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生命の言葉

神様を知り、信仰の種を育てましょう

前2-7. 天 使 の 犯 罪

2016-12-30 00:04:52 | 原理講論 前編2 堕落論

7. 天 使 の 犯 罪

(三) 天使の堕落と人間の堕落

既に、我々は人間を誘惑して堕落させた蛇が、天使であったということ

また、この天使が罪を犯し堕落することによってサタンとなったという事実を知った

ではつぎに、天使と人間がいかなる罪を犯したかということについて調べてみることにしよう

① 天 使 の 犯 罪

ユダ書6節から7節に

「主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた

ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている」

と記録されているのを見ると

我々は天使が姦淫によって堕落したという事実を知ることができるのである

しかしながら、姦淫というものは、一人では行うことができない

したがって、エデンの園で行われた天使の姦淫において、その対象となった存在が、何であったかということについて知っておく必要がある

これを知るために、我々はまず、人間がいかなる罪を犯したかということについて調べてみることにしよう

原理講論 前編2 堕落論-7





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前2-6. 蛇 の 正 体

2016-12-29 17:03:26 | 原理講論 前編2 堕落論

6. 蛇 の 正 体

(二) 蛇 の 正 体


エバを誘惑して、罪を犯させたものは蛇であったと聖書に記録されている
(創三・4、5)

では、この蛇はいったい何を意味しているのであろうか

我々は創世記三章に記録されているその内容から、この蛇の正体を探ってみることにしよう

聖書に記録されている蛇は、人間と会話を交わすことができたと記されている

そして、霊的な人間を堕落させたという事実を見れば、これもまた、霊的な存在でなくてはならないはずである

しかも、この蛇が人間に善悪の果を食べさせまい、と計らわれた神の意図を知っていたという事実から見れば

それはなお一層霊的存在でなければならないということになるのである

また、黙示録一二章9節を見ると

「巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、(天より)地に投げ落され」
たと記録されているのであるが

この古い蛇が、すなわち、エデンの園においてエバを誘惑したその蛇であるということはいうまでもない

しかも、この蛇が天より落とされたと記されているのを見ると、天にいたその古い蛇とは、霊的存在物でなくて何であろうか

また、この蛇を悪魔でありサタンであると呼んでいるが

このサタンは人間の堕落以後今日に至るまで、常に人間の心を悪の方向に引きずってきたものであるがゆえに

まさしくこれは霊的存在でなくてはならないのである

このように、サタンが霊的存在であるということが事実であるならば、サタンとして表示されているこの蛇が、霊的存在であるということはいうまでもないことである

聖書に表れているこのような事実から推測して

エバを誘惑した蛇は動物ではなく、ある霊的存在であったということを、我々は知ることができるのである

それでは、このように蛇という比喩で呼ばれる霊的存在が、果たして創世以前から存在していたのであろうか

さもなければ、これも被造物の中の一つであるのかということが問題となるのである

もし、この蛇が創世以前から神と対立する目的をもって存在していたとすれば、被造世界において展開されている善悪の闘争も不可避なものとして永続するほかはない

したがって、神の復帰摂理は、結局無為に帰してしまわざるを得ないであろうし

あらゆる存在が神お一人によって創造されたという一元論も崩壊してしまうのである

ゆえに、蛇として比喩されているこの霊的存在は

元来善を目的として創造されたある存在が、堕落してサタンとなったものであると見なさなければならないのである

では、神から創造された霊的存在であって、人間と会話することもでき、神の目的を知ることもでき

また、その所在は天にあり、そして、それがもし堕落して悪の存在に転落した場合には、時間と空間を超越して人間の心霊を支配し得る能力をもつ

そのような条件を備えた存在とは、いったい何なのであろうか

こう考えてみると天使以外にこのような条件を具備した存在はないので、まずこの蛇は、天使を比喩したものであると見ることができるのである

そこで、ペテロⅡ二章4節を見ると、神は罪を犯したみ使いたちを許し給わず、地獄に投げ入れられたと記録されているのである

このみ言は、天使こそが人間を誘惑して罪を犯させたその蛇の正体であるという事実を、決定的に立証しているのである

蛇はその舌先が二つに分かれている

したがって、それは一つの舌をもって二つの言葉を話し、一つの心をもって二つの生活をする者の表象となるのである

また、蛇は自分の食物に体を巻きつけて食べるが、これは自己の利益のために他を誘惑する者の表象となっている

それゆえに、聖書は人間を誘惑した天使を蛇に例えたのであった

原理講論 前編2 堕落論-6





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前2-5. 善悪を知る木

2016-12-29 07:02:17 | 原理講論 前編2 堕落論

5. 善悪を知る木

② 善悪を知る木

神はアダムだけを創造したのではなく、その配偶者としてエバを創造された

したがって、エデンの園の中に創造理想を完成した男性を比喩する木があったとすれば

同様に女性を比喩するもう一つの木が、当然存在してしかるべきではなかろうか

これが生命の木と共に生えていたと記録されている
(創二・9)

