政治的集団の範囲を拡大し、世界二分の政治的状態成立の時は既に両集団に決戦を可能ならしむる兵器の発明せらるる時である。


 この最終戦争に対する準備のため、

1、世界最優秀決戦兵器の創造

2、防空対策の徹底

 この二点が最も肝要である。この徹底せる決戦戦争に於ては武力戦が瞬間的に万事を決定するであろう。

 今日ドイツが大体制空権を得ているようにみえるが、しかし依然多数の船舶は英国の港に出入している。飛行機による船舶の破壊は潜水艦のそれに及ばぬらしい。あの英仏海峡の制海権もなかなかドイツに入り難い様子である。これ飛行機の滞空時間が長くない事が第一の原因である。
 またロンドンを日夜爆撃してもなかなかロンドン市民の抵抗意志を屈伏せしむる事が出来ない。今日の爆弾では威力が足りぬのである。


 僅かに英仏海峡を挟んでの決戦戦争すらほとんど不可能の有様で、太平洋を挟んでの決戦戦争はまるで夢のようであるが、既に驚くべき科学の発明が芽を出しつつあるではないか。原子核破壊による驚異すべきエネルギーの発生が、巧みに人間により活用せらるるようになったならどうであろうか。

 これにより航空機は長時間すばらしい速度をもって飛ぶ事が出来、世界は全く狭くなる事が出来るであろう。またそのエネルギーを用うる破壊力は瞬間に戦争の決を与える力ともなるであろう。怪力光線であるとか何とか、どんな物が飛び出して来るか知れない。
 何れにせよ世界二分となった頃には、必ず今日の想像し得ない決戦兵器が出て来る事、断じて疑いを容れない。


 今日は主として量の時代である。しかし明日は主として質の時代となる。新しき革命的最終戦用決戦兵器を敵に先んじて準備する事が最終戦勝利者たるべき第一条件である。


 科学文明に遅れて来た東亜が僅かの年月の間に西洋覇道主義者を追越すため、この予想せらるる革命的兵器出現の可能性が我らに一道の光明を与えるのである。
 国策最重点の一つはこの科学的発明とその大成に指向せられねばならぬ。これがためには発明の奨励と大研究機関の設備を必要とする。


 発明奨励は断じて官僚的方法では目的を達し難い。若し真に優れた天才的直感力を有する人があり、国家がその人物を中核として、その人物に万事を一任して発明の奨励を行ない得るならば国家的事業とするも可なりである。しかしそれはほとんど不可能に近い。
 それで私は資産家特に成金の活用を提唱する。国家は先ず国防献金等を停止する。


 自由主義時代に於て軍費の不足を補うため国防献金を奨励した事は止むを得ない。また自発的の国防献金は国防思想の徹底向上に効果ある事は否定しない。
 しかし今日は国防の如き最高国家事業は総て税金に依って為すべきである。今日は既に軍費が問題でなく国家の生産能力が事を決定する。国防献金ももはや問題とならない(但し恤兵(じゅっぺい)事業等は郷党の心からなる寄附金による事が望ましい)。


 資産家特に成金を寄附金の強制から解放し、彼らの全力を発明家の発見と幇助(ほうじょ)に尽さしめる。国家の機関は発明の価値を判断して発明者には奨励金を与え、その援助者には勲章、位階、授爵等の恩賞をもって表彰する。
 
 一体統制主義の今日、国家の恩賞を主として官吏方面に偏重するのは良くない。恩賞は今日の国家の実情に合する如く根本的に改革せねばならぬ。信賞必罰は興隆国家の特徴である。


 発明は単に日本国内、東亜の範囲に限る事なくなるべく全世界に天才を求めねばならぬ。

 しかし科学の発達著しい今日、単に発明の奨励だけでは不充分である。国家は全力を尽して世界無比の大規模研究機関を設立し、綜合力を発揮すべきである。
 発明家の天才と成金の援助で物になったものは適時これをこの研究機関に移して(発明家をそのまま使用するか否かは全くその事情に依る)、多数学者の綜合的力により速やかにこれを大成する。


 研究機関、大学、大工場の関連は特に力を用いねばならない。今日の如くこれらがばらばらに勝手に造られているのは科学の後進国日本では特に戒心すべきである。


 全国民の念力と天才の尊重(今日は天才的人物は官僚の権威に押され、つむじを曲げ、天才は葬られつつある)、研究機関の組織化により速やかに世界第一の新兵器、新機械等々を生み出さねばならない。


 次は防空対策である。何れにせよ最終戦争は空中戦を中心として一挙に敵国の中心を襲うのであるから、すばらしい破壊兵器を整備するとともに防空については充分なる対策が必要である。


 恐るべき破壊力に対し完全な防空は恐らく不可能であろう。各国は逐次主要部分を地下深く隠匿する等の方法を講ずるのであろうが、恐らく攻撃威力の増加に追いつかぬであろう。
 また消極的防衛手段が度を過ぎれば、積極的生産力、国力の増進を阻害する。防空対策についても真に達人の達観が切要である。
 

 私は最終戦争は今後概ね三十年内外に起るであろうと主張して来た。この事はもちろん一つの空想に過ぎない。しかし戦争変化の速度より推論して全く拠り処無いとは言えぬ。そこで私は「世界最終戦論」に於て、二十年を目標として防空の根本対策を強行すべしと唱道した。
 

 必要最少限の部門はあらゆる努力を払って完全防空をする。どれだけをその範囲とするかが重大問題である。見透しが必要である。その他はなるべく分散配置をとる。


そこで「最終戦論」で提案したのは、

 第一に官憲の大縮小である。
 統制国家に於てはもちろん官の強力を必要とする。しかし強力は必ずしも範囲の拡大でない。必要欠くべからざる事を確実迅速に決定して、各機関をして喜び進んで実行せしむる事が肝要である。
 
今日の如くあらゆる場面を総て官憲の力で統制しようとするのは統制の本則に合しないのみならず、我が国民性に適合しない。民度の低いロシヤ人に適する方法は必ずしも我が国民には適当でない。この見地から今日の官憲は大縮小の可能なるを信ずる。官憲の拡大が人口集中の一因である。


 第二は教育制度の根本革新である。
 日本の明治以後の急発展は教育の振興にあったが、今日社会不安、社会固定の最も有力な原因は自由主義教育のためである。教育は子弟の能力によらず父兄の財力に応じて行なわれる。
 その教育は実生活と遊離して空論の人を造り、その人は柔弱で鍛錬されておらない。勇気がない。勤労を欲しない。しかもこの教育せらるる者の数は国家の必要との調和は全く考えられていない。


 非常時に於て知識群の失業が多いのは自然である。あらゆる方面から見て合宿主義時代に全国民が綜合能力を最高度に発揮せしむる主旨に合しない。中等学校以上は全廃、今日の青少年義勇軍に準ずる訓練を全国民に加え、そのうち、適性のものに高度な教育を施し、合理的に国民の職業を分配すべく、教育と実務の間に完全なる調和を必要とする。
 そうすれば自然都市の教育設備は国民学校を除き全部これを外に移転し得る。都市人口の大縮小を来たすであろう。

 第三には工業の地方分散である
 特に重要なる軍事工業は適当に全国に分散する。
徹底せる国土計画の下にその分配を定める。大河内正敏氏の農村工業はこの方式に徹底すれば日本工業のためすばらしい意義を持ち、同時に農村の改新に大光明を与える。取敢えず今日より建設する工業には国家が計画的に統制を加うべきである。


 以上の方法をもってして都市人口の大縮小を行ない、しかも必要なる政治中心、経済中心は徹底せる防空都市に根本改革を断行する。各地方は一旦事ある時、独立して国民の生活を指導し得る如く必要の処置を講ぜねばならない。


 右の如く大事業を強行するだけでも自然に昭和維新は進展するであろう。本来大革新は境遇の必要に迫られて自然に行なわれる。軍事革命が当時の軍人の自覚なく行なわれたと同一である。そこには自然に大犠牲が払われた。

 しかるにソ連革命は全く古来の歴史と異なってマルクス以来約百年の研究立案の計画により断行せられた。全人類今日なおこれに魅力を感じている。
 殊に戦乱の中心から離れていた日本にはそれが甚だしい。自称日本主義者すら心の中にマルクス流のこの理論計画先行の方式にほとんど絶対的の魅力を感じているらしい。


 ヒットラーのナチス革命は右両者の中庸である。その天才的直感力に依りて大体の大方針を確立し、その目的達成のために現実の逼迫を巧みに利用して勇猛果敢に建設事業に邁進する。
 方法は自然にその中に発見せられ、勇敢に訂正、改善して行く。その後を学者連中が理論を立てて行くのである。

 何ら組織的準備のない日本の昭和維新は断じてマルクス流に依るべきでない。否やりたくとも計画がない。否でも応でもヒットラー流の実行先行の方式に依らなければならない。それには万人を納得せしむる建設の目標が最も大切である。今日、日米戦争の危機が国民に防空の絶対必要を痛感せしめた。

 右のような一年前に空想に過ぎなかった大計画も、今日は国民に尤もっともと思わしむるに足る昭和維新原動力の有力な一つとなった。

【続く】 『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第七章 現在に於ける我が国防

 


『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第六章 将来戦争の予想 第一説~第二説

2018-08-09 21:13:46 | 石原莞爾

石原莞爾 『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明
   
第六章 将来戦争の予想 
 

         石原 莞爾--ウィキペディア
         

第一節 次の決戦戦争は世界最終戦争

 かつて中央幼年学校で解析幾何の初歩を学んだ。数学の嫌いな私にもこれは大変面白く勉強出来た。掛江教官が「二元の世界すなわち平面に住む生物には線を一本書けばその行動を掣肘し得らるるわけだが、三元の世界即ち体に住む我らには線は障害とならないが、面で密封したものの中に入れられる時は全く監禁せられる。
 しかし四元の世界に住むものには我々の牢屋のようなものでは如何ともなし得ない」等という語を非常に面白く聴いたものである。


 鎌倉に水泳演習の折、宿は光明寺で我々は本堂に起居していた。十六羅漢の後に五、六歳の少女が独りで寝泊りしていたが、この少女なかなか利発もので生徒を驚かしていた。
 ある夜の事豪傑連中(もちろん私は参加していない)が消灯後海岸に散歩に出かけ遅く帰って廊下にあった残飯を食べていた。


 ところが突如音がして光り物が本堂に入って来た。さすがの豪傑連中度胆を抜かれてひれ伏してしまった。この時豪傑中の豪傑、今度の事変で名誉の戦死を遂げた石川登君が恐る恐る頚を上げて見ると女が本堂の奥に進んで行く。

 石川君の言によると「柱でも蚊帳でも総てすうと通り抜けて行く」のであった。奥に寝ていた少女が泣出す。誰かが行って尋ねて見ると「知らない小母さんが来て抱くから嫌だ……」とて、それからはどうしても一人で本堂に寝ようとはしなかった。

 この少女は両親を知らず、ただ母は浅草附近にいるとの事であったが、我らは恐らくその母親が死んだのだろうと話しあったのであった。


 石川君の実感を詳しく聴くと、掛江教官の四元に住むものとして幽霊の事が何だかよく当てはまるような気がする。宗教の霊界物語は同じ事であろう。
 

 しかし我ら普通の人間には体以上のものは想像も出来ない。体の戦法は人間戦闘の窮極である。
今日の戦法は依然面の戦法と見るべきだが、既に体の戦法に移りつつある。


 指揮単位は分隊から組に進んでいる。次は個人となるであろう。

 軍人以外は非戦闘員であると言う昨日までの常識は、都市爆撃により完全に打破されつつある。
第一次欧州大戦で全健康男子が軍に従う事となったのであるが、今や全国民が戦争の渦中に投入せらるる事となる。


 第二次欧州大戦では独仏両強国の間にさえ決戦戦争となったが、これは前述せる如く両国戦争力の甚だしい相違からきたので、今日の状態でも依然持久戦争となる公算が多い。

 即ち一国の全健康男子を動員すればその国境の全正面を防禦し得べく、敵の迂回を避ける事が出来る。火砲、戦車、飛行機の綜合威力をもっても、良く装備せられ、決心して戦う敵の正面は突破至難である。


 次の決戦戦争はどうしても真に空中戦が主体となり、一挙に敵国の中心に致命的打撃を与え得る事となって初めて実現するであろう。


 体の戦法、全国民が戦火に投入と言う事から見ても次の決戦戦争は正しく空中戦である。しかして体以上の事は我らに不可解であり、単位が個人で全国民参加と云えば国民の全力傾注に徹底する事となる。
 即ち次の決戦戦争は戦争形態発達の極限に達するのであり、これは戦争の終末を意味している。


 次の決戦戦争は世界最終戦争であり、真の世界戦争である。過去の欧州大戦を世界大戦と呼ぶのは適当でない。西洋人の独断を無意識にまねている人々は戦争の大勢、世界歴史の大勢をわきまえぬのである。 



第二節 歴史の大勢

 戦争の終結と云う事は国家対立の解消、即ち世界統一を意味している。最終戦争は世界統一の序曲に他ならない。

 第一次欧州大戦を契機として軍事上の進歩は驚嘆すべき有様であり、特にドイツおよびソ連の全体主義的国防建設が列強のいわゆる国防国家体制への急進展となりつつある。
 全体主義は国力の超高速度増強を目標とするのであり、「自由」から「統制」への躍進である。


 全国力を徹底的に発揮するため極度の緊張が要求せられる。全体主義はあたかも運動選手の合宿鍛錬主義の如きものであり、決勝戦の直前に於て活用せらるべき方式である。


 一地方に根拠を有する戦力が抵抗を打破し得る範囲により自然に政治的統一を招来する。これがため武力の進歩が群小国家を整理して大国家への発展となった。

 欧州大戦後、軍事および一般文明の大飛躍は国家の併合を待つの余裕をあたえず、しかも力の急速なる拡大を生存の根本条件とする結果、国家主義の時代から国家連合の時代への進展を見、今日世界は大体四個の大集団となりつつある事は世人の常識となった。

 昭和十六年一月十四日閣議決定の発表に「肇国(ちょうこく)の精神に反し、皇国の主権を晦冥(かいめい)ならしむる虞おそれあるが如き国家連合理論等は之を許さず」との文句がある。

 興亜院当局はこれに対し、国家連合理論を否定するものでなく、肇国の精神に反し皇国の主権を晦冥ならしむる虞あるものを許さぬ意味であると釈明したとの事である。

 若し国家連合の理論を否定する事があるならばそれはあまりにも人類歴史の大勢に逆行するものであり、皇国は世界の落伍者たる事を免れ難き事明瞭である。
 興亜院当局の言は当然しかあるべきである。然し閣議決定発表の文がかくの如き重大誤解を起す恐れ大なるは遺憾に堪えない。


 人類文化の目標である八紘一宇の御理想に基づき、政治的には全世界が天皇を中心とする一国家となる事は疑いを許さぬ。
 しかしそれに到達するには不断の生々発展がある。国家連合の時代に入りつつある世界は、第二次欧州戦争に依りその速度を増して間もなく明確に数個の集団となるであろう。

 その集団はなるべく強く統制せらるるものが、良くその力を発揮し得るのだから統制の強化を要望せらるる反面、民族感情や国家間の利害等によりその強化を阻止する作用も依然なかなか強い。

 結局各集団の状況に応じ落着くべきに落着き、しかも絶えずその統制強化に向って進むものと考えられる。合理的に無理なくその強化が進展し得るものが優者たる資格を得る事となるであろう。


 右の如く発展をしながら各集団の間に集散離合が行なわれてその数を減じ、恐らく二個の勢力に分れ、その間の決戦戦争によって世界統一の第一段階に入るものと想像せられる。

 二個勢力に結成せらるるまでが人類歴史の現段階であり、戦争より見れば第一次欧州戦争以来の持久戦争時代がそれである。
 持久戦争と言うても局部的には決戦戦争が行なわれて集団結成を促進するのであるが、武力の活動範囲に未だ制限多く自然に数集団となるわけである。

 今日はこの意味に於て人類の準決勝時代と言うべく、この時代の末期である世界が二個の勢力に結成せられる時、次の決戦戦争の時代に入り最終戦争が行なわれる事となる。

 
 ラテン・アメリカの諸国は人種的にも経済的にも概して合衆国よりも欧州大陸と親善の気持を持っているにも拘らず、第一次欧州大戦以後は急速に米州連合体の成立に向いつつある事は即ち歴史の必然性である。

 ドイツは天才ヒットラーにより戦争の中に於て着々欧州連盟の結成に努力し、恩威併行の適切なる方策により輝かしき成果を挙げている。

 ソ連は最もよく結合の実を挙げ、今日は名は連邦であるが既に大国家とも見る事が出来る。

日本はその実力によって欧米覇道主義の侵略を排除しつつ、一個の集団へ結成せんとしつつあるが、我が東亜は今日最も不完全な状態にある。
 しかし遠からず支那事変を解決し、必ずや急速に東亜の大同を実現するであろう。現下の事変はその陣痛である。


 これらの未完成の四集団は既にいわゆる民主主義陣営と枢軸陣営の二大分野に分れ、ソ連は巧みにその中間を動いて漁夫の利を占めんとしつつあるが、果してしからばその将来は如何に成り行くであろうか。


 今日民主主義、全体主義の二大陣営と言うも必ずしもそれは主義によるのではない。
 現に民主主義という英、米は全体主義の中国を味方に編入し、殊に全体主義の最先鋒ソ連に秋波を送りつつある。主義よりもむしろ利害関係ないし地理的関係が主である。しかし文明の進展するところ、結局は矢張り主義が中心となって世界が二分するであろうと想像する。


 この見地から究極に於て、王覇両文明の争いとなるものと信ずる。
我ら東洋人は科学文明に遅れ、西洋人に比し誠に生温い生活をして来た。しかし反面常に天意に恭順ならんとする生活を続けたのである。東洋人は太古の宗教的生活を捨て去っていない。西洋は力を尚ぶが、我らの守る処は道である。

 政治上に於て我らは徳治を理想とするに対し彼らは法治を重視する。道と力は人生に於ける二大要素であり、これを重んじないものはない。問題はその程位如何にある。
 何れが主で何れが従であるかに在る。この差は今日の日本人には大したものでないと思わるるかも知れない。しかしこれが大きな問題である。


 今日の日本人は西洋文明を学び、大体覇道主義となっている。あるいは西洋人以上の覇道主義者である。見給え、平気で「油が入用だから蘭印をとる」と高言しているではないか。西洋人でも今少しは歯に衣きぬをかけた言い方をするであろう。日本人は一時心も形も全部西洋風となったのであった。

 近時所謂日本主義が横行して形は日本に還ったが、しかし彼らの大部の心は依然西洋覇道主義者である。八紘一宇と言いながら弱者から権利を強奪せんとし、自ら強権的に指導者と言い張る。
 この覇道主義が如何に東亜の安定を妨げているかを静かに観察せねばならない。


 クリステイーの『奉天三十年』には日清戦争当時のことについて「若し総ての日本人が軍隊当局者のようであったなら、人々は彼らの去るのを惜しんだであろう。しかし他の部類のものもあった。軍隊の後から人夫、運搬夫等に、そして雑多なる最下級の群が来て、それらは支那人から恐怖の混じた軽蔑をもって見られた。……彼らは兵士の如く厳格なる規律の下に置かれなかった」と述べてある。

 軍隊は兵卒に至るまで道義的であったらしい。しかるに日露戦争については「この前の戦争の時に於ける日本軍の正義と仁慈が謳歌され、総ての放埒は忘れられていた。

 戦争者が満州の農民と永久的友誼を結ぶべき一大機会は今であった。度々戦乱に悩まされたこれらの農民達は日本人を兄弟並みに救い主として熱心に歓迎したのである。かくしてこの国土の永久的領有の道は拓けたであろう。而して多くの者がそれを望んだのであった。

 しかるに日本人の指導者と高官の目指した処は何であるにもせよ、普通の日本兵士並びに満州に来た一般人民はこの地位を認識する能力が無かった。
 ……かくして一般の人心に、日本人に対する不幸なる嫌悪、彼らの動機に対する猜疑さいぎ、彼らと事を共にするを好まぬ傾向が増え、かつ燃えた。これらの感情はこれを根絶する事が困難である」と記している。


 日露戦争では既に兵士のあるものは非道義的に傾いた。今次事変は如何であろうか。悪いのは一般日本人と兵士だけに止まるであろうか。

 北支の老人は「北清事変当時の日本軍と今日の日本軍は余りに変った」と嘆いているそうである。若し我が軍が少なくとも北清事変当時だけの道義を守っていたならば、今日既に蒋介石は我が戦力に屈伏していたではないだろうか。
 蒋介石抵抗の根抵は、一部日本人の非道義に依り支那大衆の敵愾心を煽った点にある。「派遣軍将兵に告ぐ」「戦陣訓」の重大意義もここにありと信ずる。


 北清事変当時の皇軍が如何に道義を守ったかに関して北京の東亜新報の二月六、七、八日の両三日の紙上に「柴大人の善政、北城に残る語り草」と題し、今なお床しき物語が掲載されている。それを参考までに大略申述べるとこんな事である。

(一)、「千仏寺胡同、この北京の北城の辺こそ、我ら日本人が誇りとしてよい地区なのである。

 光緒二十六年、つまり明治三十三年の七月二十一日は各国連合軍が北京入城の日であった。日本軍は朝陽門より守備兵の抵抗を排除して先ず入城、順天府署に警務所を設け、当時公使館附武官であった柴五郎大佐が警務長官となった。

 柴大佐は後の柴大将であるが、大将の恩威並び行なう善政は全く北京人をして感涙にむせばせたものであった。

 柴長官は先ず安民公署という分署を東西北八胡同と西四牌楼北報子胡同の二個所に設け、布告を発して曰く、

 『軍人の住民の宅に入りて捜査するを許さず、若し違反する者あらば住民はその面貌 等を記して告発す可し』

 と。そして清刑部郎中・端華如等をしてその事務を処理させた。


 当時の北京は各国軍がそれぞれ駐屯区域を定めていたのだが、日本軍駐屯の北城地域が最も平和で住民が安居し、
 ロシヤ、フランス、イギリス等の駐屯区域では兵隊が乱暴するので縊死するもの、井戸に投じ、焼死するものが続出し、
そうした区域からの避難民は争って日本軍駐屯の北城区域へ避難して来た。
こうした避難民のため、その当時寂びれていた鼓楼大街の如きは忽ち繁華の街となった程である。

 
 善政というものは比較されて見た時にはっきりとその真価が分る。北清事変で各国の軍隊が各警備の縄張りをきめたこの時ほど西欧の軍隊の野獣的なる行為に比べ皇軍の仁愛あふるる軍規と施設の真価が発揮せられた事はあるまい。


 この時の日本軍敬慕の北京人の感情は、その後の日露戦争に於て清国をして親日一色ならしめた有力な原動力たり得たのである。……」


(二)、「ここは鼓楼東大街の北である。そして日本軍の善政ゆえに更生した街である。

 橋川時雄氏の調査によると、当時の柴大人(ツァイターレン)の仁政として今も古老の感謝しているところは、大人が警務長官となるや各米倉を開いてその蓄米を廉売し、いわゆる“糧荒”の虞おそれなからしめた事であるそうである。
その他に現存している古老が口伝している柴大将についての挿話には次のような話がある。


【古老の話 その一】
 その頃柴五郎というお方は日本人ではない。満州旗籍の出身だが日本に帰化したのだ。つまり柴大人がこのような仁政を施すのは故郷へ帰ってきて故郷を愛するためだという噂が専らでした。この話は当時その恩に感じた住民達が半分想像まじりで話した噂だろうが、本当の事として宣伝されたわけである。


【古老の話 その二】
 柴大人が職を去って日本へ帰る日はいやはや大変な事でした。柴公館には、その日朝暗いうちから人がわんさと押しかけて皆餞別の贈り物をしました。その多くは貧民や苦力どもで、皆手に手に乾鶏等を贈ってその行を惜しんだのです。あの時の有様は今でもありありとこの眼に浮かんで来ます。


【古老の話 その三】
 柴大人の威勢というものはその頃は大したもので、流行歌にまで歌われたものです。つい二十年位までは、この北城一帯では子供らがあんまり悪戯をすると母親達は“柴大人来了ツァイターレンライラ”(そんなおいたをすると柴大人が来ますよ)と言ってなだめていた程です。


 この三つの口伝は橋川氏の集めたものであるが、またもって日本軍人柴大人の威徳を偲ぷに充分なるものがあるではないか」


(三)、「宝鈔胡同の柴大人の民心把握の偉大な事蹟をたずねた方がこの際特に意味深いであろう。

 満州人敦厚の“都門紀変三十首絶句”というのは多分拳匪の乱を謳ったものらしいが、その中の第七首“粛府”にこういうのがあるそうだ。

  桐葉分封二百余、蒼々陰護九松居、

  無端燬倣渾間事、同病応憐道士徐。

 この詩にいう道士徐というのは東海に行った徐福が戦乱に苦しんでいる民衆を慰めているというわけで、柴大人の仁政を謳ったものであると解釈されている。

 この詩の中には“安民処処巧安排、告示輝煌総姓柴”と云って、柴長官の告示によって人民が安心した事も詠よまれている。“拳匪紀略”には、


 『日本軍が北城を占領したので、市民は初めて外国兵が北京に入城した事を知ったのは二十三日である。それに便乗して土匪が数百家を荒し尽したが北城は何の事もなかった。ここは日本兵が占領していたからで、北城の人民達は皆日本兵の庇護を受けた』

とあり、

また“驢背集”という詩集には、

 『日本軍の入城に依って宮城が守られ、逃げる隙なく宮中に残った数千人のものは日本軍に依って食を与えられた。宮中には光緒帝も西太后も西巡していて恵妃(同治帝の妃)のみが国璽を守っていたが、柴大人に使を派して謝意を述べ、大人の指示によって宮中の善後措置を講じた』

という意味の談がある。


 誠に当時の日本軍隊の恩威並び行なわれた事蹟は、四十年後の今なお古老の口から聴く事が出来、残る文書に読む事が出来る。英、仏の乱暴の跡といみじくも正邪のよい対照をなして居るではないか」……

 以上は東亜新報掲載記事である。


 明治維新以後薩長が維新の功に驕っていわゆる藩閥横暴となった事が政党政治招来の大原因となり、政党ひとたび力を得るやたちまちその横暴となって間もなく国民の信を失った。

 今日軍は政治の推進力と称せられている。自粛しなければ国民の怨府となるであろう。日本歴史を見れば日本民族は必ずしも常に道義的でなかった事が明らかである。

 国体が不明徽となった時代の日本人は西洋人にも優る覇道の実行者ともなった。戦国時代の外交は今日のソ連外交にも劣らざる権謀、謀略の歴史であるとも言える。
 しかし我が国体の命ずる道は道義治国であり、八紘一宇に依る御理想は道義による世界統一である。


 アメリカの米州統制もドイツの欧州連盟もソ連の統一も総ては力中心の覇道主義である。悲しい哉、我が日本に於ても東亜の大同につき力の信者、即ち覇道主義が目下圧倒的である。

 東亜連盟論に対する反対はその現われである。しかし東亜連盟論の急速なる進展は国民が急速に皇道に目を醒しつつある証左である。


 力をもってする方法は端的であり、即効的である。しかし力は力に敗れる。結局道をもっての結合がむしろ力以上の力である。
 議論はいらぬ。天皇の思し召しがそれである。我らは東方道義をもって東亜大同の根抵とせねばならぬ。幾多のいまわしい歴史的事実があるにせよ、王道は東亜諸民族数千年来の共同の憧憬であった。
 我らは、大御心を奉じ、大御心を信仰して東亜の大同を完成し、西洋覇道主義に対抗してこれを屈伏、八紘一宇を実現せねばならない。


