
先月に続いて、もっとも南に傾いた月を狙って山へ。
結果から先に言うと、またしても思惑は二転三転しながら見事ズッコケた。
山の天候は雨のち霧そして日没直前になって、瞬く間に一気に視界が開けて晴れ。
う~ん、冬期の狙ったところにピタリとハマるような風景との幸運な出会いを思うと
この確率の悪さは、やっぱり集中力(風景への拘り)の差なのだろうか?
(「石鎚山の四季」 compilation vol.3 星の囁き月の声の7枚目「夕靄の月の出」と較べてほしい)
いかにも淡泊になった…
月の出がダメなら月の入りでと気持ちを切り替えた。
これも夜半から雲が広がり月の入り時刻の午前4時過ぎには厚い雲に覆われる始末。
始末の悪いことに、その後日の出の時刻になると晴れ間が広がるという間の悪さ。
狙ったところをピタリと外す間の悪さは、意地が悪いくらいの高い確率で当たる(苦笑)
でも、それをあまり悔しいと思わないところが、余計に問題なのだろう?
(被写体に対する拘りが哀しいくらい淡泊になった)
夜、山のてんっぺんに張ったテントの中で読み始めた本が止まらなくなった。
この本は2度目の再読になる。
なぜ単行本で読んでいるのに文庫をもう一度買ったのだろう?
文庫を買ってからも、もう一度読もうとはしなかった本(実は400頁超の分厚さ)
それを、何気に山で読む本としてザックに放り込んだ。
これが山の闇のなかで、パラパラとページをめくった物語の導入部からググッと深く入り込んでしまった。
ホトトギスの甲高くて単調に響く夜の声とトラツグミの昏い闇の底でくぐもるような不気味な囀りが通奏低音。
10代の頃の音楽に心を奪われたときめき感と、あの時代の息吹が琴線を震わせ共振する。
例えば読み始めてから13ページ目で出会った、この文章。
>>流行りの音楽というと歌謡曲だったこの時代、FM放送はそれ以外の音楽を博物館的に紹介していた。
ロック、ポップス、ソウル、カントリー&ウェスタン、シャンソン、ハワイアン、ディキシーランド、
クロスオーバーやフュージョン、クラッシック、現代音楽に民族音楽ー。
ビ・バップもレゲエもテクノポップもミニマルミュージックも、僕はFMで知った。
音楽の時代だった。あらゆる音楽が今より高価で、気高く、目映(まばゆ)かった。<<
結局、明け方近くまで読み続け、何度か夜気に滲むような朧月を確認し、夜明けを迎え。
短く微睡むなかで、奇怪なフェリーニの映画やツゴイネルワイゼンのような夢を見た。
赤々と空を焦がす山の夜明けをやり過ごし、尚も本を読み続け、爽やかに初夏の山は朝の光に包まれる。
すっかり太陽が昇った山のてっぺんで、幾度か短いうたた寝を繰り返しながら本の世界とうつつが交差する。
仕事を辞めた。
この暮らしにケジメをつけることにした。
両親を見送り、残りの時間…さて、どう生きようか?
ある映画のなかで主人公が老人に、こう尋ねる。
「50歳から85 歳は、長いですか?」
老人は、しばし間を置き応える。
「長いよ~」
先程から日食グラス片手に先月の憂さ晴らし
今夜夜勤勤務の為、この晴天をどう生かすか(主婦業ですよ)
被写体に向かう心・・・
確かに私もそう、以前の様な何が何でもと入念な下見や天気図とのにらめっこに情報収集とそれはもう神経すり減らしての云わば戦いの様なもの
それが今はのんびりゆらゆら・・・
先日送った画像の綿毛の如く、休日は美味しい空気をおかずに(これが実に旨い!)草原に寝転びます
今の仕事を選んだのは今まで歩いてきた路、自分への戒めの様なもの
今度ゆっくりお話し出来ればと思います
スケール感の大きい天体現象をからめた風景写真は、なかなか思うように撮れませんね。
それよりも森を主題にした馴染みの風景の方が、自分自身もリラックスできて上手く撮れるような気がします。
今回も後半の写真の方が、観ていて和むでしょう?
来週は予定通り、津守さん夫妻が参加します。
ホッホさんは、やっぱり無理みたい。
ゆっくり森歩きしながらお話しましょう。
本当に緑の美しい季節です。
そして生命の源は、この美しい森です。
色々、考えました。
やっぱり、私の目指すところは、この森の風景だと実感しています。
たぶん、この機会に私にとって憧れの風景である、東北の森を訪ねようと考えています。
ボランティアは私の柄じゃない。
雨の季節の森は、また一段と美しいでしょうね。
どんな形であれ、東北を訪れないことには前に進めそうもありません。
こうしなければ・・・、こうやりたいと思っていた気持ちが、今ではあれがいけなければ、これでもいい。ずいぶんと、こんな思いになることが多くなりました。
森の姿や夜の山には、やはり心落ち着きます。いくらきれいな花があっても、森の緑には適わないような気がします。四国の森でも良いのですが、東北の森を楽しみにしています。