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カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

キャンセル

2008年02月06日 | 日記 ・ 雑文
1週間ほど前のことだが、クライエントの都合により予定していた面談が当日になってキャンセルされたことがあった。
長年の経験から言えば、“キャンセルされること”はとくに珍しい出来事ではないし、その理由も納得せざるを得ないものだったが、正直“このときのキャンセル”は痛かった。
というのは、数日前に電話で面談の依頼を受けたとき、クライエントが希望した日時は、じつは私の都合が悪かった(予定が入っていた)のである。ところが私は、「できれば別の日のほうが……」などと曖昧な返事をしたために(これが間違いだった!)、それを聞いたクライエントが「どうしてもこの日でないとダメなのだ」と、自分の側の都合と事情を訴えてきたのだった。
それを聞かされてしまった私は、「そういうことなら仕方ないか……」という気持ちで自分の予定を変更して、この面談を引き受けるという成り行きになってしまったのである。

普段の私だったら、「自分の都合を曲げて相手の都合に合わせる」などという行為は絶対にやらないのだが、このような間違いを犯してしまったのには背景があった。
というのは、この面談依頼を受ける前に、すでにこのクライエントとは電話で1時間のカウンセリングを経験していたのだ。したがって私は、この人が今、“どの程度の精神的危機状態にあるか”を私なりにわかっていただけでなく、“手応えのようなもの”(とは言っても、「この人とだったらカウンセリング関係を作ることができるかな?」という程度の感触だが)を感じていたのである。
それが私に“曖昧な返事をする”という間違いを起こさせたのだった。

キャンセルの電話を受けた瞬間、「なんだよ。こっちは自分の予定を変更したのに。今日一日が無駄になったじゃないか!(怒)」と、恨みに近い否定的な感情が生じた。
が、少し冷静になってからよく考えてみたところ、相手を恨むのは「お門違いである」ことに気が付いた。と同時に「あ、我が出たんだ!」と悟った。
クライエントから希望の日時を聞いたとき、私が“曖昧な返事をした”のは、「どうしてもこの人とカウンセリングを続けたい!」という強い思いが背後にあったからであり、その“強い思い”は私の我欲であったことに気が付いたのだった。

一般的に言って“カウンセラーを志す人”というのは、人に対して“やさしい”人物が大半だろうと想像するが、下手をするとこの“やさしさ”は、カウンセリング関係を破壊することにもつながりかねない。
上述の私の経験が物語っているように、カウンセラーの“やさしさ”がクライエントによって“裏切られた”とき、それはクライエントに対する失望と恨みに変容するのである。そして不幸にもカウンセラーがそのような否定的感情を相手に対して抱いていたなら、カウンセリング関係など成立するはずがないであろう。

これはロジャーズが言う「時間の制限」の問題そのものであるが、私はこの経験を通してあらためて「時間の制限」を含めた「制限」の重要性を痛感し、再認識させられたのだった。
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第42回スーパーボウル

2008年02月04日 | 日記 ・ 雑文
NFLの今シーズンを締めくくる第42回スーパーボウルを生で観戦した。ニューイングランド・ペイトリオッツ(以下NE)VSニューヨーク・ジャイアンツ(以下NYG)の対戦だ。結果は17対14でNYGの勝利に終わった。
個人的には「パーフェクトシーズン(シーズン無敗)達成」という歴史的偉業の瞬間を見たかったのでNEを応援していたが、最後まで手に汗握る僅差のゲーム内容だったので、応援していたチームが負けはしたものの大満足だった。

ゲーム全般を通して、とにかくNYGディフェンス陣のプレッシャーは凄まじかった。NEのQBブレイディがあれほどたくさんサックされ、パスミスを犯したゲームは記憶にないほどだ。
また、QBイーライ・マニングを中心にしたNYGオフェンス陣も、シーズン中には見られなかったような粘りのある攻撃で、チームを劇的な逆転勝利へと導いたのだった。

ゲームを振り返ってみよう。今日のゲームは試合開始から最後まで、全体的にNYGが押し気味に進めていた印象だが、「総合力では勝っている」と評されていたNEが第4Q残り時間3分を切った時点で10対14と逆転に成功した。
なにしろNEは、今シーズンここまで「無敗」で勝ち進んできたチームだ。レギュラーシーズン最終週でもこの両者は対戦しており、このときもNEが勝利していた。大方の戦前予想では、「NEの圧倒的な有利」を疑う余地はまったくなかった。誰がどう見ても今シーズンのNEは「強すぎる」という印象しか与えてなかったのだから。

私も同様で、(残り時間は3分弱もあったが)10対14になった時点でこのままNEが勝利することを確信していたのだった。この時点で私が予想したシナリオは次の通りだ。
「残り時間が少ない。4点差なので、NYGはタッチダウンを奪いにいくしかない(フィールドゴールの3点では同点にできないので)。この難しい状況で、無理やり通そうとしたQBマニングのパスがNEにインターセプトされ、万事休すとなるだろう」と。

ところが、である。何度も窮地に立たされたNYGオフェンス陣は、その都度「奇跡的なプレー」でピンチを脱し、最後はあっけなくタッチダウンを奪って再逆転してしまった。17対14だ。残り時間は数10秒。最後はQBブレイディのパスが不成功に終わり、ゲームオーバーとなった。
じつは私が予想していた「インターセプトのチャンス」が一度あったのだが、ボールがイージー過ぎたのか、NEのディフェンダーが両手の間からポロリとこぼしてしまうというプレーがあった。結果論だが、ここでインターセプトが成功していたら、勝利の女神はNEに微笑んだに違いないと思う。

NFL観戦歴約20年の私だが、これほどまでに最後まで白熱したスーパーボウルはほとんど記憶がない。スーパーボウルというのは、どちらかといえば「一方的なゲーム」になってしまう場合が多いのだ。
だが、今年のゲーム内容は大きな感動を私に与えてくれた。「圧倒的不利」と言われながらも勝利を手に入れたNYGの全選手・コーチ陣に大きな拍手を送りたい。そしてこんな素晴らしいゲームを観せてくれた「フットボールの神様」にも感謝したい。
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夫婦喧嘩

2008年01月22日 | 日記 ・ 雑文
印象に残った帰省中の出来事をもうひとつ。母の通夜が執り行なわれる数時間前だったと思うが、川越から来ていた妹夫婦が夫婦喧嘩を始めたのだ。暴力はなかったが、凄まじい怒鳴り合いとののしり合いの応酬だった。
この戦いが勃発した背景には、それこそ長い長いこれまでのプロセスとたくさんの要因や環境・状況が複雑に絡まっているのだが、それらを説明するとプライバシーの侵害に当たるので割愛させてもらう。要は自分たちの息子(7歳)に対する“教育法をめぐって”の口論だ。
この争いにたまたま同じ部屋にいた私の父も参戦し、と同時にそもそもの震源地である当人(私の甥に当たる男の子)もワーワー泣きわめくので、戦いはますますヒートアップしていった。「妹+甥っ子」VS「妹の夫+私の父」という構図で両陣営が衝突したのだった。

私は初めから終わりまで隣の部屋にいたので参戦しなかったが、全員が怒鳴り声を上げていたので内容はよく聞こえた。客観的な立場でこの口論を聞いていると、“人間と人間との間で争いが生じるということの真相”が見えてきた。
断っておくが、私は“口論することそれ自体に反対”の立場ではない。“口論”とは“話し合い”のひとつの形態だ。“話し合いがまったく無い”のと比べたら、たとえ“口論”でもやったほうがいいと思っている。ただ、同じ“話し合い”でも、“カウンセリング”と“口論”とでは、あまりにも違いが大きいように思う。「違いが大きい」というのは、「口論には、ほとんどまったく益が無い」という意味だ。

