何を見ているのだろう?
同じものを見ているはずなのに、こんなに違う。
きっと、それは光の入り方で、色彩の温度差が目を見張るほど異なる表情を見せてくれるからだろう。
それを意識的に試してみた。
黄昏の光はマジックだ。
でも、あっと云う間に光は影の領域に沈んでしまい、
一時も同じ光景を保ってくれない。
写真は一瞬の光を切り取る。
視線が捉えた光の結晶体を見逃すと、
もう二度と巡り会うことが叶わない。
だからこそ、それは美しいのでしょうね。
何を見ているのだろう?
同じものを見ているはずなのに、こんなに違う。
きっと、それは光の入り方で、色彩の温度差が目を見張るほど異なる表情を見せてくれるからだろう。
それを意識的に試してみた。
黄昏の光はマジックだ。
でも、あっと云う間に光は影の領域に沈んでしまい、
一時も同じ光景を保ってくれない。
写真は一瞬の光を切り取る。
視線が捉えた光の結晶体を見逃すと、
もう二度と巡り会うことが叶わない。
だからこそ、それは美しいのでしょうね。
光の三部作で光線と写真の関係がよく分かりました。
分かることと映し出す技術とはかけ離れていますが・・・
秋桜、薄という言葉に太宰を思い出します。
彼の作品メモに「ア、秋」があります。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/236_19996.html
幸福な錯覚を皆に抱かせるからだと云われています。
「ア、秋」初めて読みました。
ここに自分のことが書かれていると思いました(笑)
思春期の頃、文学少年少女たちが麻疹のように患う太宰病に不思議と罹りませんでした。
14,5歳の頃に患ったのは、福永武彦の「草の花」や「廃市」、「海市」の透き通るような儚い世界への憧れでした。
そう云えば、鬼城さんもお好きな尾道三部作の大林宣彦監督も福永武彦の「廃市」を映画化していましたね。
思春期の頃、結晶化した美しい世界が崩れるのが怖いので、まだDVDは観ていません(笑)
どうも秋という季節は、柄にもなくオジサンを感傷的にします(汗)
四季で最も好きなのが秋
心うかれるのも良いとして
すっと心の中を風が通り過ぎる時間が愛おしく思う
夕暮れの光は一瞬のマジック
それを素早く切りとるのは熟練の腕と感性でしょうね
今回もお見事です
misaは雨音を聞きながらママレード作りでした
唯、それは光の当たり方で、まったく見え方が異なってきます。
misaさんは、もちろん御存知でしょうが、それを見つけるのは私たちの心の有様です。
結局、映し出された写真は、その時の心情を見事に反映しています。
前々回の記事のコメント欄でホッホさんとのやり取りの中で、
表現とは、あらかじめ素材の中に在るものを掘り出すだけだという記述は、そういうことです。
でも偉大なアーチストの魂を削り出すような創作と較べれば、
なんとも恥ずかしい、中途半端な対象への向かい方です。
この日も、また向かい風だったとはいえ、目的場所に到着した時には、
もう陽は西に大きく傾いて、あっと云う間に撮影チャンスは終わってしまいました(汗)
森羅万象、すべての事物は、じっとしていません。
常に動いているし、変化し続けています。
止まっているのは?
そのように見えるのは、人の頭の中で作られた(認識された)情報だけです。
言葉も絵画も写真も、人の頭の中で創造され共有されている情報の、ひとつの形態です。
なぁ~んてね(笑)
ホッホさんのFB仲間には、こういう話題が受けてたね。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161029/k10010748881000.html
もっともディランはグラミー賞やアカデミー賞の他に、その詩によってピューリッツアー賞も受賞していますからね。
素直に受賞の喜びを表現しないけど、拒否はしていませんよね。
12月の授賞式には出席するのでしょう。
デイランの好々爺はないでしょう(笑)
あの、すっとぼけた爺さんが好々爺なら、
キース・リチャーズだって「健康のためにドラッグやめました」って宣言しちゃいます。
FBは仲間内の褒め殺しの世界だから、あんまりそれに依存しないようにね。