 結局世界最終戦争が王、覇両文明の決勝戦であり、東亜と西洋の決勝戦である。この見地から最終戦争の中心は太平洋であろうと信ずるものである。


 もちろん我らは道義を中心とするが、しかも力を軽視するものではない。西洋人も道義を軽視しないが、覇道主義者が道を真に信奉する事は至難であるのに、我らが力を獲得するのは決して困難でない。

 一方東方道義に速やかに目を醒ますとともに一方西洋科学文明を急速に摂取、最終戦争に必勝の体制を整えねばならぬ。

 日本に於てさえ道義より力、物を中心としていた時代が多い。覇道は動物的本能であり、王道への欲求、憧憬が人間の万物の霊長たる所以である。

 今後も人類は本能の暴露を繰返すであろう。しかし大道は人類の王道への躍進である。王道に対する安心定まった時、人類は心から、天皇の御存在に心からの感謝を覚え、不退の信仰に入り、真の平和が来るであろう。
 而して日本民族の正しき行ない、強き実行力が人類の道義に対する安心を定めしめるのである。

【続く】 
『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第六章 将来戦争の予想 第三節 将来戦争に対する準備

 


石原莞爾 『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第二章 戦争指導要領の変化  第一説~第四節

2018-08-08 11:36:46 | 石原莞爾

 石原莞爾『戦争史大観』

     
石原莞爾--ウィキペディア
     


第二章 戦争指導要領の変化 
 

第一節 戦争の二種類

 国家の対立ある間戦争は絶えない。

 国家の間は相協力を図るとともに不断に相争っている。

その争いに国家の有するあらゆる力を用うるは当然である。
平時の争いに於ても武力は隠然たる最も有力なる力である。外交は武力を背景として行なわれる。

 この国家間の争いの徹底が戦争である。
戦争の特異さは武力をも直接に使用する事である。
すなわち戦争を定義したならば
「戦争とは武力をも直接使用する国家間の闘争」というべきである。

 武力が戦争で最も重要な地位を占むる事は自然であり、
武力で端的に勝敗を決するのが戦争の理想的状態である。しかし戦争となっても両国の闘争には武力以外の手段も遺憾なく使用せられる。故に戦争遂行の手段として武力および武力以外のものの二つに大別出来る。

 この戦争の手段としての武力価値の大小に依り戦争の性質が二つの傾向に分かれる。

 武力の価値が大でありこれが絶対的である場合は戦争は活発猛烈であり、男性的、陽性であり、通常短期戦争となる。これを決戦戦争と名づける。

 武力の価値が他の手段に対し絶対的地位を失い、逐次低下するに従い戦争は活気を失い、女性的、陰性となり、通常長期戦争となる。これを持久戦争と命名する。

 

第二節 両戦争と政戦略の関

 戦争本来の真面目は武力をもって敵を徹底的に圧倒してその意志を屈伏せしむる決戦戦争にある。
決戦戦争にあっては武力第一で外交内政等は第二義的価値を有するにすぎないけれども、
持久戦争に於ては武力の絶対的位置を低下するに従い外交、内政はその価値を高める。

 ナポレオンの
「戦争は一に金、二にも金、三にも金」といった言葉はますますその意義を深くするのである。
即ち決戦戦争では戦略は常に政略を超越するのであるが、
持久戦争にあっては逐次政略の地位を高め、
遂に政略が作戦を指導するまでにも至るのである。

 戦争の目的は当然国策に依って決定せらる
「戦争は他の手段をもってする政治の継続に外ならぬ」、
しかし戦争の目的達成のため政治、統帥の関係は一にその戦争の性質に依るものである。


 政治と統帥は通常利害相反する場合が多い。
その協調即ち戦争指導の適否が戦争の運命に絶大なる関係を有する。
国家の主権者が将帥であり政戦略を完全に一身に抱いているのが理想である。

 軍事の専門化に伴い近世はかくの如き状態が至難となり、
フリードリヒ大王、ナポレオン以来は殆どこれを見る事が出来なかった。

 最近に於てはケマル・パシャとか蒋介石、フランコ将軍等は大体それであり、
また第二次欧州大戦に於てはヒットラーがそれであるが如くドイツ側から放送されているが、
それは将来戦史的に充分検討を要する。


 政戦両略を一人格に於て占めていない場合は統帥権の問題が起って来る。

 民主主義国家に於てはもちろん統帥は常に政治の支配下にある。
決して最善の方式ではないが止むを得ない。

 ローマ共和国時代は、
戦争の場合独裁者を臨時任命してこの不利を補わんとした事はなかなか興味ある事である。

 ドイツ、ロシヤ等の君主国に於ては政府の外に統帥府を設け、
いわゆる統帥権の独立となっていた時が多かった。

 この二つの方式は各々利害があるが大体に於て決戦戦争に於ては統帥権の独立が有利であり、
持久戦争に於てはその不利が多く現われる。
これは統帥が戦争の手段の内に於て占むる地位の関係より生ずる自然の結果である。


 これを第一次欧州大戦に見るに、
戦争初期決戦戦争的色彩の盛んであった時期には、
統帥権の独立していたドイツは連合国に比し誠に鮮やかな戦争指導が行なわれ、
あのまま戦争の決が着いたならば統帥権独立は最上の方式と称せられたであろうが、
持久戦争に陥った後は統帥と政治の関係常に円満を欠き
(カイゼルは政治は支配していたけれども統帥は制御する事が出来なかった)。

 これに反し、
クレマンソー、ロイド・ジョージに依り支配せられその信任の下に
フォッシュが統帥を専任せしめられた大戦末期の連合国側の方式が遂に勝を得、
かくて大戦後ドイツ軍事界に於ても統帥権の独立を否定する論者が次第に勢いを得たのである。 

 ドイツの統帥権の独立はこの事情を最もよく示している。

 フリードリヒ大王以後統帥事項は
当時に於ける参謀総長に当る者より直接侍従武官を経て上奏していたのであるが、
軍務二途に出づる弊害を除去するため陸軍大臣が総ての軍事を統一する事となっていた。

 大モルトケが参謀総長就任の時(1857年心得、1858年総長)は
なお陸軍大臣の隷下に在って勢力極めて微々たるものであった。

 1859年の事件に依って信用を高めたのであったけれども、
1864年デンマーク戦争には未だなかなかその意見が行なわれず、
軍に対する命令は直接大臣より送付せられ、
時としてモルトケは数日何らの通報を受けない事すらあったが、
戦況困難となりモルトケが遂に出征軍の参謀長に栄転し、
よく錯綜せる軍事、外交の問題を処理して大功を立てたのでその名望は高まった。
 
 国王の信任はますます加わり、
1866年普墺戦争勃発するや6月2日
「参謀総長は爾後諸命令を直接軍司令官に与え陸軍大臣には唯これを通報すべき」旨が
国王より命令せられ、ここに参謀総長は軍令につき初めて陸軍大臣の束縛を離れたのである。


 しかも陸軍大臣ローン及びビスマークはこれに心よからず、
普墺戦争中はもちろん1870~71年の普仏戦争中もビスマーク、モルトケ間は不和を生じ、
ウィルヘルム一世の力に依り辛うじて協調を保っていたのである。 

 しかしモルトケ作戦の大成功と決戦戦争に依る武力価値の絶対性向上は
遂に統帥権の独立を完成したのであった。

 それでもこれが成文化されたのは
普仏戦争後10年余を経た1883年5月24日であることはこの問題のなかなか容易でなかった事を示している。


 その後モルトケ元帥の大名望とドイツ参謀本部の能力が国民絶対の信頼を博した結果、
統帥権の独立は確固不抜のものとなった。
 しかもその根底をなすものは、
当時決戦戦争すなわち武力に依り最短期間に於ける戦争の決定が常識となっていたことであるのを忘れてはならぬ。


 第一次欧州大戦勃発当時の如きは
外務省は参謀本部よりベルギーの中立侵犯を通報せらるるに止まる有様であり、
また当時カイゼルは作戦計画を無視し
(1913年まではドイツの作戦計画は東方攻勢と西方攻勢の両場合を策定してあったのであるが
 その年から単一化せられ西方攻勢のみが計画されたのである)、
東方に攻勢を希望したが遂に遂行出来なかったのである。


  持久戦争となっても統帥権独立はドイツの作戦を有利にした点は充分認めねばならぬが、
遂に政戦略の協調を破り徹底的潰滅に導いたのである。
すなわち政治関係者は無併合、無賠償の平和を欲したのであるが統帥部は領土権益の獲得を主張し、
ついに両者の協調を見る事が出来なかった。


 我が国に於ては「統帥権の独立」なる文字は穏当を欠く。
「天子は文武の大権を掌握」遊ばされておるのである。
もとより憲法により政治については臣民に翼賛の道を広め給うておるのであるけれども、
統帥、政治は天皇が完全に綜合掌握遊ばさるるのである。これが国体の本義である。 


 政府および統帥府は政戦両略につき充分連絡協調に努力すべきであり、
両者はよく戦争の本質を体得し、
決戦戦争に於ては特に統帥に最も大なる活動をなさしむる如くし、
持久戦争に於ては武力の価値低下の状況に応じ政治の活動に多くの期待をかくる如くし、
その戦争の性質に適応する政戦両略の調和に努力すべき事もちろんである。

 しかし如何に臣民が協調に努力するも必ず妥協の困難な場面に逢着するものである。
 それにもかかわらず総て臣民の間に於て解決せんとするが如き事があったならば、
これこそ天皇の天職を妨げ奉るものである。政府、統帥府の意見一致し難き時は一刻の躊躇なく聖断を仰がねばならぬ。

 聖断一度び下らば過去の経緯や凡俗の判断等は超越し、
真に心の奥底より聖断に一如し奉るようになるのが我が国体、
霊妙の力である。 

 他の国にてフリードリヒ大王、ナポレオン、乃至ヒットラー無くば政戦略の統一に困難を来たすのであるが、
我が大日本に於ては国体の霊力に依り何時でもその完全統一を見るところに
最もよく我が国体の力を知り得るのである。
 戦争指導のためにも我が国体は真に万邦無比の存在である。

 

第三節 持久戦争となる原因

 持久戦争は両交戦国の戦争力ほとんど相平均しているところから生ずるものであり、
その戦力甚だしく懸隔ある両国の間には勿論容易に決戦戦争となるのは当然である。
 今ほとんど相平均している国家間に持久戦争の行なわるる場合を考えれば次のようなものである。


1、軍隊の価値低きこと

 後に詳述する事とするがルネッサンスに依り招来せられた傭兵は全く職業軍人である。
 生命を的とする職業は少々無理あるがために如何に精錬な軍隊であっても、
徹底的にその武力の運用が出来かねた事が仏国革命まで、
持久戦争となっていた根本原因である。

 フランス革命の軍事的意義は職業軍人から国民軍隊に帰った事である。
実に近代人はその愛国の誠意のみが真に生命を犠牲に為し得るのである。

「18世紀までの戦争は国王の戦争であり
 国民戦争でなかったから真面目な戦争とならなかったが、
 フランス革命以後は国民戦争となった。
 国民戦争に於ては中途半端の勝負は不可能である」との信念の下に
ルーデンドルフは回想録や「戦争指導と政治」の中に
「敵国側の目的はドイツの殲滅にあるからドイツは徹底的に戦わねばならぬ」との意味を強調している。

 すなわちドイツ参謀本部は、
戦争を18世紀前のものと以後のものとに区別したが、
戦争の性質に対する徹底せる見解を欠いていた。

 欧州大戦は既にナポレオン、モルトケ時代の戦争と性質を異にするに至った事を認識しなかった事が、
第一次欧州大戦に於けるドイツ潰滅の一因と云われねばならない。


 支那に於ては唐朝の全盛時代に於て国民皆兵の制度破れ、
爾来武を卑しみ漢民族国家衰微の原因となった。

 民国革命後も日本の明治維新の如く国民皆兵に復帰する事が出来ず、
依然「好人不当兵」の思想に依る傭兵であり、
18世紀欧州の傭兵に比し遥かに低劣なものでその戦争に於ては武力よりも金力がものを言った。

 戦によって屈するよりも金力によって屈し得る戦に真の決戦戦争はあり得ない。
かるが故に革命後の統一戦争が何時果つべしとも見えなかったのは自然である。

  私どもは元来民国革命に依り支那の復興を衷心より待望し、
多くの日本人志士は支那志士に劣らざる熱意を以って民国革命に投じたのでであった。

 しかるに革命後も真の革新行なわれず、
軍閥闘争の絶えざるを見て
「自ら真の軍隊を造り得ざる処に主権の確立は出来よう筈は無い。支那は遂に救うべからず」との
結論に達したのであった。


 勿論あの国土厖大な支那、しかも歴史は古く、
病膏肓に入った漢民族の革命がしかく短日月に行なわれないのは当然であり、
私どもの判断も余りに性急であったのであるが、一面の真理はこれを認めねばならない。

 劣悪極まる軍隊の結果は個々の戦争を金銭の取引に依り
決戦戦争以上の短日月の間に解決せらるる事もあったけれども、
それは戦争の絶対性を欠き、
その効力は極めて薄弱にして間もなく又戦争が開始せられ、
慢性的内乱となったのである。 


 孫文、蒋介石に依り革命軍の建設は軍隊精神に飛躍的進歩を見、
国内統一に力強く進んだのは確かに壮観であり我らの見解に修正の傾向を生じつつあったのである。

 しかも中国の統一はむしろ日本の圧迫がその国民精神を振起せしめた点にある。
支那事変に於てはかなり勇敢に戦ったのであるが
この大戦争に於てすらもなお未だ真の国民皆兵にはなり難いのである。

 数百年来武を卑しんだ国民性の悩みは深刻である。
我らは中国がこの際唐朝以前の古に復かえり
正しき国民軍隊を建設せん事を東亜のために念願するのである。


 日本の戦国時代に於ける武士は日本国民性に基づく武士道に依って
強烈な戦闘力を発揮したのであるが、
それでもなお且つ買収行なわれ、
当時の戦争はいわゆる謀略が中心となり、
必要の前には父母兄弟妻子までも利益の犠牲としたのであった。

 戦国時代の日本武将の謀略は中国人も西洋人も三舎を避くるものがあったのである。
日本民族はどの途にかけても相当のものである。
今日謀略を振り廻しても成功せず、
むしろ愚直の感あるは徳川三百年太平の結果である。 


2、攻撃威力が防禦線を突破し難き事

 如何に軍隊が精鋭でも装備その他の関係上防禦の威力が大きく、
これが突破出来なければ決局決戦戦争を不可能とする。

 第一次欧州大戦当時は陣地正面の突破がほとんど不可能となり、
しかも兵力の増加が迂回をも不可能にした結果持久戦争に陥ったのであった。
 戦国時代の築城は当時これを力攻する事困難でこれが持久戦争の重大原因となった。
そこで前に述べた謀略が戦争の極めて有力な手段となったのである。 


3、軍隊の運動に比し戦場の広き事

 決戦戦争の名手ナポレオンもロシヤに対しては遂に決戦戦争を強いる事が出来なかった。
露国が偉いのではない。国が広いためである。

 ナポレオンは決戦戦争の名手で数回の戦争に赫々たる戦果を挙げ全欧州大陸を風靡したが、
海を隔てたしかも僅か30里のドーバー海峡のため英国との戦争は10年余の持久戦争となったのである。
但しこれはむしろ2項の原因となるべき点が多いが、
その何れにしろ、日本はソ連に対しては決戦戦争の可能性が甚だ乏しい。

 広大なるアジアの諸国間に欧州に於けるように決戦戦争の可能性の少なかった事は
アジアの民族性にも相当の影響を与えたものと私は信ずるものである。


 以上の原因の中3項は時代性と見るべきでない。
ただし時代の進歩とともに決戦戦争可能の範囲が逐次拡大せらるる事は当然であり、
前述の如く一根拠地の武力が全世界を制圧し得るまでに文明の進歩せる時、
すなわち世界統一の可能性が生ずる時である。

 1項は一般文化と密に関係があり、
2項は主として武器、築城に依って制約せらるる問題であって、
歴史的時代性とやはり密な関係がある。 


 以上綜合的に考える時は決戦戦争、持久戦争必ずしも時代性があると云えない点があり、
同一時代に於てもある地方には決戦戦争が行なわれある地方には持久戦争が行なわれた事があるが、
大観すれば両戦争は時代的に交互に現われて来るものと認むべきである。

 殊に強国相隣接し国土の広さも手頃であり、
しかも覇道文明のため戦争の本場である欧州に於てはこの関係が最も良く現われている。

 決戦戦争では戦争目的達成まで殲滅戦略を徹底するのであるが、
各種の事情で殲滅戦略の徹底をなし難く、
攻勢の終末点に達する時戦争は持久戦争となる。

 持久戦争でも為し得る限り殲滅戦略で敵に大衝撃を与えて戦争の決を求めんと努力すべきであるが、
かならずしも常に左様にばかりあり得ないで、
消耗戦略に依り会戦によって敵を打撃する方法の外、
或いは機動ないし小戦に依って敵の後方を攪乱し敵を後退せしめて土地を占領する方法を用いるのである。

 すなわち会戦を主とするか、機動を主とするかの大略二つの方向を取るのであるが、
それは一に持久戦争に於ける武力の価値に依って左右せられる。

 すなわち持久戦争は統帥、政治の協調に微妙な関係がある如く、
戦略に於ても特に会戦に重きを置き時に機動を主とする誠に変化多きものとなる。

第四節 欧州近世に放ける両戦争の消 

 文明進歩し、
ほとんど同一文化の支配下に入った欧州の近世に於ては両戦争の消長と時代の関係が誠に明瞭である。
重複をいとわずフランス革命および欧州大戦を中心としてその関係を観察する事とする。 


 古代は国民皆兵であり、決戦戦争の色彩濃厚であったが、
ローマの全盛頃から傭兵に堕落し遂に中世の暗黒時代となった。

 この時代の戦争は騎士戦であり、
ギリシャ、ローマ時代の整然たる戦法影を没し一騎打ちの時代となったのであるが、
ルネッサンスとともに火器の使用が騎士の没落を来たし、新しく戦術の発展を見た。

 しかしいにしえの国民皆兵に還らずして傭兵時代となり、
戦争は大体持久戦争の傾向を取りフランス革命に及んだのである。

 この時代の用兵術はフリードリヒ大王に於て発達の頂点に達し、
フリードリヒ大王は正しく持久戦争の名手であった。

 三十年戦争(1618~48年)には会戦を見る事が多かったが、
ルイ14世初期のオランダ戦争(1672~78年)
及びファルツ戦争(1689~97年)に於てはその数甚だ少なかった。

 スペイン王位継承戦争(1701~14年)には3回だけ大会戦があったけれども
戦争の運命に作用する事軽微であった。

 またこの頃殲滅戦略を愛用したカール12世は作戦的には偉功を奏しつつも、
遂にピーター大帝の消耗戦略に敗れたのである。 

 

 かくてポーランド王位継承戦争(1733~38年)には全く会戦を見ず、
しかもその戦争の結果政治的形勢の変化は頗る大なるものがあった。

 すなわちフリードリヒ大王即位(1740年)当時の用兵は持久戦争中の消耗戦略中、
甚だしく機動主義に傾いていたのである。 


 当時かくの如く持久戦争をなすの止むなき状況にあり、
しかも消耗戦略の機動主義すなわち戦争の最も陰性的傾向であったのは
政治的関係より生じた不健全なる軍制に在ったのであるが、
今少しくこれにつき観察して見よう。

 

1、傭兵制度 

 18世紀の戦争は結局君主が、
その所有物である傭兵軍隊を使用して自己の領土権利の争奪を行なった戦争である。

 しかるに軍隊の建設維持には莫大な経費を要し、
兵は賃金のために軍務に服しているが故に逃亡の恐れ甚だしく、
しかも横隊戦術は会戦に依る損害極めて多大であった。
 これらの関係から君主がその高価なる軍隊を愛惜するために会戦を回避せんとするは自然である。

 また兵力も小さいため、遠大なる距離への侵入作戦は至難であった。

 

2、横隊戦術 

 横隊戦術は火器の使用により発達したのであるが、
依然火器の使用には大なる制限を受けるのみならず運動性を欠くことが甚だしかった。
 しかしながら、専制的支配を必要とする傭兵であったため、
18世紀中には遂にこの横隊戦術から蝉脱せんだつする事が出来なかった。 

 主将は戦役(戦役とは戦争中の一時期で通常一カ年を指す)開始前
又は特別な事情の生じた時、
「会戦序列」を決定する。
 この序列は行軍、陣営、会戦等の行動一般を律するものである。

 会戦のためには、
その序列に従い、横広
(大王時代通常四列、プロイセンに於ては現に三列)に
並列した歩兵大隊を通常二戦列と、
両翼に騎兵を配置し、
当時効力未だ充分でなかった砲兵はこれを歩兵に分属して後方に控置したのである。 


 盲従的規律を要する傭兵には横隊を捨て難く、
しかも指揮機関の不充分はかくの如き形式的決定を必要としたのであるが、
行軍よりかくの如き隊形に開進し、
会戦準備を整うる事は既に容易の業でなく、
またかくの如き長大なる密集隊形の行動に適する戦場は必ずしも多くなく、
かつ開進後の整いたる運動は平時の演習に於てすら非常な技術を要する。

 敵火の下ではたちまち混乱に陥ることは明らかであり、
また地形の影響を受くる事は極めて大きい。 


 殊に前進と射撃との関係を律する事は殆んど不可能に近い。
すなわち一度停止して射撃を始める時は最早整然と発進せしむる事は云うべくして行ない難い。
砲兵の威力は頼むに足らない。 


 以上の諸件は攻撃の威力を甚だしく小ならしむるものである。
すなわち一方軍が会戦の意志なく、
地形を利用して陣地を占領する時は攻撃の強行は至難であった。 

 又たとい敵を撃退せる場合に於ても軽挙追撃して隊伍を紊みだる時は、
敗者のなお所有する集結せる兵力のため反撃せらるる危険甚大で、
追撃は通常行なわれず、
徹底的な戦捷の効果は求め難かった。

 

3、倉庫給養 

 三十年戦争には徴発に依る事が多かったが、
そのため土地を荒し、
人民は逃亡したり抵抗したりするに至って作戦に甚だしい妨害をしたのである。

 それ以来反動として極端に住民を愛護し、馬糧以外は概して倉庫より給養する事となった。 

 傭兵の逃亡を防ぐためにも給養は良くしなければならないし、
徴発のため兵を分散する事は危険でもあり、
殊に三十年戦争頃に比し兵が増加したため、
到底貧困な地方の物資のみでは給養が出来なくなった。 

 そこで作戦を行なう前に適当の位置に倉庫を準備し、
軍隊がその倉庫を距たること3、4日行程に至る時は更に新倉庫を設備してその充実を待たねばならぬ。
敵の奇襲に対し倉庫の掩護は容易ならぬ大問題であった。

 

 4、道路及び要塞 

 欧州道路の改善は18世紀の後半期以後急速に行なわれたもので、
ナポレオンは相当の良道を利用し得たけれども、
フリードリヒ大王当時は幅は広いが
(軍隊は広正面にて前進し得た)
ほとんど構築せられない道路のみで物資の追送には殊に大なる困難を嘗なめた。 

 水路はこれがため極めて大なる価値があり
要塞攻撃材料の輸送等は川に依らねばほとんど不可能に近い有様で、
エルベ、オーデル両河は大王の作戦に重大関係がある。 

 17世紀ボーバン等の大家が出て築城が発達し、
各国が国境附近に設けた要塞は運動性に乏しかった軍の行動を掣肘する事極めて大きかった。 

 以上の諸事情に依って戦争に於ける武力の価値は低く、
持久戦争中でも消耗戦略の機動主義に傾くは自然と云うべきである。 


 当時の戦争の景況を簡単に説明する事にしよう。 

 一国の戦争計画は先ず第一に外交に重きを置き、
戦役計画の立案も政治上の顧慮を重視して作戦目標および作戦路を決定し、
その作戦実施を将軍に命令する。 

 攻勢作戦を行なわんとせば先ず巧みに倉庫を設備する。
倉庫は作戦を迅速にするためなるべく敵地に近く設くるを有利とするも、
我が企図を暴露せざるためには適当に撤退せしめねばならない。 

 準備成り敵地に侵入した軍は敵軍と遭遇せば、
特に有利な場合でなければ決戦を行なう事なく、
機動に依り敵を圧迫する事に勉める。

 会戦を行なうためには政府の指示に依るを通例とする。 

 両軍相対峙するに至れば互に小部隊を支分して小戦に依り敵の背後連絡線を遮断し、
また倉庫を奪い、
戦わずして敵を退却せしむる事に努力する。

 敵の要塞に対してはその守備兵を他に牽制し、
要すれば正攻法に依りこれを攻略する。
作戦路上にある要塞を放置して遠く作戦を為す事はほとんど不可能とせられた。 

 かくして逐次その占領地を拡大して敵の中心に迫り、
この間外交その他あらゆる手段に依り敵を屈伏して有利な講和をすることに勉める。 

 両軍、要地に兵力を分散しているのであるから
一点に兵力を集中してそこを突破すれば良いように考えられるが、
突破しても爾後の突進力を欠き、
却かえって背後を敵に脅かされて後退の余儀なきに至り、
ややもすればその後退の際大なる危険に陥るのである。

 1744年第二シュレージエン戦争に於てベーメンに突進したフリードリヒ大王が、
敵の巧妙な機動戦略のため一回の会戦をも交える事なく
甚大の損害を蒙って本国に退却した如きはその最も良き一例である。  

 1812年ナポレオンのロシヤ遠征はこれと同一原理に基づく失敗であり、
この種の戦争では遊撃戦(すなわち小戦)の価値が極めて大きい。 


 作戦は通常冬期に至れば休止し、
軍隊を広地域に宿営せしめて哨兵線をもって警戒し、
この期間を利用して補充、教育その他次回戦役の準備をする。

 時に冬期作戦を行なう事あるもそれは特殊の事情からするもので、
冬期作戦に依る損害は通常甚だ大きい。

 故に一度敵地を占領して要塞、河川、山地等のよき掩護を欠く時は冬期その地方を撤退、
安全地帯に冬営するのが通常である。 

 ナポレオン以後の戦争のみを研究した人にはなかなか想像もつかない点が多いのである。
しかしこの事情をよく頭に入れて置かねばフランス革命の軍事的意義、
ナポレオンの偉大さが判らないのである。  



【続く】 『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第二章 戦争指導要領の変化 第五説 フリードリヒ大王の戦争

 


石原莞爾 『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明  第一章 緒論

2018-08-06 16:13:27 | 石原莞爾

  第三篇 戦争史大観の説明 


第一章 緒論 


第一節 戦争の絶滅 
 東西古今、
総ての聖賢の共同理想であり、
全人類の憧憬である永久の平和は、現実問題としては夢のように考えられて来たのである。
しかし時来たって必ず全人類の希望が達成せられるべきを信ずる。

 固より人類の闘争本能を無くすることは不可能であるから、
この希望は世界の統一に依ってのみ達成せらるるであろう。
最近文明の急速な進歩はその可能を信ぜしむるに至った。


 世界統一の条件として考えられるものは大体次の三つである。

1 思想信仰の統一。
2 全世界を支配し得る政治力。
3 全人類を生活せしむるに足る物資の充足。

 心と物は「人」に於て渾然一体である。
その正しき調和を無視して一方に偏重し、
いわゆる唯心とか唯物とかいう事はむずかしい理屈の分からぬ私どもにも
一方的理屈である事が明らかである。

 しかし心と物は平等の結合ではなく、
どこまでも心が主であり物が従である。

 思想や信仰の観念的力をもってして
人類の戦争を絶滅する事が不可能である事は数千年の歴史の証明するところであるが、
戦争の絶滅に思想信仰の統一が絶対に必要であり、
しかもそれが最も根本的の問題である事は疑うべからざるところである。


