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生命の言葉

神様を知り、信仰の種を育てましょう

前5-2. 堕落による死

2017-01-23 00:38:49 | 原理講論 前編5 復 活 論

2. 堕落による死

(二)堕落による死

我々は上述のごとく、互いにその意義を異にする二つの死があるということを知った

では、そのうちのいずれが、人間始祖の堕落によってもたらされた死なのだろうか

神は本来、人間が堕落しなくても、老衰すればその肉身は土に帰るように創造されたのである

だから、アダムが九三〇歳で死んで、その肉身は土に帰ったけれども、これはどこまでも堕落に起因する死ではなかった

なぜなら、創造原理によれば、肉身は霊人体の衣ともいえる部分で、衣服が汚れれば脱ぎ捨てるように、肉身も老衰すればそれを脱いで、その霊人体だけが無形世界に行って、永遠に生きるように創造されたからである

物質からなる生物体の中で永遠性をもつものは一つもない

それゆえに、人間もこの創造原理を免れ得ないので、人間の肉身といえども、永存することはできないのである

もしも人間が地上で肉身のまま永存するとすれば、霊人体の行くべき所である無形世界は、最初から創造される必要もなかったはずである

本来、無形世界は堕落した人間の霊人体が行ってとどまるために、人間が堕落した以後に創造されたものではなく

既に、人間が創造される前に、創造目的を完成した人間たちが、地上で生活したのち、肉身を脱いだ霊人体が行って、永遠に生きる所として創造されているということを知らなければならない

堕落人間が、肉的な命に強い未練をもつようになったのは、人間が元来、肉身を脱いだあとには、地上よりも一層美しく、かつ永遠なる無形世界に行って、永遠に生きるように創造されているという事実が、堕落によって分からなくなったからである

地上における肉身生活と、無形世界における霊人生活との関係は、青虫と蝶の生活に比較することができる

もし、土の中にある青虫に意識があるとすれば、ちょうど人間が肉身生活に対して愛着を感じているように、それもやはり土の中の生活に愛着を感じて、青虫として永存することを欲するであろう

ところがこれは、青虫がいったん殻を脱いで蝶となり、香りの良い花や甘い蜜を自由に味わうことができる、また一つの新しい世界があることを知らなかったからであろう

地上人と霊人の関係は、正にこの青虫と蝶との関係に似ている

もしも人間が堕落しなかったならば、地上人たちは、同じ地上人同士との関係のように、霊人たちとも自由に会うことができるので、肉身を脱ぐことが、決して永遠の別れではないことがよく分かるのである

そればかりでなく、人間が地上で完成して生活したのち、老衰して肉身を脱いで行く霊人の世界が、いかに美しく幸福な世界であるかということをはっきり知れば、かえって、肉身を脱いでその世界に行かれる日を慕い、待ち望むことであろう

このように、上述した二つの死の中で、肉身の寿命が切れるという意味での死が、堕落による死ではないということが分かれば、サタンの主管圏内に落ちるという意味での死が、まさしく堕落による死であるという結論になる

我々はこの問題を、聖書を中心として、もっと詳しく検討してみることにしよう

堕落による死とは、すなわち、人間始祖が善悪の果を取って食べることによって招来した、正にその死を意味するのである

ところで、その死は、いかなる死であったのだろうか
創世記二章17節(文語訳)

を見れば、神がアダムとエバを創造されたのち、彼らに善悪の果について

「汝之を食ふ日には必ず死べければなり」

と言われた。

それゆえに、神が言われたとおりに、彼らは取って食べたその「日」を期して、必ず死んだと見なければならない

しかしながら、その死んだアダムとエバは今日の我々と同じく、依然として地上で肉身生活を続けながら、子孫を生み殖やして、ついには、今日の堕落した人類社会を形成するまでになったのである

このような事実から見て、堕落によって招来したその死は、肉身の寿命が切れて死ぬことを意味するのではなく、神の善の主管圏から、サタンの主管圏に落ちるという意味での死をいうのであることを、我々は明確に知ることができる

