山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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望月城砦群③

2018-10-31 20:27:54 | 山城ー信州
松明山砦から瓜生峰南砦へ


胡桃沢峰砦の北東から

100m先に

松明山砦虎口

松明山砦は憩いの広場のようになってしまい改変されています。

望月町市街

南には総合体育館と左の峰に胡桃沢峰砦があります。

松明山砦から50mくらいに祠が祭られています。そこから反対側に山に入ると、東側に土塁を構築して

瓜生峰南砦の本曲輪があります。この砦から150m先に瓜生峰砦があると宮坂氏の縄張り図には記されていますが見つけられませんでした。

縄張り図は「信濃の山城と館」佐久編より

次回 佐久市上平尾にある平尾城(本丸周辺は笹薮でしたが、綺麗に伐採されております。)

戦国期に入ると、隣国甲斐国の武田氏や、越後国の長尾氏(上杉氏)などの度重なる侵攻により衰退し、嫡流の望月昌頼は武田氏に抵抗して敗れるが、天文12年(1543年)9月に庶流の望月信雅(源三郎、印月斎)は実弟の望月新六と共に、同じく滋野氏の流れをくむ真田幸綱(幸隆)の仲介による説得を得て武田氏に臣従し、望月氏を継いだ。源三郎は武田晴信(武田信玄)の一字「信」を与えられ信雅と名乗った。

望月 信雅(もちづき のぶまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。信濃国望月城主。
滋野氏の後裔望月氏の庶流。望月氏宗家の望月昌頼に仕え、天文12年(1543年)に長窪城主・大井貞隆と共に武田晴信(信玄)の侵攻に抵抗するが望月城が落城すると、弟の新六らと共に布引城へ逃れる。以降も甲斐武田氏への抵抗を続けるが、天文17年(1548年)真田幸隆の仲介を得て武田氏に降伏し、望月氏惣領を継承する。武田氏に臣従後、武田晴信の偏諱を受け信雅と名乗った。
武田信繁の子・義勝を養子とするが、永禄4年(1561年)に信頼(義勝)が急逝すると、その実弟信永を養子として家督を譲り出家した。天正3年(1575年)長篠の戦いで信永が戦死すると復帰し、その実兄・武田信豊と共に望月領を治めた。ウィキペディアより


望月 信頼(もちづき のぶより、天文13年(1544年) - 永禄4年9月21日(1561年10月29日))は、甲斐武田氏の一族で、戦国時代の武将。武田信繁の長男で、武田信豊の兄、武田信玄の甥に当たる。武田氏に臣従した信濃の名族望月氏を継ぐ。
生涯[編集]
天文13年(1544年)、武田信玄の弟・武田信繁の長男として生まれる。母は望月盛昌の娘。通称は三郎。元服後は武田義勝を名乗るが、永禄3年(1560年)信濃佐久郡の名族望月氏の望月信雅の養子となり、望月姓を名乗る(養子となった後も、いくつかの資料には武田義勝と記される)。
弟(信繁の次男)の母が正室であるのに対し、信頼と信繁の三男である望月信永の母は望月氏当主であった望月盛昌の娘であったため、望月城の当主となっていた望月信雅の養子になったと考えられている。
翌永禄4年(1561年)9月10日の第4次川中島の戦い(父の武田信繁が戦死)に参陣するが、直後の9月21日に死去した。享年18。死因は病死とも、川中島における戦傷ともいわれる。戒名:喜翁悦大禅門。
子が無かったため実弟(武田信繁の三男)が望月信雅の養子(望月太郎、後の望月信永)として望月家に入り、後に家督を継いだ(信頼自身は家督相続前であった)。 ウィキペディアより








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