取手の野外ビアガーデン "ソニックガーデン" が開催

2016年08月25日 12時47分44秒 | 日記・断片
自由人も年金生活では、どうにもならない。
月額4600円、年間5万5200円の介護保険料が、年金から引かれている。
友人の大森さん(仮名)が、愚痴をこぼすのも理解できる。
「年金額なんか、人に言うんじゃないよ」と家人に釘をさされているが、この年金額では介護施設には入れないだろう。
生涯自由人は、健康長寿を貫くほかない。
毎日新聞を含め、新聞3紙、その他。
パソコン、携帯電話、コピー、インク代などもある。
家人のパートで何とか、酒も飲めるし、取手市内のイベントへも行ける。
明日は、
SONIC GARDEN(ソニック ガーデン2016)
日:8/26(金)・27(土)の2DAYSイベント!
取手の野外ビアガーデン "ソニックガーデン" が開催されます!
15:00~21:00
場所 リボンとりで脇の平面駐車場

時:15時~21時

巨大屋外ビアガーデン
人気の地元飲食店
8/26(金)は爆笑お笑いライブ!ものまね芸人来たる!
8/27(土)はダンスコンテスト開催!ただのコンテストじゃない?!取手を一番盛り上げるのは誰だ!


当日はイベントスタンプラリーを実施!
すべてのイベントに参加された方に対し記念品をプレゼント

駅前にぎわいフェスタ

~はーとランド♡取手with sonic garden~

ソニックガーデン
ボックスヒル取手
リボンとりで
JR取手駅


同時日開催(8/27(土))!とりで灯ろう流し
会場:利根川河川敷(常磐線鉄橋下 船乗り場)

17:00~受付開始

17:00~1部アトラクション(ジャズバンド演奏、フラダンス)

18:30~2部セレモニー 星あかり(ろうそく点火)

19:00~灯ろう流し 送り船

19:30~花火

(主催:とりで利根川灯ろう流し実行委員会)

取手イベント
2016/08/24
常磐線開業120周年記念 駅前にぎわいフェスタ 詳細情報!
2016/08/15
とりで灯ろう流し 8月27日(土)に開催します
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勝負に絶対はない!

2016年08月25日 12時16分27秒 | 未来予測研究会の掲示板
8月23日の小田原競輪開設記念
被災地支援 北条早雲杯争奪戦は3日目は荒れた。

1R 382 5万2310円
3R 947 25万7090円
4R 234 11万6990円
6R 859 23万1440円
10R 315 8万920円


利根輪太郎たちは前半戦の負けを10Rの準決勝で取り返すつもりであった。
宮元武蔵はどうしたのか2か月姿を見せない。
10Rは稲垣 裕之の表裏の3連単で勝負。
だが、まさかの3着。
3-9ラインの稲垣 裕之に、意外にも1-9ラインがイン粘り戦法。
そこまでは想定していなかった。
断然、1-9ラインが有利な展開となる。
3-9ラインの9番選手は飛ばされて後退。
3-1-9の展開となる。
3番をガードすべき9番がいなければ、3番は不利な展開に。
当然のように断トツの本命3番は3着に沈む。
ボックス車券を買っていたら取れたが、3番の3着はあり得ないと思い込んでいたのだ。

10R 準決勝
本命 稲垣 裕之 39 京都 86 3着
11R 準決勝
本命 武田 豊樹 42 茨城 88 5着
12R 準決勝
本命 新田 祐大 30 福島 4着
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本酒にコーラを入れて飲んでいる

2016年08月25日 11時39分21秒 | 日記・断片
80歳を過ぎた父親が、「日本酒が苦い。美味しくない」と言ったので、違和感を持った。
だが、現在の当方も同じ状態となり、日本酒を避けて、焼酎やリキュール酒を飲むようになる。
「日本酒が一番。他のアルコールを飲む人は、本当の酒飲みではない」などと言っていたので、「だから、人のことは言ってはダメ。
焼酎を悪く言う方が間違い」と家人に指摘され、返す言葉がない。
現在、日本酒200㍉に20ミリのコーラを入れて飲んでいる。
家人はコーラをよく飲む。
買い置きが2~3本。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

△▼厚生労働省▼△ 08月24日 19時 以降掲載

2016年08月25日 10時50分25秒 | 医科・歯科・介護
新着情報配信サービス

     

○ 政策分野

・麻しん・風しん
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224277

・ジカウイルス感染症の流行地域※1(2016年8月24日更新)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224279

○ 審議会等

・第44回先進医療技術審査部会(2016年7月14日)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224281

△▼厚生労働省▼△

新着情報配信サービス

      08月24日 10時 以降掲載

○ 報道発表

・原子力災害対策特別措置法第20条第2項の規定に基づく食品の出荷制限の解除(原子力災害対策本部長指示)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224237

・医薬品成分を含有する健康食品の発見について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224239

・第2回「地域高齢者等の健康支援を推進する配食事業の栄養管理の在り方検討会」の開催について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224241

・危険ドラッグの成分3物質を新たに指定薬物に指定~指定薬物等を定める省令を公布しました~
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224243

○ 政策分野

・予算
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224245

・「社内検定認定制度」ロゴマーク公募について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224247

・平成28年の労働災害発生状況(8月)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224249

・平成27年度 乳幼児栄養調査結果の概要
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224251

・薬物乱用防止に関する情報
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224253

○ 審議会等

・中央社会保険医療協議会 総会(第335回) 議事次第
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224255

・第39回労働政策審議会の開催について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224257

・第二回 地域医療構想に関するワーキンググループ
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224259

・薬事・食品衛生審議会 医薬品第一部会の開催について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224261

○ 統計情報

・平成27年雇用動向調査結果の概況
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224263

・介護保険事業状況報告(暫定)(平成28年5月分)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224265

・「人口動態統計速報」平成28年6月分
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224267

○ 採用情報

・○採用情報(総合職事務系)の更新
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224269

○ その他

・調達情報 新医療機器使用要件等基準策定業務(リードレスペースメーカ)(公募)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224271

・調達情報 食品に残留する農薬等の成分である物質(プロファム)の試験法開発事業一式
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224273

・調達情報 既存化学物質安全性点検に係る毒性調査業務 Decyloxirane (CAS No. 2855-19-8)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224275

△▼厚生労働省▼△

新着情報配信サービス

      08月23日 19時 以降掲載

○ 政策分野

・「社内検定認定制度」ロゴマーク公募について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224225

・ジカウイルス感染症について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224227

○ 審議会等

・中央社会保険医療協議会 薬価専門部会(第117回) 議事次第
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224229

・中央社会保険医療協議会 総会(第335回) 議事次第
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224231

・第3回がん検診受診率等に関するワーキンググループ(開催案内)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224233

・第6回アレルギー疾患対策推進協議会 議事録(2016年7月22日)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224235

△▼厚生労働省▼△

新着情報配信サービス

      08月23日 19時 以降掲載

○ 政策分野

・「社内検定認定制度」ロゴマーク公募について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224225

・ジカウイルス感染症について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224227

○ 審議会等

・中央社会保険医療協議会 薬価専門部会(第117回) 議事次第
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224229

・中央社会保険医療協議会 総会(第335回) 議事次第
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224231

・第3回がん検診受診率等に関するワーキンググループ(開催案内)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224233

・第6回アレルギー疾患対策推進協議会 議事録(2016年7月22日)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224235

△▼厚生労働省▼△

新着情報配信サービス

      08月23日 19時 以降掲載

○ 政策分野

・「社内検定認定制度」ロゴマーク公募について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224225

・ジカウイルス感染症について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224227

○ 審議会等

・中央社会保険医療協議会 薬価専門部会(第117回) 議事次第
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224229

・中央社会保険医療協議会 総会(第335回) 議事次第
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224231

・第3回がん検診受診率等に関するワーキンググループ(開催案内)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224233

・第6回アレルギー疾患対策推進協議会 議事録(2016年7月22日)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224235

△▼厚生労働省▼△

新着情報配信サービス

      08月23日 19時 以降掲載

○ 政策分野

・「社内検定認定制度」ロゴマーク公募について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224225

