長野原城は群馬県長野原町長野原にあります。
長野原城地図
長野原役場の裏の駐車場から西に進み、民家の手前から山道があります。
国道145号線沿いにある長野原役場、この裏手に廻り
役場裏にある空き地を西に
民家の手前から北裏に山道があります。
15分も登ればこの峠になります。
この分岐で右に行けば大手、左手に下れば長い土塁と空堀が待っています。
曲輪を基点に北へ下り、右手に空堀が沿っています。
この空堀は、山側と城内とを区切るものです。
空堀は通路でもあり、北の曲輪へと通じています。
空堀を北から見上げています。
空堀の先は曲輪で監視できるようになっています。瘤の所から左手に進むと
もう一つの土塁が、左下の空堀に平行の土塁が形成されています。
二重の土塁です。
左手の土塁と右下の空堀とが組み合わさって、西側の最前線の守りとしています。
長野原合戦
○開戦の準備(真田方)
本格的に吾妻郡を攻略することになった真田幸隆は兵糧を信州小県より運び、鎌原と長野原の城に貯蔵した。
長野原城は羽尾入道の手の者はいなくなり、真田幸隆の弟である常田新六郎が大将で、草津の湯本善太夫の一党などが城を守っていた。
○開戦の準備(斎藤方)
岩櫃城の斎藤越前守は真田幸隆の吾妻郡侵入を奪回するために北群馬郡子持村白井城(上杉謙信方の長尾氏)の援助を得て羽尾入道道雲、海野能登輝幸を指揮官として出動した。
○長野原城への進軍
東部吾妻の侍大将が一つになって八百騎余が暮坂峠から長野原城(箱岩城)に軍を進め、塩野谷将監と白井勢三百余騎は小雨川を渡って進軍した。羽尾入道と能登守は軍五百騎余で長野原町林から進軍した。箱岩城の常田はこの大軍を迎えて戦ったが、農繁期のため城に味方する農兵も少なく、やむなく須川橋と琴橋を落として敵の侵入を食い止めていたが、斎藤方は林村の山から大木を伐り倒し、これを須川に投げ込み、にわかづくりの橋をつくり、その上を伝って長野原側に攻め入った。
○真田方の敗戦
真田方に大将常田新六郎は奮戦したが力及ばず、先頭に立って長野原の諏訪神社のあたりで指揮していたが、遂に斎藤方に討たれて討死してしまった。鎌原幸重の援軍もためにならず、真田幸隆、鎌原幸重方は散々の敗戦となってしまった。羽尾入道は雪辱がなり再び本領羽尾城に入りもとの支配に戻った。真田幸隆方は鎌原へ集結し武田信玄のもとへこのことを伝え援軍を頼んだが、信玄はほかの作戦で応援することができず、真田とその先手となっていた鎌原もしばらくは策の施しようがなかったのである。この長野原合戦について、『加沢記』(巻之一)に次のように述べている。 長野原町観光サイトより
長野原城地図
長野原役場の裏の駐車場から西に進み、民家の手前から山道があります。
国道145号線沿いにある長野原役場、この裏手に廻り
役場裏にある空き地を西に
民家の手前から北裏に山道があります。
15分も登ればこの峠になります。
この分岐で右に行けば大手、左手に下れば長い土塁と空堀が待っています。
曲輪を基点に北へ下り、右手に空堀が沿っています。
この空堀は、山側と城内とを区切るものです。
空堀は通路でもあり、北の曲輪へと通じています。
空堀を北から見上げています。
空堀の先は曲輪で監視できるようになっています。瘤の所から左手に進むと
もう一つの土塁が、左下の空堀に平行の土塁が形成されています。
二重の土塁です。
左手の土塁と右下の空堀とが組み合わさって、西側の最前線の守りとしています。
長野原合戦
○開戦の準備(真田方)
本格的に吾妻郡を攻略することになった真田幸隆は兵糧を信州小県より運び、鎌原と長野原の城に貯蔵した。
長野原城は羽尾入道の手の者はいなくなり、真田幸隆の弟である常田新六郎が大将で、草津の湯本善太夫の一党などが城を守っていた。
○開戦の準備(斎藤方)
岩櫃城の斎藤越前守は真田幸隆の吾妻郡侵入を奪回するために北群馬郡子持村白井城(上杉謙信方の長尾氏)の援助を得て羽尾入道道雲、海野能登輝幸を指揮官として出動した。
○長野原城への進軍
東部吾妻の侍大将が一つになって八百騎余が暮坂峠から長野原城(箱岩城)に軍を進め、塩野谷将監と白井勢三百余騎は小雨川を渡って進軍した。羽尾入道と能登守は軍五百騎余で長野原町林から進軍した。箱岩城の常田はこの大軍を迎えて戦ったが、農繁期のため城に味方する農兵も少なく、やむなく須川橋と琴橋を落として敵の侵入を食い止めていたが、斎藤方は林村の山から大木を伐り倒し、これを須川に投げ込み、にわかづくりの橋をつくり、その上を伝って長野原側に攻め入った。
○真田方の敗戦
真田方に大将常田新六郎は奮戦したが力及ばず、先頭に立って長野原の諏訪神社のあたりで指揮していたが、遂に斎藤方に討たれて討死してしまった。鎌原幸重の援軍もためにならず、真田幸隆、鎌原幸重方は散々の敗戦となってしまった。羽尾入道は雪辱がなり再び本領羽尾城に入りもとの支配に戻った。真田幸隆方は鎌原へ集結し武田信玄のもとへこのことを伝え援軍を頼んだが、信玄はほかの作戦で応援することができず、真田とその先手となっていた鎌原もしばらくは策の施しようがなかったのである。この長野原合戦について、『加沢記』(巻之一)に次のように述べている。 長野原町観光サイトより