甥っ子を除いた3人の怒鳴り合いを聞いていて気がついたのは、3人とも「自分は正しい。相手は間違っている」という思想を基盤に言葉を発しているという点だ。別言すれば、全員が「自分にとっての正義を相手に振りかざしている」のだ。それが相手を非難し、批判し、罵倒する原動力となっている。非難された側は防衛せざるを得ないので、ますます「自分は正しい。相手は間違っている」を強化していく。その結果、相手に対する攻撃がよりいっそうの激しさを増してゆく……というわけだ。まあ、人間の心情から言えば、こうなってしまうのはむしろ自然な成り行きだろう。

これは家庭内戦争だが、もっと視野を広げれば、現在も世界中のあちこちで“本物の戦争”が繰り広げられている。こういう悲劇が起きるのも、根源は「自分は正しい。相手は間違っている」という思想に起因するのだろう。
もしもこの悪循環を断ち切りたいと本気で願うなら、まずは自分が「自分は正しい。相手は間違っている」という考えを捨てるしかないだろう。肝要なのは、“まずは自分が”ということである。“相手に捨てさせる”のではない。まず最初に“相手に捨てさせようとする”ならば、戦争の火の手はますます激しく燃え上がるに違いない。
だがしかし、これを文字通りに実践するのは「じつにじつに容易ではない」ということも私は承知している。なぜならこれを実践するということは、「自己を放棄する」のとまったく同意だからだ。そしてまた、それが“いかに容易ではないか”は、人類の長い戦争の歴史が証明しているだろう。

というように思考していくと“絶望的な気持ち”になるのがオチだが、唯一のわずかな希望があるとすれば、それは“カウンセリングの分野”ではなかろうか? 私は「カウンセリングによって戦争が無くなる」などという誇大妄想を抱いてはないが、少なくとも“カウンセリングのプロセス”は、“人間同士が争いを深めていくプロセス”とは正反対であることに気がついた。

カウンセリング場面においては、まず最初に大前提としてカウンセラーは“自己(=価値)を放棄”している。ゆえにクライエントが何をしゃべっても“相手を批判する気持ち”は一切生じない。カウンセラーがこのような状態で相手と向き合っていられたなら、自動的に“受容(無条件の肯定的関心)”や“共感的理解”を経験することと、その伝達が可能となる。(……と書くといかにも簡単そうだが、「これくらい困難なことない」とも言える。その難しさについては、機会があったらあらためて言及したいと思う)。
クライエントの側は、自分が何を述べても一切批判されず、カウンセラーから“受容され”、“共感的に理解されている”と経験する。そういうあたたかい、どのような言動でも許される自由な雰囲気の中で、少しずつ「自分は正しい。相手は間違っている」という類の考えに固執する必要が薄れてくると、「あれ? こういう考え方を持っている自分って、何なのだろう?」というような気持ちも生じてくる。以前はまったく疑いの余地がなかった自分の“正しい考え”に、“疑いの目”を向けられる余裕が出てくるのだ。
だが、ここのところでカウンセラーが「待ってました!」とばかりに、クライエントが気づき始めた新しい方向に強引に持っていこうとすると、とたんにヒュ~ッと身を硬くして再び元の防御体勢に戻ってしまうので要注意だ。「カウンセラーは、クライエントの歩調に合わせなければいけない」と言われるが、まったくその通りだと思う。
このようなプロセス全体を通して、はじめて人間は古い自己体制(=正しいと思っていた考え方や価値基準)に執着しなくなり、新しい自己体制(=新しい考え方や価値基準)を生み出すことが可能になるのではないか? これこそが人間の飛躍・成長・発展ではないか? と常々私は思っている。

妹夫婦たちの不毛な口論を聞きながら、「大人っていうのは、ぜんぜん成長しないものなんだな~。相変わらずだな~」とつくづく思った。というのも私には、過去に数回まったく同じテーマでこの人たちが同様の議論をしていた記憶があったからだ。そのときのそれぞれの主張と現在のそれとでは、まったく何も変わっていない。「同じ話をよくもまあ飽きもせずに繰り返せるものだ(笑)」と、内心では半ばあきれていた。と同時に「相手の言動を非難するのではなく、3人が3人とも“自分の側”を見直すことができない限り、この争いは今後も続いていくんだろうな~」とも思った。

他人事だからこうして笑えるが、そう書いている自分自身はどうなのだろう? 私だって他人から見れば、「相変わらずだな~。進歩・成長がぜんぜん見られないな~」と思われているかもしれない。だとしたら……、あー嫌だ。特定の思想や価値にのみ固執している“頭の固い大人”にはなりたくないものだ。常に進歩・成長・発展してゆける柔軟性を持った人間で在りたいものだ。
笑い話として書くつもりでいたのだが、なんだか笑えなくなってきた。
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母の死

2008年01月20日 | 日記 ・ 雑文
1月11日の深夜(正確には12日の1:00過ぎ)、母が他界した。9日から危篤状態となり、14日に葬儀・告別式を終えた。私が経験したその間の出来事のほんの一部をここに記しておきたいと思う。「ほんの一部」としたのは、全部などとても書けないし、書くつもりもないからだ。

9日の昼に私たち家族3人は甲府(山梨県)の実家に帰省し母を見舞った。この日の昼頃から容態が悪化していたのだが、夕方には完全にこん睡状態に入った。危篤だ。家中が緊張感に包まれた。父が大慌てで川越(埼玉県)に住んでいる妹夫婦に電話した。もう一人の妹(実家近くに住んでいる)の家族と私たちは覚悟を決めてスタンバイしていた。あとは川越の妹を待つだけだ。「なんとか間に合ってくれ!」と皆で祈った。
その祈りに母が応えてくれたのだろうか、夜9時頃に一時的な危機状態を迎えたが、川越の妹家族が到着した10時頃には容態は安定を取り戻してくれた。最後の命の力を振り絞っているようだった。間もなく主治医(女性)を含めた医療スタッフが家にやって来て、家族全員とで母のベッドを取り囲んだ。主治医が「お子さんたち全員が集まってますよ。よかったね」と声をかけると、母はニッコリ微笑んだ。
「一時的な危機状態は去ったので、しばらくは安定しているでしょう」という主治医の判断で、その場はそれで解散した。ただ、私たち家族は念のため、実家で一夜を明かすことにした。近所(クルマで5分くらい)に別宅があったのだが、この日は父が通常使用しているウォーターベッド1台に息子(3歳)を含めて3人でうずくまるようにして眠った。
翌朝、目が覚めると全身に激痛が走った。慣れないベッドの上に無理な体勢で寝ていたので、首・肩・背中を痛めてしまったらしい。この痛みは現在もまだ残っている。

話が前後するが、上述の舞台は両親の住居であり私が生まれ育った実家である。病院の集中治療室ではない。
半年ほど前に末期の肺癌(すでにリンパ節に転移していた)が見つかり、余命が半年ほどであることを知った母は、外科手術も化学療法も行なわず(足が不自由になったので放射線治療は施したが)、自宅で終末期医療(主に痛みや苦痛を除去する医療措置)を受けながら最期を迎えることを選択したのだった。いわゆる“延命措置”には「NO!」の態度を示したのだ。私を含めて家族全員がその決断を尊重し、賛成した。反対者は一人もいなかった。
前年11月下旬に脳梗塞を併発し、3週間ほど入院したが、このときも母の希望で退院し自宅で療養することに決めた。右半身と言語に不自由が残っていたので看病する側(父)は大変だったが、母の意志を尊重しての決断だった。入院中は食事にまったく手をつけなかった母が、帰宅したその日からモリモリ食べ出したのには驚いた。ただ単に“病院食がマズかった”だけでなく、“生命力をより効果的に機能させるような環境”が、母にとっては“自宅のほうに整っていた”のだろうと私は思っている。

そのような事情から、危篤になっても点滴は施さなかった。ということは、どんなに長くても「あと1週間しか生きられない」ことを意味する。自力で栄養を摂取することは不可能なのだから……。しかし、主治医の判断によるこの措置に異を唱える人はいなかった。家族全員の思いは「安らかに最期を迎えてほしい」というだけであり、「単なる延命措置には反対」の気持ちだったのだ。
片肺しか機能していないので酸素吸入器は一時的に使用したが、母はそれも嫌がった。チューブを鼻の穴に挿すと左手で何度も振り払った。人間の精神性や自立性という観点から言えば、このような行為は共感的に理解できる気がした。
この“自宅で終末期医療を行なって最期を迎える”という選択は、今にして思うと「本当に良かった」と言える。いや、「幸せだった」と言いたいくらいだ。その“幸せ”を一番に感じていたのは母本人だったに違いないが、家族にとっても住み慣れた我が家で母を看取れたことは幸せだったに違いない。病院の集中治療室で手足を縛られ、管だらけにされたまま死んでいくのと比べれば、その違いは容易に想像できるだろう。

さて、記述を元に戻すが、11日の夜9時過ぎに再び容態が悪化した。別宅に戻って入浴後だった私は知らせを受けると、妻と子どもを残してすぐに駆けつけた。
母の傍らで看病していた父と妹によると「うめき声のようなものを上げていた」らしい。家族が揃ったあと、しばらくしてやって来た主治医によると、「その声は喉の痙攣によるもので本人の声ではない」とのこと。しかし、「この症状が出たということは、いよいよその時が間近に来ている証拠だ」という。
喉の痙攣を抑える注射を打ち、それから小1時間くらい私たちはじっと母の動向を見守っていた。「注射を打った直後に亡くなってしまう人もいるので、よく誤解されてしまうんですよねえ(苦笑)」と主治医が言った。留まるべきか帰るべきか、主治医も判断に迷っているようだった。結局、「お母さんはまだ若いので、心肺が機能する力が強いのかもしれませんね」という話になり、この場は一旦解散することになった。11時少し前だった。私は体を痛めたあのウォーターベットで眠ることにした。「今度は自分一人だから大丈夫だろう」と言い聞かせて。

1時頃、父に起こされた。まだ眠っている体を引きずるようにして母の寝室に行った。一目見て呼吸が完全に止まっているのがわかった。ここ数日間は片方の肺だけで精一杯の呼吸を行なっていたので、胸が大きく上下に動いていた。しかし目の前にいる母の胸は微動だにしていない。死んだことがはっきりとわかった。と同時に「なんと安らかな顔だろう」と思った。仏教では死んであの世に行くことを“成仏する”と言うが、「まったくその通りだなあ」と思った。目の前の母の顔は“仏様”そのものだった。
しばらくして近所の妹と主治医たち医療スタッフが駆けつけて来た。主治医が法的な最終確認を行なったあと、家族に死亡が宣告された。この時刻が書類に記す公式な死亡時刻となる。
父の話によると、「亡くなるほんの少し前、ベッド脇の椅子に腰掛けながら『矢でも鉄砲でも降って来い。あとは神様仏様にすべてを委ねます』と独り言をつぶやいたところ、それからしばらくしてふと横を見ると呼吸が止まっていた。それを見て初めて『あれっ?』と思ったが、もしも隣のベッドで寝ていたら、きっと朝まで気がつかなかっただろう」ということだ。
主治医の先生が数日前に話していた。「人はみな、すべての準備が整ったところで、自分の意思で旅立っていくのです」と。ここで言う“すべての準備”の中には、“家族の側の準備”も含まれているらしい。「お母さんは家族全員の“心の準備”が整ったのを見届けて、そのタイミングでこの世に別れを告げたのでしょう」と先生が言った。私もまったく同感だった。理屈ではなく、「確かにそうだったのだろう」としか思えなかった。
これとは逆に「家族が揉め事を起こしたり、引き止めようとしたりして、死期を迎えた患者さんがなかなか旅立つことができないケースもある」という話も聞いた。

話はちょっと変わるが、この一連のプロセスをつぶさに見ながら、私が最も驚くと同時に感動したのは、“現在の終末期医療の進歩・発展ぶり”だった。母の“自宅で最期を迎えたい”という選択に対して私は賛同していたが、一方で「終末期医療といっても、しょせんは医術に過ぎない。そんなものがどの程度患者をケアできるのだろうか?」という疑問も抱いていた。私はこの方面に関してはズブの素人だったので、このような疑問を持ったのはむしろ当然だったかもしれない。
しかし母は、まったく苦しまずに、本当に安らかに死んでいった。「眠ったまま死んでゆく」という表現があるが、まさにその通りだったのだ。何よりもこの事実に強い衝撃を受けた。それを可能にしたのは“終末期医療”のサポートがあってのことだ。「ものすごい医療技術が現在の日本にはあるんだな」というのが正直な感想だ。
もちろん、その医術を施した主治医の先生の腕も超一流だったのは間違いない。私の母に最も適した施術を、その場その場で臨機応変に行なっていたのだから。「医者に必要なのは知識ではなく、臨床経験と患者を見抜く力なのだ」ということがよくわかった。
このことは“カウンセラー”にもそのまま当てはまると思うが、この先生は人格的にも魅力があるだけでなく、母の“カウンセラー”としても十分機能していた。「死期を迎えた患者の全存在に向き合いながら、長年プロフェッショナルな仕事をやってきた人物は、やっぱり格が違うな~」と脱帽した。
「それと比べて、私が行なってきたカウンセリングはどうだったのだろう? “全存在に向き合う”どころか、上っ面のところで軽くやってきたのではなかろうか?」という疑問が生じた。いったいどの程度“クライエントと仮に名づけられた存在”と“私という存在”とが向き合い、関わりを持てたのかは定かではないが、少なくとも「この先生と同程度の“人間を見抜く力”は、今の私にはまだ無いな」と悟った。

母の死後、「この先生が施した“終末期医療”は、母にとっては最高レベルのサポートだったのだ」と確信した。と同時に、「人間は本来、自然に近い形で安らかに死ぬことができる能力を持って生まれているのではないか?」という仮説が浮かんだ。医療技術はサポートに過ぎない。患者自身の中に“死ぬ力”がなければ、どんな高度なサポートだって役に立たないはずだ。
“死ぬ力”なんて言葉、使うのは生まれて初めてだった。カウンセリングの世界では、「カウンセラーは、クライエント自身が本来持っている“生きる力”に最大限の信頼を置く。これはカウンセリングが成立する基盤である」というような言い方をする。しかし“死ぬ力”なんて言葉は聞いたことがない。仮に“死ぬ力”があったとして、それは“生きる力”と矛盾対立するものなのだろうか?
熟考を重ねた結果、この“2つの力”は矛盾しないことに気がついた。主治医が母に行なってきた施術を振り返ってみると、どれもこれも“命の働きがより正常に機能するようになる”類の医療的援助を行なっていた。いわゆる“点滴漬け”にしなかったのもそういう理由だ。ということは、「患者自身が本来自然に有している“生きる力”が機能すればするほど、“死ぬ力”もまた自然に機能してくる」となるのではなかろうか?
このような観点からすると、現代医療における“延命措置”の問題点もより明確になってくる。集中治療室で行なわれるアレは、果たして患者自身が本来自然に有している“生きる力”を正常に機能させるような援助になっているのか否か? という問題点だ。

最後になるが、一言で言うなら私が経験した“母の死”は、「感動そのものだった」と言うより他ない。主治医の医療技術と母への対応に感動し、献身的な看病を続ける父の姿に感動し、決して母を引き止めることなく「安心して。私たちは大丈夫だから。心配しなくていいよ」と声を掛け続けた妹2人の援助的行為に感動し、そして母の“最期まで命の炎を燃やし続けた精神の高潔さ”に感動した。
それらは最終的に全体としてすばらしいハーモニーを奏でた。人によってそれぞれ音色(役割)は違ったが、最後には荘厳な交響曲に仕上がっていった。母はその交響曲を聞きながらあの世に旅立っていったのだと、私は思っている。

余談になるが、母が死んだ2時間後には葬儀屋が打ち合わせに来た。それから通夜、告別式&初七日法要を終えるまでの3日間は、まるで嵐のような忙しさだった。主催者としての打ち合わせと準備に追いまくられながら、喪服を用意するために甲府と三鷹を往復したりした。おまけにウォーターベッドで痛めた首・肩・背中のせいで、夜は度々目を覚ました。寝返りを打つ度に激痛が走るのだからたまらない。母の死に対する悲しみをしみじみと味わう余裕など、まったくなかった。
ただ、初七日の席で孫たちが『千の風になって』を合唱したときには、さすがに熱いものが胸に込み上げてきた。まるで母がその歌を歌っているかのように、私には聞こえてきたのだった。会場の一番後ろに一人で立っていた私の目に涙があふれてきた。
初七日終了後、一切の緊張から解放され、どっと疲れが出た。『千の風になって』に関しては“いい思い出になった”感があったが、それ以外は「大きなトラブルもなく、なんとか乗り切ることができた」という安堵感で一杯だった。
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うつは治るのか?

2007年12月29日 | 日記 ・ 雑文
私はうつ病経験者なので、クライエントからよく「先生はどうやってうつ病を治したのですか?」という質問を受ける。こういう問いを発せずにはいられない質問者の気持ちは理解できるし、私にも「どうにかして、この人の役に立ちたい!」という気持ちがあるので、質問者のパーソナリティーを感じたところでその度に何らかの違った応答をしている。
が、正直なところ私には「○○をしてうつ病を治した」という言葉になるような経験は一切ないし、そもそも「治るものなのだろうか?」という疑問も持っているので、質問者からすれば「期待した答えが得られなかった」と感じる場合も多いだろうと思う。

“治す”という言葉の定義がまず問題になるのだが、「外科手術を施して虫垂炎を治す」というような意味での“治す”を求めるなら、「それは不可能である」と結論付けるしかないだろう。なぜなら私の場合、現在でも特殊な事情や環境に置かれた場合、平たく言えば「ショッキングな出来事や困難な状況が起きた場合」には、私という人間にとって必要な症状のひとつとして、“うつ状態に移行する”ことがあるからだ。
ということは、「私という人は、本来的にうつになる素因を持って生まれた人間である」のは明らかだろう。人によっては、うつの代わりに“神経症”や“○○障害”などが発症するのだろうが、私の場合は必要に応じて“うつが発症する”ようにプログラミング(?)されているのだ。この“うつになる素因”を消去、もしくは除去するには、血(DNA)を入れ替えるしか方法はないだろうから、現実的には不可能だと言わざるを得ない。
しかし、心理的な意味では“治す”(正確に言うと、素因を持っていながら発症せずに日常を生きてゆく)ことも可能だ。現に私は今こうして文章を書いている。それは私が“うつ状態ではない”証拠だ。もしも私が今“うつ状態”だったら、このような行為は不可能だろう。

うつを含めた“症状というもの”に対する理解を深めるために、私が“うつ状態に移行してゆく”典型的なプロセスを記述してみよう。
発端は「何らかの重荷を背負う」ところから始まる。この“重荷”は客観的な意味での“重荷”ではない。あくまでも私の有機体が感じる主観的な“重荷”であり、したがって他者、もしくは自分の中の他者から見れば、「なんでそんなことが重荷なの?」という印象を持たれる場合がほとんどだ。
この有機体が感じている“重荷”を「重荷だなあ。キツイなあ」と意識化できればいい(発症しない)のだが、発症する場合はそのように意識化できない。むしろ意識レベルでは「できるのが当たり前だ。やらなくちゃ!」となる。そう思わせるのは他者、もしくは自分の中の他者であり、その正体は“観念・概念”だ。“観念・概念”を価値付けるのは“客観性を価値付けるから”であろうが、その結果、有機体レベルの自分の声(主観の世界における現に経験されている経験や感じ)が聞こえなくなるわけだ。
少し脱線するが、この“観念・概念・客観性を価値付ける、もしくは信仰する現代人”という問題は、あまりにも根が深いと思われるのでここでは言及しない。カウンセリングの世界では“ありのままの自分を生きる”ということが価値付けられているが、“ありのままの自分”とは、別言すれば“観念・概念・客観性を放棄した自分”であり、“そういう自分を生きる”ということが「いかに困難であるか」ということも私は痛感している。その困難さは“信仰を放棄する困難さ”に等しいだろう。心情から言えば、「ありのままの自分を生きなさい!」などと説教口調で無理強いする気持ちには私はとてもなれない。

さて、こうなると人間は“意識レベルの自分”と“有機体、もしくは経験レベルの自分”との間にギャップが生ずる。あるいは矛盾が起こる。理屈を言えば、この矛盾を解決するには“有機体、もしくは経験レベルの自分”をそのまま歪曲せずに“意識化”し、“ありのままの自分”もしくは“現に経験されているところの自分”で生きる以外に手は無いのだが、諸事情によってそれが不可能なとき、次善の策として“症状を起こす”という巧妙な働きを心が行なってくれる。
最近の例を挙げると、私はある仕事を任されたときから“うつ特有の症状”が現われ始めた。なんとも言えないイヤ~な感じが、胸の辺りに生ずるのだ。気がつくと深いため息ばかりを繰り返していた。「あ、うつ状態になっているな」とすぐに気づいたが、心当たりはまったくなかった。というのは、その仕事に対する私の思い方は「大丈夫。今の私だったら、なんとかできるさ。以前の私とは違うのだ」となっていたからだ。いわゆる“言い聞かせ”というやつだ。
それから1~2週間、症状の程度に変化はなく、「何がどうしてうつ状態になっているんだろう?」という疑問を抱えながら過ごしていた。そんなある日、道を歩きながらふとした瞬間、「その仕事に対して負担を感じている」ことに気がついた。いや、正確に言えばうすうす感じてはいたが、それを認められなかったのだ。と同時に「あ、背伸びしていたんだ」という言葉が浮かんだ。
次の瞬間から、“うつ特有のイヤ~な症状”は消え去った。私は背伸びせず、“身の丈で生きる”ことを選択したのだった。気持ちが軽くなった。私はある種の洞察を達成し、より深い“自分というものについての理解”を得た。そして現実問題に適応していったのである。これが人間の飛躍・成長・発展の実際だろう。これが“ありのままの自分を生きる”ということだろう。ほんのささやかな一例ではあるが。

この一連のプロセスを概括すると、
1.私の人生に否定的な感情(負担感)を生じさせるような出来事が起きた。
2.私は自分が「負担を感じている」という経験的事実から目を背けた。「私には容易にできる」という自己概念を保持したいがゆえに、「負担を感じている私」は自己概念の仲間に入れてもらえなかった。すなわち“不一致”が生じた。
3.この矛盾を解消するために“うつ症状”が起きた。“うつ症状”によって、私はこの矛盾に直面せずに済んだわけだ。
4.私は“自分というもの”の理解を達成し、“身の丈で生きる”ほうを選択した。そこで“うつ症状”は不必要になり、自動的に消滅した。私は“身の丈の自分”で行為することで現実問題に適応していった。

となる。1~3までは容易に進行するが、問題は4である。カウンセリングの焦点となるのもこの部分だが、4を達成するのは一般的に言って、じつにじつに困難だろうと思う。なぜならここには“感情の問題”が絡んでくるからだ。
再び脱線するが、“私の感情”から言えば、「負担を感じているという経験的事実を認めること」は、同時に“屈辱的な感情”を味わうことを意味することになる。どうしてそのような否定的な感情が生ずるのかはよくわからないが、たぶん「私という人間がそのように条件付けされている」のだろう。
したがって4を達成するためには、「感情を伴うような一切の条件付けから開放された状態」、いわば“真空のようなところ”が必要なのではないか? と現時点では考えている。私の経験に即して言えば、「道を歩きながら、ふとした瞬間に」それが訪れたのだろう。

“症状というもの”は、人間が成長・発展していくプロセスにおいて、必要不可欠な大切な心の働きだと私は思っている。私の経験を述べるなら、私の人生は“うつ病のおかげ”で180度転換し、大きな飛躍と発展を遂げてきた。こんな文章を書けるのも、元をたどれば“うつ病のおかげ”である。
“症状というもの”には、人知では計り知れない大切な意味があると私は思っている。そこには人間の神秘性や霊性の問題も含まれてくる、というのが私の人間観だ。不適応は人間が大きくジャンプする前のいわば準備期間なのだ。高く飛ぼうとするとき、人は膝を深く曲げるではないか。その一時的に“膝を曲げている姿”が、“不適応者”とか“病人”という呼び名で呼ばれている人間の真の姿ではないのか?
「症状というものがなければ、人間の飛躍・成長・発展もあり得ないではないか!」と私は言いたい。お釈迦さんが王子の座を捨てて放浪生活を送ったのだって、精神科医が診断したら“○○病”という名前が付くだろう。“放浪生活”と言えば聞こえがいいが、実態は“物乞い”である。現代だったら不適応者どころか“精神異常者”と見なされて入院させられたとしても、ぜんぜん不思議ではない。医者に限らず世間の人々にしても、現代的な価値基準で“お釈迦さんの放浪生活”を見た場合には、きっと否定的な反応を示すだろう。

そのような意味において、精神医療における薬物療法には功罪両面があると思う。“症状を軽減する”というところだけを取り上げれば、確かに意味と価値があるだろうが、その反面、「症状に作用を及ぼすことで、人間なら誰もが本来持っている“飛躍・成長・発展していける力”を貧弱にすることに手を貸してないだろうか?」という疑問を持ってしまう。ジャンプ理論(?)で言えば、「薬物の作用によって、患者自身が自分の力でジャンプしなくても生きられるような精神状態を与えていませんか?」となる。
こんなこと言うと精神科医にはこっぴどく叱られそうだが、私には経験上、“人間というもの”が上述したように“観えてしまう”のだから仕方がない。
無論、これとは正反対の意見もあるだろう。(ロジャーズの)カウンセリングは“人間の成長”ということが焦点であり、クライエントの問題(=症状)を軽減することが一義的な目的ではないことから、「症状を無くしたい、もしくは軽減したいというクライエントの要求に応えてないではないか!」という批判があったとしても当然だ。
世の中には対立する様々な意見が存在することを理性的には承知しているし、大きな目で見ればそれも“結構なこと”なのだろう(言論の自由があるという意味で)。がしかし、この私には、最終的・究極的には上述したような“人間観”を提出するしかないのである。
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足裏のあたため法

2007年12月23日 | 日記 ・ 雑文
この時期になると、夜寝るときに足裏を温かくしないと眠れない。最近は湯たんぽが密かなブームになっているらしいが、私は電気あんかを数年来愛用してきた。が、今年の冬は、まだ一度も電気あんかのお世話にはなっていない。というのは、温熱器具に代わる“新たな足裏のあたため法”を発見(?)したからだ。
使用するのは、足つぼを刺激するプラスチック製のボード。これは健康器具ショップで2,000円程度で購入できる。ふとんに入る直前に、このボードに3~5分程度乗って足裏を刺激すればそれでOK。血行が促進され、冷え切っていた足裏がぽかぽかにあたたまってくる。これで即座に入眠可能だ。
ただし、人によってはナントカ反応(名称を忘れた。ヨガなどで健康体を回復してゆく過程において、一時的に悪い症状が出ることを指す用語)が出るらしく、妻はコレをやると直後に下痢になるので絶対にやらない。
もうひとつの注意点は、決して「気持ちいいものではない」ということだ。最初のうちはじわじわと足つぼが刺激されて「気持ちいい」のは確かだが、しばらくするとそれは「痛み」に変わってくる。さらに続けると「激しい痛み」になるのだが、最低限「痛み」を感じる程度まで行なわないと効果は期待できない。

以上、有機体の神秘的な働き(といったら大袈裟かもしれないが)を利用した、自己流“足裏あたため法”の紹介でした。
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受容と共感的理解

2007年12月17日 | 日記 ・ 雑文
月曜夜の講座で『ロジャーズ全集2・カウンセリング』を読み進めているのだが、その中の「セラピィの過程の特徴的な段階」という箇所を現在取り上げている。先週は「Ⅲ」(p.42~45)を読んだのだが、ここに“自分の息子に対して極端に批判的な母親”のケースが掲載されている。ロジャーズはこの発言を“罵倒演説”と称しているほどだ(笑)。

ロジャーズは「この段階におけるカウンセラーの全体的機能は、自由に表現するように激励することである」と述べているが、まさにその通りのカウンセラーの姿がそこには記されていた。「見事なものだ!」と私は思った。
というのも私はこの“罵倒演説”を聞きながら、「それはちょっとやり過ぎではないか?」とか、「これじゃあ、子どもがかわいそうだなあ」という気持ちが生じていたからだ。もっとも、カウンセラーとしてその母親の前に座っていたなら、そのような否定的感情は生じなかったのかもしれないが……。

そこで参加者全員に「皆さんはこの母親の発言を聞いて、どのような気持ちになりましたか?」と尋ねてみた。すると出てくるわ出てくるわ、「この母親に対する批判的・否定的な感情」のオンパレードだったのである(笑)。中には「私がカウンセラーだったら、とても聞いていられない」というのもあった。うそ偽りのない発言だろう。私はこういうのを大歓迎する。
断っておくが、この講座は“初心者集団”ではない。カウンセラーを志して何年間も通い続けている人たちが集まっている“ベテラン集団”だ。それがこの有り様なのだ(笑)。もっとも、私だって他人のことを笑えないが。

「カウンセラーというのは、クライエントに対して批判的な気持ちが一切浮かばないのか?」という質問が参加者の一人から出た。私は、「もちろんそうだ。カウンセラーが何かを意識してるとしたら、“このあふれ出る敵意と批判的な感情を阻止しないこと”だけなのだから」と応えた。質問者は、「私には絶対無理だな(苦笑)」と言った。この発言も“本人の実感”から出ているのだろう。私はこういうのも大歓迎する。

読者の中には、「仮にカウンセラーの心中にクライエントに対する批判的な感情が起きたとしても、それを相手に伝えなければ良いのではないか?」という意見もあるだろう。
なるほど。確かに一理あるかもしれない。「それを“伝える”より“伝えない”ほうが、より成長促進的な関係、もしくは場を生み出すことができる」というケースだって、まったく無いとは言えないだろう。
だがしかし、それを良しとするならば、“自己一致(純粋性)”はどうなるのか? これは無視しても構わないというのか? 「カウンセラーは、口と腹とが違ってはならない。常に率直でなければならない。クライエントはいつでもカウンセラーの腹の中を見通すことができ、そこに何も隠されてないことを知ることが肝要である。なぜなら、それができなければ、クライエントはこの関係を“安全なもの”として認識できないからである」というのが“自己一致(純粋性)”の必要性だ。
これを無視、もしくは軽視するならば、一時的には“成長促進的な関係”を構築することができるかもしれないが、結局最終的には“破綻する”のがオチだろう。クライエントは、「あのカウンセラーは口と腹が違う。信用できない」と感じて、去ってゆくに違いない。

よく知られているように、ロジャーズが述べるカウンセラーの3条件は、1:「受容(無条件の肯定的配慮)」、2:「共感的理解(感情移入的理解)」、3:「自己一致(純粋性)」の3つである。この3条件がすべて同時に充たされているとき、その人物を“カウンセラーと呼ぶことができる”わけだ。
もう少し詳しく解説すると、1と2は(その関係の中で)現にカウンセラーに起きている経験である。カウンセラーが“すること”ではない。その経験をできるだけ正確な言葉にして伝える、という行為はするが……。そして3は、「1と2を現に経験しているという私の言葉に、うそ偽りは一切ありませんよ」という意味だ。
このように理解すると、「カウンセラーができるというのは、とても人間業とは思えないな。カウンセラーというのは、神様・仏様レベルの人ではないか?」という印象を受けないだろうか? 私はそういう印象を持っているのだが……。
先に挙げた例のように、“1と2を経験する”どころか“クライエントに対して批判的な感情を経験する”のが、カウンセラーではなく普通の人間の実態である。いや、むしろそれが当然なのだと思う。それくらいにカウンセラーというのは“貴重な存在”であり、カウンセリング場面は“貴重な体験”なのだろう。本来は。

私は“カウンセラーを志しながら、一方で挫折感や自己嫌悪を味わっている人たち”に言いたいのだが、「ロジャーズの3条件を同時に充たすこと」など、そもそも人間業ではないのだ。厳密に言えば、「人間には不可能だ」となるだろう。あのロジャーズだって、「人間としての弱さを露呈している」ケースがある。ましてや我々凡人が……と考えれば、このことは容易に納得できるだろう。
私たちが現実的にできることはと言えば、“できる限りカウンセラーに近づこうとすること”だけであり、問題は行動レベルにおいて“どの程度自分は近づいているのか? もしくは遠のいているのか?”であろう。
そのような意味において、「できる限り近づこうと修練を積んでいる人間」を指して、私はその人を“カウンセラー”と呼びたい。それだったら“この私”も、一応は“カウンセラー”を名乗ることができそうだ。
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カウンセラーは何に取り組むのか?

2007年12月14日 | 日記 ・ 雑文
前々回、前回と書き進めてきたのは、「カウンセリングとは、カウンセラーとクライエントが互いに協力しながら、何らかの取り組みを行なう活動である」というのがその主旨だった。そこで次に問題となるのは、「カウンセラーは何に取り組むのか?」ということだろう。この問題を明確にすることができれば、このテーマは一応完結することができると思う。
と、その前に、「クライエントは何に取り組むのか?」という問題も残されていた。が、これに関しては、「何かに限定する必要はない」と思う。なぜなら、クライエントにとってのカウンセリング場面は、“最大限の(無制限ではない)自由が保障されている”場面だからだ。
「自分の問題に取り組みたい!」ならそうすればいいし、「他の問題に取り組みたい!」ならそうればいい。あるいは「何事にも取り組みたくない!」ならそのように行為すればいいし、「マンガを読みたい!」なら読めばいいのだ。“自分の責任を放棄しない”限りは、どのような行為でも許されているわけだから。

問題は、「カウンセラーは何に取り組むのか?」である。この問いに対し、世間一般からは「カウンセラーはクライエント(の問題)に取り組むのだ」と見なされているに違いないが、それは誤解である。なぜなら、このような思い方の背後には、「カウンセラーがクライエントの問題を解決するのだ」とか、「カウンセラーがクライエントの病気を治療するのだ」とかいう見なし方があると思われるからだ。
しかし、事実を“ありのまま”に見たとき、「カウンセラーがクライエントの問題を解決した」とか、「カウンセラーがクライエントの病気を治療した」というケースは過去に一例もない。つまり、そんな証拠はどこにもないのだ。これは客観的・科学的事実である、と断言しておこう。
こう言うと、「そんなバカな!?」という反応を示す人もいるだろうが、カウンセリング経験が豊富な人だったら“この事実”は、すでに疑いようがないものになっている。
とすると今度は、「それじゃあいったい、誰が(もしくは何が)治すのか?」という疑問が当然出てくるだろうが、これに関しては以前に『関係ということ』という表題で書いているので、ここでは言及しないでおこう。

さて、「カウンセラーはクライエント(の問題)に取り組むのだ」が間違いであるなら、いったい何に取り組んでいるのか? 先に挙げた『関係ということ』と関連してくるが、「カウンセラーはカウンセリングに取り組んでいる」というのが、その答えになる。“カウンセリングに”という言い方が抽象的過ぎるなら、“カウンセリング関係、もしくはカウンセリング場面を作ることに”と言ってもよいだろう。

ロジャーズは基本的仮説において、
『効果的なカウンセリングは、クライエントをして、自分の新しい方向をめざして積極的に歩み出すことができる程度にまで、自分というものについての理解を達成できるようにする、明確に構成された許容的な関係によって成立するものである。』(ロジャーズ全集2・カウンセリング p.20)
と、述べている。

これを読めば自ずと理解できるだろうが、ロジャーズの言葉を借用すれば、「明確に構成された許容的な関係を作ること」に、カウンセラーは取り組んでいる、もしくは専心しているのである。
そしてその関係は「(クライエントが)自分というものについての理解を達成できるようにする」関係であり、「(クライエントが)自分の新しい方向をめざして積極的に歩み出すことができる程度にまで」の「理解を達成できるようにする」という意味になる。
ロジャーズの基本的仮説に異論があるならともかく、もしもこの仮説を支持するなら、「カウンセラーはカウンセリングに取り組んでいるのだ」という言い方にも容易に納得できるだろうと思う。

話は変わるが、前々回から都合3回にわたってこのテーマに取り組んだのは、じつは極めて当たり前のことである「~と共に取り組む」が、実際となると「容易なことではない」ということに最近気がついたからだ。とくにそれを実感させられたのは、“自発協同学習”という取り組みを始めてからのことだった。
もっとも、“自発協同学習”の場面では「参加者と共に学習することに取り組む」が課題となるわけで、この点に関しては「カウンセリングと異なるのではないか?」という見方もできないわけではない。しかし、「カウンセラーがカウンセリングに取り組む」ということは、さらに言うなら「その取り組みを通して、援助の仕方をクライエントから学ぶ」ということであり、突き詰めれば「カウンセラーは学習しているのだ」と言うことができるだろう。そういう意味では、「両者に違いはない」と私は思っている。