・ジカウイルス感染症について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224227

○ 審議会等

・中央社会保険医療協議会 薬価専門部会(第117回) 議事次第
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224229

・中央社会保険医療協議会 総会(第335回) 議事次第
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224231

・第3回がん検診受診率等に関するワーキンググループ(開催案内)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224233

・第6回アレルギー疾患対策推進協議会 議事録(2016年7月22日)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224235

△▼厚生労働省▼△

新着情報配信サービス

      08月23日 19時 以降掲載

○ 政策分野

・「社内検定認定制度」ロゴマーク公募について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224225

・ジカウイルス感染症について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224227

○ 審議会等

・中央社会保険医療協議会 薬価専門部会(第117回) 議事次第
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224229

・中央社会保険医療協議会 総会(第335回) 議事次第
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224231

・第3回がん検診受診率等に関するワーキンググループ(開催案内)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224233

・第6回アレルギー疾患対策推進協議会 議事録(2016年7月22日)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224235

△▼厚生労働省▼△

新着情報配信サービス

      08月23日 10時 以降掲載

○ 報道発表

・指定薬物を新たに3物質指定します~本日開催した指定薬物部会の審議結果~
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224195

・すべての都道府県で地域別最低賃金の改定額が答申されました~答申での全国加重平均額は昨年度から25円引上げの823円~
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224197

・今回初となる「働きやすく生産性の高い企業・職場表彰」を実施します本日から10月31日まで、生産性向上と雇用管理改善の両立に取り組む企業を募集
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224199

○ 政策分野

・ジカウイルス感染症について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224201

・ジカウイルス感染症の流行地域※1(2016年8月23日更新)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224203

・地域別戦没者概見図(平成28年7月末現在)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224205

○ 審議会等

・第6回 食品衛生管理の国際標準化に関する検討会
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224207

・第1回 全国在宅医療会議
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224209

・第62回社会保障審議会介護保険部会の開催について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224211

・審議会、研究会等予定
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224213

・第7回食品衛生管理の国際標準化に関する検討会の開催について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224215

○ 統計情報

・平成27年労働争議統計調査の概況
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224217

○ 採用情報

・労働基準監督官採用試験
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224219

○ その他

・調達情報 平成28年度日本語診療能力調査運営支援業務一式
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224221

・調達情報 黄熱ワクチン(溶解液含む) 600本の購入
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224223

△▼厚生労働省▼△

新着情報配信サービス

      08月22日 10時 以降掲載

○ 報道発表

・食品中の放射性物質の検査結果について(第995報)(東京電力福島原子力発電所事故関連)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224161

・平成28年度 保育所等整備交付金(平成27年度繰越分)の内示について(第11次)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224163

・平成28年度 保育所等整備交付金の内示について(第3次)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224165

・「新水道ビジョン推進のための地域懇談会(第14回)」について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224167

○ 政策分野

・特定行為研修指導者講習会について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224169

○ 審議会等

・第3回がん等における緩和ケアの更なる推進に関する検討会(議事録)(2016年7月27日)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224171

・第4回水道事業の維持・向上に関する専門委員会 議事録(2016年7月20日)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224173

・第17回肝炎治療戦略会議議事概要
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224175

・平成28年度第1回管理濃度等検討会の開催について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224177

・薬事・食品衛生審議会 指定薬物部会の開催について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224179

・審議会、研究会等予定
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224181

○ 統計情報

・平成29年人口動態調査で追加作成する統計表の募集について
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224183

○ 採用情報

・○採用情報(総合職事務系)の更新
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=224185
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創作欄 芳子の青春 26

2016年08月25日 10時41分23秒 | 創作欄
2012年7 月13日 (金曜日)

「朝の散歩の後は、私はお風呂に入っているの。どうぞ芳子さんも汗を流してください」
紀子は朝食の支度をしながら芳子に入浴を勧めた。
「何もかも、本当にありがとうございます」芳子は好意に甘えた。
紀子は一期一会の実践者であった。
一期一会(いちごいちえ)とは、茶道に由来することわざである。
『あなたとこうして出会っている この時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切 に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう』
無私の心の発露である。
あるいは、「可愛い子には旅をさせろ」ということわざがある。
子供がかわいいなら、甘やかさないで世間に出して苦労をさせたほうがよいということであり、そろそろ突き放して自立させよと親に諭したのである。
広島への旅で、世間知らずの自分が少しは成長できるだろうか、寝台列車のベットに横たわり芳子は想ってみた。
芳野教授は、百聞は一見にしかずを分かりやすく説明していた。
「100冊の書物を読むことよりも1回の旅行に勝るものはない」
芳子は広島駅に降り立った時に、芳野教授の言葉を実感した。
戦後、18年、広島が信じがたいほど蘇っているように見えた。
原爆の痕跡を留めているものはどこにあるのだろうか?
芳子は早朝の駅前でどちらへ向くべきかに迷っていた。
そして、紀子と偶然に広島駅前で出会い、自宅にまで招かれていた。
湯船に浸かりながら、人の温かみ感謝しながら「広島へ来てよかった」と芳子は思った。
紀子は左のこめかみから頬にかけて10㎝ほどの火傷を負っていた。
火傷は左の腕や胸、足にも負っていた。
歯茎から血が出たり、髪の毛抜けた時期もあったが、その後、体に変調はないことは幸運であった。
風呂から上がった紀子は胸のケロイドを芳子に見せた。
被爆体験証言者としの紀子の姿は鮮烈であった。
原爆投下の当日、投下直後の広島において、実際に自分が見たこと、経験したこと、被害のありさまを、「原爆の生き証人」である被爆者が肉声で語る証言には、圧倒的な迫力と重みがあり、核兵器の使用が人類に何をもたらしたかという事実を聞く人の心に強く訴える力があった。
2012年7 月12日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 25
「あなたは、先ほどの寝台列車で到着をしたのですね。お疲れでしょう。家(うち)へ寄って休んで行きませんか?」
被曝「語り部」の佐々木紀子は、旅行者を度々自宅に招いていたので、芳子にも声をかけた。
「私がお宅へ伺ってもいいのでしょうか?」
芳子は思わぬ誘いを受けて瞳を大きく見開きながら微笑んだ。
「遠慮なくどうぞ、少し歩きますが」
紀子は朝の散歩を兼ねた清掃を終えるところであり、塵取りと竹箒を手にしながら歩き出した。
南区的場2丁目の段原小学校の傍に、佐々木紀子の自宅があった。
平屋で竹垣に囲まれた家であった。
庭は100坪ほどであっただろうか、木戸を開けると左に小さなお稲荷さんがあった。
ひょうたん型の池もがあり、傍らに百合の花が咲いていた。
ピンク色の百合には華やかさがあり、芳子が一番好きな花であった。
桜の木が庭の隅に2本見えた。玄関の脇のクチナシの花は枯れかけていたが、まだ強い香を放っていた。
芳子の実家の玄関の脇にもクチナシの花があった。
石灯篭の向こう側に夾竹桃も咲いていた。
濡れ縁の上の軒先で風鈴の音が軽やかに鳴っていた。
「芳子さん、小さな家ですが、どうぞあがってください」紀子は頬笑みかけた。
ドアを開けると玄関の正面の壁に原爆ドームの油絵が掲げられていた。
芳子がそれに目を注ぐと紀子は笑顔となった。
「この絵は主人が趣味で描いたものです。主人は転勤で今、岡山へ行っています。
ですから、私1人です。息子は結婚して今は倉敷に住んでいます」
居間は、和室の6畳であった。
6畳の洋間、6畳の寝室、4畳半の息子が住んでいた部屋4間の取りであった。
紀子はお湯を沸かし、日本茶を出した。
茶菓子にようかんを添えた。
「広島は初めてですね」
「そうです」
道すがら芳子は群馬県の沼田市出身であることや現在、東京の中野区に住んでいて早稲田大学の教授の秘書をしていることを告げていた。
「あなたは昭和16年生まれなのね。娘を原爆で失っているので、若い女性を見る度に娘が生きていたらと思うのね」紀子は眼を潤ませた。
幸せな子になってほしいと「幸子」と名付けたのは夫であった。
紀子は芳子を洋間に案内して、娘の幸子の写真を見せた。
出窓の白いレースの置物の上に小さな額があり、16歳であった幸子の微笑んでいる写真があった。
勤労奉仕へ行く前の朝、父親の茂がカメラに収めた写真であった。
その当時の一般的な服装であるかすり模様のモンペ姿であった。
勤労奉仕へ行く前の朝、父親の茂がカメラに収めた写真であった。
その当時の一般的な服装であるかすり模様のモンペ姿であった。
「芳子さんほど美しくはないけれど、幸子は綺麗でしょ」
「幸子さんは綺麗な娘さんだったのですね」
16歳で人生を閉ざするは、何と理不尽なのだ。
芳子にも辛い過去があったが、生きていることの幸運を思った。
庭から見えた段原小学校は明治30年の創立である。
昭和20年4月 学童は集団疎開をした。
比婆郡山内西村・山内東村・口南村に分散して職員15名と児童339名が疎開をした。
20年8月6日の原子爆弾投下により校舎は倒壊し焼失した。
犠牲者は職員3名、児童18名であった。
33年に創立60周年を迎え式典、並びに講堂落成式が挙行された。
28年に鉄筋校舎9教室が落成したので今年で10年目だった。
被曝「語り部」の紀子は、歴史の証言者として昭和20年の学校と学童たちについても調べていた。

