石原莞爾『戦争史大観』
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第二章 戦争指導要領の変化
第一節 戦争の二種類
国家の対立ある間戦争は絶えない。
国家の間は相協力を図るとともに不断に相争っている。
その争いに国家の有するあらゆる力を用うるは当然である。
平時の争いに於ても武力は隠然たる最も有力なる力である。外交は武力を背景として行なわれる。
この国家間の争いの徹底が戦争である。
戦争の特異さは武力をも直接に使用する事である。
すなわち戦争を定義したならば
「戦争とは武力をも直接使用する国家間の闘争」というべきである。
武力が戦争で最も重要な地位を占むる事は自然であり、
武力で端的に勝敗を決するのが戦争の理想的状態である。しかし戦争となっても両国の闘争には武力以外の手段も遺憾なく使用せられる。故に戦争遂行の手段として武力および武力以外のものの二つに大別出来る。
この戦争の手段としての武力価値の大小に依り戦争の性質が二つの傾向に分かれる。
武力の価値が大でありこれが絶対的である場合は戦争は活発猛烈であり、男性的、陽性であり、通常短期戦争となる。これを決戦戦争と名づける。
武力の価値が他の手段に対し絶対的地位を失い、逐次低下するに従い戦争は活気を失い、女性的、陰性となり、通常長期戦争となる。これを持久戦争と命名する。
第二節 両戦争と政戦略の関係
戦争本来の真面目は武力をもって敵を徹底的に圧倒してその意志を屈伏せしむる決戦戦争にある。
決戦戦争にあっては武力第一で外交内政等は第二義的価値を有するにすぎないけれども、
持久戦争に於ては武力の絶対的位置を低下するに従い外交、内政はその価値を高める。
ナポレオンの
「戦争は一に金、二にも金、三にも金」といった言葉はますますその意義を深くするのである。
即ち決戦戦争では戦略は常に政略を超越するのであるが、
持久戦争にあっては逐次政略の地位を高め、
遂に政略が作戦を指導するまでにも至るのである。
戦争の目的は当然国策に依って決定せらる
「戦争は他の手段をもってする政治の継続に外ならぬ」、
しかし戦争の目的達成のため政治、統帥の関係は一にその戦争の性質に依るものである。
政治と統帥は通常利害相反する場合が多い。
その協調即ち戦争指導の適否が戦争の運命に絶大なる関係を有する。
国家の主権者が将帥であり政戦略を完全に一身に抱いているのが理想である。
軍事の専門化に伴い近世はかくの如き状態が至難となり、
フリードリヒ大王、ナポレオン以来は殆どこれを見る事が出来なかった。
最近に於てはケマル・パシャとか蒋介石、フランコ将軍等は大体それであり、
また第二次欧州大戦に於てはヒットラーがそれであるが如くドイツ側から放送されているが、
それは将来戦史的に充分検討を要する。
政戦両略を一人格に於て占めていない場合は統帥権の問題が起って来る。
民主主義国家に於てはもちろん統帥は常に政治の支配下にある。
決して最善の方式ではないが止むを得ない。
ローマ共和国時代は、
戦争の場合独裁者を臨時任命してこの不利を補わんとした事はなかなか興味ある事である。
ドイツ、ロシヤ等の君主国に於ては政府の外に統帥府を設け、
いわゆる統帥権の独立となっていた時が多かった。
この二つの方式は各々利害があるが大体に於て決戦戦争に於ては統帥権の独立が有利であり、
持久戦争に於てはその不利が多く現われる。
これは統帥が戦争の手段の内に於て占むる地位の関係より生ずる自然の結果である。
これを第一次欧州大戦に見るに、
戦争初期決戦戦争的色彩の盛んであった時期には、
統帥権の独立していたドイツは連合国に比し誠に鮮やかな戦争指導が行なわれ、
あのまま戦争の決が着いたならば統帥権独立は最上の方式と称せられたであろうが、
持久戦争に陥った後は統帥と政治の関係常に円満を欠き
(カイゼルは政治は支配していたけれども統帥は制御する事が出来なかった)。
これに反し、