 ただしこの統一も単なる観念の論議のみでは恐らく至難で、
現実の諸問題の進展と理論の進歩の間には微妙なる関連が保たるべきものと信ずる。

 すなわち思想の統一は自然、人格的中心を要求する。
ソ連でさえマルクスだけでなくレーニン、スターリン等を神格化しているではないか。


 我らの信仰に依れば、
人類の思想信仰の統一は結局人類が日本国体の霊力に目醒めた時初めて達成せられる。

 更に端的に云えば、現人神たる天皇の御存在が世界統一の霊力である。
しかも世界人類をしてこの信仰に達せしむるには日本民族、
日本国家の正しき行動なくしては空想に終る。


 かつ、人類が正しきこの信仰に達するには日本民族、
日本国家等の正しき思想、
正しき行為だけでは不可能であり、
正義を守る実力が伴わねばならぬ。

 結局文明の進歩により、
力の発展により逐次政治的統一の範囲を拡大し、
今日は四個の集団に凝結せんとする方向にある人類はやがて二つ、

 すなわち天皇を信奉するものとしからざるものの二集団に分かれ、
真剣な戦いに依って統一の中心点が決定し、
永久平和の第一歩に入り戦争の絶滅を見るに至るであろう。


 人類歴史は政治的統一範囲を逐次拡大して来たのであるが、
それは文明の進歩に依り主権の所有する武力が
完全にその偉力を発揮し得る範囲をもって政治的統一の限度とする。

 すなわち将来主権者の所有する武力が必要に際し
全世界到るところにある反抗を迅速に潰滅し得るに至った時、
世界は初めて政治的に統一するものと信ぜられる。


 そして世界が統一した後も内乱的戦争は絶滅しないだろうと考えらるるだろう。
それには前に述べた信仰の統一が強い力であることが必要であるが、
同時に武力が原始的で、
何人も簡単にこれを所有し得た時は内乱は簡単に行なわれたのであるが、
武器が高度に進歩する事が内乱を困難にして来た事も明らかに認めねばならない。

  刀や槍が主兵器であったならば、
今日の思想信仰の状態でも
世界の文明国と云われる国でさえ内乱の可能性は相当に多いのであるが、
今日の武器に対しては軍隊が参加しない内乱は既に不可能である。


 しかし私は信仰の統一と武力の発達のほか、
一般文明の進歩に依り全人類の公正なる生活を保証すべき物資が
大体充足せらるる事が必要であると考える。

  すなわち人類の精神的生活が向上して無益なる浪費を自然に掣肘(せいちゅう)し、
かつ科学の進歩が生活物資の生産能率を高むる事が必要であって、
物欲のための争いを無限に放置されていた今日までの如き状態は解消せらるべきだと信ずる。
  これは信仰の統一、武力の発達の間に自然に行なわるる事であろう。

 

第二節 戦争史の方向
 戦争は人類文明の綜合的運用である。
戦争の進歩が人類文明の進歩と歩調を一にしているのは余りに自然である。


 武力の発達すなわち戦争術の進歩が人類政治の統一を逐次拡大して来た。
世界の完全なる統一すなわち戦争の絶滅は
戦争術がその窮極的発達に達した時に実現せらるるものと考えねばならぬ。

  この見地よりする戦争の発達史および将来への予見が本研究の眼目である。


 戦闘は軍事技術の進歩を基礎として変化して来た。
また国軍が逐次増加し、それに伴ってその編制も大規模化されて来た。

 こういうものは一定方向に対し不断の進歩をして来ているのである。


 しかるにその国軍を戦場で運用する会戦
(会戦とは国軍の主力をもってする戦闘を云う)は
これを運用する武将の性格や国民性に依って相当の特性を認めらるるけれども、
軍隊発達の段階に依って戦闘に持久性の大小を生じ、
自然会戦指揮は或る二つの傾向の間を交互に動いて来た。

 また武力の戦争に作用し得る力も 
また歴史の進展過程に於て消極、積極の二傾向の間を交互し、
決戦戦争、持久戦争はどうも時代的傾向を帯びている。


 以上の見地から
戦闘法や軍の編制等が最後的発達を遂げ、
会戦指揮や戦争指導が戦争本来の目的に合する武力本来価値の発揮傾向に徹底する時、
人類争闘力の最大限を発揮する時であって、
これが世界統一の時期となり、永久平和の第一歩となる事と信ぜられる。

 

三節 西洋戦史に依る所以

 この研究は主として西洋近世戦史に依る。

 第二篇に於て述べたように私の軍事学の研究範囲は極めて狭く、
フリードリヒ大王、ナポレオンを大観しただけと云うべく、
それもやっと素材の整理をした程度である。

  東洋の戦史については
真に一般日本人の常識程度を越えていないために、
この研究は主として西洋の近世史を中心として進められたのである。

 誠に不完全な方法であるが、
しかし戦争はどうも西洋が本場らしく、
私が誠に貧弱なる西洋戦史を基礎として推論する事にも若干言い分があると信ずる。


 今日文明の王座は西洋人が占めており、
世界歴史はすなわち西洋史のように信ぜられている。
しかしこれは余りにも一方に偏した観察である。

 西洋文明は物質中心の文明で、
この点に於て最近数世紀の間西洋文明が世界を風靡しつつあるは現実であるが、
私どもは人類の綜合的文明はこれから大成せらるべく
その中心は必ずしも西洋文明でないと確信する。


 東洋文明は天意を尊重し、
これに恭従である事をもって根本とする。
すなわち道が文明の中心である。


 西洋人も勿論道を尊んでおり、
道は全人類の共通のものであり、
古今に通じて謬あやまらず、
中外に施して悖(もとら)ざるものである。

 しかも西洋文明は自然と戦いこれを克服する事に何時しか重点を置く事となり、
道より力を重んずる結果となり今日の科学文明発達に大きな成功を来たしたのであって、
人類より深く感謝せらるべきである。

  しかしこの文明の進み方は自然に力を主として道を従とし、
道徳は天地の大道に従わん事よりも
その社会統制の手段として考えられるようになって来たのでないであろうか。

  彼らの社会道徳には我らの学ぶべき事が甚だ多い。
しかし結局は功利的道徳であり、
真に人類文明の中心たらしむるに足るものとは考えられぬ。


 東洋が王道文明を理想として来たのに
自然の環境は西洋をして覇道文明を進歩せしめたのである。

  覇道文明すなわち力の文明は
今日誠に人目を驚かすものがあるが、
次に来たるべき人類文明の綜合的大成の時には
断じてその中心たらしむべきものではない。
 

 戦争についてもその最も重大なる事
すなわち「戦」の人生に於ける地位に関して王道文明の示すところは、
私の知っている範囲では次のようなものである。

1 三種神器に於ける剣。
 国体を擁護し皇運を扶翼(ふよく)し奉る力、日本の武である。


2 「善男子正法を護持せん者は
   五戒を受けず威儀を修せずして
   刀剣弓箭鉾槊(きゅうせんぼうさく)を持すべし。」

  「五戒を受持せん者あらば   
   名づけて大乗の人となすことを得ず。
   五戒を受けざれども
   正法を護るをもって
   乃ち大乗と名づく。

   正法を護る者は正に刀剣器杖を執持すべし。」
     (涅槃経)


3 「兵法剣形(けんぎょう)の大事もこの妙法より出たり。」(日蓮聖人)
  このような考え方は西洋にあるか無いかは知らないが、
 よしんばあっても今日の彼らの文明に対しては恐らく無力であろう。

  戦争の本義はどこまでも王道文明の指南に俟(まつ)べきである。
 しかし戦争の実行は主として力の問題であり、
覇道文明の発達せる西洋が本場となったのは当然である。


 近時の日本人は全力を傾注して西洋文明を学び取り摂取し、
既にその能力を示した。

  しかし反面西洋覇道文明の影響甚だしく、
今日の日本知識人は西洋人以上に功利主義に趨はしり、
日本固有の道徳を放棄し、
しかも西洋の社会道徳の体得すらも無く道徳的に最も危険なる状態にあるのではないか。

  世界各国、
特に兄弟たるべき東亜の諸民族からも蛇蝎(だかつ)の如く嫌われておるのは
必ずしも彼らの誤解のためのみでは無い。

  これは日本民族の大反省を要すべき問題であり、
東亜大同を目標とすべき昭和維新のため
よろしくこの混乱を整理して新しき道徳の確立が最も肝要である。

 しかしこれ程に西洋化した日本人も真底の本性を換える事は出来ない。

  外交について見れば最もよく示している。
覇道文明に徹底せるソ連の外交は正確なる数学的外交である事は極めて明らかであるのに、
日本人の一部は日本が南洋進出のため今日の如き対ソ国防不完全のままソ連と握手しようと主張している。

  誠に滑稽であるが、しかもこれは日本人の本質はお人好しである事を示しているのである。


 日英同盟廃棄数年後になっても日本人は英国が日英同盟の好誼を忘れた事を批難し、
つい最近まで第一次欧州大戦に於ける日本の協力を思い出させようとしているのに対し、
あるドイツ人が「日本は離婚した女に未練を持っている有様だ」と冷笑した事があった。

  これらも日本人は根本に於ては、
外交に於ても道義を守るべしとの考えが
西洋人に比して遥かに強い事を示している一例とも考えられる。

 日本の戦争は主として国内の戦争であり、
かつまた民族性が大きな力をなして戦の内に和歌のやりとりとなったり、
或いは那須与一の扇の的となったりして、
戦やらスポーツやら見境いがつかなくなる事さえあった。


 東亜大陸に於ても民族意識は到底西洋に於ける如く明瞭でなかった。
もちろん漢民族は自ら中華をもって誇っておったものの、
今日東亜の大陸に歴史上何民族か判明しない種族の多いのを見ても
民族間の対立感情が到底西洋の如くでなかったことを示している。

 かく東洋は王道文明発育の素地が西洋に比し遥かに優れている。

 これに加うるに東洋に於ては強大民族の常時的対立が無く、
かつ土地広大のため戦争の深刻さを緩和する事が出来た。

 欧州では強大民族が常に対立して相争いかつ地域も東亜の如く広くなく、
戦争術の発展が時代文明との関連を表わすに自然に良い有様であった。


 覇道文明のため戦争の本場であり、
かつ優れたる選手が常時相対峙しており、
戦場も手頃である関係上戦争の発達は西洋に於てより系統的に現われたのである。

 すなわち私の研究が西洋に偏していても「戦争」の問題である限り決して不当でないと信ずる。


  私の戦争史が西洋を正統的に取扱ったからとて、
一般文明が西洋中心であると云うのではない

 

【続く】 石原莞爾 『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第二章 戦争指導要領の変化  第一説~第四節

 

   


『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第二章 戦争指導要領の変化 第九節 第二次欧州大戦

2018-08-02 23:43:41 | 石原莞爾


  石原莞爾
『戦争史大観』
  第三篇 戦争史大観の説明  

 
 第二章 戦争指導要領の変化


第九節 第二次欧州大戦

 持久戦争は勢力ほぼ相伯仲する時に行なわれるのである。

 第二次欧州大戦でドイツのいわゆる電撃作戦が、
ポーランドやノルウェーの弱小国に対して迅速に決戦戦争を強行し得た事はもちろん驚くに足らない。
英仏軍と独軍はマジノ、ジーグフリードの陣地線の突破はお互にほとんど不可能で、
結局持久戦争になるものと常識的に信ぜられていた。

 しかるに一九四〇年五月十日、独軍が西方に攻勢を開始すると疾風迅雷、
僅かに七週間で強敵を屈伏せしめて、
世界戦史上未曽有の大戦果を挙げ、
仏国に対しても見事な決戦戦争を強行し得たのである。

 5月10日攻勢を開始すると、先ず和(オランダ)、白(ベルギー)、
仏三国の主要飛行場を空襲して大体一両日の中に制空権を得て、
主として飛行機と機械化兵団の巧妙な協同作戦に依って神速果敢なる作戦が行なわれた。

 殊に民族的にも最も近いオランダには内部工作が巧みに行なわれていたらしく、
空輸部隊の大胆な使用と相俟って5日間にこれを屈伏せしめる事が出来た。

 ベルギー方面に侵入した独軍また破竹の勢いでマース川の大障害を突破して西進
、特にアルデンヌ地方に前進した部隊は仏軍の意表に出でて5月10日既にセダン附近に於てマースを渡河し、
マジノの延長線を突破したのである。

 シュリーフェン以来独軍の主力は右翼にあるものと定まっていたのに、
今日はアルデンヌの錯雑地を経て一挙北部フランスに突入した。

 奇襲的効果は甚大であった。
セダンの破壊口からドイツ軍は有力な機械化兵団を先頭として突入し、
1918年3月攻勢にルーデンドルフが考えたようにエーヌ、オアーズ、ソンム等の河や運河を利用して
左側背の掩護を確実にしながら主力は一路西進、
たちまちアブヴィルに達した。

  同地では仏軍の一部が悠悠錬兵場で訓練中であったとの事である。
いかに独軍の進撃が神速であったかを物語っている。

 かくてフランデルとアルトアにあった英白軍および仏の有力部隊は瞬く間に包囲せられ、
5月22日頃にはその運命が決定した。

  独軍の包囲圏は刻々縮小せられ、
形勢非なるを見てとった英軍は匆々そうそう本国への退却を開始した。

 この情況を見たベルギー皇帝は5月28日無条件で独軍に降伏した。

 形勢は更に急転、英仏軍は多数の降伏者を生じ、
6月4日にはダンケルク陥落、遂にこの方面の作戦を終了した。

 僅々二週間で和、白両国は降伏。
英仏軍の有力なる部隊は撃滅せられその一部が辛うじて本国に逃げ帰った。

 6月5日には独軍は早くもソンムの強行渡河に成功、
仏国の抵抗意志は急速に低下して到るところ敗退、
6月14日独軍パリに入城、6月25日休戦成立した。

 ドイツの作戦はまるで神業のようで持久戦争の時代は過ぎ去り、
再び決戦戦争の時代到来せるやを信ぜしめる。
しかしそれについては充分慎重な観察が必要である。

 先ず第一に戦術上の観察を試みよう。
 独軍の成功は主として飛行機、戦車の威力であった。

  第一次欧州大戦当時に比して、この両武器は全く面目を一新しており、
殊に飛行機が軍事上の革命を生ぜんとしている事は確実である。
しかしこの両武器に対して、しかく簡単に正面は突破せらるべきであろうか。

 独軍はたちまち制空権を獲得して思う存分仏軍の後方を攻撃した。
 
  ために交通は大混乱に陥り、
かつ集団して行動する部隊は絶対なる脅威を受けて動作の自由を失った事は当然である。

 しかし戦闘展開を終り準備を終えている軍隊に対する飛行機の攻撃は
さして大なる威力を発揮し得るものではない。

 戦車は準備なき軍隊、
特に狼狽した軍隊に対してはその威力は頗る大きい。

 けれども地形の制限を受ける事多く、戦場ではほとんど盲唖である。
沈着かつよく準備せられた軍隊に対しては左程猛威を逞しゅうし得るものではない。

  殊に考うべきことは対戦車火器の準備は戦車の準備に比して容易な事である。

 戦車が敵陣地を突破し得てもその突破口が敵に塞がれ、
続行して来る歩兵との連絡を絶たれる時は、戦車は間もなく燃料つきて立往生する。
であるから真に近代的に装備せられ、決心して守備する敵陣地の突破はなかなか容易の事ではない。

 マジノ線を仏国人は難攻不落のものと信じていた。
しかるに独軍占領後の研究に依れば、マジノ線の築城編成は
第一次欧州大戦の経験を主として専ら火砲の効力に対抗する事だけを考えて、
攻者の新兵器に対する考慮が充分払われていなかった。

  即ち自由主義フランスはドイツの真剣なる準備に対抗する迫力を欠いていたのである。

 ドイツ軍は空軍と戦車、
それに歩工兵の密接なる協力に依って築城の中間地を突破する方式に出て、
フランス軍の意表に出たのである。

 殊に自由主義国フランスの怠慢はマジノ線の北端をベルギー国境に託して自ら安心し、
迂回し得る陣地であった事である。

 いわゆるマジノ延長線は紙上計画に止まり大体有事の日、
工事に取りかかる考えであったが、
開戦後は労働力の不足等の関係で大して工事を施されていなかった。

  またマジノ線に連接してベルギーがリエージュを主体として
マジノ線に準じた築城を完成する約束であったが、
事実は大して工事が行なわれていなかった。

 ドイツ軍は実にこの虚をついたわけである。
運動戦となるや独軍の極めて優れた空軍と機械化兵団が連合軍の心胆を奪って
大胆無比の作戦をなし遂げ得た。

 あの極めて劣勢なフィンランドが長時日良く優秀装備のソ軍の猛攻を支えた事は
今日でもいかに防禦力の大であるかを示している。

 
  今度の作戦でもフランデル方面に於て敵の正面に衝突した独軍の攻撃は
なかなか簡単には成功しなかったらしいのである。
空軍の大進歩、戦車の発達も充分準備し決心して戦う敵線の突破は至難である事を示している。

 第一次欧州大戦では仏、白の戦闘意志は英国のそれに劣らぬものであったが、
今回は余程事情を異にしていたらしい。

  フランスの頽廃的気分、
支配階級の「滅公奉私」の卑しむべき行為は
アンドレ・モーロアの『フランス敗れたり』を一読する者のただちに痛感するところである。

 英国の利己的行為は仏、白との精神的結合を破壊していた。
数年前ドイツがライン進駐を決行した時、
仏国が断然ベルサイユ条約に基づいてドイツに一撃を加うべく主張したのに対し英国は反対し、
その後も作戦計画につき事毎に意見の一致を見なかったと伝えられる。

  真に二国が衷心一致してドイツの進攻に抗する熱意があったならば
独、自国境の築城は必ず完成されているべきであったし、
今後の作戦についても更に緊密な協同が行なわれたであろう。


 戦略的に見れば戦力の著しく劣った仏国は国境で守勢をとるべきであり、
軍当局はこれを欲したであろう。

 しかし政略はこれを許さない。
止むなく有力な主力軍をベルギーに進め、ドイツの電撃作戦に依って包囲せらるるや、
利己主義の英国はたちまち地金を現わして本国へ退却の色を見せる。

 若し英国が真に戦うならば本国は全く海軍に一任し、
あらゆる手段を尽してその陸軍を大陸に止むべきであった。

  英国の態度はベルギーの降伏となり、
フランスの戦意喪失となったのは当然である。

 かく考えて来る時は無準備でしかも統一と感激なき自由主義国家と、
鉄の如き意志に依り完全にしかも深き感激の下に統一せられ、
総力を極度に合理的に集中運用せる全体主義国との対立であって、
断じて相匹敵する戦争力の争いではない。

 即ち時代が決戦戦争となったのでなく、
両方の力の著しき差があの歴史上無比の輝かしき決戦戦争を遂行せしめたのである。

 特にこの際我が国民に深き反省を要求するのは、
自由主義国家と全体主義国家の戦争準備に対する能力の驚嘆すべき差である。

 老大富裕国英仏が、戦後の疲れなお医し切れなかった貧乏国ドイツに対し、
ナチス政権確立後僅々数年でかくの如き劣勢に陥ったのである。

  この事は満州事変後我が国が極東作戦準備につきソ連との間に充分経験した事である。
満州事変頃は両国の戦争力相伯仲していたが、
僅かに数年のうちに彼我戦力の差に隔りを見た事がその後の東亜不安の根本原因である。

 速やかに我らは強力なる統制の下に
世界無比の急速度をもって我らの戦争力を向上せしめねばならぬ。

 今日フランスに対しては輝かしき決戦戦争を完遂したドイツも、
海を隔てた英国に対しては
殲滅戦略の続行が出来なくなり持久戦争になる公算が依然極めて大きい。

 ドイツが英国に対し殲滅戦略、
即ち上陸作戦を強行するためには英仏海峡の制海権が絶対に必要である。

 また制海権を得たとしても上陸作戦の困難は極めて大きい。
制海権のため海軍力の劣勢なドイツは主として空軍に頼らねばならぬ。

 我らは常識的に、
仏国海岸を占領したなら空軍の優勢なドイツは英近海の海運に大打撃を与え、
英国はそれだけでも屈伏するだろうと考えていたが、
今日までの結果を見ると飛行機による艦船の爆沈は潜水艦の威力に及ばぬ状態である。

 英仏海峡は依然英国海軍の支配下にあるらしい。
今後果してドイツがこの海峡の制海権を獲得し得るや否やが
決戦戦争の能否の第一分岐点である。

 昨年九月以降のロンドン猛爆の結果より見て、
今日の発達した空軍でもなお空軍による決戦戦争は不可能のようである。

 要するにフランス革命に依って国民的軍隊が生まれ、
職業軍時代の病根を断って殲滅戦略が採用せられ、
その威力の及ぶ範囲に於て決戦戦争が行なわるる事となった。

  しかし兵器の進歩は攻防両者に対する利益は交互的に現わるる傾向があるものの、
大勢は防者に有利となり逐次正面の突破を困難にした。

  それでも兵力少ない時代は敵翼を迂回包囲する見込みがあったのである。
正面突破の困難増大し、しかも決戦戦争の要ますます切となって来たドイツが、
シュリーフェンの「カンネ」思想を生んだのはこの時代的要求の結果である。 

 国民皆兵の徹底が兵力を増大し、
人口密度大なる欧州の諸国家では国軍をもって全国境を守備するに足る兵員を得るようになり、
遂に迂回を不可能として持久戦争の時代に入ったのである。

 毒ガス、戦車等第一次欧州戦争の末期
既に敵正面突破のため相当の威力を示して持久戦争から脱け出そうとあせったが、
大戦後は空軍の進歩甚だしく、
これに依って敵軍隊の後方破壊と直接軍隊の攻撃に依って敵陣地を突破せんとする努力と、
更に進んで敵政治の中心を攻撃する事に依って敵国を屈伏せんとする二つの考えが生じて来、
決戦戦争への示唆を与えつつ第二次欧州大戦となった。

 ドイツは飛行機、戦車の巧妙なる協同に依り
敵陣地突破に成功して大陸諸国に対し決戦戦争を遂行した。

 しかしこれは結局相手国がドイツに対する真剣な準備を欠いたためで、
地上兵力に依る強国間の決戦戦争は依然至難と考えられる。

 第二の空軍をもって敵国中心の攻撃に依る決戦戦争は、
英、独の間に於ける実験により今日なお殆んど不可能である事を実証した。

 
   しかし空軍主力の時代が来れば初めて海も持久戦争の原因とはならない。
空軍の徹底的発達がこの決戦戦争を予告し、
それも地上作戦でなく敵国中心の空中襲撃に依る事は疑いを入れない。


  地球の半周の距離にある敵に対し決戦戦争を強制し得る時は、
世界最終戦争到来の時である。


【続く】 
『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第三章 会戦指導方針の変化

 


『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第三章 会戦指導方針の変化

2018-08-01 10:59:36 | 石原莞爾

石原莞爾『戦争史大観』第三篇 戦争史大観の説明  

  第三章 会戦指導方針の変化
  


第一節 会戦の二種類

 戦争の性質に陰、陽の二種あるように、会戦も二つの傾向に分ける事が出来る。

1 最初から方針を確立し一挙に迅速に決戦を求める。(第一線決戦主義)

2 最初は先ず敵を傷める事に努力し機を見て決戦を行なう。(第二線決戦主義)

 両者を比較すれば、


  第一線決戦主義

一、将帥は決戦の方針を確立して攻撃を行なう。
二、第一線の兵力強大、予備は少し。
三、最初の衝撃を最も猛烈に行なう。
四、偶然に支配せらるる事多く奇効を奏するに便なり。


  第二線決戦主義

一、将帥は会戦経過を見て決戦の方針を決定す。
二、極めて有力なる予備隊を設く。
三、最後の衝撃を最も猛烈に行なう。
四、堅実にして偶然に支配せらるる事少なく兵力が最も重大なる要素なり。
 


第二節 二種類に分るる原因

 1 武力の靭強性

 2 国民性および将帥の性格

 攻撃威力が強い、逆に防禦の能力の脆弱な戦闘、
換言すれば勝敗の早くつく戦闘では自然第一線決戦主義が採用せらる。
例えて言えば騎兵の密集襲撃のようなものである。

  これに反し防禦が靭強である時は急に勝負がつき難い。
妄みだりに猪突するは危険で第二線決戦主義が有利となる。
 
  それ故この二種類はその時代の軍隊の性格に依る事が最も多い。
特に兵器が進歩して来れば来る程、
国民性や将帥の性格の及ばす影響が小さくなるのは当然である。

 古代、兵器が極めて単純であった時代は、
国民性の会戦指導要領に及ばす影響は比較的大であり得た訳である。
ギリシャ人は強大な大集団を作りこれをファランクスと名付けた。
この大集団に依る偉大な衝力に依り一挙に決勝を企図したのである。

  これに対しローマ人はレギオンと称し比較的小さな集団を編制した。
これは行動の自由を利用して巧みに敵に損害を与え、敵を攪乱し、
適時機を見て決戦を行なわんとするのである。

 すなわちギリシャ人は第一線決戦主義に傾き、
ローマ人は第二線決戦主義を好んだのである。

  第一線決戦主義は理想主義的であり、
第二線決戦主義は現実主義的である。

 けだしギリシャ人は哲学や芸術に秀で、
ローマ人は実業に秀でている民族性と会戦方式に相通ずるものが有るを見るであろう。

 田中寛博士の『日本民族の将来』に依れば、
古代ギリシャ人は今日のギリシャ人と異なり北方民族であった。

 今日段々高度の武装をなし民族性の影響は昔日に比し大となり難いのであるが、
第一次欧州大戦初期の両軍作戦を見るに、
固より他にも色々の事情はあったであろうが、

   ローマ民族に近いフランスは第一第二軍をして
先ず敵地に侵入せしめ後方に第四軍等を集結し、
戦況に応じて主決戦場を決定せんとする態勢を整えているのに対し、

   ギリシャ人に近いドイツは主決戦場を右翼に決定、
強大兵団をこの目的に応じて戦略展開を行ない、
一挙に敵軍の左側背に殺到せんとしたのである。

 今日でもなお民族性が会戦指揮方針のみならず
軍事の万般にわたり相当の影響を与えつつある事を見るのである。

 将帥の性格も同じ意味に於て個性を発揮するものと云うべきである。

  ナポレオンもアウステルリッツの如く第一線決戦を企図した事はある。
  また当時の縦隊戦術は後述する如く自然第二線決戦主義を有利とするのであるけれども、
第二線決戦はナポレオンの最も得意とするところである。

  地中海民族から第二線決戦の最大名手を出した事は面白いではないか。

 また北方民族から第一線決戦の最大名手フリードリヒ大王を出したことは時代の勢いであったとは言え
必ずしも偶然とのみ言えない。

 用兵上に民族性が作用する事は当然軍事学上にも同じ傾向となって現われる。

 フォッシュ元帥が伊藤述史氏に言うたように(145頁)軍事学もまた当然民族の性格の影響を受ける。
帰納的であるクラウゼウィッツと
演繹的であるジョミニーは独仏両民族の傾向を示すものと云うべきだ。

   1870~71年独仏戦争に於ける大勝の結果、
フランスに於てもモルトケ、クラウゼウィッツの研究が盛んになった。

 1902年のボンナール『独仏高等兵学の方式について』には
「ジョミニーの論述する如き一般原則から敷衍(ふえん)せる戦法の系統は謬妄、
 危険で絶対に排斥すべきもの」と言っている。


 しかしフランスでは依然ジョミニー流の思想が相当有力で、
殊に第一次欧州大戦の勝利はクラウゼウィッツの排撃派に勢いを与えたようで、
1923年発行カモン将軍の『ナポレオンの戦争方式』には
「1870年以後は普軍に倣う風盛んで、
 先ずホーエンローネー、ゴルツ、ブルーメー、シェルフ、メッケル等が研究され、
 次いでその源泉であるクラウゼウィッツに及んだ。
 1883~84年にはカルドー少佐が陸軍大学でクラウゼウィッツにつき大講演を行なった。
 
