リベラルアーツ

2024年04月18日 09時05分10秒 | 社会・文化・政治・経済
バランスの取れた人間の育成が期待されるのに、「大学はもっと社会に役立つ人材、即戦力をだすべきだ」との声が強まった。
その流れで、教養が軽視されていった。
幅広い教養がなければ、怪しげな宗教に引っかかってしまう。
また、「生きる意味が」希釈(薄められる)されていくことにもなる。
学生をターゲットにするカルト宗教も増えている。
一方、若者たちは、どのように生きていけばいいのか、何で生きているのか自分の存在する根拠が希薄なっている。
そもそも社会に役立つとは何を意味するのか。
指示待ちでおとなし、優等生だけど迫力がない。
自分の中から発していく活気ある若者が減っている。
つまり「志」がないのだ。
その「志」を育むのがリベラルアーツである。
そこには「現代社会で果たして人間は自由なのか?」という強い問いかけがある。
成績ばかり気にしている学生が増えている。
どうやったらいい点数がとれるかをそんたくしている。
それでは、評価システムの奴隷であり、イノベーションや新たな時代の創造は期待できない。
リベラルアーツは、単なる教養ではなく「自由への道」なのだ。
次世代のイノベーター(革新者)が期待されている。
教育では批判的思考がたりない。
物事をうのみにせず、まず疑って自分の頭で考えてみる。
今は人の顔を見て行動する学生が増えている。
「個性」というのが、くせものだ。
成績がよかったり、お金を生み出したりするような「役に立つ」個性が偏重される。
今の世の中は、金を使って遊べがいいという時代に突入している。
本来、若者には無限の可能性があるのに、評価システムの奴隷になってしまっている。
 
 
リベラル・アーツ(英語: liberal arts, ラテン語: artēs līberālēs)は、『大学事典』で自由な知的探究のためのディシプリンの総称とされている[1]。
(「ディシプリン」は規律・統制・学科などを指す[2]。) 
リベラル・アーツは「自由学芸」や「教養諸学」とも呼ばれており[1]、学術論文では自由人の諸技術とも表記される[3][4]。
 
リベラル・アーツは「実用的な目的から離れた純粋な教養」や「一般教養」とも[5]、または人文学・芸術・自然科学・社会科学などの分野の基礎知識を横断的に学ぶプログラムともされる[6]。
その語源や由来は、古代ギリシア・ローマ文化を受け継ぐ中世ヨーロッパが生んだ「セブン・リベラル・アーツ」(=自由七科)であり[7]、さらに古くはラテン語の「アルス」(=技術知)および「アルテス・リベラレス」(=自由学芸)[8][1]、古代ギリシア語の「テクネー」(=技術知)および「エンキュクリオス・パイデイア」(=円環的教養)だとされている[8][1]。
 
現代のリベラル・アーツ
 
「リベラル・アーツ・カレッジ」および「教養学部」も参照
 
現代英語としてリベラル・アーツ(liberal arts)は「一般教養科目」や「学芸,文芸」や「人文科学」を指す[9]。
『大学事典』によれば近代以降、リベラル・アーツは主に中等教育で扱われるようになり、大学では稀(まれ)だという[1]。
アメリカ合衆国においてリベラル・アーツは、リベラル・アーツ・カレッジや伝統的な私立大学の理念として続いているが、20世紀中頃からはむしろ市民統合のための「ジェネラル・エデュケーション」(一般教育)が試みられている[1]。
 
前掲書は自由人のたしなみか,それとも解放のための技芸かという,リベラルアーツがその起源から抱える問題は,現代においてもなお解決されてはいないと締めくくっている[1]。
 
大学による定義
 
国際基督教大学はリベラル・アーツについて、米国カレッジ・大学協会(AAC&U)による以下の定義を引用している[10]。
 
個人の能力を開花させ、困難や多様性、変化へ対応する力を身につけさせ、科学や文化、社会などの幅広い知識とともに、より深い専門知識を習得させるための学習方法
 
同協会元理事のレベッカ・チョップいわく、リベラル・アーツでは次の三要素の育成が重視されている[10]。
 
クリティカル・シンキング:分析・探求・回答のための論理的意見の形成に必要であり、分野としては人文学・芸術・心理学・数学・科学など幅広い。
道徳心・市民性:課外や地域社会での活動、キャンパスにおける他学生や教員との交流による人間性の育成。
知識の汎用性:キャンパス内外での経験を統合し、授業で得た知識の汎用性を高め、多面的に諸問題を議論する。
 