クレマンソー、ロイド・ジョージに依り支配せられその信任の下に
フォッシュが統帥を専任せしめられた大戦末期の連合国側の方式が遂に勝を得、
かくて大戦後ドイツ軍事界に於ても統帥権の独立を否定する論者が次第に勢いを得たのである。
ドイツの統帥権の独立はこの事情を最もよく示している。
フリードリヒ大王以後統帥事項は
当時に於ける参謀総長に当る者より直接侍従武官を経て上奏していたのであるが、
軍務二途に出づる弊害を除去するため陸軍大臣が総ての軍事を統一する事となっていた。
大モルトケが参謀総長就任の時(1857年心得、1858年総長)は
なお陸軍大臣の隷下に在って勢力極めて微々たるものであった。
1859年の事件に依って信用を高めたのであったけれども、
1864年デンマーク戦争には未だなかなかその意見が行なわれず、
軍に対する命令は直接大臣より送付せられ、
時としてモルトケは数日何らの通報を受けない事すらあったが、
戦況困難となりモルトケが遂に出征軍の参謀長に栄転し、
よく錯綜せる軍事、外交の問題を処理して大功を立てたのでその名望は高まった。
国王の信任はますます加わり、
1866年普墺戦争勃発するや6月2日
「参謀総長は爾後諸命令を直接軍司令官に与え陸軍大臣には唯これを通報すべき」旨が
国王より命令せられ、ここに参謀総長は軍令につき初めて陸軍大臣の束縛を離れたのである。
しかも陸軍大臣ローン及びビスマークはこれに心よからず、
普墺戦争中はもちろん1870~71年の普仏戦争中もビスマーク、モルトケ間は不和を生じ、
ウィルヘルム一世の力に依り辛うじて協調を保っていたのである。
しかしモルトケ作戦の大成功と決戦戦争に依る武力価値の絶対性向上は
遂に統帥権の独立を完成したのであった。
それでもこれが成文化されたのは
普仏戦争後10年余を経た1883年5月24日であることはこの問題のなかなか容易でなかった事を示している。
その後モルトケ元帥の大名望とドイツ参謀本部の能力が国民絶対の信頼を博した結果、
統帥権の独立は確固不抜のものとなった。
しかもその根底をなすものは、
当時決戦戦争すなわち武力に依り最短期間に於ける戦争の決定が常識となっていたことであるのを忘れてはならぬ。
第一次欧州大戦勃発当時の如きは
外務省は参謀本部よりベルギーの中立侵犯を通報せらるるに止まる有様であり、
また当時カイゼルは作戦計画を無視し
(1913年まではドイツの作戦計画は東方攻勢と西方攻勢の両場合を策定してあったのであるが
その年から単一化せられ西方攻勢のみが計画されたのである)、
東方に攻勢を希望したが遂に遂行出来なかったのである。
持久戦争となっても統帥権独立はドイツの作戦を有利にした点は充分認めねばならぬが、
遂に政戦略の協調を破り徹底的潰滅に導いたのである。
すなわち政治関係者は無併合、無賠償の平和を欲したのであるが統帥部は領土権益の獲得を主張し、
ついに両者の協調を見る事が出来なかった。
我が国に於ては「統帥権の独立」なる文字は穏当を欠く。
「天子は文武の大権を掌握」遊ばされておるのである。
もとより憲法により政治については臣民に翼賛の道を広め給うておるのであるけれども、
統帥、政治は天皇が完全に綜合掌握遊ばさるるのである。これが国体の本義である。
政府および統帥府は政戦両略につき充分連絡協調に努力すべきであり、
両者はよく戦争の本質を体得し、
決戦戦争に於ては特に統帥に最も大なる活動をなさしむる如くし、
持久戦争に於ては武力の価値低下の状況に応じ政治の活動に多くの期待をかくる如くし、
その戦争の性質に適応する政戦両略の調和に努力すべき事もちろんである。
しかし如何に臣民が協調に努力するも必ず妥協の困難な場面に逢着するものである。
それにもかかわらず総て臣民の間に於て解決せんとするが如き事があったならば、
これこそ天皇の天職を妨げ奉るものである。政府、統帥府の意見一致し難き時は一刻の躊躇なく聖断を仰がねばならぬ。
聖断一度び下らば過去の経緯や凡俗の判断等は超越し、