  ……兎に角1883年以来、
クラウゼウィッツの主義は我が陸軍大学で絶えず普及せられ、
ナポレオンの戦闘方式の完全なる理解に大なる障害を為した」と論じ
ジョミニーの為した如くナポレオンの方式を発見するに力を払っている。


 ドイツの有名な軍事学者フライタハ・ローリングホーフェンは
「仏人の思想は戦争の現象を分析するクラウゼウィッツ観察法よりも、
 ジョミニーの演繹法、厳密なる形式的方法を絶対的に好んでいる」と評し、
ジョミニー流であるワルテンブルグ(『将帥としてのナポレオン』の著者)の研究が
独軍に大なる影響を与えなかった事を喜んでいる。

 フライタハはクラウゼウィッツ研究の大家である。
クラウゼウィッツの思想は全独軍を支配している事言を俟またない。

 
  我ら日本軍人が西洋の軍事学を学ぶについては
よく日本民族の綜合的特性を活用し、
高所大所より観察して公正なる判断を下し独自の識見を持たねばならぬ。 


第三節 歴史的観察


 民族性、将帥の性格が会戦指揮方針に与える作用も前述の如く軽視出来ないが、
兵器の進歩に依る当時の武力の性格の影響は更に徹底的であり、
大体は時代性に左右せられる。


 横隊戦術、
殊にその末期軍隊の性質に制せられて
兵器の進歩と協調も失うに至った後の横隊戦術は技巧の末節に走り、
鈍重にして脆弱であり、
特にその暴露した側面は甚だしい弱点を成形していた。

 横隊戦術は第一線決戦主義が最も合理的である。
  殊に当時猛訓練と軍事学の研究に依って軍隊の精鋭に満腔の自信を持っていた
フリードリヒ大王には世人を驚嘆せしむる戦功を立てしめたのである。


 第一線決戦の特徴として兵力の多寡は第二線決戦のように決定的でない。
フリードリヒ大王時代は寡兵をもって衆を破る事が特に尊ばれたのである。

 大王は十三回の会戦中敗北三回で、
十回の勝利のうち六回は優勢の敵を破り、
一回といえども著しい優勢をもって戦った事はない。

 有名なロイテンの如きは2倍強、ロスバハは3倍の敵を撃破したのである。

 しかしかくの如き大勝も既に研究した如く持久戦争の時代に於ては、
ナポレオンの平凡なる勝利の程にも戦争の運命に決定的影響を与え得なかったのである。
  消耗戦略、機動主義の必然がそこに存在したのである。


 フランス革命に依って散兵――縦隊戦術となると、
この隊形は傭兵に馴致(じゅんち)せられた横隊戦術の矛盾を一擲して強靭性を増し、
側面に対する感度を緩和した。

  会戦は自然に第二線決戦式となったのである。
 戦場に敵に優る強大な兵力を集結する戦術一般の原則が最も物をいう事となった。

 ナポレオンは30回の会戦中23回は勝利を占め、
うち13回は著しい優勢をもって戦い、
劣勢をもって勝ったのは僅かに3回で
しかも大会戦と認むべきはドレスデンのみである。

 第一線決戦式に比し第二線決戦式は奇効を奏する事が比較的困難であり、
ナポレオンの有名な会戦中マレンゴはあやしい勝利であり、
特に代表的であるアウステルリッツ(第一線決戦)、
イエナでも技術的に見てフリードリヒ大王のロイテン、ロスバハには及ばない。

  然しナポレオンの勝利はほとんど常に戦争の運命に決定的作用を及ぼしたのである。

 モルトケ元帥は幕僚長で将帥ではない。
殊にモルトケ時代の普国の戦争には皆卓越せる戦争準備によって敵国を撃破した。

  当時の会戦は大体第一線兵団を戦場に向う前進に部署するだけで、
実行は第一線司令官に委ね、
フリードリヒ大王やナポレオンの会戦のように強烈なる最高統帥の指揮を見なかった。

 兵器特に撃針銃の採用進歩は
散兵の威力を増加して逐次戦闘正面を拡大して再び横広い隊形となった結果、
自然会戦指揮は再び第一線決戦主義に傾いて来たが、
シュリーフェン全盛時代までは
「緒戦、戦闘実行、決戦」と会戦時期を三区分していたように、
やはりナポレオン時代の第二線決戦の風も当時残っていたのである。


 シュリーフェン時代となると戦闘正面はますます拡大せられ、
敵の側背を狙う迂回包囲はますます大胆となるべく唱導鼓吹せられ、
第一線決戦主義に徹底して来た。

  会戦の方針は、既に集中決定の時に確立せられ、
敵の側背に向い決戦を強行断行するのである。

 シュリーフェンの「カンネ」の一節に
「翼側に於ける勝利を希うためには最後の予備を中央後でなく、
 最外翼に保持せねばならぬ。
 将帥の慧眼が広茫数十里に至る波瀾重畳の戦場に於て決戦地点を看破した後、
 初めて予備隊を移動するが如き事は不可能である。

 予備隊は既に会戦のための前進に当り、
 脚下停車場より、
 更に適切に云えば鉄道輸送の時から該方面に指向せられねばならぬ」と言っており、

  この大軍の会戦への前進はモルトケ元帥の如く
単に方針のみを与えて第一線司令官の自由に委せるのではなく、
 全軍あたかも大隊教練のように「眼を右、触接左」に前進すべき事を要求している

 丁度フリードリヒ大王の横隊戦術を大規模にした観がある。

 第一次欧州大戦初期は
前に述べたようにフランス軍の会戦方針はやや第二線決戦的色彩を帯びていたが
 (勿論徹底せるものではない)、
独軍は第一線決戦主義が極めて明確である。
シュリーフェン案の如く徹底したものではなかったが、
兎に角独軍のベルギー侵入よりマルヌまでの作戦はあたかも
ロイテン会戦を大々的に拡大した観を呈している。


 ところが持久戦争に陥り戦線が逐次縦深を増して来るに従い、
会戦指揮の方針は自然第二線決戦主義となって来た。

  局部的戦闘では奇襲に依り第一線決戦的に指導せらるる事もちろんであるが、
それだけでは縦深の敵陣地帯を完全に突破する事は至難で、
その後絶大なる予備隊の使用に依って会戦の決定を争う事になる。


 ドイツが最後の運命を賭した1918年の攻撃は5回にわたって行なわれ、
第5回目に敵の攻勢移転にあって脆くも失敗、
遂に戦争の決を見るに至った。


 普通に見れば一回の攻勢が一会戦とも言われるけれども、
更に大観すれば3月から8月にわたる全作戦を一大会戦とも見ることが出来る。

  即ちドイツ軍は多数師団の大予備隊を準備し、
数次にわたって敵の戦術的弱点を攻撃して
なるべく多くの敵の予備隊を吸収(即ち個々の攻撃は全軍の見地からすれば一戦闘である)し、
敵予備隊の消耗を計って敵が予備の貯え無くなった時、
自分の方は未だ保存している強大なる予備隊に依って
一挙に敵を突破する方式であったと見ることが出来る。


 独軍最高司令部は必ずしもそう考えていなかったし、
各攻勢の間隔大に過ぎ(準備上短縮は不可能であったろう)て、
敵に対応の準備を与え、
敵も巧みに予備隊を再建し得て、
独軍7月15日の攻勢には既にその勢い衰えつつあったのに乗じ、
全軍の指揮を一任せられたフォッシュ将軍の英断と炯眼によって独軍攻勢の側面を衝き、
遂に攻守処を異にして連合軍勝利の基を開いたのである。

  固より独軍の全敗は国内事情によること最も大であるけれども、
作戦方面から見れば仏軍があたかも火力をもって敵をいため、
敵の勢力を消耗した好機に乗じ攻勢に転ずるいわゆる
「火力主義の攻勢防禦」を大規模にした形で最後の勝利を得たのである。

 第一線決戦の名手フリードリヒ大王の傑作ロイテンと
第二線決戦の名手ナポレオンの傑作リーニーの両会戦につき簡単に述べて参考としよう。


 一、ロイテン会戦

  ロスバハに仏軍を大いに破ったフリードリヒ大王は戦捷の余威を駆って
一挙に墺軍をシュレージエンより撃攘せんとしブレスラウに向い転進した。
  12月5日大王はジュミーデ山よりロイテン附近に陣地を占領せる敵軍を観察し、
その左翼を攻撃して一挙に敵を撃破するの決心を固めた。


 これがため大王は普軍の先頭がベルン村近くに到着せるとき、
これを左へ転廻せしめ巧みに凹地及び小丘阜を利用しつつ
我が企図を秘匿してロベチンス村に入り、横隊に展開せしめた。

午後1時大王は梯隊をもって前進すべきを命じた。

 墺軍は普軍の斜行前進によりその左翼を急襲せられ、
その翼をロイテン東方に下げて普軍に対せんとしたのであるが
普軍の猛烈果敢なる攻撃と適切なる砲火の集中により全く対応の処置を失い、
たちまちにして潰乱するに到った。

 本戦闘は午後1時より4時過ぎまで継続せられたが
オーストリア軍の死傷は1万、砲百31門、軍旗55旒を失い、その捕虜は約1万2千に達した。

  本戦闘はフリードリヒ大王が3万5千の寡兵をもって
6万4千の墺軍を撃破せる大王会戦中の傑作であって、
兵力を一翼に集結し一挙に決戦を強要せる好範例である。


 二、リーニー会戦

 1815年6月15日オランダ国境を突破せるナポレオンは
ネー将軍に一部を授けて英軍に対せしめ、主力(7万3千)を率いて、
ブリュッヘル軍を攻撃すべくリーニーに向い前進した。


ブリュッヘルは三軍団の兵力(8万1千)をもって、
リーニー川の線に陣地を占領し、
英将ウエリントンの来援を頼んでナポレオンと決戦せんと企図していた。


 ナポレオンは
フルイルース附近を前進中詳細なる偵察の後、
一部をもって普軍の左翼を牽制抑留し
右翼中央に対し攻撃を加えて普軍の全力を吸収消耗せしめ、
その疲労を待って予備隊をもって一挙に止めを刺さんと計画を立てた。

 これがため敵の左翼に対してはグローチの騎兵隊をもって牽制せしめ、
敵の右翼に対しては第三軍団をもってセント・アルマント村を、
中央に対しては第四軍団をもってリーニー村を攻撃せしめ
予備隊として近衛、第4騎兵軍団並びに後続第6軍団をあてた。


  戦闘は午後2時頃より開始せられた。


 グローチ元帥は巧妙なる指揮により
プロイセン第三軍団をその正面に抑留するに成功したが、
我が左翼方面に於ては第三軍団は、セント・アルマント村の争奪を繰り返し、
戦況は極めて惨澹たるものがあった。


 午後5時頃
普将ブリュッヘルは待機中の残余部隊をリーニー、セント・アルマント村に進め
仏軍の左翼を包囲せんと企図し猛烈なる攻撃を加えてきた。

 ナポレオンは一部をもって前線を救援せしめたが
なお主力は参加せしめず戦機の熟するを待った。
 
  午後7時過ぎ普軍は全くその予備隊を消耗するに至った。
あたかもよし、後続第6軍団はこの頃戦場に到着した。

ここに於てナポレオンは、砲70門をもって普軍の中央に対し準備砲撃を加え、
近衛の一部、騎兵第4軍団、第6軍団を以ってリーニーに向い中央突破を敢行せしめた。

   普軍は戦力全く消耗して対応の策なく遂に敗退し
ブリュッヘルは危うく捕虜とならんとして僅かに逃るる事が出来た。


 本会戦はナポレオン得意の中央突破戦法であって第二線決戦の好範例である。


【続く】 
『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第四章 戦闘方法の進歩

 


石原莞爾 『戦争史大観』 第二篇 戦争史大観の序説(別名・戦争史大観の由来記)

2018-07-31 23:23:48 | 石原莞爾

第二篇 戦争史大観の序説
  (別名・戦争史大観の由来記)
 


昭和15年12月31日於京都脱稿
昭和16年6月号「東亜連盟」に掲載 

 私が、やや軍事学の理解がつき始めてから、
殊に陸大入校後、最も頭を悩ました一問題は、日露戦争に対する疑惑であった。
 日露戦争は、たしかに日本の大勝利であった。
しかし、いかに考究しても、その勝利が僥倖の上に立っていたように感ぜられる。
もしロシヤが、もう少し頑張って抗戦を持続したなら、
日本の勝利は危なかったのではなかろうか。
 

 日本陸軍はドイツ陸軍に、その最も多くを学んだ。
そしてドイツのモルトケ将軍は日本陸軍の師表として仰がれるに至った。
日本陸軍は未だにドイツ流の直訳を脱し切っていない。
例えば兵営生活の一面に於ても、それが顕著に現われている。 

 服装が洋式になったのは、よいとしても、
兵営がなお純洋式となっているのは果して適当であろうか。
脱靴だけは日本式であるが、田舎出身の兵隊に、慣れない腰掛を強制し、
また窮屈な寝台に押し込んでいる。

  兵の生活様式を急変することは、かれらの度胆を抜き、
不慣れの集団生活と絶対服従の規律の前に屈伏させる一手段であるかも知れないが、
しかし国民の兵役に対する自覚が次第に立派なものに向上して来た今日では、
その生活様式を国民生活に調和させることが必要である。
 
 のみならず更にあらゆる点に、積極的考慮が払われるべきではないだろうか。 

  軍事学については、
戦術方面は体験的であるため自然に日本式となりつつあるものの、
大戦略即ち戦争指導については、いかに見てもモルトケ直訳である。

 もちろん今日ではルーデンドルフを経てヒットラー流(?)に移ったが、
依然としてドイツ流の直訳を脱してはいない。 


 日露戦争はモルトケの戦略思想に従い
「主作戦を満州に導き、敵の主力を求めて遠くこれを北方に撃攘し、
 艦隊は進んで敵の太平洋艦隊を撃破し以て極東の制海権を獲得する……」という
作戦方針の下に行なわれたのである。

 武力を以て迅速に敵の屈伏を企図し得るドイツの対仏作戦ならば、
かくの如き要領で計画を立てて置けば充分である。
元来、作戦計画は第一会戦までしか立たないものである。 

 しかしながら日本のロシヤに対する立場はドイツのフランスに対するそれとは全く異なっている。
日本の対露戦争には単に作戦計画のみでなく、
戦争の全般につき明確な見通しを立てて置かねばならないのではないか。
これが私の青年時代からの大きな疑問であった。  

 日露戦争時代に日本が対露戦争につき真に深刻にその本質を突き止めていたなら、
あるいは却ってあのように蹶起する勇気を出し得なかったかも知れぬ。

  それ故にモルトケ戦略の鵜呑みが国家を救ったとも言える。
しかし今日、世界列強が日本を嫉視している時代となっては、
正しくその真相を捉え根底ある計画の下に国防の大方針を確立せねばならぬ。
これは私の絶えざる苦悩であった。

 陸大卒業後、
半年ばかり教育総監部に勤務した後、漢口の中支那派遣隊司令部付となった。
当時、漢口には一個大隊の日本軍が駐屯していたのである。

  漢口の勤務二個年間、心ひそかに研究したことは右の疑問に対してであった。
しかし読書力に乏しい私は、殊に適当と思われる軍事学の書籍が無いため、
東亜の現状に即するわが国防を空想し、
戦争を決戦的と持続的との二つに分け、
日本は当然、後者に遭遇するものとして考察を進めて見た。 

 ロシヤ帝国の崩壊は日本の在来の対露中心の研究に大変化をもたらした。
それは実に日本陸軍に至大の影響を及ぼし、
様々に形を変えて今日まで、すこぶる大きな作用を為している。

  ロシヤは崩壊したが同時に米国の東亜に対する関心は増大した。
日米抗争の重苦しい空気は日に月に甚だしくなり、
結局は東亜の問題を解決するためには対米戦争の準備が根底を為すべきなりとの判断の下に、
この持続的戦争に対する思索に漢口時代の大部分を費やしたのであった。
 
  当時、日本の国防論として最高権威と目された
佐藤鉄太郎中将の『帝国国防史論』も一読した。


 この史論は、
明治以後に日本人によって書かれた軍事学の中で最も価値あるものと信ぜられるが、
日本の国防と英国の国防を余りに同一視し、
両国の間に重大な差異のあることを見遁している点は、
遺憾ながら承服できなかった。

  かくて私は当時の思索研究の結論として、
ナポレオンの対英戦争が、
われらの最も価値ある研究対象であるとの年来の考えを一層深くしたのであった。

  明治43年頃、韓国守備中に、
箕作博士の『西洋史講話』を読んで植え付けられたこの点に関する興味が、
不断に私の思索に影響を与えつつあったのである。


 ただ、箕作博士の所論もマハン鵜呑みの点がある。
後年、箕作博士が陸軍大学教官となって来られた際、
一度この点を抗議して博士から少しく傾聴せられ来訪をすすめられたが、
遂に訪ねる機会も無くそのままとなったのは、未だに心残りである。

 大正十二年、ドイツに留学。
ある日、安田武雄中将(当時大尉)から、
ルーデンドルフ一党とベルリン大学のデルブリュック教授との論争に関する説明をきき、
年来の研究に対し光明を与えられしことの大なるを感知して、
この方面の図書を少々読んだのであるが、

 語学力が不充分で、読書力に乏しい私は、
あるいは半解に終ったかとも思われるが、
ともかくデルブリュック教授の殲滅戦略、消耗戦略の大体を会得し得て盛んにこの言葉を使用し、
陸軍大学に於ける私の欧州古戦史の講義には、
戦争の二大性質としてこの名称を用いたのであった。

 ドイツに赴く途中、
シンガポールに上陸の際、国柱会(こくちゅうかい)の人々から歓迎された席上に於て、
私はシンガポールの戦略的重要性を強調し、
英国はインドの不安を抑え、
豪州防衛のために戦略的側面陣地価値ある同地を、
近く要塞化すべきを断じたのであったが、
この後、間もなく実現したので、当時列席した人から感慨深い挨拶状を受けたことがあった。

 ドイツ留学の二年間は、
主として欧州大戦が殲滅戦略から消耗戦略に変転するところに興味を持って研究したのであるが、
語学力の不充分と怠慢性のため充分に勉強したと言えず、誠にお恥ずかしい次第である。

  欧州大戦につき少しく研究するとともに、
デルブリュックとドイツ参謀本部最初の論争戦であったフリードリヒ大王の研究を必要とし、
且つかねての宿望であったナポレオンを研究し、
大王の消耗戦略からナポレオンの殲滅戦略への変化は欧州大戦の変化とともに軍事上最も興味深い研究なるべしと信じ、
両名将の研究に要する若干の図書を買い集めたのであった。 

 明治の末から大正の初めにかけての会津若松歩兵第65連隊は、
日本の軍隊中に於ても最も緊張した活気に満ちた連隊であった。

 この連隊は幹部を東北の各連隊の嫌われ者を集めて新設されたのであったが、
それが一致団結して訓練第一主義に徹底したのである。 

  明治42年末、少尉任官とともに山形の歩兵第32連隊から若松に転任した私は、
私の一生中で最も愉快な年月を、
大正4年の陸軍大学入校まで、この隊で過ごしたのである。

 いな、陸軍大学卒業までも、
休みの日に第4中隊の下士室を根城として兵とともに過ごした日は、極めて幸福なものであった。 

 私自身は陸大に受験する希望がなかったのであるが、
余り私を好かぬ上官たちも、連隊創設以来一名も陸大に入学した者がないので、
連隊の名誉のためとて、
比較的に士官学枚卒業成績の良かった私を無理に受験させたのである。 

 私の希望通り陸大に入校しなかったならば、
私は自信ある部隊長として、真に一介の武人たる私の天職に従い、
恐らく今日は屍を馬革に包み得ていたであろう。

  しかるに私は入学試験に合格した。
これには友人たちも驚いて
「石原は、いつ勉強したか、どうも不思議だ」とて、
多分、他人の寝静まった後にでも勉強したものと思っていたらしい。
 
  余り大人気ないので私は、
それに対し何も言ったことはなかったが、
起床時刻には連隊に出ており、
消灯ラッパを通常は将校集会所の入浴場で聞いていた私は、
宿に帰れば疲れ切って軍服のまま寝込む日の方が多かったのである。

  あのころは記憶力も多少よかったらしいが、
入学試験の通過はむしろ偶然であったろうと思う。
しかしこれは連隊や会津の人々には大きな不思議であったらしい。

 山形時代も兵の教育には最大の興味を感じていたのであるが、
会津の数年間に於ける猛訓練、殊に銃剣術は今でも思い出の種である。

 この猛訓練によって養われて来たものは兵に対する敬愛の念であり、
心を悩ますものは、この一身を真に君国に捧げている神の如き兵に、
いかにしてその精神の原動力たるべき国体に関する信念感激をたたき込むかであった。 

 私どもは幼年学校以来の教育によって、
国体に対する信念は断じて動揺することはないと確信し、
みずから安心しているものの、
兵に、世人に、更に外国人にまで納得させる自信を得るまでは安心できないのである。
 
  一時は筧博士の「古神道大義」という 
私には むずかしい本を熱心に読んだことも記憶にあるが、
遂に私は日蓮聖人に到達して真の安心を得、
大正9年、漢口に赴任する前、国柱会の信行員となったのであった。 

 殊に日蓮聖人の「前代未聞の大闘諍(とうじょう)一閻浮提(えんぶだい)に起るべし」は
私の軍事研究に不動の目標を与えたのである。

 戦闘法が幾何学的正確さを以て今日まで進歩して来たこと、
即ち戦闘隊形が点から線に、
更に面になったことは陸軍大学在学当時の着想であった。
いな恐らくその前からであったらしい。

  大正三年夏の 「偕行社記事別冊」 として発表された
恐らく曽田中将の執筆と考えられる 「兵力節約案」 は、
面の戦術への世界的先駆思想であると信ずるが、
私がこの案を見て至大の興味を感じたことは今日も記憶に明らかである。

  教育総監部に勤務した頃、
当時わが陸軍では
散兵戦術から今日の戦闘群の戦法に進むことに極めて消極的であったのであるが、
私が自信を以て積極的意見を持っていたのは、この思想の結果であった。

  私の最終戦争に対する考えはかくて、

 1 日蓮聖人によって示された世界統一のための大戦争。
 2 戦争性質の二傾向が交互作用をなすこと。
 3 戦闘隊形は点から線に、更に面に進んだ。次に体となること。 

の三つが重要な因子となって進み、ベルリン留学中には全く確信を得たのであった。

  大正何年か忘れたが、
緒方大将一行が兵器視察のため欧州旅行の途中ベルリンに来られたとき、
大使館武官の招宴があり、
私ども駐在員も末席に連なったのであるが、

補佐官坂西少将(当時大尉)が五分間演説を提案し最初に私を指名したので私は立って、
 「何のため大砲などをかれこれ見て歩かれるのか。
   余り遠からず戦争は空軍により決せられ世界は統一するのだから、
  国家の全力を挙げて最優秀の飛行機を製作し得るよう今日から準備することが第一」
というようなことを述べたのであるが、

 これは緒方大将を少々驚かしたらしく数年後、
陸軍大臣官邸で同大将にお目にかかったとき、特に御挨拶があった。

 大正十四年秋、シベリヤ経由でドイツから帰国の途中、
哈爾賓(ハルビン)で国柱会の同志に無理に公開演説に引出された。

 席上で
「大震災により破壊した東京に十億の大金をかけることは愚の至りである。 
  世界統一のための最終戦争が近いのだから、
 それまでの数十年はバラックの生活をし戦争終結後、
 世界の人々の献金により世界の首都を再建すべきだ」といったようなことを言って、
あきれられたことも覚えている。


 ドイツから帰国後、陸軍大学教官となったが、
大正十五年初夏、故筒井中将から、
来年の2年学生に欧州古戦史を受け持てとの話があり、
一時は躊躇したが再三の筒井中将の激励があり、
もともと私の最も興味をもっていた問題であったため、
遂に勇を鼓してお受けすることになった。

 かくて同年夏、
会津の川上温泉に立て籠もり日本文の参考資料に熱心に目を通した。

 もちろん泥縄式の甚だしいものであったが、
講義の中心をなす最終戦争を結論とする戦争史観は脳裡に大体まとまっていたので、
とりあえず何とか片付け、大正十五年暮から十五回にわたる講義を試みたのであった。
 「近世戦争進化景況一覧表」(121頁参照)はそのときに作られたのである。

 昭和二年の同二年学生に対する講義は35回であったが、
今度は少し余裕があったため、ドイツから持ち帰った資料を勉強し、
更にドイツにいた原田軍医少将(当時少佐)、
オーストリア駐在武官の山下中将をもわずらわして不足の資料を収集した。 

  昭和元年から2年への冬休みは、
安房あわの日蓮聖人の聖蹟で整頓した頭を以て、
とにかく概略の講義案を作成した。
もちろん、根本理論は前年度のものと変化はないのである。

 当時、陸軍大学幹事坂部少将から熱心な印刷の要望があったが、
充分に検討したものでもないので、これに応ずる勇気も無く、
現在も私の手元に保存してある次第である。 

  昭和3年度のためには、
前年の講義録を再修正する前に、
私の年来最大の関心事であるナポレオンの対英戦争の大陸封鎖の項に当面し、
全力を挙げて資料を整理し、
昭和2年から3年への年末年始は、これを携えて伊豆の日蓮聖人の聖蹟に至り、
構想を整頓して正月中頃から起草を始めようとしたとき、流感にかかり中止。

  その後、再び着手しようとすると今度は猛烈な中耳炎に冒されて約半歳の間、
陸軍軍医学校に入院し、遂に目的を達せずして終ったのであった。

 その後もこの研究、
特に執筆を始めると不思議にも必ず病気にかかるので
「アメリカの神様が必死に邪魔をするんだろう」などと冗談を言うような有様であった。

  昭和2年の晩秋、
伊勢神宮に参拝のとき、
国威西方に燦然として輝く霊威をうけて帰来。

 私の最も尊敬する佐伯中佐にお話したところ余り良い顔をされなかったので、
こんなことは他言すべきでないと、誰にも語ったことも無く、そのままに秘して置いたのであるが、
当時の厳粛な気持は今日もなお私の脳裏に鞏固きょうこに焼き付いている。


 昭和3年10十月、関東軍参謀に転補。
当時の関東軍参謀は今日考えられるように人々の喜ぶ地位ではなかった。

 旅順で関東庁と関東軍幹部の集会をやる場合、
関東庁側は若い課長連が出るのに軍では高級参謀、高級副官が止まりで、
私ども作戦主任参謀などは列席の光栄に浴し得なかった。 

  満鉄の理事などにも同席は不可能なことで、
奉天の兵営問題で当時の満鉄の地方課長から散々に油をしぼられた経験は、
今日もなお記憶に残っている。


 関東軍に転任の際も、
今後とも欧州古戦史の研究を必ず続ける意気込みで赴任した
特に万難を排しナポレオンの対英戦争を書き上げる決心であった。

  しかし中耳炎病後の影響は相当にひどく、
何をやっても疲れ勝ちで遂に初志を貫きかねた。

 漢口駐屯時代に徐州で木炭中毒にかかり、そ
れ以来、脈搏に結滞を見るようになり、
一時は相当に激しいこともあり、
また漢口から帰国後、マラリヤにかかったなどの関係上、
爾後の健康は昔日の如くでなく、
且つ中年の中耳炎は根本的に健康を破壊し、
殊に満州事変当時は大半、横臥して執務した有様であった。