2012年7 月 9日 (月曜日)
創作欄 芳子の青春 24
芳野教授から、平和記念公園への道順を教わっていたが、広島駅前で掃除をしている人に声をかけた。
「ご苦労さまです」と芳子は背後から声をかけた。
腰を屈めてゴミを拾う女性は、60代と思われた。
頭を手拭いで覆っていた。
振り向いたその人の顔にはケロイドの痕が残っていた。
芳子の様子を見ながら、「お早うございます。旅行ですね」と相手は微笑みかけた。
芳子は肯きながら、その人を心の優しい人だと感じた。
「平和記念公園へ行きたいのですが」
「バスなら吉島方面行きに乗って、平和記念公園前で降りてください。市内電車なら、紙屋町経由広島港行きに乗って、中電前で降りてください。宮島行なら原爆ドーム前で降りてください」
芳子はこの人は単なる清掃をしている人ではなく、旅行案内の仕事にも従事している人ではないかと思った。
後で知ったのであるが、その人は被曝体験を語る「語り部」の1人であった。
被曝「語り部」の佐々木紀子は38歳の時に、広島駅のそばで被爆した。
爆心地から500メートルで勤労奉仕作業をして娘は被曝した。
娘の幸子の背中はズルズルに焼けただれ、やっと自宅どりついた。
当時は薬も包帯、ガーゼもなく、シーツや浴衣を裂いて、ジュグジュグと体液が出てくる傷をふく。
それくらいしか出来なかった。
そして傷が化膿し、そこにハエがたかり、卵を産みつけ、ウジとなり、体中が白くなるくらい這い廻る。
娘の幸子は痛い、痛いと呻いていたが、その声もだんだん小さくなり、結局、虚しきも死でしまった。
その亡くなった幸子を戸板に寝かせ、廃材を組んだ上に乗せ焼いた。
紀子の火傷は、その日8月6日の午後から赤く水ぶくれが始まった。
一方、夫の仕事場の銀行は灰燼に帰した。
自宅は幸い火の手からは救われたものの、崩壊寸前だった、
水道は壊滅、食べ物を売る店もない、生活基盤が全てない状態だった。
そこで夫の父の両親の住む東京に非難することに決心した。
東京には、自宅にいた10歳の息子とともに8月11日乞食一家に等しい姿で広島を脱出をした。
その後、紀子は東京でその年の11月末まで火傷に生死の境をさまよったが、幸いにも12月になり回復した。
あの日、紀子は市内電車の車掌として広島駅から広島港へ向かうはずであった。

2012年7 月 6日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 23
広島に興味をもった芳子は、何時かは広島へ行こうと思った。
1962年(昭和37年)6月に、山陽本線は広島駅まで電化が完成された。
急行「宮島」は東京駅 - 広島駅間(山陽本線経由に変更)運転となる。
それまでの、急行「安芸」は、東京駅 - 広島駅間は呉線経由であった。
そして1963年(昭和38年)熊本行きの「みずほ」はブルートレイン化した。
運転区間は東京~熊本・大分間となった.
大阪までなら、2等料金は1980円であった。
家賃を月に6000円を払っている芳子は、広島行きは経済的にとても無理だと思った。
ところが、芳野教授が旅費を出してくれることとなった。
「私は学会もあるので、広島へは帰れないが、大学は夏休みです。是非、広島を見てきなさい。何かを感じることがあるでしょう。平和の原点となる被爆地広島ですからね」
芳子は芳野教授の好意に甘える気持ちとなった。
熊本行き寝台特急「みずほ」は東京駅を18時20分に発車した。
寝台列車で芳子は時々目を覚ましたので、寝不足であった。
初めは、大垣駅、そして、京都駅、大阪駅、神戸駅、岡山駅、到着するたびに車内放送に耳を傾けていた。
夏なので、午前4時ころから外は白み出していた。
芳子の席は3段ベッドの1番下であったので、上で眠る乗客の気配にも時折目を覚ました。
誰かの寝ごとや鼾も聞こえてきた。
「これが、寝台列車の旅なのね」
芳子は手枕をしながら、左右の上のベッドの気配に耳を傾けた。
真上のベッドには30代と想われる女性と60代であろうか白髪頭の女性が寝ていた。
母親と想われるその女性が何度かトイレに行った。
「すいませね。起こしてしまって」
梯子に手をかけながら女性は芳子に頭を下げた。
「気になりませんよ」
芳子は微笑んで首をふった。
豆電球が灯る車内が明るんできていた。
広島駅まで892.1㌔、翌朝、午前6時28分、ブルートレイン「みずほ」は定刻どおり広島駅に到着した。
2012年7 月 5日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 22
東京・中野区中央、芳子が芳野教授の世話で住んだのは、中野区のほぼ中央部に位置する中央5丁目であった。
いわゆる、木賃ベルト地帯の一角でもあり、一戸建ての住宅や木造・モルタルのアパートも多く見られた。
昭和38年の当時も一人暮らしをしている若年層の多い町であった。
幹が太く葉が茂った大きな桜の木を見上げては、芳子の気持ちをほっとさせた。
その4本の桜が隅に植えてある敷地内に、2棟の平屋のアパートが南向きに建っていた
6畳間の部屋の脇の板の間に小さな台所が付いていた。
家賃は6000円であった。
トイレは共同、風呂がないので、芳子は神田川に近い銭湯へ行っていた。
芳子がアパートへ越して来た日に、玄関で親し気に挨拶をした真田雪子が銭湯へ案内をしてくれた。
「私は、広島出身なの。体内被曝をしたけれど、何でもなくてこうしていられるのはとても幸せ」
「そうですか」
芳子は芳野教授の奥さんとお子さん、そして両親が広島に投下され原子爆弾で亡くなっている話を聞いていたので、改めて雪子の顔を見直した。
体内被曝とはどのようなことなのか?と想ってみた。
芳子は昭和16年生まれで、雪子は昭和20年生まれであったが、体が大きい雪子は同年代のように見えた。
雪子は地元の信用金庫に勤めていた。
地域内を中野通りと山手通りが縦貫しており、山手通り沿いに雪子が勤めている信用金庫
があった。
銭湯の帰りには、中野通り沿いの小さな食堂へ寄ってシロップのかき氷を食べた。
雪子は浴衣姿で、赤い鼻緒の下駄を履いていた。
芳子は雪子と親しくなれたことを心から喜んだ。
「黒い雨、知っている?」
雪子はスプーンを口に運びながら聞く。
「知らないわ」
「私の従姉が黒い雨を浴びて、小学校6年生の時、白血病で亡くなっているの」
目をテーブルに伏せた雪子の目が潤んできた。
芳子は何も知らないので、相手の悲しみを受けとめようがなかった。
----------------------------
<参考>
黒い雨とは、原子爆弾投下後に降る、原子爆弾炸裂時の泥やほこり、すすなどを含んだ重油のような粘り気のある大粒の雨で、放射性降下物(フォールアウト)の一種である。
『黒い雨』は、井伏鱒二の小説である。
新潮社の雑誌「新潮」で1965年1月号より同年9月号まで連載され、1966年に新潮社より刊行された。
連載当初は『姪の結婚』という題名であったが、連載途中で『黒い雨』に改題された。
1966年に第19回野間文芸賞を受賞した。
2012年6 月23日 (土曜日)
創作欄 芳子の青春 21
「アメリカの原爆投下は、人体実験だったんです」
芳子は芳野教授の言葉に唖然とした。
戦後18年目の終戦記念日の日であった。
天皇陛下の「終戦詔勅」に以下の昭和天皇の公式見解がある。
「敵は残虐なる爆弾を使って無辜の国民を大量に殺した。このままでは日本国民だけでなく、人類の滅亡に向かう。だから日本は降伏する」
アメリカはウラン型とプルトニウム型の原爆を日本国土に投下したが、その隠された理由は人体実験であった。
芳野教授は故郷の実家でる広島市内に妻と4歳の娘を疎開させていた。
そして父母とともに4人を原爆で失っていた。
戦後の東京は完全に廃墟と化していた。
その渦中で芳野は深い喪失感と絶望から生き地獄に突き落とされ、呆然自若となった。
それまでの全ての価値観が顛倒してしまった。
言い知れぬ絶望から立ち上がれたのは、信仰に導かれたからであった。
「芳子さんも信仰を持つべきです」
芳野教授は、書棚から聖書を取り出すと芳子に渡した。
大学は休みであったが、日本機械学会が開かれるため芳野教授は講演抄録をまとめていた。
芳子は教授秘書として事務面での補佐をしていた。
--------------
<参考>
アメリカ軍の人体実験だった広島・長崎の原爆投下
「後悔に1分たりとも時間を費やすな」は米大統領だったトルーマンの言葉だ。
実際、戦後何百回もたずねられた「原爆投下」について少しも後悔の念を見せなかった。
難しい決断だったかと聞かれ「とんでもない、こんな調子で決めた」と指をパチンと
鳴らした。
第33代米国大統領、ハリー・S.トルーマンの逸話である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

