山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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氏族の追跡(長享日記の舞台、海ノ口城)

2015-06-14 19:59:42 | 氏族の追跡
天文元年(1532)三月十三日海野左京亮幸善父子村上家を叛くによりて村上義清三千余騎を率い、幸善の居城、海野城を攻め幸善神川あたりに出張りて戦うが、幸善討死す。

天文四年(1535)平賀入道玄信推挙を持って海尻の要害を兼ね砦とし海野口に城を築き、城代平賀玄信・相木市兵衛満頼・川上入道浄心、これを守る所に、天文五年十一月二十三日武田信虎八千余騎を引き連れ海ノ口城を攻める。村上義清八千余騎を以て後詰めをなす、折柄大雪降り続き合戦に及ぶに難く対陣なり。武田勢寒気忍び難く十二月下旬に至り城をまきほぐし、引き退く。村上勢も各々居城に引き退く。然るに甲陽板垣備中武略を以て相木・川上両人を内通に及びさせ、戦略を立てると称し(意訳しました。)酒宴に及び玄信泥酔に及びし時、武田晴信の軍勢を、相木・川上密かに城中に引き入れ玄信の寝首を討たせ晴信十六歳初陣の高名となりしは板垣信方が武略にて相木・川上逆心也と後に知れることなり平賀玄信、己にか勇猛を誇り諸士を蔑にし我意を振りしにより諸士疎み武田方へ内通に及び玄信を討たせしなり、斯くて海ノ口城玄信が推挙によりて築き立てしか軍勢の費という。玄信討たるるという不吉なりとて、村上義清翌二月悉く破却せり。

海ノ口城① ②
海ノ口城は砦で、武田信虎八千余騎を受けて立つほどの山城ではないと思われます。とすれば城代平賀玄信は海尻城にいたのではないかと推測しています。また平賀玄信については佐久市史が、特集を組むほど研究されています。今後機会をもって紹介したいと思います。ただ平賀玄信架空説などは紹介するも時間の無駄であり私は取り上げません。

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