  かような関係で族順では遂に予定の計画を果し得なかったが、
しかし陸大教官2個年間の講義は未消化であり、
特にデルブリュックの影響強きに失し、
戦争指導の両方式即ち戦争の性質の両面を「殲滅戦略」「消耗戦略」と命名していたのは、
どうも適当でないとの考えを起し、
この頃から戦争の性質を「殲滅戦争」「消耗戦争」の名を用いて、
戦略に於ける「殲滅戦略」「消耗戦略」との間の区別を明らかにすることにした。

 「殲滅戦争」「消耗戦争」の名称を
「決戦戦争」「持久戦争」に改めたのは満州事変以後のことである。

 昭和四年五月一日、関東軍司令部で各地の特務機関長らを集め、
いわゆる情報会議が行なわれた。

 当時の軍司令官は村岡中将で、
河本大佐はその直前転出し、
板垣征四郎大佐が着任したばかりであった。
奉天の秦少将、吉林の林大八大佐らがいたように覚えている。

  この会議はすこぶる重大意義を持つに至った。
それは張作霖爆死以後の状況を見ると、
どうも満州問題もこのままでは納まりそうもなく今後、
何か一度、事が起ったなら結局、全面的軍事行動となる恐れが充分にあるから、
これに対する徹底せる研究が必要だとの結論に達したのであった。


  その結果、昭和4年7月、
板垣大佐を総裁官とし、関東軍独立守備隊、駐箚(ちゅうさつ)師団の参謀らを以て、
哈爾賓、斉々哈爾(チチハル)、海拉爾(ハイラル)、満州里(マンチュウリ)方面に参謀演習旅行を行なった。


 演習第1日は車中で研究を行ない長春に着いた。
車中で研究のため展望車の特別室を借用することについて、
満鉄嘱託将校に少なからぬ御迷惑をかけたことなど思い出される。

  第2日の研究は私の「戦争史大観」であり、
その説明のための要旨を心覚えに書いてあったのが「戦争史大観」の第一版である。

  第3日は吟爾賓に移り研究を続け、
夜中に便所に起きたところ北満ホテルの板垣大佐の室に電灯がともっている。
 入って見ると、板垣大佐は昨日の私の講演の要点の筆記を整理しているのに驚いた。
板垣大佐の数字に明るいのは兵要地誌班出身のためとのみ思っていた私は、
この勉強があるのに感激した次第であった。

 この頃から満蒙問題はますますむずかしくなり、
私も大連で二、三度、私の戦争観を講演し、
「今日は必要の場合、
 日本が正しいと信ずる行動を断行するためには
 世界の圧迫も断じて恐れる必要がない」旨を強調したのであった。

 時勢の逼迫(ひっぱく)が私の主張に耳を藉かす人も生じさせていたが、
事変勃発後、私の「戦争史大観」が謄写刷りにされて若干の人々の手に配られた。


  こんな事情で満州建国の同志には事変前から知られ、
特に事変勃発後は「太平洋決戦」が逐次問題となり、
事変前から唱導されていた伊東六十次郎(むそじろう)君の歴史観と一致する点があって、
特に人々の興味をひき爾来、満州建国、東亜連盟運動の世界観に若干の影響を与えつつ十年の歳月を経て、
遂に今日の東亜連盟協会の宣言にまで進んで来たのである。 

 昭和七年夏、私は満州国を去り、
暮には国際連盟の総会に派遣されてジュネーブに赴いた。

 ジュネーブでは別にこれという仕事もなかったので、
フリードリヒ大王とナポレオンに関する研究資料を集め、
昭和八年の正月はベルリンに赴いて坂西武官室の一室を宿にし、
石井(正美)補佐官の協力により資料の収集につとめた。

 帰国後も石井補佐官並びに宮本(忠孝)軍医少佐には、
資料収集について非常にお世話になった。

 固より大したものでないが、
前に述べた人々の並々ならぬ御好意に依って、
フランス革命を動機とする持久・決戦両戦争の変転を研究するための、
即ち稀代の名将フリードリヒ大王並びにナポレオンに関する軍事研究の資料は、
日本では私の手許に最も良く集まっている結果となった。

  私は先輩、友人の御好意に対し必ず研究を続ける決心であったが、
その後の健康の不充分と職務の関係上、遂に無為にして今日に及んでいる。

  資料もまた未整理のままである。
今日は既に記憶力が甚だしく衰え且つドイツ語の読書力がほとんどゼロとなって、
一生私の義務を果しかねると考えられ、誠に申訳のない次第である。
有志の御研究を待望する。


 支那事変勃発当時、
作戦部長の重職にあった私は、到底その重責に堪えず十月、関東軍に転任することとなった。

  文官ならこのときに当然辞職するところであるが軍人にはその自由がない。
昭和13年、大同学院から国防に関する講演を依託されて
「戦争史大観」をテキストとすることとなり若干の修正を加えた。


 「将来戦争の予想」については、
旧稿は日米戦争としてあったのを、
「東亜」と西洋文明の代表たる「米国」たるべきことを明らかにしたが、
「現在に於ける我が国防」は根本的に書き換えたのである。

 昭和4年の分は次の如くであった。

1 
 欧州大戦に於けるドイツの敗戦を極端ならしめたるは、
ドイツ参謀本部が戦争の本質を理解せざりしこと、また有力なる一原因なり。
学者中には既に大戦前これに関する意見の一端を発表せるものあり、
デルブリュック氏の如きこれなり。

2 
 日露戦争に於ける日本の戦争計画は「モルトケ」戦略の直訳にて勝利は天運によりしもの多し。
 目下われらが考えおる日本の消耗戦争は作戦地域の広大なるために来たるものにして、
欧州大戦のそれとは根本を異にし、
むしろナポレオンの対英戦争と相似たるものあり。
 いわゆる国家総動員には重大なる誤断あり。
もし百万の軍を動かさざるべからずとせば日本は破産の外なく、
またもし勝利を得たりとするも戦後立つべからざる苦境に陥るべし。

3 露国の崩壊は天与の好機なり。
 日本は目下の状態に於ては世界を相手とし東亜の天地に於て持久戦争を行ない、
 戦争を以て戦争を養う主義により、長
年月の戦争により、良く工業の独立を完うし国力を充実して、
 次いで来るべき殲滅戦争を迎うるを得べし。


 昭和4年頃はソ連は未だ混沌たる状態であり、
日本の大陸経営を妨げるものは主として米国であった。

  昭和6年 「満蒙問題解決のための戦争計画大綱」を起案している。

  固より簡単至極のものであるが当時、
未だ「戦争計画」というような文字は使用されず、
作戦計画以外の戦争に関する計画としては、
いわゆる「総動員計画」なるものが企画せられつつあったが、

 内容は戦争計画の真の一部分に過ぎず、
しかもその計画は第一次欧州大戦の経験による欧州諸国の方針の鵜呑みの傾向であったから、
多少戦争の全体につき思索を続けていた私には記念すべき思い出の作品である。

 昭和13年には東亜の形勢が全く変化し、
ソ連は厖大なその東亜兵備を以て北満を圧しており、
米国は未だその鋒鋩(ほうぼう)を充分に現わしてはいなかったが、
満州事変以来努力しつつあったその軍備は、いつ態度を強化せしむるかも計り難い。

  即ち日本は10年前の如く露国の崩壊に乗じ、
主として米国を相手とし、
戦争を以て戦争を養うような戦争を予期できない状態になっていたのである。


 そこで持久戦争となるべきを予期して、
米・ソを中心とする総合的圧力に対する武力と経済力の建設を国防の目標とする如く書き改めた。


 「若し百万の軍を動かさざるべからずとせば日本は破産の外なく……」というような古い考えは、
自由主義の清算とともに一掃されねばならないことは言うまでもない。


 昭和10年8月、私は参謀本部課長を拝命した。
三宅坂の勤務は私には初めてのことであり、
いろいろ予想外の事に驚かされることが多かった。

  満州事変から僅かに4年、
満州事変当初の東亜に於ける日・ソの戦争力は大体平衡がとれていたのに、
昭和11年には既に日本の在満兵力はソ連の数分の一に過ぎず、
殊に空軍や戦車では比較にならないことが世界の常識となりつつあった。

 日本の対ソ兵備は次の2点については何人も異存のないことである。
  1 ソ連の東亜に使用し得る兵力に対応する兵備。
  2 ソ連の東亜兵備と同等の兵力を大陸に位置せしめる。

 私はこの簡単明瞭な見地から在満兵備の大増加を要望した。
しかしそのときの考えは余りに消極的であったことが今となれば恥ずかしい極みである。 

  小胆ものだから自然に日本の現状即ち政治的関係に左右されたわけである。
しかし世間では石原はド偉い要求を出すとの評判であったらしい。

 その頃ちょうど上京中であった星野直樹氏(私は未だ面識が無かった)から、
大蔵省の局長達が日本財政の実情につき私に説明したい希望だと伝えられたが、
私はその必要はない旨を返答したところ、

 重ねて日本の国防につき、
できるだけのことを承りたいとのことであったので遂に承諾し、
山王ホテルの星野氏の室で会見した。
 先方は星野氏の他に賀屋、石渡、青木の三氏がおられた。


 賀屋氏が、まず日本財政につき説明された。
それは約束と違うと思ったが私も耐えて終るまで待っており、
私の国防上の見地を軍機上許す限り私としては赤誠を以て説明した積りである。

  終ると先方から、
「現在の日本の財政では無理である」
「無い袖は振られない」というようないろいろの抗議的説明や質問があったが、

 私は「私ども軍人には明治天皇から
 『世論に惑わず政治に拘らず只一途に己が本分』を尽すべきお諭さとしがある。
   財政がどうであろうと皆様がお困りであろうと、
  国防上必要最少限度のことは断々固として要求する」旨お答えして辞去した。 

 私のこういう態度主張を、世の中には一種の駆引のように考える向きもあったらしいが、
断じてそんなことはあり得ない。
いやしくも軍人がお勅諭を駆引に用いることがあり得るだろうか。 

 世はいよいよ国防国家の必要を痛感して来た。
国防国家とは軍人の見地から言えば、
軍人が作戦以外のことに少しも心配しなくともよい状態であることで、
軍としては最も明確に国家に対して軍事上の要求を提示しなければならない。 

  私は世人の誤解に抗議するとともに、
私のこの態度だけは、わが同僚並びに後輩の諸君に私のようにせられることを、
おすすめするものである。

 私は一試案を作ってそれに要する戦費を、
その道に明るい一友人に概算して貰った。
 友人の私に示した案は私の立案の心理状態と同一で、
どうやら内輪に計算されているらしい。 

 私の考えでは軍は政府に軍の要求する兵備を明示する。
政府はこの兵備に要する国家の経済力を建設すべきである。

  しかし当時の自由主義の政府は、
われらの軍費を鵜呑みにしてもこれに基づく経済力の建設は到底、
企図する見込みがないところから、
軍事予算は通過しても戦備はできない。

  考え抜いた結果、
何とかして生産力拡充の一案を得て具体的に政府に迫るべきだと考え、
板垣関東軍参謀長と松岡満鉄総裁の了解を得て、
満州事変前から満鉄調査局勤務のため関東軍と密接な連絡があり

 事変後は満鉄経済調査会を設立した宮崎正義氏に、
「日満経済財政研究会」を作ってもらい、
まず試みに前に述べた私案に基づき日本経済建設の立案をお願いしたのである。

 誠に無理な要求であり、
立案の基礎条件は甚だ曖昧を極めていたにかかわらず、
宮崎氏の多年の経験と、そのすぐれた智能により、
遂に昭和11年夏には日満産業5個年計画の最初の案ができたのである。
  真に宮崎氏の超人的活動の賜物である。


 この案はもちろん宮崎氏の一試案に過ぎないし、
その後、軍備の大拡充が行なわれた結果、
日本の生産拡充計画も自然大きくなったことと信ずるが、
いずれにせよ宮崎氏の努力は永く歴史に止むべきものである。

  宮崎氏は後に参謀本部嘱託となり幾多の有益な計画を立て、
国策の方向決定に偉大な功績を樹てられたことと信ずる。

 この宮崎氏の研究の要領を聴き、
私も数年前自由主義時代・帝政ロシヤ崩壊時代に、
「百万の軍隊を動かさざるべからずとせば日本は破産の外なく……」と
日本の戦争力を消極的に見ていた見地を心から清算した。

  即ち日本は断固として統制主義的建設により、
東亜防衛のため米・ソの合力に対抗し得る実力を養成することを絶対条件と信じ、
国家が真に自覚すればその達成は必ず可能なるを確信するに至ったのである。


 経済力が極めて貧弱で、重要産業はほとんど英米依存の現状に在った日本は、
至急これを脱却して自給自足経済の基礎を確立することが第一の急務なるを痛感し、
外交・内政の総てをこの目的達成に集中すべく、
それが国防の根本であることを堅く信じて来たのであるが、

 満州国は十二年から計画経済の第一歩を踏み出したものの、
日本は遂にこれに着手するに至らないで支那事変を迎えたのである。

 国家は戦争・建設同時強行との、えらい意気込みであったが、
日本としてこの二大事業の同時遂行は残念ながら至難なことが、
戦争の経験によって明らかとなった。

  しかし、いかなることが起るとも米・ソ両国の実力に対抗し得る力なき限り、
国防の安定せざることを明らかにしたのが昭和十三年の訂正である。

 昭和14年、留守第16師団長中岡中将の命により、
京都衛戌講話に「戦争史大観」を試みたが、
その後、人々の希望により、昭和15年1月印刷するに当り、
既に第二次欧州大戦が勃発したため、若干の小修正を加えたのが現在のものである。


 フランス革命から第一次欧州戦争の間が決戦戦争の時代であり、
この期間は125年である。
その前の持久戦争時代は大体三、四百年と見ることができる。

  もちろんこの時代の区分や、その年数については、
簡単に断定することに無理はあるが、
大勢は推断することができると信ずる。

 第一次欧州大戦から次の大変換即ち最終戦争までの持久戦争期間は、
この勢いで見れば、すこぶる短いように考えられる。 

 同時に私の信仰から言えば、
その決勝戦に信仰の統一が行なわれねばならぬ。
 僅か数十年の短い年月で一天四海皆帰妙法は可能であろうか。

 最終戦争までの年数予想は恐ろしくて発表の勇気なく、
ただ案外近しとのみ称していた。 

 昭和13年12月、舞鶴要塞司令官に転任。
舞鶴の冬は毎日雪か雨で晴天はほとんどない。
しかし旅館清和楼の一室に久し振りに余り来訪者もなく、
のどかに読書や空想に時間を過ごし得たのは誠に近頃にない幸福の日であった。

 この静かな時間を利用して東洋史の大筋を一度復習して見たい気になり、
中学校の教科書程度のものを読んでいる中に突如、一大電撃を食らった。
私は大正8年以来、日蓮聖人の信者である。

  それは日蓮聖人の国体観が私を心から満足せしめた結果であるが、
そのためには日蓮聖人が真に人類の思想信仰を統一すべき霊格者であることが絶対的に必要である。 

 仏の予言の適中の妙不可思議が私の日蓮聖人信仰の根底である。
難しい法門等は、とうてい私には分かりかねる。
しかるに東洋史を読んで知り得たことは、
日蓮聖人が末法の最初の五百年に生まれられたものとして信じられているのであるが、
実は末法以前の像法に生まれられたことが今日の歴史ではどうも正確らしい。

  私はこれを知ったとき、真に生まれて余り経験のない大衝撃を受けた。
この年代の疑問に対する他の日蓮聖人の信者の解釈を見ても、どうも腑に落ちない。
 そこで私は日蓮聖人を人格者・先哲として尊敬しても、
霊格として信仰することは断然止むべきだと考えたのである。

 このことに悩んでいる間に私は、
本化上行(ほんげじょうぎょう)が二度出現せらるべき中の僧としての出現が、
教法上のことであり観念のことであり、
賢王としての出現は現実の問題であり、
仏は末法の五百年を神通力を以て二種に使い分けられたとの見解に到達した。

  日蓮教学の先輩の御意見はどうもこれを肯定しないらしいが、
私の直感、私の信仰からは、これが仏の思召にかなっていると信ずるに至ったのである。

  そして同時に世界の統一は仏滅後2500年までに完成するものとの推論に達した。
そうすると軍事上の判断と甚だ近い結論となるのである。

 昭和14年3月10日、病気治療のため上京していた私は、
協和会東京事務所で若干の人々の集まりの席上で戦争論をやり、
右の見解からする最終戦争の年代につき私の見解を述べた。
この講演の要領が人々によって印刷され、
誰かが「世界戦争観」と命名している。

 昭和15年5月29日の京都義方会に於ける講演筆記
 (第二次欧州大戦の急進展により同年八月印刷に付する際その部分を少し追補した)の出版されたのが、
立命館版 『世界最終戦論』 である。
 要するにこれは私の30年ばかりの軍人生活の中に考え続けて来たことの結論と言うべきである。

 空想は長かったが、
前に述べた如く真に私が学問的に戦史を研究したのは、
主としてフリードリヒ大王とナポレオンだけであり、
しかもその期間も大正15年夏から昭和3年2月までの約一年半に過ぎないのである。

 研究は大急ぎで素材を整理したくらいのところで、
まだまだ消化したものではなく、
殊に私の最も関心事であったナポレオンの対英戦争は、
その最重要点の研究がまとまらずにいるのである。

 最終戦争論に論じてあるフリードリヒ大王以前のことは真に常識的なものに過ぎない。

 私は常に人様の前で「軍事学については、いささか自信がある」と広言しているが、
このように真相を白状すれば誠に恥ずかしい次第である。

  日本に於ける軍事学の研究がドイツやソ連の軍事研究に比し甚だ振わないことは、
遺憾ながら認めざるを得ない。
私は、戦友諸君はもちろんのこと、政治・経済等に関心を有する一般の人士も、
軍事につき研究されることを切望して止まないのである。 

 満州問題で国際連盟の総会に出張したときに、
ある日ジュネーブで伊藤述史公使が私に、
「日本には日本独特の軍事学があるでしょうか」と質問されたが、

 私は
 「いや、伊藤さん、どうも遺憾ながら明治以後には、
  さようなものは未だできていない」と答えると伊藤氏は青くなって、
 「それは大変だ。一つ東京に帰ったらお互に軍事研究所を作ろうではないか」と提案された。

  なぜ、さようなことを伊藤氏が言ったかと聞いて見ると、
伊藤氏がフランス大使館の書記生の時代に、
田中義一大将がフランスに廻って来て盛んに外交官の無能を罵倒したらしい。

  それで伊藤氏は大いに憤慨したが、
軍人はともかく政治・経済の若干を知っているのに、
外交官は軍事学を知っていないことに気がつき、
フランスの友人から軍事学の先生を探して貰った。 

 それが当時陸軍大学の教官であったフォッシュ少佐で、
同少佐から主としてナポレオン戦争の講義を聞いたのである。

 第一次欧州大戦後、フォッシュ元帥から
 「フランスを救ったものはフランス独特の軍事学であった。 
   独特の軍事学なき国民は永遠の生命なし」との意見を聞き、
伊藤公使の脳裡に深い印象を与えているらしい。

 フランスが第二次欧州大戦によってこんなふうに打ちのめされた今日、
フォッシュ元帥のこの言葉は素人には恐らく大きな魅力を失ったであろうが、
この中に含むある真理はわれらも充分に玩味すべきである。 

  伊藤氏はそのときの講義録を私にくれるとてパリの御宅を再三探して下さったが遂に発見できなかった。
私はあきらめかねてなおも若し見付かったらと御願いして置いたが、
パリを引払われた後も何らの御通知がないから、
遂に発見されなかったのであろう。

 世人は、軍が軍事上のことを秘密にするから軍事の研究ができないようなことを言うが、
それはとんでもないことである。
もちろん前述の通り軍人間の軍事学の研究も不振であるから、
日本語の軍事学の図書は残念ながら西洋列強諸国に比して余りに貧弱である。

  しかし公刊の戦史その他の出版物が相当にあるのだから、
研究しようとするなら必ずできる。
私は少なくも政治・経済の大学には軍事学の講座を設くべしと多年唱導して来た。
 配属将校は軍事学を講義すべきものではなく、
また多くの人はそんな力は持っていない。

   西洋人の軍事学の常識に比し、日本知識人のそれはあまりに劣っている。
ドイツの中産以上の家庭には通常、ヒンデンブルグやルーデンドルフの回想録は所有されており、
広く読まれている。
これらの図書は立派な戦史書である。
  一家の主婦すら相当に軍事的知識を持っていることは私の実見せるところである。
            (昭和15年12月31日)

【続く】 
石原莞爾 『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明  第一章 緒論

  


石原莞爾 『戦争史大観』 第一篇 戦争史大観

2018-07-31 23:08:45 | 石原莞爾

戦争史大観
  石原莞爾


序文

 昨年の末感ずるところあり、
京都で御世話になった方々及び部下の希望者に「戦争史大観」を説明したい気持になり、
年末年始の休みに要旨を書くつもりであったが果さなかった。
正月に入って主として出張先の宿屋で書きつづけ二月十二日辛うじて脱稿した。
 

 二月末高木清寿氏来訪、原稿をお貸ししたところ、
執拗に出版を強要せられ遂に屈伏してしまった。

 そこで読み直して見ると前後重複するところもあり、
補修すべき点も少なくないが、
現役最後の思い出として取敢えずこのまま世に出すこととした。

昭和十六年四月八日

於東京  石原莞爾


第一篇 戦争史大観


昭和四年七月長春に於ける講話要領
昭和十三年五月新京に於て訂正
昭和十五年一月京都に於て修正


第一 緒論


一 
 戦争の進化は人類一般文化の発達と歩調を一にす。
即ち、一般文化の進歩を研究して、戦争発達の状態を推断し得べきとともに、
戦争進化の大勢を知るときは、人類文化発達の方向を判定するために有力なる根拠を得べし。

二 
 戦争の絶滅は人類共通の理想なり。
しかれども道義的立場のみよりこれを実現するの至難たることは、
数千年の歴史の証明するところなり。 

 戦争術の徹底せる進歩は、絶対平和を余儀なからしむるに最も有力なる原因となるべく、
その時期は既に切迫しつつあるを思わしむ。 

三 
 戦争の指導、会戦の指揮等は、その有する二傾向の間を交互に動きつつあるに対し、
戦闘法及び軍の編成等は整然たる進歩をなす。

 即ち、戦闘法等が最後の発達を遂げ、
戦争指導等が戦争本来の目的に最もよく合する傾向に徹底するときは、
人類争闘力の最大限を発揮するときにして、
やがてこれ絶対平和の第一歩たるべし。



第二 戦争指導要領の変化


一 
 戦争本来の目的は武力を以て徹底的に敵を圧倒するにあり。
しかれども種々の事情により武力は、みずからすべてを解決し得ざること多し。
前老を決戦戦争とせば後者は持久戦争と称すべし。


二 
 決戦戦争に在りては武力第一にして、
 外交・財政は第二義的価値を有するに過ぎざるも、
持久戦争に於ては武力の絶対的位置を低下するに従い、財政・外交等はその地位を高む。
即ち、前者に在りては戦略は政略を超越するも後者に在りては逐次政略の地位を高め、
遂に将帥は政治の方針によりその作戦を指導するに至ることあり。


三 
 持久戦争は長期にわたるを通常とし、武力価値の如何により戦争の状態に種々の変化を生ず。
即ち、武力行使に於ても、会戦を主とするか小戦を主とするか、
あるいは機動を主とするか等各種の場合を生ず。
しかして持久戦争となる主なる原因次の如し。


  Ⅰ 軍隊の価値低きこと。

    十七、八世紀の傭兵、近時支那の軍閥戦争等。

  Ⅱ 軍隊の運動力に比し戦場の広きこと。

    ナポレオンの露国役、日露戦争、支那事変等。

  Ⅲ 攻撃威力が当時の防禦線を突破し得ざること。

    欧州大戦等。 

四 
 両戦争の消長を観察するに、古代は国民皆兵にして決戦戦争行なわれたり。
 用兵術もまた暗黒時代となれる中世を経て、ルネッサンスとともに新用兵術生まれしが、
重金思想は傭兵を生み、その結果、持久戦争の時代となれり。
 フリードリヒ大王は、この時代の用兵術発展の頂点をなす。

 大王歿後三年にして起れるフランス革命は、
傭兵より国民皆兵に変化せしめて戦術上に大変化を来たし、
ナポレオンにより殲滅戦略の運用開始せられ、決戦戦争の時代となれり。

 モルトケ、シュリーフェン等により、ますますその発展を見たるも、
防禦威力の増加は、南阿戦争、日露戦争に於て既に殲滅戦略運用の困難なるを示し、
欧州大戦は遂に持久戦争に陥り、タンク、毒ガス等の使用により、
各交戦国は極力この苦境より脱出せんと努力せるも、目的を達せずして戦争を終れり。 

五 
 長期戦争は現今、戦争の常態なりと一般に信ぜられあるも、
歴史は再び決戦戦争の時代を招来すべきを暗示しつつあり。
 しかして将来戦争は恐らくその作戦目標を敵国民となすべく、
敵国の中心に一挙致命的打撃を加うることにより、
真に決戦戦争の徹底を来たすべし。



第三 会戦指揮方針の変化


一 
 会戦指揮の要領は、最初より会戦指導の方針を確立し、
その方針の下に一挙に迅速に決戦を行なうと、
最初はまずなるべく敵に損害を与えつつ、わが兵力を愛惜し、
機を見て決戦を行なうとの二種に分かつを得べし。 

二 
 しかして両者いずれによるべきやは、
将帥及び軍隊の特性と当時の武力の強靭性いかんによる。


 ギリシャのファランクスは前者に便にして、ローマのレギヨンは後者に便なり。
これ主として両国国民性の然らしむるところ。

 ギリシャ民族に近きドイツと、ローマ民族に近きフランスが、
欧州大戦初期に行なえる会戦指導方針と対比し、ここに面白き対照を与う。

 また、その使用せる武力の性質によりしといえども、
ドイツ民族より前者の達人たるフリードリヒ大王を生じ、
ラテン民族より後者の名手たるナポレオンを生じたるは、
必ずしも偶然とのみ称し難きか。 

三 
 横隊戦術に於ては前者を有利とするに対し、
ナポレオン時代の縦隊戦術は兵力の梯次的配置により戦闘力の靭強性を増加し、
且つ側面の強度を増せるため自然、後者を有利とすること多し。


 爾後、火器の発達により正面堅固の度を増すに従い、
戦闘正面の拡大を来たし逐次、横隊戦術に近似するに至れり。

 欧州大戦初期に於けるドイツ軍のフランス侵入方法は、
ロイテン会戦指導原理と相通ずるものあり。

 欧州大戦に於て敵翼包囲不可能となるや、
強固なる正面突破のため深き縦長を以て攻撃を行ない、
会戦指揮は、またもや第二線決戦を主とするに至れり。



第四 戦闘方法の進歩 

一 
 古代の密集戦術は「点」の戦法にして単位は大隊なり。
 横隊戦術は「実線」の戦法にして単位は中隊、
散兵戦術は「点線」の戦法にして単位は小隊を自然とす。

 戦闘の指導精神は横隊戦術に於ては「専制」にして、
散兵戦術にありては「自由」なり。

 日露戦後、射撃指揮を中隊長に回収せるは苦労性なる日本人の特性を表わす一例なり。
もし散兵戦闘を小隊長に委すべからずとせば、
その民族は既にこの戦法時代に於ける落伍者と言わざるべからず。