記事のタイトルを入力してください(必須)

2016年08月25日 10時25分05秒 | 創作欄
2012年7 月27日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 32
広島から戻った芳子は、大学で勉強することを決意した。
芳子は中学を卒業してから群馬県沼田の地元郵便局に勤めながら、定時制高校に通った。
そして19歳の時には、夜間の通学路で強姦という忌まわしい体験もした。
さらに、東京に出てきて間もなく、無実の窃盗の罪で服役もした。
人生のつまずきのなかで、気持ちはややもすると後ろ向きとなっていた。
だが、人生の師とも言うべき芳野教授と邂逅した。
「捨てる神あれば、拾う神あり」
世の中はうまく出来ていて、見捨てる人がいれば助けてくれる人もいる。
「悪いことばかりではないよ」という意味だ。
「時々、原爆で失った娘のことを思うことがあります。どうにもならないことですが、芳子さんを見ていると、娘のことを思うのです」
秋空が暮れかかっていた。
銀杏の葉はすっかり黄ばみ、風が強く吹くと夕陽に照らされていた黄金色の葉は激しく舞いながら地面に落下していた。
芳野教授はパイプの煙を吹かしながら、窓の外に目を向けていた。
「芳子さん、大学へ進学しなさい」
「私がですか?」
芳野教授の進言に芳子は戸惑った。
「うちの大学でもいいし、他の大学でもいいですよ。私が支援しましょう」
芳子はその申し出に深く感動し決意をした。
では、大学で何を学ぶかである。
芳子は神田川沿いの銭湯の湯に浸かりながら、何を大学で学ぶべきについて思いを巡らせた。
2012年7 月26日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 31
昭和20年の4月、芳野教授は、妻子を実家の広島に疎開させた。
昭和20年3月10日未明に都民が経験した「東京大空襲」は実に悲惨で、10万人以上の都民が1夜にして命を失った。
犠牲者は生きたまま火あぶりに会い、あえぎ苦しみ亡くなっていった。
この想像を絶する地獄絵が世界の人々にどのように正確に伝えているのだろうか?
これは広島、長崎の惨事と並び、人類史上最大の虐殺だったと表現してもおおげさではない。
猛火の中で逃げ場を失いあえぎ苦しみ死んだ人々の悔しさしと怒りは、どのようなものであったのだろうか?

アメリカ軍はB29と呼ばれた爆撃機により、 無差別焼夷弾の空爆を行った。
東京は、1944年(昭和19年)11月14日以降に106回の空爆を受けたが、特に1945年( 昭和20年)3月10日の「東京大空襲」はその規模によって想像を絶していた。
この結果、芳野は妻子を東京から広島へ疎開させることにした。
当時、なぜか広島は一度も空爆を受けていなかった。
このため広島は安全地帯だという風評もあった。
では、なぜ、広島に原爆が投下されたのか?
1942(昭和17)年8月、「マンハッタン計画」と名付けられたアメリカを中心とする極秘の原爆製造計画が始まった。
軍と科学者と産業界を総動員して進められた巨大軍事開発事業であった。
1944年9月にはこの新兵器を日本に対して使用することを決めた。
1945(昭和20)年春から、アメリカは投下目標都市の検討を始めた。
投下目標は、原爆の効果を正確に測定できるよう、直径3マイル(約4.8km)以上の市街地を持つ都市の中から選び、空襲を禁止した。
そして、数10万以上の人口が住む大規模都市であることも条件とした。
7月25日には目標都市の広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに対する投下命令を下した。
広島を第1目標とする命令を出したのは、8月2日だった。
それは目標都市の中で唯一、連合国軍の捕虜収容所がないと思っていたためだ。

都市の大きさや山に囲まれた地形が、原爆の破壊力を探るのに適していた。
広島はまだ空襲を1度も受けておらず、原爆の威力を確認しやすかった。
また、広島には軍隊、軍事施設、軍需工場が集中しており、それらがまだ破壊されずに残っていた。
8月6日、広島の天気は晴れいたので広島の運命は決まった。
芳野はこれらの事実を知ってから、怒りに身が震えた。
「芳子さんは、広島へ一度行ってきなさい」と芳野は芳子の背中を押した。
「戦後18年、戦争は風化しつつあります。あなた方の若い世代が戦争の悲惨さを知ることによって、平和の尊さは次の世代にも引き継がれると思います」
芳子は平和記念公園で芳野教授の言葉を思い起こしていた。
18年前には平和記念公園のある場所に、芳野教授の実家があったのだ。
広島の実相を触れる機会を芳野教授は芳子にもたらした。
2012年7 月25日 (水曜日)
創作欄 芳子の青春 30
広島の平和記念公園は、世界へ向かって平和の尊さを発信しているように芳子には想われた。
そして、生き証人である紀子は、原子爆弾がもたらした戦争の悲惨さと残酷さ、その理不尽さを体現していた。
原爆死没者慰霊碑の前で芳子は思わず祈った。
慰霊碑は平和記念公園の敷地内の、広島平和記念資料館と原爆ドームを結ぶ直線上に設置されていた。
原爆犠牲者の霊を雨露から守りたいという気持ちから、コンクリート製の屋根の部分が、はにわの家型をしていた。
これは犠牲者の霊を雨露から守る趣旨だという。
中央の石室(石棺)には、国内外を問わず、亡くなった原爆被爆者すべての氏名を記帳した名簿が納められている。
石室前面には、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれていた。
この文章は、自身も被爆者である雑賀忠義広島大学教授(当時)が撰文・揮毫したものだ。
平和への深い祈りと広く人類全体の誓いが、そこに刻まれていた。
過ちとは、原爆を投下した過ちであり、同時に戦争そのものの過ちである。
碑文の意味するところは、「全ての人間が再び核戦争をしない」ことを誓うためのものである。
その意味で、『過ち』は深い内容であった。
紀子は碑文を巡り論争があったことを芳子に説明した。
「芳子さんは、どのように思いますか?」
紀子に問われていたが、芳子には答えようがなかった。
芳子の父は戦死していた。
でも、誰の責任なのだろうか?
戦争は起こしてはならないものだ。
分かりきっているが、戦争、紛争は止まない。
紀子の説明によると碑文論争は責任論にまで及んのだ。
当然、原爆を投下したのはアメリカの責任である。
だが、責任を明確にしても、過ちはどうにもならないのだから、二度とあってはならない『過ち』へ「全ての人間の誓い」が碑文に凝縮されているのではないだろうか。
「私が語り部となったのは、『過ち』を訴えるためなの」 芳子は紀子の思いを深く胸におさめた。