善悪を知る木であったのである

したがって、善悪を知る木というその木は、創造理想を完成した女性を象徴するものである

ゆえに、それは完成したエバを例えていった言葉であるということを知ることができるのである

聖書に、イエスを「ぶどうの木」
(ヨハネ一五・5)

あるいは「オリブの木」
(ロマ一一・17)

に例えられているように、神は人間堕落の秘密を暗示なさるときにおいても

完成したアダムとエバとを、二つの木をもって比喩されたのである

原理講論 前編2 堕落論-5





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前2-4. 生 命 の 木

2016-12-29 00:01:11 | 原理講論 前編2 堕落論

4. 生 命 の 木

① 生 命 の 木

聖書のみ言によれば、堕落人間の願いは生命の木の前に行き、生命の木を完成するところにあるという

すなわち、箴言一三章12節を見れば

旧約聖書において、イスラエル民族も生命の木をその願望の対象として眺めていたし

黙示録二二章14節の記録を見ると

イエス以後、今日に至るまでのすべてのキリスト教信徒たちの願望もまた

ひたすらに生命の木に至ろうとするところにあるということが分かるのである

このように、堕落人間の究極的な願望が、生命の木であるということを見れば、堕落前のアダムの願望も、生命の木であったに相違ないのである

なぜかといえば、復帰過程にいる堕落人間は、元来堕落前のアダムが完成できなかったその願いを、再び成就しなければならないからである

創世記三章24節を見れば、アダムが罪を犯したために、神は炎の剣をもって生命の木の道をふさいでしまわれたと記されている

この事実を見ても、堕落前のアダムの願望が、生命の木であったということを知ることができる

しかし、アダムは堕落することによって、彼の願望であったこの生命の木に至ることができず、エデンの園から追放されたので

この生命の木は、その後すべての堕落人間の望みとして残されてきたのである

では、完成するそのときを仰ぎ見ながら成長していた未完成のアダムの願いであった生命の木とは、いったい何であったろうか

それは、彼が堕落せずに成長して、神の創造理想を完成した男性になるということでなければならない

したがって、我々はここにおいて、生命の木とは、すなわち

創造理想を完成した男性である

ということを知ることができる。

創造理想を完成した男性とは、すなわち、完成したアダムを意味するがゆえに

生命の木とは、すなわち、完成したアダムを比喩した言葉であるということを知ることができるのである

もしアダムが堕落しないで、創造理想を完成した男性となり、生命の木を完成したならば

彼の子孫たちもみな、生命の木として完成し、地上天国を成就したはずであった

しかし、アダムが堕落したために、神は生命の木に行くその道を、回る炎の剣をもってふさいでしまわれたのである
(創三・24)

ゆえに生命の木は創造理想を復帰しようとする堕落人間の願いとして、残されなければならなくなったのである

しかも、原罪をもつ堕落人間は、彼ら自らの力をもってしては、創造理想を完成した生命の木になることはできない

それゆえ、堕落人間が生命の木となるためには、ロマ書一一章17節に記録されているみ言のように

創造理想を完成した一人の男性が、この地上に生命の木として来られ

すべての人をして彼に接がしめ、一つになるようにしなければならない

このような生命の木として来たり給うたお方が、すなわちイエスであったのである

それゆえに、箴言一三章12節に記されている旧約時代の聖徒たちが期待していた生命の木とは

まさしくこの初臨のイエスであったということを、我々は知ることができるのである

しかしながら、創世記三章24節に明示されているように、神が回る炎の剣をもって、生命の木の前に行くアダムの道をふさいでしまわれたので、これが取り除かれない以上、人間は、生命の木の前に出ていくことができないのである

したがって、使徒行伝二章3節に記録されているように、五旬節の日に、聖徒たちの前をふさいでいた舌のごとき炎、すなわち火の剣が分かれて現れたのち、初めて聖霊が降臨し、全人類が生命の木であられるイエスの前に行き、彼に接がれるようになったのである