真に心の奥底より聖断に一如し奉るようになるのが我が国体、
霊妙の力である。
他の国にてフリードリヒ大王、ナポレオン、乃至ヒットラー無くば政戦略の統一に困難を来たすのであるが、
我が大日本に於ては国体の霊力に依り何時でもその完全統一を見るところに
最もよく我が国体の力を知り得るのである。
戦争指導のためにも我が国体は真に万邦無比の存在である。
第三節 持久戦争となる原因
持久戦争は両交戦国の戦争力ほとんど相平均しているところから生ずるものであり、
その戦力甚だしく懸隔ある両国の間には勿論容易に決戦戦争となるのは当然である。
今ほとんど相平均している国家間に持久戦争の行なわるる場合を考えれば次のようなものである。
1、軍隊の価値低きこと
後に詳述する事とするがルネッサンスに依り招来せられた傭兵は全く職業軍人である。
生命を的とする職業は少々無理あるがために如何に精錬な軍隊であっても、
徹底的にその武力の運用が出来かねた事が仏国革命まで、
持久戦争となっていた根本原因である。
フランス革命の軍事的意義は職業軍人から国民軍隊に帰った事である。
実に近代人はその愛国の誠意のみが真に生命を犠牲に為し得るのである。
「18世紀までの戦争は国王の戦争であり
国民戦争でなかったから真面目な戦争とならなかったが、
フランス革命以後は国民戦争となった。
国民戦争に於ては中途半端の勝負は不可能である」との信念の下に
ルーデンドルフは回想録や「戦争指導と政治」の中に
「敵国側の目的はドイツの殲滅にあるからドイツは徹底的に戦わねばならぬ」との意味を強調している。
すなわちドイツ参謀本部は、
戦争を18世紀前のものと以後のものとに区別したが、
戦争の性質に対する徹底せる見解を欠いていた。
欧州大戦は既にナポレオン、モルトケ時代の戦争と性質を異にするに至った事を認識しなかった事が、
第一次欧州大戦に於けるドイツ潰滅の一因と云われねばならない。
支那に於ては唐朝の全盛時代に於て国民皆兵の制度破れ、
爾来武を卑しみ漢民族国家衰微の原因となった。
民国革命後も日本の明治維新の如く国民皆兵に復帰する事が出来ず、
依然「好人不当兵」の思想に依る傭兵であり、
18世紀欧州の傭兵に比し遥かに低劣なものでその戦争に於ては武力よりも金力がものを言った。
戦によって屈するよりも金力によって屈し得る戦に真の決戦戦争はあり得ない。
かるが故に革命後の統一戦争が何時果つべしとも見えなかったのは自然である。
私どもは元来民国革命に依り支那の復興を衷心より待望し、
多くの日本人志士は支那志士に劣らざる熱意を以って民国革命に投じたのでであった。
しかるに革命後も真の革新行なわれず、
軍閥闘争の絶えざるを見て
「自ら真の軍隊を造り得ざる処に主権の確立は出来よう筈は無い。支那は遂に救うべからず」との
結論に達したのであった。
勿論あの国土厖大な支那、しかも歴史は古く、
病膏肓に入った漢民族の革命がしかく短日月に行なわれないのは当然であり、
私どもの判断も余りに性急であったのであるが、一面の真理はこれを認めねばならない。
劣悪極まる軍隊の結果は個々の戦争を金銭の取引に依り
決戦戦争以上の短日月の間に解決せらるる事もあったけれども、
それは戦争の絶対性を欠き、
その効力は極めて薄弱にして間もなく又戦争が開始せられ、
慢性的内乱となったのである。
孫文、蒋介石に依り革命軍の建設は軍隊精神に飛躍的進歩を見、
国内統一に力強く進んだのは確かに壮観であり我らの見解に修正の傾向を生じつつあったのである。
しかも中国の統一はむしろ日本の圧迫がその国民精神を振起せしめた点にある。
支那事変に於てはかなり勇敢に戦ったのであるが
この大戦争に於てすらもなお未だ真の国民皆兵にはなり難いのである。
数百年来武を卑しんだ国民性の悩みは深刻である。
我らは中国がこの際唐朝以前の古に復かえり
正しき国民軍隊を建設せん事を東亜のために念願するのである。
日本の戦国時代に於ける武士は日本国民性に基づく武士道に依って
