山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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市川氏について

2015-08-24 21:31:47 | 氏族の追跡
市川氏は土屋山城守高久伝説で紹介しましたが、甲州武田氏と深い縁を持っていたことをうかがわせる伝承があります。市川氏は南牧の奥深く砥沢、羽沢地区を根拠地として戦国期に勢力を保っていました。歴史資料館で得た南牧市川(三家)系図から参考になる記述を取り上げてみます。

○新羅三郎(義光)-新羅八郎(義行)(源頼朝の再興旗揚に参加して、甲州市川荘賜る。)ー新田義興(新田義貞次男)-新田真重(清信)甲州市川荘に移住ー市川右近四郎(義継)南牧谷星尾に城を築く。先日星尾城を紹介しています

市川氏本家が代々神主を務めてきた甲斐市川の表門神社は式内社で、社伝では孝霊天皇二年の創建が伝わります。白河天皇の御宇・永保元年(1081)、白河天皇が御病悩の時、典薬が医術を尽くしたが一向によくならなかった。たまたま上洛していた当神社の神主が洛中で占いの名声があったので、御所に召し出され、神主が祈念したところ、天皇の御病悩が平癒した。これにより市川庄を神領に賜り、これにより市川明神と称し、また、空海筆の文殊画像を下賜されたので、市川文殊とも称した。という由緒があります。

  私は以上の由緒に鑑み、白河天皇が表門神社に市川庄を寄進して同神社神主家が実質的な市川庄の領主になった時点で、表門神社神主家が市川氏を称し、甲斐市川氏が成立したとみております。『新編武蔵風土記稿』にあるとおり、武蔵国比企郡田中村の市川家には系図が伝えられ、新羅三郎源義光の子息覚義を始祖とする系を伝えております。この系図の裏には「甲斐源氏市川家の系図被見の處、表出の由惣て相違之れ無し仍て件の如し 印 天文十二年卯三月 左京太夫信虎 印  飯富兵部少輔承之 花押」とあり、これは東大史料編纂所により裏書き・印・花押はすべて本物と鑑定されているので、当系図は天文十二年以前の成立であることが分かり、甲斐守護職の武田氏も、武蔵国比企郡の市川氏のこの系図を認めているので、覚義以後の系図の内容は信用してよいと考えます。

 

  武蔵国比企郡の市川氏の系図を参照しますと、覚義は甲斐国市川庄に来ていることになりますが、これは、兄刑部三郎義清が子息清光とともに甲斐市川庄に配流されたことと関係があると思います。覚義が甲斐市川庄に来た時、覚義が表門神社の市川氏の婿となり、覚義も市川別当を称したのでしょう。覚光は市川氏女と覚義との間の子と思われます。

  一方、比企郡市川氏の系図によれば、覚義は秩父次郎太夫重澄(註:重隆の誤記)の婿とあります。おそらく次男倶義は秩父重澄の女との間にもうけた子と思われます。覚義が秩父氏とも姻戚関係にあったので、市川氏が武蔵国に進出することになったと考えます。そのことは、『曽我物語』“十番ぎりの事”に五郎が甲斐の市川党の別当太夫の次男、別当二郎定光に「わ殿は盗人よ、御坂・かた山・都留・坂東にこもりいて…」とあって、甲斐市川氏の勢力範囲が坂東、つまり具体的には武蔵国比企郡(倶義系市川氏)に及んでいたことを傍証しております。ですから、武蔵国比企郡の市川氏に関しては、甲斐市川氏の出自とみて間違い無いと私は考えます。

  さて、甲斐国の市川氏は覚義-覚光とつづきますが、次の行房は表門神社の市川氏女と刑部三郎義清との間の子で、はじめ清房と号し、市川氏をついで行房と号しました。この人が、『吾妻鏡』に出てくる市川別当行房です。行房が義清の子息であることは、一蓮寺または恵林寺蔵の武田氏の系図にありますので信用してよいと考えます。

  行房の子息は三人で、嫡男行重の系は「行重-行政-行照-行宗-行氏…」と続き、この系統が表門神社の神主家の筋です。行房の次男は曽我物語に出てきた別当次郎定光で、「定光-祐光-高光(掃部允)」で、この系統が信州の市川氏になっていった模様です。行房の三男は定房で伊勢村松に住し、子孫は村松氏を称しました。

 

  以上が、管見の史資料から伺える甲斐市川氏の系譜のあらましです。


  倶義系の市川氏からさらに上州市川氏(新田家臣祖裔記に見える新田義興の家臣市川五郎の長男太郎光重・次男藤次郎・三男藤三の系統、長男光重は世良田政義に属して信州浪合にて戦死しており、光重の子孫は現在の愛知県に流れた模様です。次男と三男は上州広沢に居住し、次男はさらに同国砥沢に転居して南牧市川氏の祖となり、その後また次男は黒川に転居し、子孫は武州半沢郡の民家に下りました)が分岐しました。

これはサイト「古樹紀之房間」からの引用です。市川氏は甲州から始まり、分流として武蔵比企郡、上州南牧との経緯がとても興味を引く記述がされています。

次回 市川右近四郎(義継)から南牧市川家は三家に分かれます。

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4 コメント

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甲斐市川氏について (市川@武州荒木)
2017-02-04 23:51:02
はじめまして。市川@武州荒木と申します。

こちらに引用されている甲斐市川氏についての記述は、昔私が書いたものですが、その後の研究によって、若干訂正すべき点が出ましたので、こちらに書かせて頂きます。

表門神社の社伝はその通りですが、甲斐武田家臣から徳川幕臣になった市川以清斎家の系譜(国会図書館蔵の本朝武家諸姓分脈系図)には、本姓は橘姓で、後に武田一族が家を相続したので、源姓になったとあり、本姓は橘姓であったと思われます。ただ中央の橘一族ではなく、表門神社周辺の縄文・弥生時代の遺跡の存在と、表門神社の創建の古さから、実際は、当地の古代からの在地豪族であったと思われます。また、白河天皇の御病悩を表門神社の神主が平癒させたことから、表門神社の神主は神領として市川郷をたまわったとされますが、この時代の史料に甲斐に市川姓の人物は見えず、やはり表門神社の神主家が市川姓を称したのは、表門神社の神主家に入った甲斐源氏一族の氏人によると見るのが至当と思います。

具体的には、新羅三郎源義光の長男の三井寺の住僧であった刑部阿闍梨覚義の子供の市川別当民部卿頼圓と、同じく源義光の三男武田冠者義清の次男の方原次郎師光の長男の市川別当大夫高光(初名行光)の二人が、実質的な甲斐市川氏の祖となったと思われます。比企郡の市川氏の祖は「市川十郎文殊院別当」「民部卿」と通称が伝わりますが、これは覚義ではなく覚義の子供の頼圓の通称と思われます。「十郎」については、源義清の子供は逸見黒源太清光から落合九郎義経まで確認できるので、夭逝・早世のため名前が伝わらなかったのを含め九人は居たことがわかるので、比企郡市川氏の伝承に見える十郎は、頼圓が源義清の猶子となって称したものと思っています。

甲斐市川氏本宗の表門神社の市川別当行房も、表門神社の系図では、源義清の子供として記載されてますが、国会図書館蔵の八代氏系譜や愛知県内の図書館蔵の甲斐源氏系譜によると、行房は、源義清の次男方原次郎師光の長男市川別当大夫高光の長男として記され、四人の弟が記載されているので、市川別当行房の真系は源義清ー師光ー高光ー行房とするのが至当です。
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市川氏について (富岡武蔵)
2017-02-08 21:00:12
市川@武州荒木殿、はじめまして。南牧の市川氏(私の母の実家も南牧の市川家なので、一族と思われます。)については、下仁田町史でもあまり詳しく記述されておらず、調査がゆきづまっておりました。貴殿の「古樹紀之房間」HPを拝見し、甲斐市川氏と南牧市川氏との関連が分かり、大変参考になりました。今後も参考にさせていただきます。
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市川家について (バフォメット)
2017-07-17 14:11:30
突然すいません。僕の家も南牧市川家だと思います。市川家について詳しく知りたいの情報提供お願いします。
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市川家について (富岡武蔵)
2017-07-18 21:34:37
バフォメットさん初めまして。南牧村羽沢にある生涯学習センターを訪ねてください。市川氏について詳しく展示されています。
https://mapfan.com/map/spots/search?c=36.16140427092944,138.65906953811645,16&s=std,pc,ja
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