 戦闘群戦術は「面」の戦法にして単位は分隊とす。
その戦闘指導精神は統制なり。


二 
 実際に於ける戦闘法の進歩は右の如く単一ならざりしも、
この大勢に従いしことは否定すべからず。


三 
 将来の戦術は「体」の戦法にして、単位は個人なるべし。


第五 戦争参加兵力の増加と国軍の編成


一 
 職業者よりなる傭兵時代は兵力大なる能わず。
国民皆兵の徹底により逐次兵力を増加し、
欧州大戦には全健康男子これに加わるに至れり。


二 
 将来、戦闘員の採用は恐らく義務より義勇に進むべく、
戦争に当りては全国民が殺戮の渦中に投入せらるべし。


三 
 国軍の編制は兵力の増加に従い逐次拡大せり。
 特に注目に値するは、ナポレオンの一八一二年役に於て、
実質に於て3軍を有しながら、依然一軍としての指揮法をとり、
非常なる不便を嘗なめたりしが、
欧州大戦前のドイツ軍は既に思想的には方面軍を必要としありしも遂に、
ここに着意する能わずして、
第一・第二・第三軍を第二軍司令官に指揮せしめ、
国境会戦にてフランス第五軍を逸する一大原因をなせり。


 戦史の研究に熱心なりしドイツ軍にして然り。
人智の幼稚なるを痛感せずんばあらず。



第六 将来戦争の予想


一 
 欧州戦争は欧州諸民族の決勝戦なり。
「世界大戦」と称するは当らず。

 第一次欧州大戦後、西洋文明の中心は米国に移りつつあり。
次いで来るべき決戦戦争は日米を中心とするものにして真の世界大戦なるべし。


二 
 前述せる戦争の発達により見るときは、
この大戦争は空軍を以てする決戦戦争にして、
次に示す諸項より見て人類争闘力の最大限を用うるものにして、
人類の最後の大戦争なるべし。

 即ち、この大戦争によりて世界は統一せられ、
絶対平和の第一歩に入るべし。

  Ⅰ
 真に徹底せる決戦戦争なり。

  Ⅱ 吾人は体以上のものを理解する能わず。
  Ⅲ 全国民は直接戦争に参加し、且つ戦闘員は個人を単位とす。
    即ち各人の能力を最大限に発揚し、しかも全国民の全力を用う。


三 
 しからばこの戦争の起る時機いかん。

  Ⅰ 東亜諸民族の団結、即ち東亜連盟の結成。
  Ⅱ 米国が完全に西洋の中心たる位置を占むること。
  Ⅲ 決戦用兵器が飛躍的に発達し、
    特に飛行機は無着陸にて容易に世界を一周し得ること。


  右三条件はほとんど同速度を以て進みあるが如く、
 決して遠き将来にあらざることを思わしむ。



第七 現在に於ける我が国防 

一 
 天皇を中心と仰ぐ東亜連盟の基礎として、まず日満支協同の完成を現時の国策とす。

二 
 国防とは国策の防衛なり。
 即ち、わが現在の国防は持久戦争を予期して次の力を要求す。

  Ⅰ ソ国の陸上武力と米国の海上武力に対し東亜を守り得る武力。
  Ⅱ 目下の協同体たる日満両国を範囲とし自給自足をなし得る経済力。

三 
 満州国の東亜連盟防衛上に於ける責務真に重大なり。
 特にソ国の侵攻に対しては、在大陸の日本軍とともに断固これを撃破し得る自信なかるべからず。


【続く】
石原莞爾 『戦争史大観』 第二篇 戦争史大観の序説(別名・戦争史大観の由来記)

 


石原莞爾 『最終戦争論』 第二部 質疑応答 第十問~第十五問

2016-06-22 23:12:17 | 石原莞爾

第十問 最終戦争に於ける決戦兵器は航空機でなく、
              殺人光線や殺人電波等ではなかろうか

〔答〕
 小銃や大砲は直接敵を殺傷する兵器ではない。
それによって撃ち出される弾丸が、殺傷破壊の威力を発揮するのである。
軍艦の艦体即ち「ふね」は敵を撃破する能力はない。
これに搭載される火砲や発射管から撃ち出される弾丸や魚雷によって敵艦を打ち沈める。

 飛行機も軍艦と同様である。
飛行機によって敵をいためるのではない。
迅速に、遠距離に爆弾等を送り得ることが、飛行磯の兵器としての価値である。

 もし殺人光線、殺人電波その他の恐るべき新兵器が
数千、数万キロメートルの距離に猛威をほしいままにし得るに至ったならば、
航空機が兵器としての絶対性を失い、
空軍建設の必要がなくなるわけである。

 しかし最終戦争に用いられる直接敵を撃滅する兵器が、
みずからかくの如き遠距離に威力を発揮し得ない限り、
将来ますます行動力の飛躍的発展を見るべき航空機によることが必要であり、
空軍が決戦軍隊として最終戦争に活用されなければならない。

 即ち破壊兵器として今日の爆弾に代る恐るべき大威力のものが発明されることと信ずるが、
これを遠距離に運んで、
敵を潰滅するために航空機が依然として必要であろう。
 

第十一問 最終戦争に於ける戦闘指揮単位は個人だと言うが
       将来の飛行機はますます大型となり
     指揮単位が個人と言うのは当らないのではないか。

〔答〕
 指揮単位が個人になるとの判断は、
今日までの大勢、
即ち大隊→中隊→小隊→分隊と分解して来た過程から推察して
次は個人となるだろうというので、
考えには無理がないようであるが、

 次に来たるべき戦闘方法に対する判断がつかないため、
私としても質問者と同様、具体的に考えると何となく割り切れないものがある。

 最終戦争の実体は、
われらの常識では想像し難い点が多く、
決戦は空軍によると言っても、
その空軍は今日の飛行機とは全く異なったものの出現が条件である。

 ここでは折角の質問に対し、私の常識的想像を述べることとする。
決して権威ある回答ではない。

 戦闘機は燃料の制限を受けて行動半径が小さいのみでなく、
飛行機の進歩に伴い、余り小型のものは、いろいろな掣肘を受け、
大型機の速度増加に対して在来の如き優位の保持が困難となるし、
大型爆撃機の巧妙な編隊行動と武装の向上によって、
戦闘機の価値は逐次低下するものと判断されたのである。

 しかるに支那事変及び第二次欧州大戦の経験によれは、
制空権獲得のためには戦闘機の価値は依然として極めて高い。

 敵に爆弾を投ずる爆撃機の任務は固より重大であるが、
将来とも空中戦の主体は依然として戦闘機であるとも考えられる。

 動力の大革命が行なわれ小型戦闘機の行動半径が大いに飛躍すれば、
戦闘機は空中戦の花形として、
ますます重要な位置を占める可能性がある。

 大型機は編隊行動と火力のみでなく、
装甲等による防禦をも企図するであろうが、
空中では水上のような重量の大きな防禦設備は望み難く、
小型機はその攻撃威力を十分に発揮できる。

 空中戦の優者が戦争の運命を左右し、
空中戦の勝負は主として小型戦闘機で決せられるものとせば、
指揮単位が個人と言うのが正しいこととなる。
 

第十二問 最終戦争に於ける戦闘指導精神はどうなると思うか。

〔答〕
 現時の持久戦争から次の決戦戦争即ち最終戦争への変転は再三強調したように、
真に超常識の大飛躍である。

 地上に於ける発達と異なり、想像に絶するものがある。

 数学的発達をなす兵数(全男子より全国民)、
戦闘隊形の幾何学的解釈(面より体)、
戦闘指揮単位(分隊より個人)は別として、

運用に関する戦闘隊形が戦闘群の次にどんなものになるかは、
戦闘方法が全く想像もつかないのであるから判断ができない。

 同じく運用に関する戦闘指導精神が統制の次に、
いかなるものであるかも、全く判断に苦しむ。

 それでこの二つは正直に白欄にしてあるのであるが、
敢えて大胆に意見を述べることとする。

 統制には、
混雑と力の重複を避けるために必要の強制即ち専制的威力を用いると同時に、
各兵、各部隊の自主的独断的活動は更に多くを要求されるのである。

 専制的強制は自由活動を助長するためである(28頁)。
即ち統制は自由から専制への後退ではなく、
自由と専制を巧みに総合、発展させた高次の指導精神でなければならない。

 専制は封建時代に於ける社会の指導精神であり、
封建はすべての優秀民族が一度は経験したところである。

 文化のある時期には封建を必要とするのである。
朝鮮の近世の衰微は、過早に郡県政治が行なわれ、
官吏の短い在職期間に、できるだけ多く搾取しようとした官僚政治により、
遂に国民の生産的、建設的企図心を根底的に消磨し、
生活し得る最小限度の生産が、人民の経済活動の目標となった結果であった。

 封建君主がその領土、
人民を子孫に伝えるため、十分にこれを愛惜する専制政治は、
その時代には最もよい制度であったのである。

 しかし人智の進歩は遂に専制下では十分にその進歩的能力を活用し得ないようになり、
フランス革命前後に優秀諸民族の間に自由主義革命が逐次実行され、
溌剌たる個人の創意が尊重されて、
文明は驚異的進歩を見た。

 しかし、ものにはすべて限度がある。
個人自由の放任は社会の進歩とともに各種の摩擦を激化し、
今日では無制限の自由は社会全体の能率を挙げ得ない有様となった。

 統制はこの弊害を是正し、
社会の全能率を発揮させるために自然に発生して来た新時代の指導精神に外ならない。
戦闘指導精神が自由から統制に進んだと同一理由である(28頁)。

 新しく統制に入るには、自由主義時代に行き過ぎた私益中心を抑えるために、
最初は反動的に専制即ち強制を相当強く用いなければならないのは、
やむを得ないことである。

 殊に社会的訓練の経験に乏しいわが国に於て、
ややもすれば統制が自由からの進歩ではなく
自由から統制への後退であるが如き場面をも生じたのは、
自然の勢いと言わねばならぬ。

 しかし統制によって社会、国家の全能力を遺憾なく発揮するためにも、
個人の創意、個人の熱情が依然として最も重要であるから、
無益の摩擦、不経済な重複を回避し得る範用内に於て、
ますます自由を尊重しなければならない。

 元来、理想的統制は心の統一を第一とし、
法律的制限は最小限に止めるべきである。

 官憲統制よりも自治統制の範囲を拡大し得るようになることが望ましい。
即ち統制訓練の進むに従って、専制的部面は逐次縮小されるべきである。

 準決勝戦時代の統制訓練により、
最終戦争時代の社会指導精神は、今日の統制より遥かに自由を尊重して、
更に積極的に国家の全能力を発揮し得るものに進歩するであろう。

 「戦争史大観」では、
兵役がフランス革命までの傭兵時代に於ては「職業」であったのに、
フランス革命以後「義務」となったが、
最終戦争時代は更に「義務」から「義勇」に進むものと予断している(118頁及び付表第二)。

 英米の傭兵を義勇兵と訳するのは適当でない。
ここに言う「義勇」は皇運扶翼のために進んで一身を捧げる真の義勇兵である。

 フランス革命後、
兵力が激増し殊に準決勝時代である今日の持久戦には、
全健康男子が戦線に動員される。
かくの如き大動員は義務を必要とする。

 最終戦争では、敵の攻撃を受けて堪え忍ぶ消極的戦争参加は全国民となるが、
攻勢的軍隊は少数の精鋭を極めたものとなるであろう(36~37頁)。

 かくの如き軍隊には公平に徴募する義務兵では適当と言えぬ。
義務はまだ消極的たるをまぬがれない。

 人も我も許す真に優れた人々の義勇的参加であることが最も望ましい。
ナチスの突撃隊、ファッショの黒シャツ隊等は、
この傾向に示唆を与えているのではなかろうか。

 戦闘指導精神も兵役と同一の方向をとり、
最終戦争時代の社会指導精神と同じく、
今日の統制よりも更に多くの自由を許すことにより、
戦闘能力の積極的発揮に努めることとなるであろう。
 即ち自由と統制との総合発展ではなかろうか。

 更に最終戦争終了後、
即ち八紘一宇の建設期に入れば、人々の自由は更に高度に尊重され、
全人類一致精進の中にも、各人は精錬された自由の精神を以て、
自主的に良心的にその全能力を発揮するような社会状態となるであろう。

 統制主義の今日は、
人類歴史中最も緊張した時代であり、
少々の無理があっても最短期間に最大効果を挙げようとする合宿時代である。
 

第十三問 日本が最終戦争に於て必勝を期し得るという
     客観的条件が十分に説明されていない。
      単なる信仰では安心できないと思う

〔答〕
 われらは30年内外に最終戦争が来るものとして、
20
年を目標に東亜連盟の生産力をして米州の生産力を追い越させようとするのである。
たしかに驚くべき計画であり、空想と笑われても無理はない。

 われらも決して楽観してはいない。
難事中の至難事である。
しかし天皇の御為め全人類のために、何としてもこれを実現せねばならぬ。

 この頃の日本人は口に精神第一を唱えながら、
資源獲得にのみ熱狂している。

 ドイツの今日は資源貧弱の苦境を克服するための努力が
科学、技術の進歩をもたらしたのである。

 ドイツを尊敬する人は、まずこの点を学ぶべきである。
特に最終戦争と不可分の関係にある、
いわゆる第二産業革命に直面しつつある今日、この点が最も肝要である。

 資源もある程度は必要である。
しかるに日満支だけでも実に莫大な資源を蔵している。
世界無比の日本刀を鍛えた砂鉄は八十億トン、あるいは百億トンと言われている。

 これだけでも鉄について日本は世界一の資源を持っていると言える。
ただ砂鉄の少ない西洋の製鉄法を模倣して来た日本は、
まだ砂鉄精錬に完全な成功を収めなかった。

 最近は純日本式の卓抜な方法が成功しつつある。
楢崎式の如き、それである。
 満州国の鉄の埋蔵量もすばらしい。
石炭は日本内にも相当にあるが、
満州国の東半分は、どこを掘っても豊富な石炭が出て来る。

 更に山西に行けば世界衆知の大資源がある。
石油は日本国内にも、まだまだある。

 熱河から陜西、甘粛、四川、雲南を経てビルマに至るアジアの大油脈があることは確実らしく、
蘭印の石油はその末端と言われる。

 現に熱河には石油が発見され、陜西、甘粛、四川に油の出ることは世人の知るところである。
大規模な試掘を強行せねばならぬ。

 石炭液化も今日まで困難な路を歩んで来たが、
そろそろ純日本式の簡単で優秀な世界無比の能率よい方式が成功しつつある。
前記の楢崎式の成功は、われらの確信するところである。
その他の資源も決して恐れるに足りない。

 山西、陜西、四川以西の地は、ほとんど未踏査の地方で、
いかなる大資源が出るかも計り難い。

 東亜の最大強味は人的資源である。
生産の最大重要要素は今日以後は特に人的資源である。
日本海、支那海を湖水として日満支三国に密集生活している5億の優秀な人口は、
真に世界最大の宝である。

 世人は支那の教育不振を心配するが、大したことはない。
支那人は驚くべき文化人である。
 世界の驚異である美術工芸品を造ったあの力を活用し、
速やかに高い能力を発揮し得ることを疑わない。

 ただ問題となるのは、
この人的物的資源を僅々20年内に大動員し得るかである。
固より困難な大作業である。

 しかし革命によって根底的に破壊したソ連が、
資源は豊富であるにせよ、
広大な地域に資源も人も分散している不利を克服し、
あの蒙昧な人民を使用して5年、10年の間に成功した生産力の大拡張を思うとき、
われらは断じて成功を疑うことができない。

 ただし偉大な達見と強力な政治力が必要だ。
一億一心も滅私奉公も、
明確なこの大目標に力強く集中されて初めて真の意義を発揮する。

 特に私の強調したいのは、
西洋人が物質文明に耽溺しているのに
、われらは数千年来の父祖の伝統によって、
心から簡素な生活に安んじ得る点である。

 日本の一万トン巡洋艦が同じアメリカの甲級巡洋艦に比べて、
その戦闘力に大きな差異があるのは、
主として日本の海軍軍人の剛健な生活のためである。

 先日、私は秋田県の石川理紀之助翁の遺跡を訪ねて、無限の感にうたれた。
 翁は10年の長い年月、草木谷という山中の四畳半ぐらいの草屋に単身起居し、
その後、後嗣の死に遇い、やむなく家に帰った後も、
極めて狭い庵室で一生を送った。
 
 この簡素極まる生活の中に数十万首の歌を詠み、
香を薫じ、茶をたてつつ、誠に高い精神生活を営み、
且つ農事その他に驚くべく進歩した科学的研究、改善を行なったのである。

 この東洋的日本的精神を生かし、
生活を最大級に簡素化し、すべてを最終戦争の準備に捧げることにより、
西洋人の全く思い及ばぬ力を発揮し得るのである。

 日本主義者は空論するよりも率先してこれを実行せねばならぬ。
この簡素生活は目下国民の頭を悩ましつつある困難な防空にも、
大きな光明を与えるものと信ずる。

 困難ではあるが、
われらは必ず20年以内に米州を凌駕する戦争力を養い得るだろう。

 ここで注意すべきことは、
持久戦争時代の勝敗を決するものは主として量の問題であるが、
決戦戦争時代には主として質が問題となることである。

 しかし、われらが断然新しい決戦兵器を先んじて創作し得たならば、
今日までの立遅れを一挙に回復することも敢えて難事ではない。

 時局が大急転するときは、
後進国が先進者を追い越す機会を捉えることが比較的に容易である。
 科学教育の徹底、技術水準の向上、生産力の大拡充が、われらの奮闘の目標であるが、
特に発明の奨励には国家が最大の関心を払い、
卓抜果敢な方策を強行せねばならぬ。

 発明奨励のために国民が第一に心掛けねばならないのは、
発明を尊敬することである。

 日本に於ける天才の一人である大橋為次郎翁は、
皇紀二千六百年記念として、
明治神宮の近くに発明神社を建て、東西古今を通じて、
卓抜な発明によって人類の生活に大きな幸福を与えてくれた人々を祭りたいと、
熱心に運動していた。

 私は極めて有意義な計画と信ずるが、残念ながら創立できなかった。
願わくば全国民が胸の中に発明神社を建てて頂きたい。
この重大時期に於て天才はややもすれば社会的重圧の下に葬られつつある。

 発明奨励の方法は官僚的では絶対にいけない。
よろしく成金を動員すべきである。

 独断で思い切った大金を投げ出し得るものでなければ、発明の奨励はできない。
発明がある程度まで成功すれば、その発明家に重賞を与えるとともに、
その発明を保護したものに対しては勲章を賜わるようお願いする。

 現在では勲章は主として官吏に年功によって授けられる。
自由主義時代ならば、
国家の統制下にある官吏が特別の恩賞に浴するのは当然であろうが、
統制時代には、真に国家に積極的な功績のあったものに、
職域等にこだわらず、公正に恩賞を賜わることが肝要である。

 発明の価値によっては、その保護者に授爵も奏請すべきである。
更に一代の内に儲けた財産に対しては極めて高い相続税を課する等の方法を講じたならば、
成金は自分の儲けた全部を発明奨励に出すことになるだろう。

 自分の力によって儲けた富を最終戦争準備の発明奨励に捧げることは、
昭和時代の成金の名誉であり、誇りでなければならぬ。

 成功の確実な見込がついた発明は、
これを国家の研究機関で総合的学術の力によって速やかに工業化する。
大研究機関の新設は固より必要であるが、
全日本の研究機関を、形式的でなく有機的に統一し、
その全能力を自主積極的に発揮させるべきである。

 最終戦争のためには、
どれだけの地域をわが協同範囲としなければならないかは一大問題である。

 作戦上及び資源関係よりすれば、なるべく広い範囲が希望されるのであるが、
同時に戦争と建設とはなかなか両立し難く、
大建設のためにはなるべく長い平和が希望される。

 徒らに範囲拡大のために力を消耗することは、慎重に考えねばならぬ。
このことについても持久戦争時代と異なり、
決戦戦争に徹底する最終戦争に於ては、
必ずしも広い地域を作戦上絶対的に必要とはしないのである。
優秀な武力が一挙に決戦を行ない得るからである。

 以上の如く、
われらが最終戦争に勝つための客観的条件は固より楽観すべきではないが、
われらの全能力を総合運用すれば、断じて可能である。

 そしてこの超人的事業を可能にするものは、国民の信仰である。
八紘一宇の大理想達成に対する国民不動の信仰が、いかなる困難をも必ず克服する。
 苦境のどん底に落ちこんでも泰然、敢然と邁進する原動力は、
この信仰により常に光明と安心とを与えられるからである。

 日本国体の霊力が、あらゆる不足を補って、最終戦争に必勝せしめる。
 

第十四問 最終戦争の必然性を宗教的に説明されているが、
       科学的に説明されない限り現代人には了解できない。

〔答〕
 この種の質問を度々受けるのは、私の実は甚だ意外とするところである。
私は日蓮聖人の信者として、聖人の予言を確信するものであり、
この信仰を全国民に伝えたい熱望をもっている。

 しかし「最終戦争論」が決して宗教的説明を主とするものでないことは、
少しく丁寧に読まれた人々には直ちに理解されることと信ずる。

 この論は私の軍事科学的考察を基礎とするもので、
仏の予言は政治史の大勢、科学・産業の進歩とともに、
私の軍事研究を傍証するために挙げた一例に過ぎない。

 私の軍事科学の説明が甚だ不十分であることは、
固より自認するところである。
 しかしかくの如き総合的社会現象を完全に科学をもって証明することは不可能のことである。

 科学的とみずから誇るマルクス主義に於てすら、
資本主義時代の後に無産者独裁の時代が来るとの判断は結局、
一つの推断であって、
決して科学的に正確なものとは言えない。

  この見地に立てば、
不完全な私の最終戦争必至の推断も相当に科学的であるとも言い得るではなかろうか。

 日本の知識人は今日まで軍事科学の研究を等閑にし、
殊に自由主義時代には、歴史に於て戦争の研究を、ことさらに軽視していた。

 戦争は人類の有するあらゆる力を瞬間的に最も強く総合運用するものであるから、
その歴史は文明発展の原則を最も端的に示すものと言うべきである。
また戦争は多くの社会現象の中で最も科学的に検討し易いものではなかろうか。

 近時、宗教否定の風潮が強いのに乗じ、
「『最終戦争論』に予言を述べているのは穏当を欠く。

 予言の如きは世界を迷わすものである」 と批難する人が多い由を耳にする。
人智がいかに進んでも、脳細胞の数と質に制約されて一定の限度があり、
科学的検討にも、おのずから限度がある。

 そしてそれは宇宙の森羅万象に比べては、
ほんの局限された一部分に過ぎない。

 宇宙間には霊妙の力があり、人間もその一部分をうけている。
この霊妙な力を正しく働かして、科学的考察の及ばぬ秘密に突入し得るのは、
天から人類に与えられた特権である。

 人もし宇宙の霊妙な力を否定するならば、
それは天御中主神の否定であり、
日本国体の神聖は、その重大意義を失う結果となる。

 天照大神、神武天皇、釈尊の如き聖者は、
よく数千年の後を予言し得る強い霊力を有したのである。

 予言を批難しようとする科学万能の現代人は、
「天壌無窮」「八紘一宇」の大予言を、いかに拝しているのか。
皇祖皇宗のこの大予言は実にわれらが安心の根底である。
 

第十五問 産業大革命の必然性についての説明が不十分であると思う。

〔答〕
 全くその通りである。
 私の知識は軍事以外は皆無に近い。
「最終戦争論」は、信仰によって直感している最終戦争を、
私の専門とする軍事科学の貧弱ながら良心的な研究により、
やや具体的に解釈し得たとの考えから、敢えて世に発表したのである。

 その際、軍事は一般文明の発展と歩調を同じくするとの原則に基づき、
各方面から観察しても同一の結論に達するだろうとの信念の下に、
若干の思いつきを述べたに過ぎない。

 この質疑回答の中にも、
私の分を越えた僭越な独断が甚だ多いのは十分承知しており、
誠にお恥ずかしい極みである。

 志ある方々が、思想・社会・経済等あらゆる方面から御検討の上、
御教示を賜わらんことを切にお願い申上げる次第である。

「東亜連盟」誌上の橘樸氏の発表に対しては、私は心から感激している。

       〔終わり〕 

 

 


石原莞爾『最終戦争論』 第二部 質疑応答 第8問~第9問

2016-06-16 10:04:12 | 石原莞爾

石原莞爾『最終戦争論』
  第二部 質疑応答 第8問~第9問


第八問 
 決戦・持久両戦争が時代的に交互するとの見解は果して正しいか

〔答〕 
 ナポレオンはオーストリア、プロイセン等の国々に対しては見事な決戦戦争を強行したのであるが、
スペインに対しては実行至難となり、
またロシヤに対しては彼の全力を以てしても、ほとんど不可能であった。

 第二次欧州大戦で新興ナチス・ドイツはポーランド、オランダ、ユーゴー、ギリシャ等の弱小国家のみならず、
フランスに対しても極めて強力に決戦戦争を強制した。

 ソ連に対しては開戦当初の大奇襲によって肝心の緒戦に大成功を収めながら、
そう簡単には行かない状況にある。

 またナポレオンも英国に対しては十年にわたる持久戦争を余儀なくされたが、
ヒットラーも英国に決戦戦争を強制することは至難である。

 右の如く同一時代に於て、ある時には決戦戦争が行なわれ、
ある所では持久戦争となったのである。
決戦・持久両戦争が時代的に交互するとの見解は十分に検討されなければならない。

 如何なる時、如何なる所に於ても、
両交戦国の戦争力に甚だしい懸隔があるときは持久戦争とはならないのは、
もちろんであり、第二次欧州大戦に於けるドイツと弱小国家との間の如き、これである。

 戦争本来の面目はもちろん決戦戦争にあるが、
戦争力がほぼ相匹敵している国家間に持久戦争の行なわれる原因は次の如くである。

 1 軍隊価値の低下
 文芸復興以来の傭兵は全く職業軍人である。
 生命を的とする職業は少々無理があるために、
如何に訓練した軍隊でも、徹底的にその武力を運用することは困難であった。

 これがフランス革命まで持久戦争となっていた根本原因である。

 フランス革命の軍事的意義は職業軍人から国民的軍隊に帰ったことである。
近代人はその愛国の赤誠によってのみ、真に生命を犠牲に供し得るのである。

 支那に於ては、唐朝の全盛時代に於て国民皆兵の制度が破れて以来、
その民族性は、極端に武を卑しみ、
今日なお「好人不当兵」の思想を清算し得ないで、
武力の真価を発揮しにくい状態にある。

 日本の戦国時代に於ける武士は、
日本国民性に基づく武士道によって強烈な戦闘力を発揮したのであるが、
それでもなお且つ買収が行なわれ当時の戦争は、いわゆる謀略中心となり、
必要の前には父母、兄弟、妻子までも利益のために犠牲としたのである。

 戦国時代の日本武将の謀略は、中国人も西洋人も三舎を避けるものがあった。
日本民族はどの途にかけても相当のものである。
 今日、謀略を振り廻しても余り成功しないのは、徳川三百年の太平の結果である。


 2 防禦威力の強大 
 戦争に於ける強者は常に敵を攻撃して行き、
敵に決戦戦争を強制しようとするのである。

 ところが、そのときの戦争手段が甚だしく防禦に有利な場合には、
敵の防禦陣地を突破することができないで、
攻者の武力が敵の中枢部に達し得ず、
やむなく持久戦争となる。

 フランス革命以来、決戦戦争が主として行なわれたのであるが、
第一次欧州大戦に於ては防禦威力の強大が戦争を持久せしめるに至った。

 第二次欧州大戦では戦車の進歩と空軍の大発達が攻撃威力を増加して、
敵線突破の可能性を増加し、
第一次欧州大戦当時に比し、決戦戦争の方向に傾きつつある。

 戦国時代の築城は当時の武力をもってしては力攻することが困難で、
それが持久戦争の重大原因となった。

 謀略が戦争の極めて有力な手段となったのは、それがためである。

 ナポレオンは十年にわたるイギリスとの持久戦争を余儀なくされ、遂に敗れた。
イギリスはその貧弱な陸上兵力にかかわらず、
ドーバー海峡という恐るべき大水濠の掩護によって、
ナポレオンの決戦戦争を阻止したのである。