しかしながら、キリスト教信徒たちは、生命の木なるイエスに、霊的にのみ接がれるようになったので、いかにイエスを熱心に信ずる父母であるとしても、また再び贖罪を受けなければならない罪悪の子女を生まなければならなくなったのである

このような事実から見るとき、いかに信仰の篤い信徒といえども、アダムから遺伝されてきた原罪を、今もなお取り除くことができないままに、これをまた、そのまま子孫へと遺伝しているという事実を、我々は知っているのである
(前編第四章第一節)

そのために、イエスは地上に生命の木として再臨され、すべての人類を、再び接ぐことによって、原罪まで贖罪してくださる摂理をなさらなければならない

黙示録二二章14節のみ言のごとく、新約聖徒たちが再び、生命の木を待望するようになったその理由は、実にここにあったのである

したがって、この黙示録二二章14節に記録されている生命の木は

まさしく再臨のイエスを比喩した聖句であるということが分かる

我々は、ここにおいて、神の救いの摂理の目的は、エデンの園で失われた生命の木(創二・9)を

黙示録二二章14節の生命の木として復帰なさろうとするところにあった、と見ることができるのである

アダムが堕落して、創世記二章9節の初めの生命の木を完成できなかったので、この堕落した人間を救うために

イエスは黙示録二二章14節の、後の生命の木として再臨されなければならない

イエスを後のアダムという理由は実にここにあるのである
(コリントⅠ一五・45)

原理講論 前編2 堕落論-4





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前2-3. 善悪を知る木の果

2016-12-28 16:59:43 | 原理講論 前編2 堕落論

3. 善悪を知る木の果

(一) 生命の木と善悪を知る木

多くのキリスト教信徒たちは今日に至るまで、アダムとエバが取って食べて堕落したという善悪を知る木の果が、文字どおり何かの木の果実であると信じてきた

しかし、そうであるなら、人間の父母としていまし給う神が、何故その子女たちが取って食べて堕落する可能性のある果実を、このように

「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好まし」くおつくりになり
(創三・6)

彼らがたやすく取って食べられる所に置かれたのであろうか

かつてイエスは

「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」
(マタイ一五・11)

と言われた。

まして、食物がいかにして人間を堕落させることができるであろうか

人間の原罪は、あくまで人間の祖先から遺伝されてきたものであって

食物が原罪を遺伝するその要因とはなり得ないのである

なぜなら遺伝は、ただその血統を通じてのみなされるからである

ゆえに、ある一人の人間が、何か物を食べたなどということによって、その結果が子孫代々にまで遺伝されるはずはない

ある信徒たちは、神がそのみ言に対して人間が従順であるかどうかを試すために善悪を知る木の果を創造し、それを食べてはならぬと命令されたのであると信じている

しかし、全き愛の方であられる神が、人間に死を伴うような方法でもって、かくも無慈悲な試みをされたとは到底考えることができない

アダムとエバは、彼らが善悪の果を取って食べる日には、必ず死ぬであろうと言われたみ言のよう

それを食べるときには死ぬということを知っていたはずである

それにもかかわらず彼らはこれを取って食べたのである

飢えてもいなかったアダムとエバが食物などのために、死を覚悟してまで、かくも厳重な神のみ言を犯したとは到底考えられないのである

それゆえに、善悪を知る木の果は何かの物質ではなく

生死にかかわることさえも問題視しないほどの強力な刺激を与えることのできる、他の何物かであるに相違ない

さて、善悪を知る木の果が物質でないとすれば、それは他の何物かを比喩したものであると見なければならない

聖書の多くの主要な部分が、象徴とか比喩でもって記録されていることは事実である

もしそうだとすれば、なぜ善悪の果だけを無理に文字どおりに信じなければならないのであろうか

今日のキリスト教信徒たちは、当然のことながら聖書の文字のみにとらわれた過去の固陋にして慣習的な信仰態度を捨てなければならない

では善悪を知る木の果を比喩であると見るならば、それは果たして何を意味するのであろうか

我々はこれを解明する方法として、創世記二章9節の善悪を知る木と共にエデンの園にあったという生命の木が何であるかをまず調べてみることにしよう

この生命の木が何であるかが明らかになれば

これと共にあったという善悪を知る木が何であるかということも、明確に知られるようになるからである

原理講論 前編2 堕落論-3





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