昭和38年、戦争は人々の心のなかから徐々に風化しつつあった。
1956年(昭和31年)の経済白書が「もはや戦後ではない」と明記し戦後復興の終了を宣言した。
それから、7年が経過していた。
-------------------------------------------
<参考>
21世紀の時代は、20世紀の続きであり、負の遺産を引きづっているまま、どうにもならない状況下にある。
人類の最大の問題は、核兵器を開発していまったことだ。
今後、核戦争が起らない保障は、どこにもない。
1960年代のキューバ危機。
そして冷戦。
それらを回避できたのは奇跡であり、これ以上ない人類の幸運である。
では、どうすべきか?
人類が地球規模の危機を、真剣に受け止めて、これを回避するほかない。
少なくとも、人類が絶滅する日がやがて訪れるとしても、それを自然の摂理に委ねたいものだ。
今後、テロなどで核兵器を使用する「悪魔的な狂気の人間」をどうするかが、人類の命題。
2012年7 月24日 (火曜日)
創作欄 芳子の青春 29
紀子は芳子に色々説明した。
「原爆ドーム」は、原爆被災前の広島県産業奨励館である。
広島県の特産品の展示や催し物が開かれていたところであった。
原爆の爆心地は厳密に言えば、原爆ドームの直上で爆発したのではなく、この建物の東南約160m離れている現在の島外科病院の約580m上空で爆発したとされている。
島外科に密接して西側の道端にこの場所が爆心地であった旨の説明標識があった。
広島県産業奨励館は原爆の被災により、建物中央正面部分はかろうじて骨格骨組みが残されたが、 建物左右両側はほぼ完全に破壊されてしまった。
元安川に沿って南の方向に行くと近距離から原爆ドームを見ることができた。
建物は瓦礫と化してが飛び散り、無残に破壊された壁面から原爆の持つ恐ろしい破壊力を十分に推測することができた。
紀子は作家で詩人の原 民喜の詩碑に芳子を案内した。
その詩碑は広島市平和記念公園内原爆ドーム東側に立っていた。
その詩碑には「遠き日の石に刻み/砂に影おち/崩れ墜つ/天地のまなか/一輪の花の幻」が刻まれていた。
原 民喜は1905年、広島県広島市幟町に生まれた。
1945年1月、郷里の広島に疎開、8月6日に広島市に原爆が投下され、生家で被爆、幸い便所にいたため一命はとりとめるが家は倒壊し、二晩野宿した。
それ以後被爆との因果関係は不明であるが体調が思わしくない状態が続いた
原爆投下の惨状をメモした手帳を基に描いた「夏の花」(1947年)は、1948年、第一回水上滝太郎賞を受賞している。
そして1951年、慢性的な体調不良や厭世観を苦に、国鉄中央線の吉祥寺駅 -西荻窪駅間で鉄道自殺した。
「原 民喜の体調が思わしくなくなったのは、被爆の影響だと私は思っています」紀子はきっぱりとした口調で言った。
元安橋を渡って間もなく歩くと北側に「原爆の子の像」が見えた。
三脚のドーム型の台座の上に少女の像が立っている。
この像を建てるに至ったきっかけは、佐々木禎子さんという少女の死が関わっていることを紀子は説明した。
禎子さんは昭和18年生まれであり、、爆心地から1.7kmの自宅で黒い雨により2歳で被爆した。
同時に被爆した母親は体の不調を訴えたが、禎子さんは不調を訴えることなく元気に成長した。
1954年8月の検査では異常なかった。
だが11月頃より首のまわりにシコリができはじめ、1955年1月にシコリがおたふく風邪のように顔が腫れ上がり始める。
病院で調べるが原因が分からず、2月に大きい病院で調べたところ、白血病であることが判明。
長くても1年の命と診断され、広島赤十字病院(現在の広島赤十字・原爆病院)に入院した。
被爆から10年もたってから、白血病で12歳の短い一生を終えたのである。
禎子さんは、鶴を千羽折ると病気が治る、と信じ闘病期間中包装紙などで鶴を折り続けたと言われている。
像の少女が捧げ持っているのは折り続けたという折り鶴を形どったものである。
禎子さんの死を知った一青年と禎子さんの同級生が、原爆で亡くなった全ての子供達のために慰霊碑を作る計画を立て全国に呼びかけ、
海外からの支援も受けて、昭和33年(1958年)にこの像が完成した。
折り鶴をかかげ持つ少女像は、平和への祈りを捧げているように芳子には映じた。
像台座の下に置かれている石碑には『これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための』と刻まれていた。
原 民喜の生家の幟町にある広島市立幟町中学校に禎子さんが在籍していた。
ここには折り鶴の碑ある。
紀子は芳子にこれらの経緯を説明した。
紀子に出会わなければ、知りえないことばかりであり、芳子は紀子に改めて感謝した。
「広島へ来て、本当に良かったです。ご親切は一生忘れません。広島で見聞きしたことを必ず伝えたいと思います」
「芳子さんのような方に会えて私も良かったです」紀子は涙を浮かべた。
被爆者の多くは偏見にさらされたなかで、被災者であることを隠して生きてきた。
原爆被災者であることから、結婚が破断した例もあった。
原爆症というものが伝染し たり遺伝したりするものだといった誤った認識が昭和20〜40年代あった。
進学・就職・結婚・市民生活上での差別行為が、2重に被爆者たちを苦悩と絶望の淵に突き落としていた。
------------------------------------
<参考>
1963年、東京地方裁判所が「原爆投下は当時の国際法に違反する」旨の判決を下した。
他の兵器と原子爆弾による人的被害の決定的な相違は、強力な原爆放射線や放射能によってもたらされた難治性疾患や永続的な後遺症(晩発性疾患を含む)にあある。
生き残った被爆者やその家族に現在もなお、現実的な労苦を強いるものとなっている。
これは少なくとも全ての被爆者が亡くなるまで続くものとされると主張している。
広島大学原爆放射線医科学研究所研究グループの長期調査結果報告において、被爆二世の白血病発症率が高い、特に両親ともに被爆者の場合に白血病発症率が高いことが50年に渡る統計結果より明らかにされた。これにより、まだ一部しか解明されたとしかいえないが、医学的に少なくとも被爆二世への遺伝的影響の否定はできないことが明らかにされた
2012年7 月23日 (月曜日)
創作欄 芳子の青春 28
広島市は、江戸時代、中国・四国地方第一の城下町であった。
明治維新後は広島県の県庁所在地となる。
広島市は海、川、山が近く風光明媚であり、学校も整い県民の教育意識も高まっていた地方都市となる。
また、商店街も整然としており商業都市として栄えたが、大きな民家の庭には大樹も茂っていた。
そして二つの川に挟まれた美しい三角州の都市であった。
一方、陸軍の諸施設が集中していき、やがて学都・軍都二つの顔が鮮明になった。
1920年代から発展しはじめた重工業も1930年代後半には軍需工業化してきた。
被爆直前には、広島湾一帯は、呉の海軍とあわせて軍事的性格を強めていた。
被爆前の広島は、太田川(本川)の本流が、市の中心部で本川と元安川にわかれ、そこにできた三角州の先端が中島地区であった。
現在、平和記念公園ができ、住んでいる人は居ないが、被爆前、ここには中島本町、材木町、天神町、元柳町、木挽町、中島新町など町があった。
被爆当時、爆心地である中島地区には約1,300世帯、約4,400人が暮らしてた。
原爆ドームはヒロシマの象徴である。
紀子に案内されて、芳子は旧中島地区にやってきた。
その日は日曜日であったので、多くの人が川で泳いでいた。
子どもばかりではなく、大人の人も水遊びを楽しんでいるような光景に映じた。
廃墟と化した原爆ドームと川で泳ぐ人たちのまるごと平和を満喫しているような歓声や水飛沫、その対比に芳子は戸惑いを覚えた。
「私も子どもころは、あのように泳いでいたのよ」
紀子はケロイドが残る顔に微笑みを浮かべた。
被爆建物は言わぬ証言者である。
だが、多くの建物は戦後18年が経過し、すでに多くが撤去されていた。
原爆を思い出される建物が存在することを嫌う市民も多くいたのだ。
だが、被爆体験の風化を食い止めたいと紀子は、被曝体験の語り部となった。
被曝の体験は、被爆直後から、文学をはじめ美術、映画、音楽、演劇など、幅広いジャンルで数多くの作品を生み出した。
紀子は自分の使命を自覚してからは、全国から広島を訪れる小・中・高校生、あるいは旅行者たちに体験を語り続けてきた。
「芳子さんは、心や優しい人なので、広島のことをを是非、みんなに伝えてね」
原爆資料館を案内しながら、紀子は芳子の手を確りと握りしめた。
2012年7 月20日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 27
被曝「語り部」の佐々木紀子は、旅行者を度々自宅に招いていた。
そして、「これを読んでください」と原民喜の「夏の花」を本棚から取り出した。
「短い文章ですから、短時間で読めます」
詩や短歌が好きである芳子は、作家で詩人の原民喜の名前を知ってはいたが「夏の花」は読んでいなかった。
原民喜は広島市の中心部の幡町の生家で原子爆弾で被爆した。
紀子が被爆したのは広島駅の近くの市電の駅舎の中であった、
爆心地と広島駅のほぼ真ん中で被爆して、原民喜は一命をとりとめたのだからほぼ奇跡と言える。
作家であり詩人の感覚から、民喜は手帳にその惨状を書きとめた。
8月6日の朝、便所の中にいたため一命を拾つたと記している。
「この地域では大概の家がぺしやんこに倒壊したらしいのに、この家は二階も墜ちず床もしつかりしてゐた。余程しつかりした普請だつたのだらう、四十年前、神経質な父が建てさせたものであつた。(中略)」
「今、ふと己れが生きてゐることと、その意味が、はつと私を弾いた。このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆ど知つてはゐなかつたのである」
「河原の方では、誰か余程元気な若者らしいものの、断末魔のうめき声がする。その声は八方に木霊し、走り廻つてゐる。「水を、水を、水を下さい、……ああ、……お母さん、……姉さん、……光ちやん」と声は全身全霊を引裂くやうに迸り、「ウウ、ウウ」と苦痛に追ひまくられる喘ぎが弱々しくそれに絡んでゐる」
民喜は手帳に2日間の野宿で見たもの、聞いたものを克明に記していた。
「火傷した姪たちはひどく泣喚くし、女中は頻りに水をくれと訴へる。いい加減、みんなほとほと弱つてゐるところへ、長兄が戻つて来た。彼は昨日は嫂の疎開先である廿日市町の方へ寄り、今日は八幡村の方へ交渉して荷馬車を傭つて来たのである。そこでその馬車に乗つて私達はここを引上げることになつた」
初出:「「三田文学」1947(昭和22)年6月号
芳子は読み終えて、涙を浮かべながら大きなため息をついた。
紀子はあえて感想を聞かなかった。
紀子は「夏の花」を何度も読み返し、被曝「語り部」としての自分の役割に背中を押される思いがした。
------------------------------------------
<参考>
http://www.youtube.com/watch?v=0J_dULWzxfI