 今日のナチス・ドイツに対する頑強な抵抗も、ドーバー海峡に依存している。
イギリスのナポレオン及びヒットラーに対する持久戦争は、
ドーバー海峡による防禦威力の強大な結果と見るべきである。


 3 国土の広大 
 攻者の威力が敵の防禦線を突破し得るほど十分であっても、
攻者国軍の行動半径が敵国の心臓部に及ばないときは、自然に持久戦争となる。

 ナポレオンはロシヤの軍隊を簡単に撃破して、
長駆モスコーまで侵入したのであるが、
これはナポレオン軍隊の堅実な行動半径を越えた作戦であったために、そこに無理があった。

 従ってナポレオン軍の後方が危険となり、
遂にモスコー退却の惨劇を演じて、
大ナポレオン覇業の没落を来たしたのである。

 ロシヤを護った第一の力は、ロシヤの武力ではなく、その広大な国土であった。

 第二次欧州大戦に於て、
ソ連はドイツに対する唯一の強力な全体主義国防国家として、強大な武力をもっていた。

 統帥よろしきを得たならば、スターリン陣地を堅持して、
ドイツと持久戦争を交え得る公算も、絶無ではなかったろうと考えられるが、
ドイツの大奇襲にあい、
スターリン陣地内に大打撃を受けて作戦不利に陥り、
まさにモスコーをも失おうとしつつある。

 しかしスターリンが決心すれば、
その広大な国土によって持久戦争を継続し得るものと想像される。

 今次事変に於ける蒋介石の日本に対する持久戦争は中国の広大な土地に依存している。

 右三つの原因の中、
3項は時代性と見るべきでなく、
国土の広大な地方に於ては両戦争の時代性が明確となり難い。

 ただし時代の進歩とともに、
決戦戦争可能の範囲が逐次拡大することは当然であり、
ある武力が全世界の至るところに決戦戦争を強制し得るときは、
即ち最終戦争の可能性が生ずるときである。

 1項は一般文化と不可分であり、
2項は主として武器や築城に制約される問題であって、
時代性と密接な関係がある

 ただし海軍により海を以て完全な障害となし得る敵に対しては、
今日までは決戦戦争が不可能であった。

 空軍が真の決戦軍隊となるとき、初めてその障害が全く力を失うのである。

 即ち土地の広漠な東洋に於ては、両戦争の時代性が明確であると言い難いが、
強国が相隣接し国土も余り広くなく、
しかも覇道文明のために戦争の本場である欧州に於ては、
両戦争が時代性と密に関連し、
従って両戦争が交互に現われる傾向が顕著であった。

 特に現代の西欧では、
軍隊の行動半径に対し土地の広さはますます小さくなり、
しかも兵力の増加は敵正面の迂回を不可能にするため、
戦争の性質は緊密に兵器の威力に関係し、
全く時代の影響下に入ったものと言うべきである。


第九問 
  攻撃兵器が飛躍的に進歩しても、
  それに応じて防禦兵器もまた進歩するから、

  徹底した決戦戦争の出現は望み難いのではないか。

〔答〕
 武器が攻防いずれに有利であるかが、
戦争の性質が持久・決戦いずれになるかを決定する有力な原因である。

  刀槍は裸体の個人間の闘争には決戦的武器であるが、
鎧の進歩によってその威力は制限され、
殊に築城に拠る敵を攻撃することは甚だしく困難となる。

 小銃は攻撃よりも防禦に適する点が多い。
 殊に機関銃の防禦威力は、すこぶる大きい。

 これに対し、火砲は小銃に比し攻撃を有利にするが、
その威力も築城と防禦方法の進歩により掣肘される。

 即ち近時の機関銃の出現と築城の進歩とは防禦威力を急速に高めたが、
大口径火砲の大量使用は一時、敵線の突破を可能ならしめた。

 しかるに陣地が巧みに分散するに従って、
火砲の支援による敵線の突破は再び至難となった。

 戦車は攻撃的兵器である。
 第一次欧州大戦に於ける戦車の出現は、戦術界に大衝動を与えたが、
その質と量とは未だ持久戦争から決戦戦争への変化を起させるまでには至らなかった。

 爾来二十数年、第二次欧州大戦に於ける戦車の数と質の大進歩は、
空軍の威力と相俟って、
ドイツ軍が弱小国及びフランスに果敢な決戦戦争を強制し得た原因の一つである。

 しかし真剣な努力を以てすれば、
戦車の整備に対し対戦車砲の整備は却って容易であり、
戦車による敵陣地の突破は、
十分に準備した敵に対しては今日といえども必ずしも容易とは言えない。

 しかるに飛行機となると、
戦車が地上兵器としては極めて決戦的であるのに対しても、
全く比較を絶する決戦的兵器である。

 地上の戦闘では土地が築城に利用され、
場所によってはそのまま強い障害ともなり、防禦に偉大な力となる。

 水上では土地の如き利用物がなく、防禦戦闘は至難であり、
防ぐ唯一の手段は攻めることである。更に空中戦に於ては、防禦は全く成立しない。

 海上よりの攻撃に対する陸上の防禦は比較的容易である。
 大艦隊をもってしても、時代遅れの海岸要塞を攻略することの不可能であった歴史が多い。
しかも海上から陸上を攻撃し得る範囲は極めて狭い。

 しかるに空中からの陸上や海上に対する攻撃の威力は極めて大きいのに対し、
防空は至難である。

 対空射撃その他の防空戦闘の方法は進歩しても、
成層圏にも行動し速度のますます大となる飛行機に対しては、
小さな目標はとにかく、
大都市の如き大目標防衛のための地上よりする防禦戦闘は、
制空権を失えば、ほとんど不可能に近い。

 空軍のこの威力に対し、
あらゆるものを地下に埋没しようとしても実行は至難であり、
仮に可能としても、各種の能力を甚だしく低下させることは、まぬかれ難い。

 空軍に対する国土の防衛は、ますます困難となるであろう。
成層圏を自由自在に駆ける驚異的航空機、
それに搭載して敵国の中枢部を破壊する革命的兵器は、
あらゆる防禦手段を無効にして、決戦戦争の徹底を来たし、
最終戦争を可能ならしめる。


【続く】 
石原莞爾 『最終戦争論』 第二部 質疑応答 第10問~第15問

 


石原莞爾『最終戦争論』 第二部 質疑応答 第6問~第7問

2016-06-16 09:45:33 | 石原莞爾

 
石原莞爾『最終戦争論』  第二部 質疑応答  

第六問 
 数十年後に起る最終戦争によって
   世界の政治的統一が一挙に完成するとは考えられない

〔答〕
 最終戦争は人類歴史の最大関節であり、
それによって世界統一即ち八紘一宇実現の第一歩に入るのである。

 しかし真に第一歩であって、
八紘一宇の完成はそれからの人類の永い精進によらねばならない。
この点で質問者の意見と私の意見は大体一致していると信ずるが、
それに関する予想を述べて見ることとする。

 諸民族が長きは数千年の歴史によってその文化を高め、
人類は近時急速にその共通のあこがれであった大統一への歩みを進めつつある。

 明治維新は日本の維新であったが、
昭和維新は正しく東亜の維新であり、
昭和13年12月26日の第74回帝国議会開院式の勅語には
「東亜ノ新秩序ヲ建設シテ」 と仰せられた。

 更にわれらは数十年後に近迫し来たった最終戦争が、
世界の維新即ち八紘一宇への関門突破であると信ずる。

 明治維新は明治初年に行なわれ、
明治10年の戦争によって概成し、

そ の後の数十年の歴史によって真に統一した近代民族国家としての日本が完成したのである。

昭和維新の眼目である東亜の新秩序即ち東亜の大同は、
満州事変に端を発し支那事変で急進展をなしつつあるが、そ
の完成には更に日本民族はもちろん、
東亜諸民族の正しく深い認識と絶大な努力を要する。

 今日われらは、
まず東亜連盟の結成を主張している。

 東亜連盟は満州建国に端を発したのであり当時、
在満日本人には一挙に天皇の下に東亜連邦の成立を希望するものも多かったが、
漢民族は未だ時機熟せずとして、
日満華の協議、協同による東亜連盟で満足すべしと主張し、
遂に東亜新秩序の第一段階として採用されるに至った。

 東亜の新秩序は、
最終戦争に於て必勝を期するため、
なるべく強度の統一が希望される。

 東亜諸民族の疑心暗鬼が除去されたならば、
一日も速やかに少なくも東亜連邦に躍進して、
東亜の総合的威力の増進を計らねばならぬ。

 更に各民族間の信頼が徹底したならば、
東亜の最大能力を発揮するために諸国家は、
みずから進んで国境を撤廃し、
その完全な合同を熱望し、
東亜大同国家の成立即ち大日本の東亜大拡大が実現せられることは疑いない。

 特に日本人が
「よもの海みなはらから」
「西ひがしむつみかわして栄ゆかん」との
大御心のままに諸民族に対するならば、
東亜連邦などを経由することなく、
一挙に東亜大同国家の成立に飛躍するのではなかろうか。

 われらは、
天皇を信仰し心から皇運を扶翼ふよくし奉るものは皆われらの同胞であり、
全く平等で天皇に仕え奉るべきものと信ずる。

 東亜連盟の初期に於て、
諸国家が未だ天皇をその盟主と仰ぎ奉るに至らない間は、
独り日本のみが天皇を戴いているのであるから、
日本国は連盟の中核的存在即ち指導国家とならなければならない。

 しかしそれは諸国家と平等に提携し、
われらの徳と力により諸国家の自然推挙によるべきであり、
紛争の最中に、みずから強権的にこれを主張するのは、
皇道の精神に合しないことを強調する。
 日本の実力は東亜諸民族の認めるところである。

 日本が真に大御心を奉じ、
謙譲にして東亜のために進んで最大の犠牲を払うならば、
東亜の諸国家から指導者と仰がれる日は、
案外急速に来ることを疑わない。

 日露戦争当時、
既にアジアの国々は日本を「アジアの盟主」と呼んだではないか。

 東亜連盟は東亜新秩序の初歩である。
しかも指導国家と自称せず、
まず全く平等の立場において連盟を結成せんとするわれらの主張は世人から、
ややもすれば軟弱と非難される。

 しかり、確かにいわゆる強硬ではない。
しかし八紘一宇の大理想必成を信ずるわれらは絶対の大安心に立って、
現実は自然の順序よき発展によるべきことを忘れず、最も着実な実行を期するものである。

 下手に出れば相手はつけあがるなどと恐れる人々は、
八紘一宇を口にする資格がない。

 最終戦争と言えば、
いかにも突飛な荒唐無稽の放談のように考え、
また最終戦争論に賛意を表するものには、
ややもすればこの戦争によって人類は直ちに黄金世界を造るように考える人々が多いらしい。
共に正鵠を得ていない。

 最終戦争は近く必ず行なわれ、
人類歴史の最大関節であるが、
しかしそれを体験する人々は案外それほどの激変と思わず、
この空前絶後の大変動期を過ごすことは、
過去の革命時代と大差ないのではなかろうか。

 最終戦争によって世界は統一する。
もちろん初期には幾多の余震をまぬがれないであろうが、
文明の進歩は案外早くその安定を得て、
武力をもって国家間に行なわれた闘争心は、
人類の新しい総合的大文明建設の原動力に転換せられ、
八紘一宇の完成に邁進するであろう。

 日本の有する天才の一人である清水芳太郎氏は 『日本真体制論』 の中に、
その文明の発展について種々面白い空想を述べている。

 植物の一枚の葉の作用の秘密をつかめたならば、
試験管の中で、われわれの食物がどんどん作られるようになり、
一定の土地から今の恐らく1500倍ぐらいの食料が製造できる。

 また豚や鶏を飼う代りに、繁殖に最も簡単なバクテリヤを養い、
牛肉のような味のするバクテリヤや、
鶏肉の味のバクテリヤ等を発見して、
極めて簡単に蛋白質の食物が得られるようになる。

 これは決して夢物語ではなく、
既に第一次欧州大戦でドイツはバクテリヤを食べたのである。

 次に動力は貴重な石炭は使わなくとも、
地下に放熱物体・・・・ラジウムとかウラニウム・・・・・があって、
地殻が熱くなっているのであるから、
その放熱物体が地下から掘り出されるならば、
無限の動力が得られるし、

また成層圏の上には非常に多くの空中電気があるから、
これを地上にもって来る方法が発見できれば、
無限の電気を得ることになる。

 なお成層圏の上の方には地上から発散する水素が充満している。
 その水素に酸素を加えると、
これがすばらしい動力資源になる。

 従って飛行機でそこまで上昇し、
その水素を吸い込んでこれを動力とすれば、
どこまでも飛べる。

 そして降りるときには、
その水素を吸い込んで来て、
次に飛び上がるときにこれを使用する。

 このようにして世界をぐるぐる飛び廻ることは極めて容易である。

 この時代になると不老不死の妙法が発見される。
なぜ人間が死ぬかと言えば、
老廃物がたまって、その中毒によるのである。

 従ってその老廃物をどしどし排除する方法が採られるならば生命は、
ほとんど無限に続く。

 現にバクテリヤを枯草の煮汁の中に入れると、
極めて元気に猛烈な繁殖をつづける。

 暫くして自分の排出する老廃物の中毒で次第に繁殖力が衰えてゆくが、
また新しい枯草の汁の中に持ってゆくと再び活気づいて来る。

 かくして次々と煮汁を新しくしてゆけば何時までも生きている。
即ち不老不死である。

 しからば人間が不老不死になると、
人口が非常に多くなり世界に充満して困るではないかということを
心配する人があるかも知れない。

 しかしその心配はない。
自然の妙は不思議なもので、サンガー夫人をひっぱって来る必要がない。

 人間は、ちょうどよい工合に一人が千年に一人ぐらい子供を産むことになる。
これは接木や挿木をくりかえして来た蜜柑には種子がなくなると同じである。
早く死ぬから頻繁に子供を産むが、
不老不死になると、
人間は淡々として神様に近い生活をするに至るであろう。

 また時間というものは結局温度である。
人を殺さないで温度を変える。
物を壊さないで温度を上げることができれば、
10年を1年にちぢめることは、たやすいことである。

 逆に温度を下げて零下273度という絶対温度にすると、
万物ことごとく活動は止まってしまう。
そうなると浦島太郎も夢ではない。
真に自由自在の世界となる。

 更に進んで突然変異を人工的に起すことによって、
すばらしい大飛躍が考えられる。

 即ち人類は最終戦争後、
次第に驚くべき総合的文明に入り、
そして遂には、みずから作る突然変異によって、
今の人類以上のものが、この世に生まれて来るのである。
仏教ではそれを弥勒みろく菩薩の時代というのである。

 清水氏の空想の如き時代となれば、
人類がその闘争本能を戦争に求めることは到底考えることができない。

 要は質問者の言う如く、
世界の政治的統一は決して一挙に行なわれるのではなく、
人類の文明は、すべて不断の発展を遂げるのである。

 しかし文明の発展には時に急湍がある。
 われらは最終戦争が人類歴史上の最大急湍であることを確認し、
今からその突破にあらゆる準備を急がねばならぬ。


第七問 戦争の発達を東洋、
    特に日本戦史によらず、単に西洋戦史によるのは公正でないと思う。

〔答〕
 「戦争史大観の由来記」 に白状してある通り、
私の軍事学に関する知識は極めて狭く、
専門的にやや研究したのは、フランス革命を中心とする西洋戦史の一部分に過ぎない(144頁)。

 これが最終戦争論を西洋戦史によった第一の原因である。
有志の方々が東西古今の戦争史により、
更に広く総合的に研究されることを切望する。
 必ず私と同一結論に達することを信ずるものである。

 過去数百年は白人の世界征服史であり今日、
全世界が白人文明の下にひれ伏している。
その最大原因は白人の獲得した優れた戦争力である。
しかし戦争は断じて人生や国家の目的ではなく、
その手段にすぎない。

 正しい根本的な戦争観は西洋に存せずして、われらが所有する。

 三種の神器の剣は皇国武力の意義をお示し遊ばされる。
国体を擁護し皇運を扶翼ふよくし奉るための武力の発動が皇国の戦争である。

 最も平和的であると信ぜられる仏教に於ても、
涅槃経に
 「善男子正法を護持せん者は五戒を受けず
  威儀を修せずして刀剣弓箭鉾槊(きゅうせんぼうさく)を持すべし」
「五戒を受持せん者あらば名づけて大乗の人となすことを得ず。
五戒を受けざれども正法を護るをもって乃ち大乗と名づく。
正法を護る者は正に刀剣器仗を執持すべし」 と説かれてあり、

 日蓮聖人は「兵法剣形の大事もこの妙法より出たり」と断じている。

 右のような考え方が西洋にあるかないかは無学の私は知らないが、
よしあったにせよ、
今日のかれらに対しては恐らく無力であろう。
 戦争の本義は、どこまでも王道文明の指南にまつべきである。
しかし戦争の実行方法は主として力の問題であり、
覇道文明の発達した西洋が本場となったのは当然である。

 日本の戦争は主として国内の戦争であり、
民族戦争の如き深刻さを欠いていた。

 殊に平和的な民族性が大きな作用をして、
敵の食糧難に同情して塩を贈った武将の心事となり、
更に戦の間に和歌のやりとりをしたり、
あるいは那須の与一の扇の的となった。

 こうなると戦やらスポーツやら見境いがつかないくらいである。
武器がすばらしい芸術品となったことなどにも日本武力の特質が現われている。

 東亜大陸に於ては漢民族が永く中核的存在を持続し、
数次にわたり、いわゆる北方の蕃族に征服されたものの、
強国が真剣に相対峙したことは西洋の如くではない。

 殊に蕃族は軍事的に支那を征服しても、
漢民族の文化を尊重したのである。

 また東亜に於ては西洋の如く民族意識が強烈でなく、
今日の研究でも、いかなる民種に属するかさえ不明な民族が、
歴史上に存在するのである。
 しかも東亜大陸は土地広大で戦争の深刻さを緩和する。

 ヨーロッパは元来アジアの一半島に過ぎない。あ
の狭い土地に多数の強力な民族が密集して多くの国家を営んでいる。
西洋科学文明の発達はその諸民族闘争の所産と言える。

 東洋が王道文明の伝統を保ったのに対し、
西洋が覇道文明の支配下に入った有力な原因は、
この自然的環境の結果と見るべきである。

 覇道文明のため戦争の本場となり、
且つ優れた選手が常時相対しており、
戦場も手頃の広さである関係上、
戦争の発達は西洋に於て、より系統的に現われたのは当然である。

 私の知識の不十分から、
研究は自然に西洋戦史に偏したのであるが、
戦争の形態に関する限り甚だしい不合理とは言えないと信ずる。

 私の戦争史が西洋を正統的に取扱ったからとて、
一般文明が西洋中心であると言うのではないことを特に強調する。


【続く】 
石原莞爾『最終戦争論』 第二部 質疑応答 第8問~第9問

 


石原莞爾『最終戦争』 第二部 質疑応答 第一問~第五問

2016-06-09 13:26:20 | 石原莞爾

石原莞爾 『最終戦争』 第二部 
 「最終戦争論」に関する質疑回答
 

    昭和十六年十一月九日於酒田脱稿 

第一問 
 世界の統一が戦争によってなされるということは
 人類に対する冒涜であり、
 人類は戦争によらないで
 絶対平和の世界を建設し得なければならないと思う。

〔答〕 
 生存競争と相互扶助とは共に人類の本能であり、
正義に対するあこがれと力に対する依頼は、われらの心の中に併存する。
昔の坊さんは宗論に負ければ袈裟をぬいで相手に捧げ、
帰伏改宗したものと聞くが、
今日の人間には思い及ばぬことである。

 純学術的問題でさえ、理論闘争で解決し難い場面を時々見聞する。
絶大な支配力のない限り、政治経済等に関する現実問題は、
単なる道義観や理論のみで争いを決することは通常、至難である。

 世界統一の如き人類の最大問題の解決は結局、
人類に与えられた、あらゆる力を集中した真剣な闘争の結果、
神の審判を受ける外に途はない。
 誠に悲しむべきことではあるが、何とも致し方がない。

「鋒刃の威を仮らずして、坐(いなが)ら天下を平げん」と考えられた神武天皇は、
遂に度々武力を御用い遊ばされ、

「よもの海みなはらから」と仰せられた明治天皇は、
遂に日清、日露の大戦を御決行遊ばされたのである。

 釈尊が、正法を護ることは単なる理論の争いでは不可能であり、
身を以て、武器を執って当らねばならぬと説いているのは、
人類の本性に徹した教えと言わねばならない。

 一人二人三人百人千人と次第に唱え伝えて、
遂に一天四海皆帰妙法の理想を実現すべく力説した日蓮聖人も、
信仰の統一は結局、前代未聞の大闘争によってのみ実現することを予言している。

 刃やいばに※ちぬ[#「衄のへん+絆のつくり」、U+8845、70-5]らずして世界を統一することは固より、
われらの心から熱望するところであるが(62頁)、
悲しい哉、それは恐らく不可能であろう。

 もし幸い可能であるとすれば、
それがためにも最高道義の護持者であらせられる天皇が、
絶対最強の武力を御掌握遊ばされねばならぬ。

 文明の進歩とともに世は平和的にならないで闘争がますます盛んになりつつある。
最終戦争の近い今日、常にこれに対する必勝の信念の下に、
あらゆる準備に精進しなければならない。

 最終戦争によって世界は統一される。
しかし最終戦争は、どこまでも統一に入るための荒仕事であって、
八紘一宇の発展と完成は武力によらず、
正しい平和的手段によるべきである。


第二問
 
 今日まで戦争が絶えなかったように、
 人類の闘争心がなくならない限り、
   戦争もまた絶対になくならないのではないか。

 〔答〕 
 しかり、人類の歴史あって以来、戦争は絶えたことがない。
しかし今日以後もまた、しかりと断ずるは過早である。

 明治維新までは、日本国内に於て戦争がなくなると誰が考えたであろうか。
文明、特に交通の急速な発達と兵器の大進歩とによって、
今日では日本国内に於ては、戦争の発生は全く問題とならなくなった(35頁)。

 文明の進歩により戦争力が増大し、
その威力圏の拡大に伴って政治的統一の範囲も広くなって来たのであるが、
世界の一地方を根拠とする武力が全世界の至るところに対し迅速にその威力を発揮し、
抵抗するものを迅速に屈伏し得るようになれば、
世界は自然に統一されることとなる(35頁)。

 更に問題になるのは、
たとい未曽有の大戦争があって世界が一度は統一されても、
間もなくその支配力に反抗する力が生じて戦争が起り、
再び国家の対立を生むのではなかろうかということである。

 しかしそれは、
最終戦争が行なわれ得る文明の超躍的大進歩に考え及ばず
今日の文明を基準とした常識判断に過ぎない。

 瞬間に敵国の中心地を潰滅する如き大威力(37頁)は、
戦争の惨害を極端ならしめて、
人類が戦争を回避するに大きな力となるのみならず、
かくの如き大威力の文明は一方、世界の交通状態を一変させる。

 数時間で世界の一周は可能となり、
地球の広さは今日の日本よりも狭いように感ずる時代であることを考えるべきである。

 人類は自然に、心から国家の対立と戦争の愚を悟る。
且つ最終戦争により思想、信仰の統一を来たし、
文明の進歩は生活資材を充足し、
戦争までして物資の取得を争う時代は過ぎ去り人類は、
いつの間にやら戦争を考えなくなるであろう(49~51頁)。

 人類の闘争心は、ここ数十年の間はもちろん、
人類のある限り恐らくなくならないであろう。

 闘争心は一面、文明発展の原動力である。
しかし最終戦争以後は、
その闘争心を国家間の武力闘争に用いようとする本能的衝動は自然に解消し、
他の競争、即ち平和裡に、
より高い文明を建設する競争に転換するのである。

 現にわれわれが子供の時分は、
大人の喧嘩を街頭で見ることも決して稀ではなかったが、
今日ではほとんど見ることができない。

 農民は品種の改善や増産に、
工業者はすぐれた製品の製作に、
学者は新しい発見・発明に等々、
各々その職域に応じ今日以上の熱を以て努力し、
闘争的本能を満足させるのである。

 以上はしかし理論的考察で半ば空想に過ぎない。
しかし、日本国体を信仰するものには戦争の絶滅は確乎たる信念でなければならぬ。
八紘一宇とは戦争絶滅の姿である。

 口に八紘一宇を唱え心に戦争の不滅を信ずるものがあるならば、
真に憐むべき矛盾である。

 日本主義が勃興し、日本国体の神聖が強調される今日、
未だに真に八紘一宇の大理想を信仰し得ないものが少なくないのは誠に痛嘆に堪えない。


第三問
 最終戦争が遠い将来には起るかも知れないが、
 僅々三十年内外に起るとは信じられない。

〔答〕 
 近い将来に最終戦争の来ることは私の確信である(33~36頁)。
最終戦争が主として東亜と米州との間に行なわれるであろうということは私の想像である(44頁)。

 最終戦争が30年内外に起るであろうということは占いに過ぎない(45頁)。
私も常識を以てしては、30年内外に起るとは、なかなか考えられない。

 しかし最終戦争は実に人類歴史の最大関節であり、
このとき、世界に超常識的大変化が起るのである。

 今日までの戦争は主として地上、水上の戦いであった。
障害の多い地上戦争の発達が急速に行かないことは常識で考えられるが、
それが空中に飛躍するときは、
真に驚天動地の大変化を生ずるであろう。

 空中への飛躍は人類数千年のあこがれであった。
釈尊が法華経で本門の中心問題、即ち超常識の大法門を説こうとしたとき、
インド霊鷲山(りょうじゅせん)上の説教場を空中に移したのは、
真に驚嘆すべき着想ではないか。

 通達無碍の空中への飛躍は、
地上にあくせくする人々の想像に絶するものがある。

 地上戦争の常識では、この次の戦争の大変化は容易に判断し難い。

 戦争術変化の年数が1000年→300年→125年と逐次短縮して来たことから、
この次の変化が恐らく50年内外に来るであろうとの推断は、
固より甚だ粗雑なものであるが、全くのデタラメとは言えない。

 常識的には今後30年内外は余りに短いようであるが、
次の大変化は、われらの常識に超越するものであることを敬虔な気持で考えるとき、
私は 「309年内外」を否定することはよろしくないと信ずるものである。

 もし30年内外に最終戦争が来ないで、
50年、70年、100年後に延びることがあっても、
国家にとって少しも損害にならないのであるが、
仮に30年後には来ないと考えていたのに実際に来たならば、
容易ならぬこととなるのである。

 私は技術・科学の急速な進歩、産業革命の状態、仏教の予言等から、
30年後の最終戦争は必ずしも突飛とは言えないことを詳論した。

 更に、第一次欧州大戦までは世界が数10の政治的単位に分かれていたのがその後、
急速に国家連合の時代に突入して、
今日では四つの政治的単位になろうとする傾向が顕著であり、
見方によっては、世界は既に自由主義と枢軸の2大陣営に対立しようとしている。

 準決勝の時期がそろそろ終ろうとするこの急テンポを、どう見るか。

 また統制主義を人類文化の最高方式の如く思う人も少なくないようであるが、
私はそれには賛成ができない。
 元来、統制主義は余りに窮屈で過度の緊張を要求し、
安全弁を欠く結果となる。

 ソ連に於ける毎度の粛清工作はもちろん、
ドイツに於ける突撃隊長の銃殺、副総統の脱走等の事件も、
その傾向を示すものと見るべきである。

 統制主義の時代は、決して永く継続すべきものではないと確信する。
 今日の世界の大勢は各国をして、その最高能率を発揮して戦争に備えるために、
否が応でも、また安全性を犠牲にしても、
統制主義にならざるを得ざらしめるのである。

