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とうとよ/清貧の独り言。

線の違いについて。

2005年01月24日 21時42分34秒 | 囲碁
再びこの画像。

先日書いた、5手目割り打ちについての記事にDEEPERさんよりコメントをいただきました。

コメントによれば、この場合の割り打ちは、D10の4線よりも、C10の3線の方が一般的であるということでした。

この3線と4線の違い、私も考えていなかった訳ではなく、一応私なりに考えた上で4線に打っておりました。
3線ではどうなのかを試すために、1局3線で打ってみた対局も、以前ここで紹介したことがあります。


線の違いの意味を考えるのに、解りやすいのは、「初手の位置の違い」の例でしょう。

囲碁の初手は、多くの場合4つの隅の星に近い場所に打たれます。
中には天元や、それ以外のいろいろな場所に打つ手もありますが、やはり隅から打たれるが多い。

その隅に打つ手には、「三々」「小目」「星」などの打ち方があります。
そして、それぞれの手にはきちんと意味が存在します。

線の違いの意味を考えるときに参考になるのが、「三々」「星」そして「5の5」の意味の違いでしょう。
この3つの手は、ちょうど同じ高さの線の交点に打つので、「その手の意味」=「その線の意味」に近いと思うのです。


3線に打つ「三々」は地に辛い手。
隅に対して強く働きますが、反面、中央への働きは弱い。

5線に打つ「5の5」は勢力の手。
中央に対しての働きは強いが、この手では隅を地にすることはできない。

そして、4線に打つ「星」はその中間の手。
中央への働きもあり、また隅に関しても、それなりに働いている。

星はどっちかというと中央へ目が向いているのでしょうか。
本当にバランスでいくなら「小目」なのかもしれません。
まあ、しかし、「5の5」に比べればどちらも見たバランスの手ということもできるはずです。

私は今のところ、この3つの手を意味をこのように理解しています。
いろいろ間違ってるようなところもあるかもしれませんが。


さて、話を割り打ちに戻します。
この割り打ちの場合にも、その3つの手の考え方を流用することができます。

つまり、割り打ちから辺を地にしたいのなら3線。
割り打ちから中央に進出したいなら5線。
そして場合によってどちらでもと言うなら4線。

私はそういう風に考えています。


DEEPERさんのコメントによれば、3線が一般的であるとのこと。
それは何故なのか。
私なりに考えてみました。

もともと、この5手目の割り打ちは、「相手の地が大きくなりにくいように、先に打っておく」という手です。
相手の地が大きくなりにくいのは間違いないのですが、同じく、自分の地もあまり大きくなりません。
それでも、少しでも打ち込んだ辺が地になりやすくなるように、地に辛い3線が一般的なのでしょう。

地に辛いということは、根拠も得やすいということですから、割り打ちした石が危険に晒される可能性も低くなります。


私がこの5手目の割り打ちを考えたときにも、それは考えていました。
しかし、それでも私は4線に打つことにしました。

それはやはり、この手の目的が、「相手の大模様を阻止する」という目的だから。
別にそこを地にしたいわけではありません。

私はどちらかというと、隅や辺よりも、中央が好きな人間みたいなので、辺が地にならなくても、中央に向かっての手助けになればそれで良いと考えているのです。

もちろん、普通に辺が地になれば、それはそれでも良いと考えているのですが。


これが中途半端なのか、臨機応変なのかはよく分りません。
ただ、私のその後の打ち方がまずくて、結果的に中途半端になってしまうことはよくあるように思います。


以上。
線の違いについての私の考え方でした。

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3 コメント

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Unknown (DEEPER)
2005-01-25 00:30:55
解釈はまったく問題ないと思います。

三線に割り打つことで根拠を得ることができる、というのが一番の理由ですね。

四線に割り打つと、すぐに根拠を得ることが難しいので。

中央指向ということなので、四線に割り打った石が役立つような打ち方をしないといけないですね。

とても難しいですが、頑張ってください。

気が向いたら三線も試したり、いろいろどうぞ。
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石を活かす。 (とうとよ)
2005-01-25 00:52:23
>中央指向ということなので、四線に割り打った石が役立つような打ち方をしないといけないですね。



そうですね。

3線に打つ場合でも、4線に打つ場合でも、それ以外のどんな手であっても、その後、その手をの意思を継承した手が打てなければなんにもならないのだと思います。



打った石の顔を立てる手を打てるように、さらなる研究が必要なのでしょう。





今の私は、まだまだ自分の手の意味を、自分でも掴み損ねている状態です。

この意味を掴み、意思のはっきりした手が打てるようになるには、やはり対局を重ねていくしかないのでしょうね。
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うーむ。 (とうとよ)
2005-01-25 00:53:25
「掴み損ねている」というよりも、「掴みかねている」といった方が適当か。



自分で打った手なのに、その後どうして良いやら分らなくなる場合があるのですよね…。
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