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生命の言葉

神様を知り、信仰の種を育てましょう

ローマ11 バアルにひざをかがめなかった七千人を、わたしのために残しておいた

2016-08-12 00:25:52 | 新約聖書6 45ローマ人への手紙


ローマ人への手紙11章

そこで、わたしは問う

「神はその民を捨てたのであろうか」

断じてそうではない

わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である

神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはされなかった

聖書がエリヤについてなんと言っているか、あなたがたは知らないのか

すなわち、彼はイスラエルを神に訴えてこう言った

「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこぼち、そして、わたしひとりが取り残されたのに、彼らはわたしのいのちをも求めています」

しかし、彼に対する御告げはなんであったか

「バアルにひざをかがめなかった七千人を、わたしのために残しておいた」

それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる

しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない

そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである

では、どうなるのか。イスラエルはその追い求めているものを得ないで、ただ選ばれた者が、それを得た

そして、他の者たちはかたくなになった

「神は、彼らに鈍い心と、見えない目と、聞えない耳とを与えて、きょう、この日に及んでいる」

と書いてあるとおりである。 ダビデもまた言っている

「彼らの食卓は、彼らのわなとなれ、網となれ、つまずきとなれ、報復となれ

彼らの目は、くらんで見えなくなれ、彼らの背は、いつまでも曲っておれ」

そこで、わたしは問う

「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」

断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである

しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう

そこでわたしは、あなたがた異邦人に言う

わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの務を光栄とし、 どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている

もし彼らの捨てられたことが世の和解となったとすれば、彼らの受けいれられることは、死人の中から生き返ることではないか

もし、麦粉の初穂がきよければ、そのかたまりもきよい

もし根がきよければ、その枝もきよい

しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、 あなたはその枝に対して誇ってはならない

たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである

すると、あなたは

「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」

と言うであろう。 まさに、そのとおりである

彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである

高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい

もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう

神の慈愛と峻厳とを見よ

神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる

そうでないと、あなたも切り取られるであろう

しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう

神には彼らを再びつぐ力がある

なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか

兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない

一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、 こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう

すなわち、次のように書いてある

「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう

そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」

福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である

神の賜物と召しとは、変えられることがない

あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、 彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである

すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである

ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい

「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか

また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」

万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである

栄光がとこしえに神にあるように

アァメン

ローマ人への手紙‬ ‭11:1-36

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聖書を完読しよう1057
45-11

ローマ10 すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない

2016-08-11 13:45:30 | 新約聖書6 45ローマ人への手紙


ローマ人への手紙10章

兄弟たちよ

わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである

わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない

なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである

キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである

モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている

しかし、信仰による義は、こう言っている

「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」

それは、キリストを引き降ろすことである。 また

「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」

それは、キリストを死人の中から引き上げることである

では、なんと言っているか。

「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」

この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である

すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる

なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。 聖書は

「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」

と言っている。 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない

同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。 なぜなら

「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」

とあるからである。 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか

聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか

つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか

「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」

と書いてあるとおりである。 しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは

「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」

と言っている。 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである

しかしわたしは言う、彼らには聞えなかったのであろうか。否、むしろ

「その声は全地にひびきわたり、その言葉は世界のはてにまで及んだ」

なお、わたしは言う、イスラエルは知らなかったのであろうか。まずモーセは言っている

「わたしはあなたがたに、国民でない者に対してねたみを起させ、無知な国民に対して、怒りをいだかせるであろう」

イザヤも大胆に言っている

「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、わたしを尋ねない者に、自分を現した」

そして、イスラエルについては

「わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた」

と言っている

ローマ人への手紙‬ ‭10:1-21

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聖書を完読しよう1056
45-10

ローマ9 わたしはキリストにあって真実を語る 偽りは言わない わたしの良心も聖霊によって

2016-08-11 13:42:16 | 新約聖書6 45ローマ人への手紙


ローマ人への手紙9章

わたしはキリストにあって真実を語る

偽りは言わない

わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている

すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある

実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない

彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの

また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである

万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな

アァメン

しかし、神の言が無効になったというわけではない

なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく、 また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである

かえって

「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」

すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである

約束の言葉はこうである

「来年の今ごろ、わたしはまた来る。そして、サラに男子が与えられるであろう」

そればかりではなく、ひとりの人、すなわち、わたしたちの父祖イサクによって受胎したリベカの場合も、また同様である

まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、 わざによらず、召したかたによって行われるために

「兄は弟に仕えるであろう」

と、彼女に仰せられたのである

「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」

と書いてあるとおりである。

では、わたしたちはなんと言おうか

神の側に不正があるのか

断じてそうではない。 神はモーセに言われた

「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」

ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである

聖書はパロにこう言っている

「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである

すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」

だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである

そこで、あなたは言うであろう

「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」

ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって

「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか

陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか

もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば

かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか

神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである

それは、ホセアの書でも言われているとおりである

「わたしは、わたしの民でない者を、わたしの民と呼び、愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう

あなたがたはわたしの民ではないと、彼らに言ったその場所で、彼らは生ける神の子らであると、呼ばれるであろう」

また、イザヤはイスラエルについて叫んでいる

「たとい、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう

主は、御言をきびしくまたすみやかに、地上になしとげられるであろう」

さらに、イザヤは預言した

「もし、万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったなら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラと同じようになったであろう」

では、わたしたちはなんと言おうか

義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た

しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった

なぜであるか

信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである

彼らは、つまずきの石につまずいたのである

「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、さまたげの岩を置く

それにより頼む者は、失望に終ることがない」

と書いてあるとおりである

ローマ人への手紙‬ ‭9:1-33

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聖書を完読しよう1055
45-9

ローマ8 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けている

2016-08-11 00:50:07 | 新約聖書6 45ローマ人への手紙


ローマ人への手紙8章

こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない

なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである

律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった

すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである

これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである

なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである

肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである

なぜなら、肉の思いは神に敵するからである

すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである

また、肉にある者は、神を喜ばせることができない

しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである

もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない

もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである

もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら

キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう

それゆえに、兄弟たちよ

わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない

なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである

しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう

すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である

あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである

その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである

御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる

もし子であれば、相続人でもある

神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである

わたしは思う

今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない

被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる

なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり

かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである

実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている

それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら

子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる

わたしたちは、この望みによって救われているのである

しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか

もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである

御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる

なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである

そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる

なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている

神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった

それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった

そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである

それでは、これらの事について、なんと言おうか

もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか

ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか

だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか

神は彼らを義とされるのである

だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである

だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か

「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」

と書いてあるとおりである

しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。 わたしは確信する

死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 高いものも深いものも

その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである

ローマ人への手紙‬ ‭8:1-39

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聖書を完読しよう1054
45-8

ローマ7 わたしは 内なる人としては神の律法を喜んでいるが わたしの肢体には別の律法があって

2016-08-10 19:53:22 | 新約聖書6 45ローマ人への手紙


ローマ人への手紙7章

それとも、兄弟たちよ

あなたがたは知らないのか

わたしは律法を知っている人々に語るのであるが

律法は人をその生きている期間だけ支配するものである

すなわち、夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって彼につながれている

しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放される

であるから、夫の生存中に他の男に行けば、その女は淫婦と呼ばれるが

もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならない

わたしの兄弟たちよ

このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである

それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり

こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである

というのは、わたしたちが肉にあった時には

律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた

しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され

その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである

それでは、わたしたちは、なんと言おうか

律法は罪なのか

断じてそうではない

しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう

すなわち、もし律法が

「むさぼるな」

と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう

しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた

すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである

わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、 わたしは死んだ

そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった

なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである

このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである

では、善なるものが、わたしにとって死となったのか

断じてそうではない

それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである

すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである

わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている

しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである

わたしは自分のしていることが、わからない

なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである

もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる

そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である

わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている

なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである

すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている

もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である

そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る

すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが

わたしの肢体には別の律法があって

わたしの心の法則に対して戦いをいどみ

そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る

わたしは、なんというみじめな人間なのだろう

だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか

わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな

このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである

ローマ人への手紙‬ ‭7:1-25

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45-7