http://www.youtube.com/watch?v=xy9hg4FIses&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=hYDLVtL7TVc&feature=relmfu
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創作欄 続・芳子の青春 4)

2016年08月25日 10時12分53秒 | 創作欄
2012年9 月 8日 (土曜日)

芳子は人から美しいと賞賛されていた。
戦死した父の遺影をみて、芳子は父親がいわゆる希に見る美男子と想われた。
そして、母親も人から綺麗な人だと言われてきた。
芳子は両親のそれぞれ良いところを受け継いでいた。
だが、それはもって生まれたものであり、才能ではない。
アパートの隣には、東京・新宿歌舞伎町のナイトクラブで働くホステスの佐々木淑子が居た。
淑子は色白で典型的な秋田美人であった。
秋田県を含む日本海側の女性は肌が白いので美人に見えるという説がある。
淑子は仙北市角館の出身であった。
角館には武家屋敷等の建造物が数多く残されており、年間約200万人が訪れる東北でも有数の観光地として知られ、「みちのくの小京都」とも呼ばれている。
淑子とは神田川に近い銭湯で度々、顔を合わせていた。
「芳子さん、学校で何を勉強しているの?」と問われた。
「社会学です」と芳子は答えながら、淑子の漆黒の大きな瞳を見詰めた。
「社会学? 芳子さんは意外と難しそうな勉強をしていなのね。文学でも学んでいるのかな、と想っていたの」
微笑を浮かべた淑子の浴衣姿は、大正ロマンを想わせた
芳子は卒論に「明治・大正の社会風俗と女性」を取り上げようとしていた。
近代女性の系譜を辿る意義を芳子は感じていた。
かつては一部高等子弟にだけ許された教育。
いわゆるエリートの男性中心の集団が社会を形成しを日本のあらゆる方面で指導的役割を担ってきた。
だが徐々に一般庶民へも教育は拡大した。
また、《青鞜社》は明治44年(1911年)、当時の男尊女卑の象徴でもある、家父長制度から女性を解放するという思想であった。
女性の近代的自我の確立を目指し、平塚雷鳥の呼び掛けによって賛同した女流文学者たちが集まり、平塚雷鳥を中心にして女性だけによる文学的思想を持つ文芸結社となった。
文芸機関誌『青鞜』の発刊第1巻第1号に、平塚雷鳥が著した「元始、女性は太陽であった。真性の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」が創刊の辞として発表されて有名になった。
そして、明治から大正となると個人の自由や自我の拡大も叫ばれる。
進取の気風と称して明治の文明開化以来の西洋先進文化の摂取が尊ばれてきた。
新しい教育の影響も受け、伝統的な枠組にとらわれないモダニズム(近代化推進)の感覚をもった青年男女らの新風俗が、近代的様相を帯びつつある都市を闊歩し脚光を浴びるようになった。
「私、教養がないけれど、大正ロマンはいいなと想うの」淑子は芳子を羨むように見詰めた。
「コーヒー、ご馳走するので、私の部屋に来てね」
淑子は親しみを込めて誘った。
芳子は黙って肯いた。
2012年9 月 6日 (木曜日)
創作欄 続・芳子の青春 3)
再び桜の季節が巡ってきた。
23歳で早稲田大学の二部に入学した芳子にとって、これまでの大学3年間は長かったようで、短かかったとも思われた。
昼休み芳子は芳野教授に誘われ、戸山公園へ行った。
芳子にとっては、桜は故郷の沼田城址公園の桜と重なった。
芳子は不本意にも刑務所へ入って依頼、母親とも徹とも沼田高校の恩師とも連絡を絶っていた。
母親には一度だけ、「元気にやっています」とだけ記した葉書を書いている。
故郷との断絶、芳子の心は頑なになっていた。
「先生は再婚なさらないのですか?」
噴水の前に来た時に、芳子は唐突に問いかけた。
芳野教授は無言で芳子の瞳を見詰めた。
「失礼なことをうかがい、申し訳ありませんでした」
芳子は自分の思慮のなさを恥、目を伏せた。
突然、風が渦を巻き桜の花びらが夥しく舞い散る。
芳野教授は花びらが散るのを原爆で死んだ娘と重ね合わせて見詰めていた。
「もしも、娘が生きて居たら・・」思えば涙が込み上げてきた。
芳子は目を伏せていたので、芳野教授の涙に気がついていない。
「再婚は考えていませんが、養女になる人が居ればいいと思っています」
それは芳子への問いかけだった。
だが、芳野は思惑を断ち切るように「芳子さん、専門分野をもちなさい。10年続ければ専門家になります。20年間続ければ大家です」と諭すように言った。
芳子は社会学を学びながら、サークル活動では街に出て聞き取り調査をグループで実践していた。
「机上の空論に終わらないのが、社会学」先輩たちは後輩に街に出て、社会の実相に触れることを奨励していた。
2012年9 月 5日 (水曜日)
創作欄 続・芳子の青春 2)
夜半の雨はジェット機の轟音のような遠雷をともない激しさを増していた。
芳子は東京・中野区中央のアパートの部屋で勉強をしていた。
1964年(昭和39年)に23歳になっていたが、奨学金を得て早稲田大学戸山キャンパスの第二文学部の社会科で学んでいた。
第二学部は1949年に早稲田大学が新制大学として再出発した時、各学部に夜間で学ぼうとする人たちに門戸を開き設置された。
その精神と歴史を忠実に守り伝えているのが第二文学部であった。
“どうしても早稲田で学びたい”という強い意欲をもった学生が集うため、学部は、もっとも早稲田らしさの残る学部といわれていた。
作家、俳優、映画監督、タレント、ジャーナリスト、シンガーソングライター、アナウンサーなど各分野に多彩な人材を輩出した。
講義は、第一文学部との合併科目が設置されている5限および6限と7限に行われるため、開講時間は、5限=16時20分〜17時50分、6限=18時〜19時30分、7限=19時40〜21時10分。
当時の学部長はフランス文学者である新庄嘉章教授、アンドレ・ジッドなどを研究、数多くのフランス文学の翻訳を行っていた。
芳子は学友の一人として大川直樹と親しくなった。
直樹は留年して7年目であった。
芳子は千葉まで帰る直樹と大久保駅まで一緒に歩いて帰ることが多かった。
