山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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平尾城

2018-11-01 21:43:35 | 山城ー信州
平尾城は佐久市上平尾にあります。かつて二度ほど登りましたが、本丸周辺は酷い笹薮で見ることができませんでした。今回、佐久市を中心に山城めぐりを行っているので、また薮かもと思いながら登りましたら、笹薮はきれいに払われて全貌を見ることができました。

平尾城地図

佐久市岩村田を東から北に走る県道156号線で上平尾地区に入り、平根小の東にある守芳院を目指します。寺の北にある農道を東に進むと市道にぶつかります。

守芳院本堂

平尾弾正源守信が創建し、菩提寺としました。

寺の脇の道から東に進むと、市道にぶつかり、看板から南30mの山道から、すぐに山に入り尾根を東に登ります。

平尾城山遠景、ちなみに地図にある平尾富士には平尾城の詰め城があります。

西尾根を登ってゆき、10分も登れば虎口に着き

虎口を守る曲輪

曲輪の北側は一段削られています。

曲輪は東から見ると土塁から全体が見えてきます。

少し登ると大堀切

大堀切の上の曲輪1、ここから腰曲輪が連続しますが次回とします。

縄張り図は「信濃の山城と館」佐久編より、右下の西尾根を本丸に向かって登っています。

依田氏の分流、平尾氏
南北朝時代から室町時代にかけて、依田氏から幕府評定衆・奉行衆・奉公衆に少なくとも9人が就いている[8]。足利尊氏の代においては、依田中務大夫入道元義(幕府奉行)、座衛門尉貞行(幕府奉行)、足利義詮・足利義満の代には、左近大夫時朝(評定衆)[9][注釈 4]、足利義持の代には、座衛門大夫秀□(幕府奉行)が就いており、その後は、中務丞秀朝(幕府奉行)、中務丞光朝(幕府奉行)と続く。奉公衆には、依田九郎、依田孫九郎が就いている[10][注釈 5]。幕府の要職に命ぜられるのは建武2年(1335年)から文明年間まで続き、依田氏は在府と在地に分かれる事になる[11]。
室町時代前後から、在地の依田氏は、佐久郡に進出していく。平尾、平原などに進出し、平尾氏、平原氏等を名乗った。信濃守護・小笠原氏の分流である、大井氏に従臣した影響によるところが大きい。大井氏が佐久を所領していたためである。ただし、依田氏の佐久郡・芦田への進出を巡り、大井氏に従臣した時期における論争がある。在地の依田氏が大井氏に恭順したのは、永享8年(1436年)に小笠原氏・大井氏との戦いに敗れた後とする解釈がある。その一方で、幕府8代将軍・足利義政が発した、御教書を以って、依田氏の芦田進出の時期を判断する立場もある[12]。足利義政の記したところの「芦田下野守」は、依田氏の同時期の系図・系譜には存在しない[13]。[注釈 6][注釈 7]、永享元年(1429年)には、鎌倉時代より続く大井法華堂の先達職に依田氏が就任していた[14]、等の史実に裏付けられたうえで、信濃守護小笠原氏・大井氏の陣営にあった、依田右衛門尉経光が永享8年(1436年)に芦田に進出して芦田氏を名乗った[注釈 8]とする。これによれば、依田氏は、在府での地位を賭するような、足利義政の不興を買う振る舞いはせずに、大井氏との関係を良好に保っていた。足利義政の命を受けて[15]、信濃守護小笠原氏・大井氏陣営が戦ったのは、滋野氏の流れを汲む、芦田氏、海野氏、根津氏であった。ウィキペディアより


菩提寺、守芳院の総研は天文元年(1532)とされているが、平尾氏は依田右衛門経光が永享8年(1436)に芦田に進出していることから、この後に平尾氏は上平尾に所領を得たものと思われます



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