強烈な戦闘力を発揮したのであるが、
それでもなお且つ買収行なわれ、
当時の戦争はいわゆる謀略が中心となり、
必要の前には父母兄弟妻子までも利益の犠牲としたのであった。
戦国時代の日本武将の謀略は中国人も西洋人も三舎を避くるものがあったのである。
日本民族はどの途にかけても相当のものである。
今日謀略を振り廻しても成功せず、
むしろ愚直の感あるは徳川三百年太平の結果である。
2、攻撃威力が防禦線を突破し難き事
如何に軍隊が精鋭でも装備その他の関係上防禦の威力が大きく、
これが突破出来なければ決局決戦戦争を不可能とする。
第一次欧州大戦当時は陣地正面の突破がほとんど不可能となり、
しかも兵力の増加が迂回をも不可能にした結果持久戦争に陥ったのであった。
戦国時代の築城は当時これを力攻する事困難でこれが持久戦争の重大原因となった。
そこで前に述べた謀略が戦争の極めて有力な手段となったのである。
3、軍隊の運動に比し戦場の広き事
決戦戦争の名手ナポレオンもロシヤに対しては遂に決戦戦争を強いる事が出来なかった。
露国が偉いのではない。国が広いためである。
ナポレオンは決戦戦争の名手で数回の戦争に赫々たる戦果を挙げ全欧州大陸を風靡したが、
海を隔てたしかも僅か30里のドーバー海峡のため英国との戦争は10年余の持久戦争となったのである。
但しこれはむしろ2項の原因となるべき点が多いが、
その何れにしろ、日本はソ連に対しては決戦戦争の可能性が甚だ乏しい。
広大なるアジアの諸国間に欧州に於けるように決戦戦争の可能性の少なかった事は
アジアの民族性にも相当の影響を与えたものと私は信ずるものである。
以上の原因の中3項は時代性と見るべきでない。
ただし時代の進歩とともに決戦戦争可能の範囲が逐次拡大せらるる事は当然であり、
前述の如く一根拠地の武力が全世界を制圧し得るまでに文明の進歩せる時、
すなわち世界統一の可能性が生ずる時である。
1項は一般文化と密に関係があり、
2項は主として武器、築城に依って制約せらるる問題であって、
歴史的時代性とやはり密な関係がある。
以上綜合的に考える時は決戦戦争、持久戦争必ずしも時代性があると云えない点があり、
同一時代に於てもある地方には決戦戦争が行なわれある地方には持久戦争が行なわれた事があるが、
大観すれば両戦争は時代的に交互に現われて来るものと認むべきである。
殊に強国相隣接し国土の広さも手頃であり、
しかも覇道文明のため戦争の本場である欧州に於てはこの関係が最も良く現われている。
決戦戦争では戦争目的達成まで殲滅戦略を徹底するのであるが、
各種の事情で殲滅戦略の徹底をなし難く、
攻勢の終末点に達する時戦争は持久戦争となる。
持久戦争でも為し得る限り殲滅戦略で敵に大衝撃を与えて戦争の決を求めんと努力すべきであるが、
かならずしも常に左様にばかりあり得ないで、
消耗戦略に依り会戦によって敵を打撃する方法の外、
或いは機動ないし小戦に依って敵の後方を攪乱し敵を後退せしめて土地を占領する方法を用いるのである。
すなわち会戦を主とするか、機動を主とするかの大略二つの方向を取るのであるが、
それは一に持久戦争に於ける武力の価値に依って左右せられる。
すなわち持久戦争は統帥、政治の協調に微妙な関係がある如く、
戦略に於ても特に会戦に重きを置き時に機動を主とする誠に変化多きものとなる。
第四節 欧州近世に放ける両戦争の消長
文明進歩し、
ほとんど同一文化の支配下に入った欧州の近世に於ては両戦争の消長と時代の関係が誠に明瞭である。
重複をいとわずフランス革命および欧州大戦を中心としてその関係を観察する事とする。
古代は国民皆兵であり、決戦戦争の色彩濃厚であったが、
ローマの全盛頃から傭兵に堕落し遂に中世の暗黒時代となった。
この時代の戦争は騎士戦であり、
ギリシャ、ローマ時代の整然たる戦法影を没し一騎打ちの時代となったのであるが、
ルネッサンスとともに火器の使用が騎士の没落を来たし、新しく戦術の発展を見た。