我々は聖書でこれに関する例を挙げてみることにしよう

ヨハネⅠ三章14節に

「愛さない者は、死のうちにとどまっている」

と言われた。

ここでいう愛とは、もちろん神の愛を意味するのである

神の愛の中で、隣人を愛することを知らない者は、いくら地上で生活をしているといっても、彼はあくまでも死んだ者であるという意味である

これと同じ意味で、ロマ書六章23節には

「罪の支払う報酬は死である

しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」

と言われ、また、ロマ書八章6節には

「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである」

と記録されているのである

原理講論 前編5 復 活 論 -2





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自分を愛するのと同じように隣人を愛し

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よく言っておく

天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである

マタイによる福音書:5章より


十戒

❶ あなたは わたしのほかに 何ものをも神としてはならない

❷ あなたは 自分のために 刻んだ像を造ってはならない

❸ あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない

❹ 安息日を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ

❺ あなたの神、主が命じられたように、あなたの父と母とを敬え

❻ あなたは殺してはならない

❼ あなたは姦淫してはならない

❽ あなたは盗んではならない

❾ あなたは隣人について偽証してはならない

➓ あなたは隣人の妻を むさぼってはならない
またすべて隣人のものを ほしがってはならない

申命記5章より



イエス様の答え

「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」

イエスは言われた、

「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」

彼は言った、

「どのいましめですか」

イエスは言われた、

「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。 父と母とを敬え』

また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」

マタイによる福音書‬ ‭19章 より



統一教会の混乱克服の為の基本的な理解

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前5-1. 復 活 論

2017-01-22 14:16:09 | 原理講論 前編5 復 活 論

1. 復 活 論

第五章 復 活 論

聖書の預言を、文字どおりそのまま受け入れるとすれば、イエスが再臨されるときには、既に土の中に葬られて、元素化されてしまったすべての信徒たちの肉身が、再び元どおりの姿によみがえって、出てくるものと見なければならない
(テサロニケⅠ四・16、マタイ二七・52)

これは、神が下さったみ言であるから、我々の信仰的な立場においては、そのまま受け入れなければならない

しかし、これは現代人の理性では到底納得できない事実である

そのため結局我々の信仰生活に大きな混乱をきたすようになる

したがって、この問題の真の内容を解明するということは、極めて重要なことであるといわなければならない

第一節 復 活

復活というのは、再び活きるという意味である

再び活きるというのは、死んだからである

そこで、我々が復活の意義を知るためには、まず、死と生に対する聖書的な概念をはっきり知らなければならないのである

(一)死と生に対する聖書的概念

ルカ福音書九章60節の記録を見れば、父親の葬式のために自分の家へ帰ろうとする弟子に、イエスは死人を葬ることは、死人に任せておくがよいと言われた

我々はこのイエスのみ言の中で、死と生に対して互いにその意義を異にする二つの概念があるということを知ることができる

第一は、葬られなければならない、その弟子の父親のように、肉身の寿命が切れた「死」に対する生死の概念である

このような死に対する生は、その肉身が生理的な機能を維持している状態を意味する

第二は、その死んだ父親の葬式をするために、集まって活動している人たちを指摘していう「死」に対する生死の概念である

それではどうしてイエスは、現在その肉身を動かしている人たちを指摘して、死んだ人と言われたのだろうか

それは彼らがイエスに逆らって、神の愛から離れた位置、すなわちサタンの主管圏内にとどまっていたからである

ゆえに、この死は肉身の寿命が切れる死を意味するのではなく、神の愛の 懐 を離れて、サタンの主管圏内に落ちこんだことを意味する死のことなのである

したがって、このような「死」に対する「生」の意義は、神の愛の主管圏内において、神のみ言のとおりに活動している状態をいうのである

それゆえに、いくらその肉身が活動しているといっても、それが神の主管圏を離れて、サタンの主管圏内にとどまっているならば、彼は創造本然の価値基準から見て、死んだ人であるといわなければならない

これは、黙示録三章1節に記録されているように、不信仰的なサルデスにある教会の信徒たちに

「あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる」

と言われたのを見ても分かる。

その反面、既に、肉身の寿命が切れた人間であっても、その霊人体が、霊界において、神の愛の主管圏内にいるならば、彼はあくまでも、生きている人である。イエスが

「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」
(ヨハネ一一・25)

と言われたのは、イエスを信じて、神の主管圏内で生きる者は、寿命が切れて、その肉身が土の中に葬られたとしても、その霊人体は依然として神の主管圏内にいるので、彼は生きている者であるという意味である

イエスは、また続けて

「また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない

あなたはこれを信じるか」

と言われた。

このみ言は、イエスを信じる者は、地上で永遠に死なずに生きるという意味ではなく

肉身のある間にイエスを信じる者は、現在生きているのはいうまでもなく

後日死んで肉身を脱ぎ地上を離れるとしても、彼の霊人体は、永遠に神の愛の  懐 で、依然として生きつづけるはずであるから、したがって、永遠に死なないという意味で言われたのである

ゆえに、上記の聖句にあるイエスのみ言は、人間の肉身の寿命が切れることを意味する死は、我々の永遠なる命には何らの影響をも及ぼさない、という意味で言われたみ言である

また

「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」

と言われた、ルカ福音書一七章33節のみ言も、肉身を保存するために神のみ旨に背く者は、いくらその肉身が活動していても、彼は死んだ者であり

また、これと反対に神のみ旨のために肉身を犠牲にする者は、仮にその肉身は土の中に葬られて腐ってしまったとしても、その霊人体は神の愛に抱かれて永存できるのであるから、彼はすなわち、生きている者であるという意味である

原理講論 前編5 復 活 論 -1





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天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである

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十戒

❶ あなたは わたしのほかに 何ものをも神としてはならない

❷ あなたは 自分のために 刻んだ像を造ってはならない

❸ あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない

❹ 安息日を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ

❺ あなたの神、主が命じられたように、あなたの父と母とを敬え

❻ あなたは殺してはならない

❼ あなたは姦淫してはならない

❽ あなたは盗んではならない

❾ あなたは隣人について偽証してはならない

➓ あなたは隣人の妻を むさぼってはならない
またすべて隣人のものを ほしがってはならない

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イエス様の答え

「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」

イエスは言われた、

「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」

彼は言った、

「どのいましめですか」

イエスは言われた、

「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。 父と母とを敬え』

また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」

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