2023年の北コロラド大学とネブラスカ大学によれば、リベラル・アーツという分野が教育しているのは人文学、社会科学および「市場向きの技能」[11]や「仕事に活かせる必須の実用的技能」である[12][注釈 1][注釈 2]。
 
その他
 
一方で「StudyInTheUSA」と「ベネッセ海外進学・留学ラボ」によれば、リベラル・アーツとは、特定の職業に直結するような専門知識・スキルよりも「幅広い教養を身につけ、将来さまざまな分野で活躍できるような高い教養を有するバランスの取れた人間の育成[注釈 3]」に重点が置かれ、細かな専門分野を定めずに、さまざまな分野で幅広い選択肢を提供する学問領域である[13][14]。
 
リベラル・アーツ・カレッジの学際性[編集]
 
リベラル・アーツ・カレッジの場合、入学時に専攻を決める必要はなく、1年目・2年目は自分の好きな科目を履修し、様々な分野を学び、3年次までに専攻をするが、一度決定した後も、専攻は変更することが出来る。
 
専攻を決定後も、引き続き、自分の好きな授業を履修できる点や、自分の専攻テーマに対する学際的なアプローチ(ビジネスを専攻した場合、ビジネス理論だけでなく歴史や科学などの視点からの考察も出来るなど)が可能になる点も特徴である。
 
ダブルメジャー(まったく異なる2つの専攻を学ぶ)や、ダブルディグリー(2つの学位を取得できる)の制度を採用している学校もある[14] [15]。
 
古代ギリシア・ローマ~現代までの歴史[編集]
概史[編集]
 
『大学事典』によると古代ギリシアの自由人は、「さまざまなアーツ(学芸)を学んでパイデイア(教養)を身につけようとした」[1]。それらアーツは「エンキュクリオス・パイデイア」(円環をなす教養)と呼ばれ、古代ローマではキケロやウァロによって「アルテス・リベラレス」(リベラル・アーツ=自由人に相応しい諸学芸)と呼ばれ、リベラル・アーツは西欧近代における人文学的教養の基盤となった[1]。
 
「アーツ」、「テクネー(技術知)」、および「古代ギリシア・ローマ世界」も参照
 
なお、ギリシア語の「テクネー」(technē)はラテン語の「アルス」(ars)に相当する[16](アルスは「アルテス」の単数形[8])。プラトン哲学やアリストテレス哲学では、技術(テクネー)は次のようにも言われている[17][18][19]。
 
《本質についての理論的知識(ロゴス)を持つ働き》[17]
《知識 エピステーメー》と同義[18][19]
《真の理知(ロゴス)を伴う制作能力》[17]
《学問的かつ経験的で普遍的かつ個別的な真理認識の能力》[17]
 
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で、こう述べている[20]。
 
実際、真に善き人や思慮深い人とは、あらゆる運不運に立派に耐え、与えられた状況のもとにそのつど最善のことを為す人だとわれわれは思っている。
それはちょうど、すぐれた将軍がいまある軍隊をもっともうまく戦えるように用いたり、すぐれた革職人が与えられた革からもっともできの良い履き物を作ったりすることと同じである。そして、同じことがほかのあらゆる技術にも当てはまる。[20][注釈 4]
 
デルフト工科大学の技術哲学者かつ元建築家であるジョン・R・デイカーズ[24]の著書は、アーツ、リベラル・アーツ、テクノロジーなどの歴史的経緯を次のようにまとめている[8][25][注釈 5]。
 
リベラル・アーツの由来と近代化
時代区分 用語や概念 伝統的な哲学の言説
古代ギリシア
テクネー(技術知)
テクネーに関する言説
古代ローマ
アルス(技術知)/テクネー
アルス/テクネーに関する言説
 
アルテス・リベラレス(自由学芸)
アルテス・メカニケー(機械学芸)
 
中世~近世ヨーロッパ
アート(学芸/技術/芸術)/アルス/テクネー
アート/アルス/テクネーに関する言説
 
アルテス・リベラレス/リベラル・アーツ(自由学芸)
アルテス・メカニケー/メカニカル・アーツ(機械学芸)
アーティフィシャル(人工的)
アートフル(アーツ(リベラル・アーツ)に精通した/熟練した/芸術的な)[注釈 6]
 
近代(19世紀)以降
リベラル・アーツ(自由学芸)
テクノロジー(技術学/科学技術)
アーティフィシャル(人工的)
アート(純粋芸術/ファインアート)
アートフル(巧妙な/悪賢い/狡猾な/技巧的な)[注釈 7]
縮小・終了
(専門化・分業化による近代的な自然科学、社会科学、人文科学の誕生と拡大)
歴史[編集]
 
