石原莞爾『最終戦争論』
第一部 最終戦争論
第六章 結び
今までお話して来たことを総合的に考えますと、
軍事的に見ましても、政治史の大勢から見ましても、
また科学、産業の進歩から見ましても、
信仰の上から見ましても、
人類の前史は将に終ろうとしていることは確実であり、
その年代は数十年後に切迫していると見なければならないと思うのであります。
今は人類の歴史で空前絶後の重大な時期であります。
世の中には、
この支那事変を非常時と思って、
これが終れは和やかな時代が来ると考えている人が今日もまだ相当にあるようです。
そんな小っぽけな変革ではありません。
昔は革命と革命との間には相当に長い非非常時、即ち常時があったのです。
フランス革命から第一次欧州大戦の間も、一時はかなり世の中が和やかでありました。
第一次欧州大戦以後の革命時は、まだ安定しておりません。
しかしこの革命が終ると引きつづき次の大変局、
即ち人類の最後の大決勝戦が来る。
今日の非常時は次の超非常時と隣り合わせであります。
今後数十年の間は人類の歴史が根本的に変化するところの最も重大な時期であります。
この事を国民が認識すれば、
余りむずかしい方法を用いなくても自然に精神総動員はできると私は考えます。
東亜が仮に準決勝に残り得るとして誰と戦うか。
私は先に米州じゃないかと想像しました。
しかし、よく皆さんに了解して戴きたいことがあるのです。
今は国と国との戦争は多く自分の国の利益のために戦うものと思っております。
今日、日本とアメリカは睨み合いであります。
あるいは戦争になるかも知れません。
かれらから見れば蘭印を日本に独占されては困ると考え、
日本から言えば何だアメリカは自分勝手のモンロー主義を振り廻しながら
東亜の安定に口を入れるとは怪しからぬというわけで、
多くは利害関係の戦争でありましょう。
私はそんな戦争を、かれこれ言っているのでありません。
世界の決勝戦というのは、そんな利害だけの問題ではないのです。
世界人類の本当に長い間の共通のあこがれであった世界の統一、
永遠の平和を達成するには、
なるべく戦争などという乱暴な、残忍なことをしないで、
刃やいばに※ちぬ[#「衄のへん+絆のつくり」、U+8845、62-12]らずして、
そういう時代の招来されることを熱望するのであり、
それが、われわれの日夜の祈りであります。
しかしどうも遺憾ながら人間は、あまりに不完全です。
理屈のやり合いや道徳談義だけでは、この大事業は、やれないらしいのです。
世界に残された最後の選手権を持つ者が、
最も真面目に最も真剣に戦って、
その勝負によって初めて世界統一の指導原理が確立されるでしょう。
だから数十年後に迎えなければならないと私たちが考えている戦争は、
全人類の永遠の平和を実現するための、やむを得ない大犠牲であります。
われわれが仮にヨーロッパの組とか、
あるいは米州の組と決勝戦をやることになっても、
断じて、かれらを憎み、かれらと利害を争うのでありません。
恐るべき惨虐行為が行なわれるのですが、
根本の精神は武道大会に両方の選士が出て来て一生懸命にやるのと同じことであります。
人類文明の帰着点は、
われわれが全能力を発揮して正しく堂々と争うことによって、
神の審判を受けるのです。
東洋人、特に日本人としては絶えずこの気持を正しく持ち、
いやしくも敵を侮辱するとか、
敵を憎むとかいうことは絶対にやるべからざることで、
敵を十分に尊敬し敬意を持って堂々と戦わなければなりません。
ある人がこう言うのです。
君の言うことは本当らしい、
本当らしいから余り言いふらすな、
向こうが準備するからコッソリやれと。
これでは東亜の男子、日本男子ではない。
東方道義ではない。
断じて皇道ではありません。
よろしい、準備をさせよう、
向こうも十分に準備をやれ、
こっちも準備をやり、
堂々たる戦いをやらなければならぬ。
こう思うのであります。
しかし断わって置かなければならないのは、
こういう時代の大きな意義を一日でも早く達観し得る聡明な民族、
聡明な国民が結局、
世界の優者たるべき本質を持っているということです。
その見地から私は、
昭和維新の大目的を達成するために、
この大きな時代の精神を一日も速やかに全日本国民と全東亜民族に了解させることが、
私たちの最も大事な仕事であると確信するものであります。
【続く】 石原莞爾『最終戦争』 第二部 質疑応答 第一問~第五問