 だから私は、統制主義は武道選手の決勝戦前の合宿のようなものだと思う。

 合宿生活は能率を挙げる最良の方法であるけれども、
年中合宿して緊張したら、うんざりせざるを得ない。

 決戦直前の短期間にのみ行なわれるべきものである。

 統制主義は、人類が本能的に最終戦争近しと無意識のうちに直観して、
それに対する合宿生活に入るための産物である。

 最終戦争までの数十年は合宿生活が継続するであろう。
この点からも、最終戦争はわれらの眼前近く迫りつつあるものと推断する。


第四問
  東洋文明は王道であり、
    西洋文明は覇道であると言うが、
   その説明をしてほしい。

〔答〕 
 かくの如き問題はその道の学者に教えを乞うべきで、
私如きものが回答するのは僭越極まる次第であるが、
私の尊敬する白柳秀湖、清水芳太郎両氏の意見を拝借して、若干の意見を述べる。

 文明の性格は気候風土の影響を受けることが極めて大きく、
東西よりも南北に大きな差異を生ずる。

 われら北種は東西を通じて、おしなべて朝日を礼拝するのに、
炎熱に苦しめられている南種は同じく太陽を神聖視しながらも、
夕日に跪伏する。

 回教徒が夕日を礼拝するように仏教徒は夕日にあこがれ、
西方に金色の寂光が降りそそぐ弥陀の浄土があると考えている。

 日蓮聖人が朝日を拝して立宗したのは、
真の日本仏教が成立したことを意味する。

 熱帯では衣食住に心を労することなく、
殊に支配階級は奴隷経済の上に抽象的な形而上の瞑想にふけり、
宗教の発達を来たした。

 いわゆる3大宗教はみな亜熱帯に生まれたのである。
半面、南種は安易な生活に慣れて社会制度は全く固定し、
インドの如きは今なお4千年前の制度を固持して政治的に無力となり、
少数の英人の支配に屈伏せざるを得ない状態となった。

 北種は元来、住みよい熱帯や亜熱帯から追い出された劣等種であったろうが、
逆境と寒冷な風土に鍛錬されて、
自然に科学的方面の発達を来たした。

 また農業に発した強い国家意義と狩猟生活の生んだ寄合評定によって、
強大な政治力が養われ今日、世界に雄飛している民族は、すべて北種に属する。

 南種は専制的で議会の運用を巧みに行ない得ない。
社会制度、政治組織の改革は、北種の特徴である。

 アジアの北種を主体とする日本民族の歴史と、
アジアの南種に属する漢民族を主体とする支那の歴史に、
相当大きな相違のあるのも当然である。

 但し漢民族は南種と言っても黄河沿岸はもちろんのこと、
揚子江沿岸でも亜熱帯とは言われず、
ヒマラヤ以南の南種に比べては、
多分に北種に近い性格をもっている。

 清水氏は 『日本真体制論』 に次の如く述べている。
 「……寒帯文明が世界を支配はしたけれども、
  決して寒帯民族そのものも真の幸福が得られなかった。
  力の強いものが力の弱いものを搾取するという力の科学の上に立った世界は、
  人類の幸福をもたらさなかった。

  弱いものばかりでなくて、強いものも同時に不幸であった。
  本当を言うと、熱帯文明の方が宗教的、芸術的であって、
  人間の目的生活にそうものである。

  寒帯文明は結局、人間の経済生活に役立つものであって、
  これは人間にとって手段生活である。
  寒帯文明が中心となってでき上がった人間の生活状態というものは、
  やはり主客転倒したものである。……

  この二つのものは別々であってよいかと言うに、
  これは一つにならなければならないものである。

  インド人や支那人は、実に深遠な精神文化を生み出した民族であるが今日、
  寒帯民族のもつ機械文明を模倣し成長せしめることに成功していない。

  白色人種は、物質文化の行き詰まりを一面に於て唱えながらも、
  これを刷新せんとする彼らの案は、依然として寒帯文明の範疇を出ることができない。……

  とにかく、日本民族は明白に、その特色をもっているのである。
  この熱帯文明と寒帯文明とが、日本民族によって融合統一され、
  次の新しい人間の生活様式が創造されなければならない。

  どうも日本民族をおいて、
  他にこの2大文明の融合によって第三文明を創造しうる能力をもったものが、
  外にないと思われる。

  つまり、寒帯文明を手段として、
  東洋の精神文化を生かしうる社会の創造である。
  西洋の機械文明が、東洋の精神文明の手段となるときに、
  初めて西洋物質文化に意味を生じ、
  東洋精神文化も、初めて真の発達を遂げうるのである。」

 寒帯文明に徹底した物質文明偏重の西洋文明は、即ち覇道文明である。
 これに対し熱帯文明が王道文明であるかと言えば、そうではない。

 王道は中庸を得て、偏してはならぬ。
道を守る人生の目的を堅持して、
その目的達成のための手段として、物質文明を十分に生かさねばならない。
即ち、王道文明は清水氏の第三文明でなければならない。

 同じ北種でも、アジアの北種とヨーロッパの北種には、
その文明に大きな相異を来たしている。
日本民族の主体は、もちろん北種である。

 科学的能力は白人種の最優秀者に優るとも劣らないのみならず、
皇祖皇宗によって簡明に力強く宣明せられた建国の大理想は、
民族不動の信仰として、われらの血に流れている。

 しかも適度に円満に南種の血を混じて熱帯文明の美しさも十分に摂取し、
その文明を荘厳にしたのである。

 古代支那の文明は今日の研究では、南種に属する漢人種のものではなく、
北種によって創められたものらしいと言われているが、
その王道思想は正しく日本国体の説明と言うべきである。

 この王道思想が漢人種によって唱導されたものでないにせよ、
漢民族はよくこの思想を容れ、
それを堅持して今日に及んだ。

 今日の漢民族は多くの北種の血を混じて南北両文明を協調するに適する素質をもち、
指導よろしきを得れは、
十分に科学文明を活用し得る能力を備えていると信ずる。

 西洋北種は古代に於て果して、東洋諸民族の如き大理想を明確にもっていたであろうか。
仮にあったにせよ、
物質文明の力に圧倒され、かれらの信念として今日まで伝えられるだけの力はなかったのである。

ヒットラーは古代ゲルマン民族の思想信仰の復活に熱意を有すると聞くが、
ヒットラーの力を以てしても、民族の血の中に真生命として再生せしめることは至難であろう。

 ヨーロッパの北種はフランスを除けば、
イギリスの如き地理的関係にあっても南種の混血は比較的少なく、
ドイツその他の北欧の諸民族は、ほとんど北種間のみの混血で、
現実主義に偏する傾向が顕著である。

 殊にヨーロッパでは強力な国家が狭小な地域に密集して永い間、
深刻な闘争をくり返し、
科学文明の急速な進歩に大なる寄与をなしたけれども、
その覇道的弊害もますます増大して今日、
社会不安の原因をなし、清水氏の主張の如く、
これも根本的に刷新することが不可能である。 

 西洋文明は既に覇道に徹底して、みずから行き詰まりつつある。
王道文明は東亜諸民族の自覚復興と西洋科学文明の摂取活用により、
日本国体を中心として勃興しつつある。

 人類が心から現人神あらひとがみの信仰に悟入したところに、
王道文明は初めてその真価を発揮する。

 最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、
天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり、
具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、
西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、
人類歴史の中で空前絶後の大事件である。


第五問
  最終戦争が数十年後に起るとすれば、
  その原因は経済の争いで、
    観念的な王道・覇道の決勝戦とは思われない。

〔答〕 
 戦争の原因は、その時代の人類の最も深い関心を有するものに存する。
昔は単純な人種間の戦争や、宗教戦争などが行なわれ、
封建時代には土地の争奪が戦争の最大動機であった。
土地の争奪は経済問題が最も大きな働きをなしている。

 近代の進歩した経済は、社会の関心を経済上の利害に集中させた結果、
戦争の動機は経済以外に考えられない現状である。

 自由主義時代は経済が政治を支配するに至ったのであるが、
統制主義時代は政治が経済を支配せねばならぬ。

 世の中には今や大なる変化を生じつつある。
しかし僅々30年後にはなお、社会の最大関心事が依然として経済であり、
主義が戦争の最大原因となるとは考えられない。

 けれども最終戦争を可能にする文明の飛躍的進歩は、
半面に於て生活資材の充足を来たし、
次第に今日のような経済至上の時代が解消するであろう。

 経済はどこまでも人生の目的ではなく、手段に過ぎない。
 人類が経済の束縛からまぬがれ得るに従って、
その最大関心は再び精神的方面に向けられ、
戦争も利害の争いから主義の争いに変化するのは、
文明進化の必然的方向であると信ずる。

 即ち最終戦争時代は、
戦争の最大原因が既に主義となる時代に入りつつあるべきはずである。

 文明の実質が大変化をしても、
人類の考えは容易にそれに追随できないために、
数十年後の最終戦争に於ける最初の動機は、
依然として経済に関する問題であろう。

 しかし戦争の進行中に必ず急速に戦争目的に大変化を来たして、
主義の争いとなり、
結局は王覇両文明の雌雄を決することとなるものと信ずる。

 日蓮聖人が前代未聞の大闘争につき、
最初は利益のために戦いつつも争いの深刻化するに従い、
遂に頼るべきものは正法のみであることを頓悟して、
急速に信仰の統一を来たすべきことを説いているのは、
最終戦争の本質をよく示すものである。

 第一次欧州大戦以来、
大国難を突破した国が逐次、
自由主義から統制主義への社会的革命を実行した。

 日本も満州事変を契機として、この革新即ち昭和維新期に入ったのであるが、
多くの知識人は依然として内心では自由主義にあこがれ、
また口に自由主義を非難する人々も多くは自由主義的に行動していた。

 しかるに支那事変の進展中に、
高度国防国家建設は、たちまち国民の常識となってしまった。
冷静に顧みれば、平和時には全く思い及ばぬ驚異的変化が、何の
不思議もなく行なわれてしまったのである。

 最終戦争の時代をおおむね20年内外と空想したが(46頁)、
この期間に人類の思想と生活に起る変化は、全く想像の及ばぬものがある。

 経済中心の戦争が徹底せる主義の争いに変化するとの判断は、
決して突飛なものとは言われない。

  
 
【続く】 石原莞爾『最終戦争論』 第二部 質疑応答 第6問~第7問

 

 


石原莞爾『最終戦争論』 第一部 最終戦争論 第六章 結び

2016-05-30 22:43:48 | 石原莞爾


  石原莞爾『最終戦争論』
   第一部 最終戦争論


第六章 結び 

 今までお話して来たことを総合的に考えますと、
軍事的に見ましても、政治史の大勢から見ましても、
また科学、産業の進歩から見ましても、
信仰の上から見ましても、
人類の前史は将に終ろうとしていることは確実であり、
その年代は数十年後に切迫していると見なければならないと思うのであります。

 今は人類の歴史で空前絶後の重大な時期であります。

 世の中には、
この支那事変を非常時と思って、
これが終れは和やかな時代が来ると考えている人が今日もまだ相当にあるようです。
そんな小っぽけな変革ではありません。
昔は革命と革命との間には相当に長い非非常時、即ち常時があったのです。
フランス革命から第一次欧州大戦の間も、一時はかなり世の中が和やかでありました。 

 第一次欧州大戦以後の革命時は、まだ安定しておりません。
しかしこの革命が終ると引きつづき次の大変局、
即ち人類の最後の大決勝戦が来る。

 今日の非常時は次の超非常時と隣り合わせであります。
今後数十年の間は人類の歴史が根本的に変化するところの最も重大な時期であります。

 この事を国民が認識すれば、
余りむずかしい方法を用いなくても自然に精神総動員はできると私は考えます。

 東亜が仮に準決勝に残り得るとして誰と戦うか。
私は先に米州じゃないかと想像しました。

 しかし、よく皆さんに了解して戴きたいことがあるのです。
今は国と国との戦争は多く自分の国の利益のために戦うものと思っております。
今日、日本とアメリカは睨み合いであります。

 あるいは戦争になるかも知れません。
かれらから見れば蘭印を日本に独占されては困ると考え、
日本から言えば何だアメリカは自分勝手のモンロー主義を振り廻しながら
東亜の安定に口を入れるとは怪しからぬというわけで、
多くは利害関係の戦争でありましょう。

 私はそんな戦争を、かれこれ言っているのでありません。


 世界の決勝戦というのは、そんな利害だけの問題ではないのです。
世界人類の本当に長い間の共通のあこがれであった世界の統一、
永遠の平和を達成するには、
なるべく戦争などという乱暴な、残忍なことをしないで、
刃やいばに※ちぬ[#「衄のへん+絆のつくり」、U+8845、62-12]らずして、
そういう時代の招来されることを熱望するのであり、
それが、われわれの日夜の祈りであります。

 しかしどうも遺憾ながら人間は、あまりに不完全です。
理屈のやり合いや道徳談義だけでは、この大事業は、やれないらしいのです。

 世界に残された最後の選手権を持つ者が、
最も真面目に最も真剣に戦って、
その勝負によって初めて世界統一の指導原理が確立されるでしょう。

 だから数十年後に迎えなければならないと私たちが考えている戦争は、
全人類の永遠の平和を実現するための、やむを得ない大犠牲であります。

 われわれが仮にヨーロッパの組とか、
あるいは米州の組と決勝戦をやることになっても、
断じて、かれらを憎み、かれらと利害を争うのでありません。

 恐るべき惨虐行為が行なわれるのですが、
根本の精神は武道大会に両方の選士が出て来て一生懸命にやるのと同じことであります。

 人類文明の帰着点は、
われわれが全能力を発揮して正しく堂々と争うことによって、
神の審判を受けるのです。

 東洋人、特に日本人としては絶えずこの気持を正しく持ち、
いやしくも敵を侮辱するとか、
敵を憎むとかいうことは絶対にやるべからざることで、
敵を十分に尊敬し敬意を持って堂々と戦わなければなりません。

 ある人がこう言うのです。
君の言うことは本当らしい、
本当らしいから余り言いふらすな、
向こうが準備するからコッソリやれと。

 これでは東亜の男子、日本男子ではない。
東方道義ではない。
断じて皇道ではありません。

よろしい、準備をさせよう、
向こうも十分に準備をやれ、
こっちも準備をやり、
堂々たる戦いをやらなければならぬ。
こう思うのであります。

 しかし断わって置かなければならないのは、
こういう時代の大きな意義を一日でも早く達観し得る聡明な民族、
聡明な国民が結局、
世界の優者たるべき本質を持っているということです。


 その見地から私は、
昭和維新の大目的を達成するために、
この大きな時代の精神を一日も速やかに全日本国民と全東亜民族に了解させることが、
私たちの最も大事な仕事であると確信するものであります。


【続く】 石原莞爾『最終戦争』 第二部 質疑応答 第一問~第五問

 

 


石原莞爾『最終戦争論』 第一部 最終戦争論 第五章 仏教の予言

2016-05-25 23:50:22 | 石原莞爾


 石原莞爾『最終戦争論』第一部 最終戦争論

第五章 仏教の予言

  今度は少し方面を変えまして宗教上から見た見解を一つお話したいと思います。
非科学的な予言への、われわれのあこがれが宗教の大きな問題であります。
しかし人間は科学的判断、
つまり理性のみを以てしては満足安心のできないものがあって、
そこに予言や見通しに対する強いあこがれがあるのであります。

 今の日本国民は、この時局をどういうふうにして解決するか、見通しが欲しいのです。
予言が欲しいのです。
ヒットラーが天下を取りました。
それを可能にしたのはヒットラーの見通しであります。

 第一次欧州戦争の結果、全く行き詰まってしまったドイツでは、
何ぴともあの苦境を脱する着想が考えられなかったときに、
彼はベルサイユ条約を打倒して必ず民族の復興を果し得る信念を懐いたのです。

 大切なのはヒットラーの見通しであります。
最初は狂人扱いをされましたが、その見通しが数年の間に、
どうも本当でありそうだと国民が考えたときに、ヒットラーに対する信頼が生まれ、
今日の状態に持って来たのであります。
私は宗教の最も大切なことは予言であると思います。

 仏教、特に日蓮聖人の宗教が、
予言の点から見て最も雄大で精密を極めたものであろうと考えます。
空を見ると、たくさんの星があります。

 仏教から言えは、あれがみんな一つの世界であります。
その中には、どれか知れませんが西方極楽浄土というよい世界があります。
もっとよいのがあるかも知れません。
その世界には必ず仏様が一人おられて、その世界を支配しております。
その仏様には支配の年代があるのです。


 例えば地球では今は、お釈迦様の時代です。
しかしお釈迦様は未来永劫この世界を支配するのではありません。
次の後継者をちゃんと予定している。

 弥勒菩薩という御方が出て来るのだそうです。
そうして仏様の時代を正法(しょうほう)・像法(ぞうほう)・末法(まっぽう)の3つに分けます。

 正法と申しますのは仏の教えが最も純粋に行なわれる時代で、
像法は大体それに似通った時代です。

 末法というのは読んで字の通りであります。
それで、お釈迦様の年代は、いろいろ異論もあるそうでございますが、
多く信ぜられているのは正法千年、像法千年、末法万年、合計一万二千年であります。

 ところが大集経というお経には更にその最初の2500年の詳細な予言があるのです。
仏滅後(お釈迦様が亡くなってから後)の最初の500年が解脱の時代で、
仏様の教えを守ると神通力が得られて、
霊界の事柄がよくわかるようになる時代であります。
人間が純朴で直感力が鋭い、よい時代であります。

 大乗経典はお釈迦様が書いたものでない。
お釈迦様が亡くなられてから最初の500年、
即ち解脱の時代にいろいろな人によって書かれたものです。

 私はそれを不思議に思うのです。
長い年月かかって多くの人が書いたお経に大きな矛盾がなく、
一つの体系を持っているということは、
霊界に於て相通ずるものがあるから可能になったのだろうと思います。

 大乗仏教は仏の説でないとて大乗経を軽視する人もありますが、
大乗経典が仏説でないことが却かえって仏教の霊妙不可思議を示すものと考えられます。

 その次の500年は禅定の時代で、
解脱の時代ほど人間が素直でなくなりますから、
座禅によって悟りを開く時代であります。

 以上の千年が正法です。
正法千年には、仏教が冥想の国インドで普及し、インドの人間を救ったのであります。

 その次の像法の最初の500年は読誦多聞(どくじゅたもん)の時代であります。
教学の時代であります。

 仏典を研究し仏教の理論を研究して安心を得ようとしたのであります。
瞑想の国インドから組織の国、
理論の国、支那に来たのはこの像法の初め、教学時代の初めなのです。

 インドで雑然と説かれた万巻のお経を、
支那人の大陸的な根気によって何回も何回も読みこなして、
それに一つの体系を与えました。
その最高の仕事をしたのが天台大師であります。

 天台大師はこの教学の時代に生まれた人です。
天台大師が立てた仏教の組織は、
現在でも多くの宗派の間で余り大きな異存はないのです。

 その次の像法の後の500年は多造塔寺の時代、
即ちお寺をたくさん造った時代、
つまり立派なお寺を建て、すばらしい仏像を本尊とし、
名香を薫じ、それに綺麗な声でお経を読む。

 そういう仏教芸術の力によって満足を得て行こうとした時代であります。
この時代になると仏教は実行の国日本に入って来ました。
奈良朝・平安朝初期の優れた仏教芸術は、この時に生まれたのであります。

 次の500年、即ち末法最初の500年は闘諍(とうじょう)時代であります。
この時代になると闘争が盛んになって普通の仏教の力はもうなくなってしまうと、
お釈迦様が予言しています。

 末法に入ると、叡山の坊さんは、
ねじり鉢巻で山を降りて来て三井寺を焼打ちにし、
遂には山王様のお神輿をかついで都に乱入するまでになりました。
説教すべき坊さんが拳骨を振るう時代になって来たのであります。予言の通りです。

 仏教では仏は自分の時代に現われる、あらゆる思想を説き、
その教えの広まって行く経過を予言していなければならないのでありますが、
一万年のお釈迦様が2500年でゴマ化しているのです。

 自分の教えは、この2500年でもうダメになってしまうという無責任なことを言って、
大集経の予言は終っているのです。

 ところで、
天台大師が仏教の最高経典であると言う法華経では、
仏はその闘争の時代に自分の使を出す、節刀将軍を出す、
その使者はこれこれのことを履(ふ)み行ない、
こうこういう教えを広めて、
それが末法の長い時代を指導するのだ、と予言しているのであります。

 言い換えれば仏滅から数えて2000年前後の末法では世の中がひどく複雑になるので、
今から一々言っておいても分からないから、
その時になったら自分が節刀将軍を出すから、
その命令に服従しろ、と言って、お釈迦様は亡くなっているのです。

 末法に入ってから220年ばかり過ぎたときに仏の予言によって日本に、
しかもそれが承久の乱、即ち日本が未曽有の国体の大難に際会したときに、
お母さんの胎内に受胎された日蓮聖人が、
承久の乱に疑問を懐きまして仏道に入り、
ご自分が法華経で予言された本化上行(ほんげじょうぎょう)菩薩であるという自覚に達し、
法華経に従ってその行動を律せられ、
お経に述べてある予言を全部自分の身に現わされた。

 そして内乱と外患があるという、
ご自身の予言が日本の内乱と蒙古の襲来によって的中したのであります。

 それで、その予言が実現するに従って逐次、
ご自分の仏教上に於ける位置を明らかにし、予言の的中が全部終った後、
みずから末法に遣わされた釈尊の使者本化上行だという自覚を公表せられ、
日本の大国難である弘安の役の終った翌年に亡くなられました。

 そして日蓮聖人は将来に対する重大な予言をしております。
日本を中心として世界に未曽有の大戦争が必ず起る。
そのときに本化上行が再び世の中に出て来られ、
本門の戒壇を日本国に建て、
日本の国体を中心とする世界統一が実現するのだ。
こういう予言をして亡くなられたのであります。

 ここで、仏教教学について素人の身としては甚だ僭越でありますが、
私の信ずるところを述べさせていただきたいと存じます。

 日蓮聖人の教義は本門の題目、本門の本尊、本門の戒壇の3つであります。
題目は真っ先に現わされ、本尊は佐渡に流されて現わし、
戒壇のことは身延でちょっと言われたが、
時がまだ来ていない、時を待つべきであると言って亡くなられました。

 と申しますのは、
戒壇は日本が世界的な地位を占めるときになって初めて必要な問題でありまして、
足利時代や徳川時代には、まだ時が来ていなかったのです。

 それで明治時代になりまして日本の国体が世界的意義を持ちだしたときに、
昨年亡くなられた田中智学先生が生まれて来まして、
日蓮聖人の宗教の組織を完成し、
特に本門戒壇論、即ち日本国体論を明らかにしました。

 それで日蓮聖人の教え即ち仏教は、
明治の御代になって田中智学先生によって初めて全面的に、
組織的に明らかにされたのであります。

 ところが不思議なことには、
日蓮聖人の教義が全面的に明らかになったときに大きな問題が起きて来たのです。
仏教徒の中に仏滅の年代に対する疑問が出て来たのであります。

 これは大変なことで、
日蓮聖人は末法の初めに生まれて来なければならないのに、
最近の歴史的研究では像法に生まれたらしい。
 そうすると日蓮聖人は予言された人でないということになります。

 日蓮聖人の宗教が成り立つか否かという大問題が出現したというのに、
日蓮聖人の門下は、歴史が曖昧で判らない、
どれが本当か判らないと言って、みずから慰めています。
そういう信者は結構でしょう。
そうでない人は信用しない。
一天四海皆帰妙法は夢となります。

 この重大問題を日蓮聖人の信者は曖昧にして過ごしているのです。
観心本尊鈔に
「当ニ知ルベシ此ノ四菩薩、
 折伏(シャクブク)ヲ現ズル時ハ賢王ト成ツテ愚王ヲ誠責(カイシャク)シ、
 摂受(ショウジュ)ヲ行ズル時ハ僧ト成ツテ正法ヲ弘持(グジス)
とあります。

 この2回の出現は経文の示すところによるも、
共に末法の最初の500年であると考えられます。

 そして摂受を行ずる場合の闘争は主として仏教内の争いと解すべきであります。

 明治の時代までは仏教徒全部が、
日蓮聖人の生まれた時代は末法の初めの500年だと信じていました。

 その時代に日蓮聖人が、いまだ像法だと言ったって通用しない。
末法の初めとして行動されたのは当然であります。

 仏教徒が信じていた年代の計算によりますと、
末法の最初の500年は大体、
叡山の坊さんが乱暴し始めた頃から信長の頃までであります。

 信長が法華や門徒を虐殺しましたが、
あの時代は坊さん連中が暴力を揮った最後ですから、
大体、仏の予言が的中したわけであります。

 折伏を現ずる場合の闘争は、
世界の全面的戦争であるべきだと思います。
この問題に関連して、今は仏滅後何年であるかを考えて見なければなりません。
歴史学者の間ではむずかしい議論もあるらしいのですが、
まず常識的に信じられている仏滅後2430年見当という見解をとって見ます。

 そうすると末法の初めは、西洋人がアメリカを発見しインドにやって来たとき、
即ち東西両文明の争いが始まりかけたときです。
その後、東西両文明の争いがだんだん深刻化して、
正にそれが最後の世界的決勝戦になろうとしているのであります。

 明治の御世、
即ち日蓮聖人の教義の全部が現われ了ったときに、
初めて年代の疑問が起きて来たことは、仏様の神通力だろうと信じます。

 末法の最初の五百年を巧みに2つに使い分けをされたので、
世界の統一は本当の歴史上の仏滅後2500年に終了すべきものであろうと私は信ずるのであります。
 そうなって参りますと、
仏教の考える世界統一までは約6、70年を残されているわけであります。

 私は戦争の方では今から50年と申しましたが、
不思議に大体、似たことになっております。
あれだけ予言を重んじた日蓮聖人が、
世界の大戦争があって世界は統一され本門戒壇が建つという予言をしておられるのに、
それが何時来るという予言はやっていないのです。

 それでは無責任と申さねばなりません。
けれども、これは予言の必要がなかったのです。
ちゃんと判っているのです。
仏の神通力によって現われるときを待っていたのです。
そうでなかったら、
日蓮聖人は何時だという予言をしておられるべきものだと信ずるのであります。

 この見解に対して法華の専門家は、
それは素人のいい加減なこじつけだと言われるだろうかと存じますが、
私の最も力強く感ずることは、
日蓮聖人以後の第一人老である田中智学先生が、
大正7年のある講演で
「一天四海皆帰妙法は48年間に成就し得るという算盤を弾いている」
 (師子王全集・教義篇第一輯367頁)と述べていることです。

 大正8年から48年くらいで世界が統一されると言っております。
どういう算盤を弾かれたか述べてありませんが、
天台大師が日蓮聖人の教えを準備された如く、
田中先生は時来たって日蓮聖人の教義を全面的に発表した、
即ち日蓮聖人の教えを完成したところの予定された人でありますから、
この一語は非常な力を持っていると信じます。

 また日蓮聖人は、
インドから渡来して来た日本の仏法はインドに帰って行き、
永く末法の闇を照らすべきものだと予言しています。

日本山妙法寺の藤井行勝師が
この予言を実現すべくインドに行って太鼓をたたいているところに支那事変が勃発しました。

 英国の宣伝が盛んで、日本が苦戦して危いという印象をインド人が受けたのです。
そこで藤井行勝師と親交のあったインドの 「耶羅陀耶」 という坊さんが
 「日本が負けると大変だ。
  自分が感得している仏舎利があるから、
  それを日本に納めて貰いたい」
と行勝師に頼みました。 
行勝師は一昨年帰って来てそれを陸海軍に納めたのであります。

  行勝師の話によると、
セイロン島の仏教徒は、
やはり仏滅後2500年に仏教国の王者によって世界が統一されるという予言を堅く信じているそうで、
その年代はセイロンの計算では間もなく来るのであります。