四、大戸浦野氏の没落
『加沢記』によると、天正十年九月下旬に後北条氏の内藤丹波守・富永主膳が大将となり大戸口に攻め入ると、大戸真楽斎・同但馬守らが三ノ倉に出向き戦ったものの、無勢のため手子丸城(大戸城)に引き籠ったという。そこを後北条氏が大勢で攻め、大戸兄弟らは切腹して果てたので、手子丸には多目周防守・富永主膳が入ったという。大戸浦野氏はこの間の後北条氏・真田の抗争によって大戸城を失ったことがわかる。その後、天正十五年頃、手子丸城には北条氏邦の重臣斎藤定盛が在城する。ここは箕輪城の系列の城として位置づけられ、対真田の前線の城となった。
五、榛名峠城法度
天正十五年(1587)十二月二十七日、猪俣邦憲(富永助盛)は林治部左衛門に「榛名峠城法度」を作成して与えた。この法度は十三ケ条からなり、城番の方法、心構えなどを記載したものであり、戦国期の城砦の管理の実態を示す生々しい史料である。たとえば、番衆が「無拠所用」で城から出る場合は林治部左衛門の手判(許可証)をもらい、帰着した時に即座に返納する、手判なしで出た場合は生害に及ぶ。夜中にも油断せず、一夜に三度廻る。夜中に謡や小唄は厳禁するなどなどである。
榛名峠城については、はじめは榛名山周辺という説が有力であった。箕輪城の西方の磨墨峠付近、榛名神社から榛名湖へ越える天神峠付近、榛名の外輪山で吾妻側に面した野峠付近などの説があった。その後、吾妻郡高山村中山字権現の北の尾根の通称榛名峠の東方の権現城と同一であるという説が唱えられた。この付近に榛名信仰が広がり、石宮などがあることから峠名に援用されたという。しかし、実際に高山村中山字権現付近には榛名峠と呼ばれる地名が見つからないこと、権現城と榛名峠城がこのころの史料に見えるが、同一のものと見るのは無理があることが指摘されている。
権現城については、天正十六年四月二十七日に氏政から猪俣邦憲にその取り立てについて指示を与えている。また、同年十月十三日に後北条氏が権現城の常備すべき鉄砲類について、吉田新右衛門に伝達が行われている。このようにみると両者は別々の城と見るべきであろう。
権現城地図
『加沢記』によると、天正十年九月下旬に後北条氏の内藤丹波守・富永主膳が大将となり大戸口に攻め入ると、大戸真楽斎・同但馬守らが三ノ倉に出向き戦ったものの、無勢のため手子丸城(大戸城)に引き籠ったという。そこを後北条氏が大勢で攻め、大戸兄弟らは切腹して果てたので、手子丸には多目周防守・富永主膳が入ったという。大戸浦野氏はこの間の後北条氏・真田の抗争によって大戸城を失ったことがわかる。その後、天正十五年頃、手子丸城には北条氏邦の重臣斎藤定盛が在城する。ここは箕輪城の系列の城として位置づけられ、対真田の前線の城となった。
五、榛名峠城法度
天正十五年(1587)十二月二十七日、猪俣邦憲(富永助盛)は林治部左衛門に「榛名峠城法度」を作成して与えた。この法度は十三ケ条からなり、城番の方法、心構えなどを記載したものであり、戦国期の城砦の管理の実態を示す生々しい史料である。たとえば、番衆が「無拠所用」で城から出る場合は林治部左衛門の手判(許可証)をもらい、帰着した時に即座に返納する、手判なしで出た場合は生害に及ぶ。夜中にも油断せず、一夜に三度廻る。夜中に謡や小唄は厳禁するなどなどである。
榛名峠城については、はじめは榛名山周辺という説が有力であった。箕輪城の西方の磨墨峠付近、榛名神社から榛名湖へ越える天神峠付近、榛名の外輪山で吾妻側に面した野峠付近などの説があった。その後、吾妻郡高山村中山字権現の北の尾根の通称榛名峠の東方の権現城と同一であるという説が唱えられた。この付近に榛名信仰が広がり、石宮などがあることから峠名に援用されたという。しかし、実際に高山村中山字権現付近には榛名峠と呼ばれる地名が見つからないこと、権現城と榛名峠城がこのころの史料に見えるが、同一のものと見るのは無理があることが指摘されている。
権現城については、天正十六年四月二十七日に氏政から猪俣邦憲にその取り立てについて指示を与えている。また、同年十月十三日に後北条氏が権現城の常備すべき鉄砲類について、吉田新右衛門に伝達が行われている。このようにみると両者は別々の城と見るべきであろう。
権現城地図