しかしいにしえの国民皆兵に還らずして傭兵時代となり、
戦争は大体持久戦争の傾向を取りフランス革命に及んだのである。
この時代の用兵術はフリードリヒ大王に於て発達の頂点に達し、
フリードリヒ大王は正しく持久戦争の名手であった。
三十年戦争(1618~48年)には会戦を見る事が多かったが、
ルイ14世初期のオランダ戦争(1672~78年)
及びファルツ戦争(1689~97年)に於てはその数甚だ少なかった。
スペイン王位継承戦争(1701~14年)には3回だけ大会戦があったけれども
戦争の運命に作用する事軽微であった。
またこの頃殲滅戦略を愛用したカール12世は作戦的には偉功を奏しつつも、
遂にピーター大帝の消耗戦略に敗れたのである。
かくてポーランド王位継承戦争(1733~38年)には全く会戦を見ず、
しかもその戦争の結果政治的形勢の変化は頗る大なるものがあった。
すなわちフリードリヒ大王即位(1740年)当時の用兵は持久戦争中の消耗戦略中、
甚だしく機動主義に傾いていたのである。
当時かくの如く持久戦争をなすの止むなき状況にあり、
しかも消耗戦略の機動主義すなわち戦争の最も陰性的傾向であったのは
政治的関係より生じた不健全なる軍制に在ったのであるが、
今少しくこれにつき観察して見よう。
1、傭兵制度
18世紀の戦争は結局君主が、
その所有物である傭兵軍隊を使用して自己の領土権利の争奪を行なった戦争である。
しかるに軍隊の建設維持には莫大な経費を要し、
兵は賃金のために軍務に服しているが故に逃亡の恐れ甚だしく、
しかも横隊戦術は会戦に依る損害極めて多大であった。
これらの関係から君主がその高価なる軍隊を愛惜するために会戦を回避せんとするは自然である。
また兵力も小さいため、遠大なる距離への侵入作戦は至難であった。
2、横隊戦術
横隊戦術は火器の使用により発達したのであるが、
依然火器の使用には大なる制限を受けるのみならず運動性を欠くことが甚だしかった。
しかしながら、専制的支配を必要とする傭兵であったため、
18世紀中には遂にこの横隊戦術から蝉脱せんだつする事が出来なかった。
主将は戦役(戦役とは戦争中の一時期で通常一カ年を指す)開始前
又は特別な事情の生じた時、
「会戦序列」を決定する。
この序列は行軍、陣営、会戦等の行動一般を律するものである。
会戦のためには、
その序列に従い、横広
(大王時代通常四列、プロイセンに於ては現に三列)に
並列した歩兵大隊を通常二戦列と、
両翼に騎兵を配置し、
当時効力未だ充分でなかった砲兵はこれを歩兵に分属して後方に控置したのである。
盲従的規律を要する傭兵には横隊を捨て難く、
しかも指揮機関の不充分はかくの如き形式的決定を必要としたのであるが、
行軍よりかくの如き隊形に開進し、
会戦準備を整うる事は既に容易の業でなく、
またかくの如き長大なる密集隊形の行動に適する戦場は必ずしも多くなく、
かつ開進後の整いたる運動は平時の演習に於てすら非常な技術を要する。
敵火の下ではたちまち混乱に陥ることは明らかであり、
また地形の影響を受くる事は極めて大きい。
殊に前進と射撃との関係を律する事は殆んど不可能に近い。
すなわち一度停止して射撃を始める時は最早整然と発進せしむる事は云うべくして行ない難い。
砲兵の威力は頼むに足らない。
以上の諸件は攻撃の威力を甚だしく小ならしむるものである。
すなわち一方軍が会戦の意志なく、
地形を利用して陣地を占領する時は攻撃の強行は至難であった。
又たとい敵を撃退せる場合に於ても軽挙追撃して隊伍を紊みだる時は、
敗者のなお所有する集結せる兵力のため反撃せらるる危険甚大で、
追撃は通常行なわれず、
徹底的な戦捷の効果は求め難かった。
3、倉庫給養
三十年戦争には徴発に依る事が多かったが、
そのため土地を荒し、
人民は逃亡したり抵抗したりするに至って作戦に甚だしい妨害をしたのである。
それ以来反動として極端に住民を愛護し、馬糧以外は概して倉庫より給養する事となった。
