原理講論 総序-2
その子供に悪いことを教える父母がいるであろうか
その子弟を不義に導く教師がいるであろうか
だれしも悪を憎み、善を立てようとするのは、万人共通の本心の発露なのである
とりわけ、このような本心の指向する欲望に従って、善を行おうと身もだえする努力の生活こそ、ほかならぬ修道者たちの生活である
しかしながら、有史以来、ひたすらにその本心のみに従って生きることのできた人間は一人もいなかった
それゆえ、聖書には
「義人はいない、ひとりもいない
悟りのある人はいない、神を求める人はいない」
(ロマ三・10、11)
と記されているのである。
また人間のこのような悲惨な姿に直面したパウロは
「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが
わたしの肢体には別の律法があって
わたしの心の法則に対して戦いをいどみ
そして
肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る
わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」
(ロマ七・22〜24)
と慨嘆したのであった。
ここにおいて、我々は
善の欲望を成就しようとする本心の指向性と
これに反する
悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが
同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して
互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである
存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない
したがって、このような矛盾性をもつようになった人間は、正に破滅状態に陥っているということができる
ところで、このような人間の矛盾性は、人間が地上に初めて生を享けたときからあったものとは、到底考えられない
なぜかといえば、いかなる存在でも、矛盾性を内包したままでは、生成することさえも不可能だからである
もし人間が、地上に生を享ける以前から、既にこのような矛盾性を内包せざるを得ないような、運命的な存在であったとすれば
生まれるというそのこと自体不可能であったといえよう
したがって、人間がもっているこのような矛盾性は、後天的に生じたものだと見なければなるまい
人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである
原理講論 総序 より
聖書と原理講論を学び
神様をはっきりと知り、神様に感謝し
神様をおそれ、神様を愛し
自分を愛するのと同じように隣人を愛しましょう
クリック!
↓ ↓ ↓ ↓
聖書完読の年間計画
一日4章読めば一年以内に完読することができます



原理講論と聖書を学びましょう
原理講論 聖書 神様教会