通称居酒屋講義に参加する学生もいたが、芳子は酒が飲めないし、居酒屋の喧騒に馴染めなかったので、寄り道はしない。
直樹は年中「金がない」とぼやいていた。
それでいてアルバイをしない。
「まあ、物臭と妹は言うが、俺はのんびりしたいんだ」
「なぜ、卒業しないのですか?」
芳子は不躾だと思ったが聞いてみた。
「働きたくないこともあるが、大学の雰囲気に何時までも馴染んでいたい」
芳子は可笑しさが込み上げてきた。
芳子は本を閉じて、駅で別れた直樹のことを想ってみた。
不思議な感じがする男であった。
「芳子さん、俺が映画監督になったら、主演女優に起用してあげよう」
「映画監督志望なのですか?」
「まあ、今のところは、そのうち化けることもある」「化ける?」「そう、人間は時に化ける」
直樹は幼児のような表情をした。
「子どもに好かれるので、児童映画をやりたいな」
人を警戒させない雰囲気があり、お地蔵さんのような円満な表情を浮かべた。
2012年9 月 1日 (土曜日)
創作欄 続・芳子の青春 1)
芳子は広島から帰ってから、大学の図書館へ足を運ぶようになった。
あるいは、早稲田通りにある古本屋へ足を向けることもあった。
「なぜ、日本は戦争をしたのだろうか?」
そして、原爆の投下へ至った経緯を知りたいと思った。
同時に、未だアメリカの軍政下にある沖縄についても関心を深めていった。
アメリカに対する理解も深めていきたいと考えていた。
「パパは何でも知っている」 は人気テレビ番組の一つだった。 
芳子は父が戦死しているので、父親を知るらない。それだけに、テレビで見た父親像に憧れを抱いた。テレビ映画で知ったアメリカは、生活がとても豊かで魅惑的な憧れの国のようにも映じていた。
そのようなテレビの世界を嘲るように、事態は大きく転換した。
第35代アメリカ合衆国大統領のジョン・フィッツジェラルド "ジャック" ケネディが、1963年11月22日、遊説先のテキサス州ダラスで暗殺された。
その衝撃的な映像が日本のテレビでも放映され、芳子は驚愕を覚えた。
「アメリカは、どのような国なのだろう?」
銃を規制できないアメリカ。
ある意味でそれは宿命的であり、アメリカには深い闇が横たわっていて、暗殺の謎は深まるばかりであった。
芳子は文学もいいが、社会学を学びたいと考えはじめていた。
社会は、政治、経済、科学技術、文化など様々な面で世界との結びつきがある。
人間社会においては様々な利害が重なり複雑に絡み合っている。
「多くの問題を解くカギは社会学にあるのではないだろうか?」
芳子は大学の食堂で出会った大学院生の梅村早苗から、共産党への入党を勧められた。
「共産党が、日本の社会を大きく変えるのよ」確信に満ちているように早苗が語る。
いつも微笑みを絶やさない早苗は、いわゆる「好い人」と思われた。
1963年、早稲田大学には社会科学部はまだなかった。
社会科学系専門分野は当時、政治経済学部、法学部、商学部といった学部に分科された形で教育が行われていた。
早苗は政治経済学部の大学院生だった。
芳子は早苗の話を聞きながら、実社会で学ぶべきか大学で学ぶべきかを考え始めた。
-----------------------------------------------
<参考>
パパは何でも知っている(原題:Father Knows Best)は1949年4月25日から1954年3月25日までアメリカのNBCラジオで、同年10月3日から1960年9月17日までNBC(テレビ)とCBSで全203話が放送され、人気を博したロバート・ヤング主演のテレビドラマ。
シチュエーション・コメディ。

日本では1958年8月3日から1964年3月29日まで日本テレビ系列で日本語吹替版で放映された。
アメリカ中西部の架空の街、スプリングフィールドのメープル通り南607番に住む中流家庭、アンダーソン一家(ゼネラル保険会社の部長で営業マンのパパと賢明なママ、3人の子供達:ベティ、バド、キャシー)に巻き起こる事柄を描いた、1話:25分のホームドラマ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創作欄 続「芳子の青春」 8)

2016年08月25日 10時10分00秒 | 創作欄
2012年10 月 4日 (木曜日)

芳子は「家族社会学」をテーマに大学院の論文を書こうと決めていた。
そのことは、昭和43年(1968年)に沖縄へ行ったことに起因する。
人はある時期、ある事情に起因して転身することがある。
社会学の立場で、芳子は沖縄に心を動かされた。
「沖縄の男逸女労」
これは何だろう?
図書館で見つけた書籍に目を留めた。
男が遊んでいて女がいそいそと働いている。
働き蜂と正反対の現象と言うべきであとうか?
沖縄の男逸女労の真相は?
芳子は調べてみることにした。
「戦後沖縄女性哀史」を図書館で読んだ後のことである。
当然、男が働かないので、一家の生活は困難を極める。
だが、逞しき女性たちが一家を支える。
明治27年に、沖縄を視察した内務書記官一木喜徳郎氏は、その『取調書』
の中に沖縄の男逸女労の真相を闡明した。
注:せんめい【闡明】
明瞭でなかった道理や意義を明らかにすること。
内務書記官一木喜徳郎氏は、その『取調書』から以下引用

市街地で生活の困難なのは、一は男が懶惰なるに由るのである。
沖縄婦人の勤勉なるは、実に驚く可きもので、旅館に反布を齋す者、市場に雑貨を市ふ者、店舗に座して商品を鬻ぐ者、頭に重大な物品を戴いて往来を通行する者、多くは皆女子である。

道路修繕のため多数の女の頭に簀(ばけ)を戴いて、土砂を運搬するは屡々見るところである。
男子にして日傘を携えて緩歩する者が道路に群れを成すは、先ず旅行者の目を驚かす珍現象の一である。
首里、那覇等の沖縄人は、女子の養を受けるために、妻を娶るものの如く、男子は結婚の年齢に達すると、

自分と同年又は年長の妻を娶る者が多い。
年少の婦女を娶る時は、家政を挙げて之に委任することが出来ないからだ。
男子は結婚に際し、営業資本として三四十円を新婚の妻に交付し、女子はこの資本を受けて専ら営業に従事し、偶々余分の利益があると、之れを良人に授けて遊興の資をなすを以て女子の働きとし、互に相誇るの状があるといふことだ。