傭兵の逃亡を防ぐためにも給養は良くしなければならないし、
徴発のため兵を分散する事は危険でもあり、
殊に三十年戦争頃に比し兵が増加したため、
到底貧困な地方の物資のみでは給養が出来なくなった。
そこで作戦を行なう前に適当の位置に倉庫を準備し、
軍隊がその倉庫を距たること3、4日行程に至る時は更に新倉庫を設備してその充実を待たねばならぬ。
敵の奇襲に対し倉庫の掩護は容易ならぬ大問題であった。
4、道路及び要塞
欧州道路の改善は18世紀の後半期以後急速に行なわれたもので、
ナポレオンは相当の良道を利用し得たけれども、
フリードリヒ大王当時は幅は広いが
(軍隊は広正面にて前進し得た)
ほとんど構築せられない道路のみで物資の追送には殊に大なる困難を嘗なめた。
水路はこれがため極めて大なる価値があり
要塞攻撃材料の輸送等は川に依らねばほとんど不可能に近い有様で、
エルベ、オーデル両河は大王の作戦に重大関係がある。
17世紀ボーバン等の大家が出て築城が発達し、
各国が国境附近に設けた要塞は運動性に乏しかった軍の行動を掣肘する事極めて大きかった。
以上の諸事情に依って戦争に於ける武力の価値は低く、
持久戦争中でも消耗戦略の機動主義に傾くは自然と云うべきである。
当時の戦争の景況を簡単に説明する事にしよう。
一国の戦争計画は先ず第一に外交に重きを置き、
戦役計画の立案も政治上の顧慮を重視して作戦目標および作戦路を決定し、
その作戦実施を将軍に命令する。
攻勢作戦を行なわんとせば先ず巧みに倉庫を設備する。
倉庫は作戦を迅速にするためなるべく敵地に近く設くるを有利とするも、
我が企図を暴露せざるためには適当に撤退せしめねばならない。
準備成り敵地に侵入した軍は敵軍と遭遇せば、
特に有利な場合でなければ決戦を行なう事なく、
機動に依り敵を圧迫する事に勉める。
会戦を行なうためには政府の指示に依るを通例とする。
両軍相対峙するに至れば互に小部隊を支分して小戦に依り敵の背後連絡線を遮断し、
また倉庫を奪い、
戦わずして敵を退却せしむる事に努力する。
敵の要塞に対してはその守備兵を他に牽制し、
要すれば正攻法に依りこれを攻略する。
作戦路上にある要塞を放置して遠く作戦を為す事はほとんど不可能とせられた。
かくして逐次その占領地を拡大して敵の中心に迫り、
この間外交その他あらゆる手段に依り敵を屈伏して有利な講和をすることに勉める。
両軍、要地に兵力を分散しているのであるから
一点に兵力を集中してそこを突破すれば良いように考えられるが、
突破しても爾後の突進力を欠き、
却かえって背後を敵に脅かされて後退の余儀なきに至り、
ややもすればその後退の際大なる危険に陥るのである。
1744年第二シュレージエン戦争に於てベーメンに突進したフリードリヒ大王が、
敵の巧妙な機動戦略のため一回の会戦をも交える事なく
甚大の損害を蒙って本国に退却した如きはその最も良き一例である。
1812年ナポレオンのロシヤ遠征はこれと同一原理に基づく失敗であり、
この種の戦争では遊撃戦(すなわち小戦)の価値が極めて大きい。
作戦は通常冬期に至れば休止し、
軍隊を広地域に宿営せしめて哨兵線をもって警戒し、
この期間を利用して補充、教育その他次回戦役の準備をする。
時に冬期作戦を行なう事あるもそれは特殊の事情からするもので、
冬期作戦に依る損害は通常甚だ大きい。
故に一度敵地を占領して要塞、河川、山地等のよき掩護を欠く時は冬期その地方を撤退、
安全地帯に冬営するのが通常である。
ナポレオン以後の戦争のみを研究した人にはなかなか想像もつかない点が多いのである。
しかしこの事情をよく頭に入れて置かねばフランス革命の軍事的意義、
ナポレオンの偉大さが判らないのである。
【続く】 『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第二章 戦争指導要領の変化 第五説 フリードリヒ大王の戦争