人文学者の半田智久の学術論文によると、リベラル・アーツはしばしば、職業的な学びや教育とは異なる「実用性から自由になった学芸」と解釈されており、それとの比較で「技術知」(テクネー)は奴隷的技能ともされる[28]。しかしリベラル・アーツの誕生経緯を見れば、もとは様々な実学が「自由」な方法でリベラル・アーツに含まれていた様子がある、と半田は言う[28]。
 
ソクラテスやプラトンも、靴作りの技術を数論・弁論と並べて語る等の「自由性」を見せていた[28][注釈 8]。奴隷的技能(技術知)に関しては、古代ローマの特徴として奴隷身分は解放される道筋があり、解放奴隷は哲学者や偉大な軍人や政治家となって後世に名を残したという「自由度」があった[28]。すなわち「ラテン的な実学を、知を愛し求める一線に連ねてしまう自由こそがもともとのリベラルアーツ」だったと半田は言う[28]。
 
半田によると、「リベラル・アーツ」の語源は古代ローマ(共和制ローマ)のラテン語で、端的にはアルテス・リベラレス(artes liberales)である[32]。リベラル・アーツという語句について──厳密にはその語源に相当する「自由人にふさわしい諸学芸」(artes, quae sunt libero dignae)や「自由学問」(doctrina liberalis)について──最初に論じた古代ローマの学者としては、キケロ、ウァロ、ウィトルウィウスなどが居た[33]。彼らは同時代人であり、特に「ローマ最大の学者」と言われるウァロは医術や建築をもリベラル・アーツに含めていた[32]。建築家ウィトルウィウスは、建築家になるために子供の頃から学ぶ必要のある学科目として、次を挙げている[33]。
 
文法[32]
絵画[32]
幾何[32]
算術[32]
歴史[32]
 
哲学(アルキメデスの導水のように、自然学を含む哲学[32])
音楽(優れた劇場建築[33]。投石機の弦に応用されている弦楽器の弦の張り方など[33])
医術(健康な空気・土地・水の利用[28])
法律(建築発注者との契約[28])
天文学(星々の運行と季節変化による、建築に必要な方位についての理解[28]。時計(日時計)の建造[28])
 
つまり古代ローマに生まれたリベラル・アーツは、工芸や美術をも含む広範な芸術と実学を併せ持つ「総合的な知の錬成」、「総合学術」であり、これがローマ帝国の象徴的な巨大建築を実現させた[28]。このようなリベラル・アーツは、ローマの繁栄と共にあった「自由さ」を、そしてその基礎であるパクス・コンソルティス(Pax Consortis 多国間協調による平和)を体現している、と半田は述べている[28]。
 
トーマス・アクィナス大学の哲学博士マイケル・オーグロスは[34]、学術教育団体「アーツ・オブ・リバティー Arts of Liberty」で、《技芸・生産・理数系学問を兼ね備えたリベラル・アーツ》という概念について述べている[35]。
 
幾何学と計算〔算術〕を「リベラル・アーツ」と呼ぶことは何を意味しているのか? 古代人たちの語彙では、「アート」(ラテン語でアルス、ギリシア語でテクネー)は科学と同様に、注意深く推論された知識を意味した。
しかしそれに加えて、「アート」は何かを産み出すための知識を意味した。「生産品〔成果〕」が無ければ「アート」も無い。
 
 
つまり、ある種の知識は「科学」ではあるが「アート」ではない、ということがあり得る。
例えばアリストテレスは、神についての研究〔the study of god〕を「科学」と考えた。「科学」は、明白な原則を元に厳密に推論された知識の体系であったが、「アート」ではなかった。何故なら「科学」は神々〔gods〕を作る方法も、神〔god〕に関して何かする方法もわれわれに教えなかったからである。 …
 
 
一方、幾何学は「アート」かつ「科学」であるのだ、これらの用語の古代的意味ではそうなる。
幾何学が「科学」である理由は、幾何学が明白かつ必然的な真理から出発して、その論理的結果を推論するからだ。それでいて、幾何学は「アート」でもある。何故なら幾何学は、特定の事物や構造をどうやって作るかを教えてくれるからだ。
われわれは、事物や構造を頭の中で形作る。それらを紙やコンピュータプログラムによって描き出すことは(一般的に便利だが)、必須ではない。にも関わらず、事物や構造はある種の精神的な「生産品」だ。 …
 
 
つまり幾何学はアートであり、かつ最も厳密な(そして古代的な)用語の意味での「科学」でもある。[35]
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