故に商業の如き梢高尚な営業は主として女子の担任する所で、男子の労働する者は車力・木工等の類を多しとする。上流社会の女子に至つては、全く之に異なり、深窓の下に起臥して、外出することが至って稀で、教育も無く、手芸も無く、其の如何にして、日を費すかは殆ど想像の及ばざる所である。

だからその男子の遊惰放逸なること、中流以下の士民と別に異なることなくすべて遊芸の如きも男子に、之を能くする者が多くて、女子には殆ど稀である。首里、那覇に住居してゐる男子の柔弱なること、此の如きに至った原因は、今は之を詳にしないが、士族は多く旧藩庁に奉職して、俸給を受くるを以て畢生の目的となすが故に、一朝幸いにして、此の目的を達することが出来たら、女子は坐ながらにして其の生活を立つることができる。そしてそれまでの間は女子が絣を織ったり、其の他の営業に従事したりして、良人を養うのは恰度貯金を為して、他日の計を為すと同一の利益がある。
2012年9 月12日 (水曜日)
創作欄 続・芳子の青春 7)
東京の歯科大学生である宮里奈菜に案内されて芳子が昭和43年(1968年)に訪れた沖縄は、昭和20年(1945年)のアメリカ軍による沖縄占領から、アメリカ合衆国による沖縄統治が続いていた。
沖縄を占領したアメリカ軍は演習地や補給用地、倉庫群などの用地として、次々に集落と農地を強制的に接収した。
特に現在の宜野湾市の伊佐浜の田園地帯と伊江島では集落ごと破壊された。
大規模な土地接収が行われたのである。
住民はこれらの様子を「銃剣とブルドーザーによる土地接収」として例え、怒りを募らせていた。
アメリカ軍の強権の前に沖縄県民はなすすべがなかったのだ。
日本であるのに、パスポートなしには沖縄へ行けない状態だった。
芳子が沖縄を訪問した昭和43年に嘉手納飛行場でB-52爆撃機の墜落事故が起こった。
嘉手納飛行場は、沖縄県中頭郡嘉手納町・沖縄市・中頭郡北谷町にまたがるアメリカ空軍の空軍基地であり、その場所は歯科大学生の宮里奈菜の自宅にも近い地域であった。
幸いに死者は出なかった。
また、昭和41年(1966年)5月19日、 沖縄の嘉手納基地を飛び立ったKC-135空中給油機が嘉手納町とコザ市(現・沖縄市)の境にある道路に墜落し、たまたまこの道路を走っていた本土から仕事で来ていた会社員の運転する車を巻き込んで大破し会社員1名が死亡した。
飛行機の乗員10名も全員死亡した。
「アメリカには、沖縄から1日も早く出て行ってほしいんだ」
夕食時に泡盛を飲んでいた宮里奈菜の歯科医師である父親は、怒りを燃やし体を震わせ、こめかみの青筋を立てながら叫ぶように怒りをぶつけた。
沖縄県民の怒りを芳子は垣間見る思いがして、気持ちが言い知れぬほど切なくなった。
沖縄県民の置かれている現実は「あまりのも理不尽だ」だと芳子は認識を新たにした。
2012年9 月11日 (火曜日)
創作欄 続・芳子の青春 6)
芳子は義父の芳野源三郎の背中を追うように学者への道を選択し、大学院へ進んだ。
同時にクリスチャンにもなった。
信仰は社会学の立場からも納得できた。
人は大いなるものの意志によって、生かされていると想われた。
聖書を寝る前に毎日、30分読むことが習慣となった。
そして、日曜日には義父とともに教会へ行った。
集った人たちとともに讃美歌を歌うと心の高揚を覚えた。
義父は良く響き渡るバリトンの音声で讃美歌を歌った。
芳子は自分の声がソプラノの音域であったことを知る。
「芳子は顔も美しいが、歌声も美しいね」
義父は感嘆したように言うが、芳子にはそれが明確には自覚できなかった。
芳子は教会で沖縄から東京の歯科大学へ進学した宮里奈菜と知り合う。
宮里奈菜は中野区の方南町に住んでいた。
「私に沖縄に姉がいるのですが、芳子さんには東京のお姉になってください」
奈菜は新宿の大久保駅に近い喫茶店でコーヒーを飲みながら言う。
「私がお姉さん?」
芳子は恥じらいの表情を浮かべた。
「私と姉は9歳違いですので、子どものことから姉に甘えてきたんです。それで甘え癖で、寂しい時は誰かに甘えたい気持ちになるんです」
19歳の宮里奈菜は、遠い沖縄から一人で東京へ出て来たのだからホームシックになるどろう、と思うと芳子は情が動いた。
昭和43年、沖縄はまだ日本本土に復帰していなかった。
宮里奈菜を身近な存在として知り会ったことで、芳子は沖縄をテーマにして大学院の研究論文を作成しようと決意した。
2012年9 月10日 (月曜日)
創作欄 続・芳子の青春 5)
宿命に泣く女性たちが居た。
宿命を乗り越え、使命を見出すことはできないだろうか?
芳子はアパートの住人たちの不幸も見聞きしてきた。
信用金庫に勤務していた真田雪子は、顧客の定期預金の払戻金など約200万円を横領し、逮捕された。
ちなみに昭和40年の公務員初任給は21600円であった。
顧客から満期となった定期預金の払戻金や普通預金の入金額、預かった通帳から無断で預金を引き出すなどしていた。
自分で横領した金を使ったわけではない。
競輪好きの交際相手の男に貢いだのだ。
「直ぐに返すから、貸しくれ」と頼まれ、初めは自分の預金を下ろし貸していた。
その預金が底をついてから、勤務先の信用金庫の金を横領しはじめた。
競輪で大当たりしたと金が戻ってきたこともあったが、それは2度きりで後は流用するばかりとなった。
また、歌舞伎町のナイトクラブに勤めていた隣室に住む佐々木淑子は、ヤクザな男に食い物にされ身を売っていた。
その挙句は梅毒になり、発熱、リンパ節の腫れ、のどの痛み、局所的脱毛、頭痛、体重減少、筋肉痛、倦怠感などの症状で入院した。
芳子は都立大久保病院に見舞い行った。
「男は身勝手ね、私がこんな病になったのに、見舞いにも来ないの」
大正ロマンに憧れると言っていた淑子の美しい顔は病的に頬がこけて侘しい気であった。
東京の就職先を世話してくれた沼田高校の恩師の辻村玲子は、「お手伝いの仕事に留まらず、自分がやりたいことを見つけなさい。自立した女性の生き方が必要な時代になります」と上京する時に励ましてくれた。
芳子は辻村先生の助言を肝に銘じて励みに頑張ってきた。
「正しい生き方とは?」
「幸福とは?」
「社会学を学び、社会に貢献するには?」
大学卒業を控えて、考え続けていた。
「努力は裏切りません」
芳子は芳野教授の言葉を糧に、勉学に励んだ。
そして、大きな転機が訪れた。
芳子は芳野源三郎教授の養女となったのだ。
芳野教授の奥さんとお子さん、そして両親が広島に投下され原子爆弾で亡くなっている。
養子縁組のために芳子の母が上京してきた。
芳子の母は国立沼田病院の準看護婦であった。
芳野教授の兄の健二は医者で国立沼田病院に勤務していた時期があり、姪は沼田女子高等学校を出ていた。 

偶然であった。
「先生は、内科の芳野健二先生の弟さんですか?」
芳子の母は芳野教授と面談し驚いた。
微笑んで芳野教授はうなずいた。
芳野内科医は東京帝国大学医学部卒業の医師として、沼田病院ではとても人望があった。
芳野健二は昭和42年現在59歳、東京の国立病院の院長となっていた。
「あの内科医の芳野先生の弟さんなら信頼できる」芳子の母は心を開いた。
56歳の芳野教授は縁なしの眼鏡をかけ白髪で風格が漂っていて、娘を託すのに相応しい人物に映じた。
また、芳野内科医にも感じたような人を包み込むような包容力を有し、温厚な性格と想われた。
クリスチャンであることを娘の芳子から聞いていた。
母の承諾が得られ、小金井芳子は芳野芳子となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする