前回記事の上泉信綱の流祖祭について記述しましたが、信綱と柳生家との関係は
江戸時代の『箕輪軍記』・『関八州古戦録』・『甲陽軍鑑』などによると、箕輪落城後、新陰流を普及させるため門弟と共に諸国流浪の旅に出るという。同行の門弟について、『本朝武芸小伝』は神後伊豆守・疋田文五郎など、『柳生家文書』では疋田分五郎と鈴木意伯が従ったとされる。
諸国流浪の年代は、『本朝武芸小伝』によると永禄6年(1563年)上洛という。『甲陽軍鑑』には古河公方・足利義氏に招かれたと書かれるが、真偽は不明。『武功雑記』には、信綱は上洛の帰途に山本勘助に会い、同行していた弟子・疋田が勘助と対戦してこれを破ったとある。ただし疋田の動向・勘助の没年などからフィクションらしいとされる。
「兵法由来覚」では、信綱一行は本国を出たのち伊勢神宮へ向かい、そこで柳生のことを聞き大和へ赴いたとする。年次の記載は無い。一方『正伝新陰流』では、京洛へ向かう途中で伊勢の北畠具教を訪ね、彼から奈良宝蔵院の胤栄のことを聞いてそこへ向かい、胤栄と柳生宗厳と出会いこれを下したとする。永禄6年のことという。
永禄8年には柳生宗厳・胤栄に印可状を与え、永禄10年には目録を丸目蔵人佐に与えた。「兵法由来覚」では疋田景兼・香坂要も免状を受けたとする。
なお、確かな同時代史料である山科言継の日記『言継卿記』にある上洛期間は永禄12年1月15日 - 元亀2年7月21日までである。元亀2年7月21日に京を去り故郷へ向かったとある。 ウィjキペディアより。
鮫ヶ尾城本丸へ
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本丸から米倉を見下ろしています。
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本丸
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本丸笹曲輪
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笹曲輪から本丸を見返しています。
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笹曲輪脇から下りると空堀、その先が東尾根、右手(西)に廻れば二の丸へ
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空堀に立っています。
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西へ廻って二の丸を覗きます。
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二の丸南側から本丸南城壁を見ています。
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二の丸東から見ています。
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二の丸南先端から三の丸を見下ろしています。
次回 三の丸から南尾根へ
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御館の乱 両軍配置図
江戸時代の『箕輪軍記』・『関八州古戦録』・『甲陽軍鑑』などによると、箕輪落城後、新陰流を普及させるため門弟と共に諸国流浪の旅に出るという。同行の門弟について、『本朝武芸小伝』は神後伊豆守・疋田文五郎など、『柳生家文書』では疋田分五郎と鈴木意伯が従ったとされる。
諸国流浪の年代は、『本朝武芸小伝』によると永禄6年(1563年)上洛という。『甲陽軍鑑』には古河公方・足利義氏に招かれたと書かれるが、真偽は不明。『武功雑記』には、信綱は上洛の帰途に山本勘助に会い、同行していた弟子・疋田が勘助と対戦してこれを破ったとある。ただし疋田の動向・勘助の没年などからフィクションらしいとされる。
「兵法由来覚」では、信綱一行は本国を出たのち伊勢神宮へ向かい、そこで柳生のことを聞き大和へ赴いたとする。年次の記載は無い。一方『正伝新陰流』では、京洛へ向かう途中で伊勢の北畠具教を訪ね、彼から奈良宝蔵院の胤栄のことを聞いてそこへ向かい、胤栄と柳生宗厳と出会いこれを下したとする。永禄6年のことという。
永禄8年には柳生宗厳・胤栄に印可状を与え、永禄10年には目録を丸目蔵人佐に与えた。「兵法由来覚」では疋田景兼・香坂要も免状を受けたとする。
なお、確かな同時代史料である山科言継の日記『言継卿記』にある上洛期間は永禄12年1月15日 - 元亀2年7月21日までである。元亀2年7月21日に京を去り故郷へ向かったとある。 ウィjキペディアより。
鮫ヶ尾城本丸へ
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本丸から米倉を見下ろしています。
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本丸
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本丸笹曲輪
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笹曲輪から本丸を見返しています。
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笹曲輪脇から下りると空堀、その先が東尾根、右手(西)に廻れば二の丸へ
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空堀に立っています。
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西へ廻って二の丸を覗きます。
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二の丸南側から本丸南城壁を見ています。
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二の丸東から見ています。
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二の丸南先端から三の丸を見下ろしています。
次回 三の丸から南尾根へ
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御館の乱 両軍配置図