よくあると思うが、グループカウンセリングの場面で他者の発言に対し、「嫌気が差す」とか「聞くに堪えない」とかいう経験は誰にでもあるだろう。いや、グループカウンセリングに限らず個人カウンセリングでもあるし、日常生活となったらさらにそういう経験がたくさんあると思う。あの友田先生にしても講座である参加者の発言を聞き、「とてもじゃないが、聞いてられない!」と、その発言をさえぎったことがある。
「嫌気が差すこと自体」には、人として何も問題はない。それは“ナマ身レベルの自分”が発する真実の声なのだから。それを聞き続けていたら、“この私のナマ身がもたなくなってしまう”ので、自動的に“聞けなくなる”という心の働きが起きるわけだ。理屈付ければそうなる。それを咎めることなど誰にできよう。
問題は「嫌気が差した」とき、自分が「どう行為するか?」だ。友田先生のように率直に今の自分の経験を言葉にすることができたなら、その場合には“カウンセリングが成立している”と言えるだろうが、そうではなく、「私は聞きたくないが、この人は話したいのだから、このまま気が済むまで話させておこう」という態度をとるなら、これはもはやカウンセリングではない。
これは“話を聞いてるフリ”をしているだけだ。にも関わらず、なんとなく「援助的な行為を自分は今しているのだ」という錯覚まで起こしてしまうのだから、まったく救いようがない。このような態度は「~と共に取り組む」とは言えないどころか、まるっきり正反対である。この人物が何を話そうと、しょせんは「他人事」なのだ。それなのに、黙って“カウンセラー面している”というわけだ。

私は“どこかの誰かさん”に対して、このような批判を加えているのではない。私自身が上述した態度を取っていながら、しかも何の問題も感じていなかったのだ。少なくともそれに気づくまでは……。私もまた、しばしば“話を聞いてるフリをしていた”だけのエセカウンセラーだったのである。
“自発協同学習”への取り組みを通して、私はこの大問題に気がつくと同時に、深く深く反省した。そしてあらためて「~と共に取り組む」を実践しようと思ったわけだが、実際にやってみると「とてもとても骨が折れる」ということを痛感している。「無自覚的に“聞いてるフリ”ができた頃は、本当に楽チンだったなあ……」というのが、今の正直な心境だ。
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責任ということ

2007年12月07日 | 日記 ・ 雑文
前回の日記で、

……たしかに上述したカウンセラーのセリフ、「(あなたの問題を)私がどうにかすることはできません」は、真にその通りだと思う。

と書いたが、これはどういう意味なのか? こういう思い方をしているカウンセラーは“冷たい人間”なのだろうか? ここには重大な問題があると思うので、現時点での私の考えを整理してみたい。

「私(カウンセラー)が、あなた(クライエント)の問題や障害を解決することはできないのですよ」というセリフは、裏を返せば「私にできる最大限のことは、あなたを“援助すること”に限られているのですよ」という意味になる。
これを“クライエントに伝える”という行為は、「クライエントが抱えている問題に関しては、最終的にはクライエント自身に全責任を負ってもらわなくてはならない」ということ、つまり「問題に関しては、私(カウンセラー)が責任を負うことは不可能である」という事実を、クライエントに理解してもらうためのアプローチとなる。
しかし、“この事実”を“理解してもらう”のは容易なことではない。ていねいな説明をすれば“知的レベルで”は理解してもらえるだろうが、“行動レベルで”となると、そう簡単にはいかないのが普通だろうと思う。

私の経験値からいうと、クライエントの約90%が初回の面接では「カウンセラーに自分の問題を解決してもらうために」面接室を訪れてくる。無論、その気持ちがわからないわけではない。クライエントは「自分一人の力ではどうすることもできない」と感じているからこそ、カウンセラーに援助を求めるわけだから、そう思うのはむしろ当然だ。
私は私ができることとして、「そういうあなたの気持ち、私にはこれこれこのようにわかりますよ」と伝える行為を大切にしているが、それだけではどうにも立ち行かなくなるケースが出てくる。
“立ち行かなくなる”とは、“カウンセリング関係、もしくはカウンセリング場面が構成できない”という意味だが、クライエントはしばしば「どうすればいいのでしょうか? 先生、教えてください!」という態度を示すことがあるわけだ。
ここで「わかりました。では私が教えてあげましょう」という態度を示すなら、それはもはやカウンセリングではない(少なくともロジャーズがいう“カウンセリング関係”とは異なる)だろう。
基本的に言って、そもそもクライエントが抱えている非常に困難な問題の解決法を、“カウンセラーが教える”などということが可能だろうか? 「できるはずがない」としか、私には思えない。もし仮にクライエントが「最寄りのコンビニはどこですか? 教えてください」と尋ねてきたなら、その場合には「これこれこう行けば、ここにありますよ」と、即座に“教える”こともできるが。

クライエントが自分の問題に対する無責任な態度、カウンセラーに依存的な態度を示したとき、カウンセラーがどのような態度(言葉ではない)で応じるかは、極めて重要な問題だと思う。大袈裟な言い方をすれば、ここのところで「カウンセリング自体が“成功する方向”へ転じるのか、それとも“失敗する方向”へと転じるのか、それが決定される」といっても過言ではない。
「教えてあげましょう」は論外だが、しかし反対に「それは私の関知するところではありません。私は“話を聞くだけ”ですよ」という態度(言葉ではない!)を示すなら、クライエントはどう感じるだろうか? 仮に私がクライエントだったとしたら、「カウンセリングというものに失望する」しかないだろう。
前回の繰り返しになるが、このような意味において、「~と共に取り組む」というカウンセラー側の態度・姿勢が肝要になってくるわけだ。
いや、というよりも、「カウンセラーとクライエント、この二人が一緒に進むことのできる道があるとするなら、そういう道(~と共に取り組む)しかない」のだろうし、さらに一般化するなら、「人と人とが一緒に歩める道のりも、結局はそれ(~と共に取り組む)しかない」のだろう。

話が前後するが、「カウンセラーはクライエントの問題を解決することはできない。また、解決法を教えることもできない。カウンセラーにできるのは援助であり、したがってクライエントの問題に関する限り、その最終的な責任はクライエントの側が負っている」と私は述べたが、これは事実である。
何故これが“事実である”と言い切れるのか? 人によっては「例外もあるのではないか?」という意見もあるかもしれない。しかし、これが“事実である”ということは、よく考えてみれば容易に理解できるだろうと思う。

例え話で説明するが、あるカウンセラーのところにあるクライエントがやって来て、「私は今、とても強い空腹感に襲われています。先生、この私の空腹感を何とかして解消してください!」と訴えたとしよう。
この訴えに対し、良心的でまともなカウンセラーだったら、「本当に困っていらっしゃるのでしょうが、それは私にはできません。あなたの空腹感を解消するには、あなた自身が“何か食べる”という行為をとるより他に方法がないからです。ですので、もしもお金をお持ちなら、コンビニで何か買うかファミレスに入るなりして、ご自分で食事を取ったらいかがでしょうか?」と応えるだろう。
カウンセラーは超能力者でも魔術師でもない。目の前に座っているクライエントに対し、「エイヤッ!」と声をかけて“空腹感を解消する”わけではない(笑)。結局最終的には、クライエント自身が“空腹感を解消する”しかないのだ。
その応答にクライエントが納得したなら、「その通りですね。わかりました」と面接室を出て、今の自分に必要な行為(=食事すること)を行なうだろう。これで一件落着だ。めでたしめでたし、となる。

もちろんこれは例え話だが、クライエントの訴えである“空腹感”の代わりに、“うつ病”や“神経症”や“対人関係における問題”を入れても同じことである。
違うのは、“空腹感”の場合は容易にその解決法を見い出せるのに対し、“うつ病”や“神経症”や“対人関係における問題”の場合は、その治療法・解決法を見い出すのは“とても困難である”ということだけだ。
そしてそれが“困難である”からこそ、「~と共に取り組む」ということ、別言すれば「無い知恵をお互いに出し合って、協力しながら困難を乗り越えてゆこうとする人間の行為」に意味と価値とがあるのだろう。こういう人間の姿が現実化しているときに、私はそれを“カウンセリング関係”と呼びたい。
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取り組むということ

2007年11月30日 | 日記 ・ 雑文
「カウンセリングとは、クライエントと共に何らかの問題へと取り組んでいくプロセスそれ自体である」という言い方に対して、異論を唱える人はたぶんいないだろう。
これは極めて当たり前のことだ。クライエントは“何らかの援助を求めて”カウンセラーのところに来る。カウンセラーはその求めに応じ、“何らかの援助を行なう”わけで、もしもカウンセラーがその求めに応じなければ、すなわち拒否した場合には、カウンセリングは始まらない。
これを理解してないカウンセラーなど存在するはずがないと思うが、しかし“行動レベルにおいて”となると、“~と共に取り組む”ができないカウンセラーがいるらしい。
無論、カウンセリング関係というものは、お互いの合意があってはじめて成立するわけで、“カウンセラーがクライエントを拒否してはいけない”わけではない。むしろカウンセラーが意識的・自覚的に“クライエントを拒否する”なら問題ないのだろうが、問題はカウンセラーが「この人とカウンセリングをやっていこう!」と思っていながら、それに反する行為を取ってしまう場合である。
いやいや、それが問題なのではない。“~と共に取り組む”という当たり前のことが、実際は“容易なことどころではない”ということを、我々カウンセラーはもっと自覚しなければならないのだと思う。

このようなことを書こうと思ったのは、あるクライエントとの電話でのカウンセリング経験に因る。ここでそのときの会話を明確に再現すると守秘義務違反になるが、“一般的にこのような類の発言をするクライエントは多い”という意味で、個人的な問題にではなく、カウンセリング全般に通じる問題に焦点を合わせる、という意味で再現しよう。

そのクライエントは、自分の問題や悩みを話し出す前に、次のような問いかけをしてきた。「ここではどのようなカウンセリングを行なっているのですか?」と。
よくあるタイプの質問だ。しかし、「どのような」と問われても、何をどう答えればその人の疑問に答えることになるのかわからない。そこで、「あなたは、どのようなカウンセリングを望んでいるのか? また、どのようなカウンセリングを望んでないのか?」という主旨の質問を私はした。すると、
「ただ話を聞くだけのカウンセリングは嫌なんです」
と、そのクライエントは答えた。
これもよく聞くタイプの発言だ。人によって意味合いは異なるだろうが、うんざりするくらいによく聞く。とくに“カウンセリング経験のある人”からは、こういう発言を聞くことが多い。
しかし私には、これも意味がわからない。というのも私の中には、「もしも本当にじっくりと“自分の話や経験を聞いてもらえた”と体験されたなら、それはとてもありがたい貴重な体験として認識されるはずだ」という仮説があるからだ。
私は頭の中に「この人は、過去のカウンセリング経験では、きっと話を聞いてもらえなかったのだろうな」という仮説を置きながら、「話を聞くだけのカウンセリングは嫌だ」という言葉で象徴されている体験とはどういう体験だったのか、それを確かめるためのアプローチを続けた。
しばらくの間、押し問答のような会話が続いたが、そのうちピン! ときた。そこで即座に次のように伝えた。
「ああ、なるほど。自分の問題に懸命になってくれない、一緒に取り組んでくれないカウンセラーは嫌なんですね」
と。クライエントは「そうだ」と言った。
ここに至ってようやく、「話を聞くだけのカウンセリングは嫌だ」という発言の真の意味が理解できたと同時に、「そりゃあ、そうだろうなあ。嫌だろうなあ」と、共感的理解まで経験できたのだった。

クライエントが「話を聞くだけ」という言葉で表わしたカウンセラーの態度というのは、じつは「それはあなたの問題なのだから、私は知りませんよ。私がどうにかすることはできませんし、懸命になって一緒に取り組むことを私はしませんよ。私は“話を聞くだけ”ですよ」という、じつに無責任な、全責任をクライエントに押しつけるような、カウンセラーの態度・姿勢だったのだ。
たしかに上述したカウンセラーのセリフ、「(あなたの問題を)私がどうにかすることはできません」は、真にその通りだと思う。しかし、だからといって「クライエントと共に何らかの問題へと取り組んでいく」をカウンセラーが放棄するならば、それは形式的・表面的にはカウンセリングに見えるかもしれないが、実態はとてもカウンセリングとは呼べないシロモノだろう。

冒頭で述べたが、カウンセリングとは「クライエントと共に何らかの問題へと取り組んでいくプロセスそれ自体」である。ロジャーズ流のアプローチは、この取り組み方が世間一般に広く浸透している伝統的アプローチ法(指導とか説得など)と異なり、非指示的でありクライエント中心なのだ。「非指示的でありクライエント中心である」からといって、それは「~と共に取り組まない」ことを意味するわけではない。
上述したクライエントのカウンセリング経験から推察すると、このことをしっかりと概念化せずに「ただ聞くだけ」をやっていて、しかも堂々と「私はカウンセラーですよ」と大手を振って歩いている人が意外に多いのではないか? という疑問を抱いてしまう。

ロジャーズはカウンセリング場面の逐語記録をたくさん残している。あるいは面接場面の映像記録(ビデオ)も存在する。それらを読んだり観たりすれば即座にわかることだが、ロジャーズはそれこそ懸命に「~と共に取り組む」を行なっている。換言すれば、決して“他人事”にはしていない。
私が最初に読んだロジャーズの面接記録は『ロジャーズ全集9巻 カウンセリングの技術』に掲載されている“ハーバート・ブライアンの事例”だったが、まず初めに驚いたのは“カウンセラーがたくさんしゃべっている”という事実だった。
“たくさんしゃべる”ということの是非は別にして、カウンセラーが「~と共に取り組む」うえでの“一生懸命さ”が伝わってくる好素材だと、個人的には思っている。中でも「第2回目の面接」などは、むしろ「一生懸命過ぎるのが良くない。だから上手く行ってない」という批判を加えたいくらいだ(笑)。

「ロジャーズの真似をして、たくさんしゃべればいいのだ」と言いたいわけではない。理想を言うなら「カウンセラーのレスポンスは、的確で短いもののほうが良い」と、私も思っている。
しかし、だからといって“聞くこと”や“しゃべらないこと”を価値付けるあまり、肝心の「~と共に取り組む」を忘れてしまうのでは本末転倒ではないか? と、世のカウンセラーたち(とくにロジャーズのアプローチ法を基盤にしている人々)に言いたいのである。
そうしなければ、カウンセリングはいつの日にか滅んでしまうだろう。私がクライエントだったら「ただ聞くだけ」のカウンセリングなんて、真っ平ごめんだ。いや、それだけではない。カウンセリングに対して批判的で無理解(?)な精神科医の中には、「人の話を聞くだけでお金を取るな!」という人もいるらしい。そのような心無い批判に対して、我々はちゃんと反論できるだろうか? ということを想うと心細くなってしまうのである。
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