城主高田小次郎の動向「吉井町史」より
「関八州古戦録」には、関東管領山内上杉憲政は三歳で実父憲房を失い九歳にして養父憲寛から位を譲り受けて以来、誰はばかる人もいないまま生い立ったので、政治に暗く、武に欠け、ただ歌、鞠、茶などの道以外は、舞や酒色におぼれ、遊芸にふけるばかりで、昼夜を空しく暮らしていた。いつの間にか家風も廃れ、長幼の序も乱れ、政治向きのことは佞姦たちに握られ、菅野大膳亮(高田憲頼)、上原兵庫両出頭(両者は政務に参与した側近の出頭衆)といった佞臣にいいようにされて今日に至ったとあり、いずれは滅亡する運命にあるものと言われていた。
天文十五年四月二十日の武州川越における夜戦では、北条氏康方はおよそ八千騎、これに対する古河公方足利晴氏の兵と、両上杉(山の内と扇ヶ谷)の兵を合わせて八万余騎である。氏康はこの八万余騎に対し、武州川越において夜討ちをしかけた。扇ヶ谷の上杉五郎朝定は討死したが、関東管領上杉憲政だけはようやく上野の平井城へ落延びることができた。今度の夜戦では佞臣の菅野大膳亮や上原兵庫は憲政よりも先に撤退したと言われている。
上州平井城には川越で大敗した上杉憲政がいたが、氏康の武威に恐れをなして小田原へ報復を挑もうとするものは誰一人いなかった。この時に側近の諂い重役菅野大膳亮、上原兵庫が隣国(信州へ侵攻していた。)の甲斐の武田晴信を討とうと言い出したのである。その理由として、武田晴信はこの年(天文十五年)の暮れに信州砥石において村上義清と戦って四千余りの兵を失っており、その上晴信自身は瘧の病に臥していた。一説には労咳に罹っていたともいわれている。こんな時に小田原の氏康が信州の佐久から攻め入ったら武田家の滅亡は必然であろう。従ってこちらの方から先手を打って武田を滅ぼすことができれば、あの川越戦の汚名を挽回するばかりでなく、憲正の威光が輝くであろうし、以後氏康も平井城へは手を出すことはなくなり、まさに一石二鳥の策であると考えられるというのである。
省略・・・皆が最もだと賛同する中で、弓矢の道にかけては巧者なる上野箕輪の城主長野業政は憂慮していった。「皆々方、筋の通らぬことを巧みに言っておられるように思われる。そもそも上杉の威力は武力面だけでなく政治面も今までと逆になり、従順な気風も薄れて、北条氏康に度々痛手を負わされている。何とかして北条氏康に上杉家が退治されぬように知慮を働かすこともなく、さして悪化した関係もない他国と合戦すると言われるが、武田勢と戦ってうまくいけばそれで一理あるかもしれないけれども、きっと各勢後れを取って敗れることは疑いあるまいと考えられる。武田晴信は九年前、十八歳から今年の二十六歳までの間に、一年に二度三度と大合戦をしながら敗れたことがなく、敵方に圧倒されたということを聞かない。とりわけ去る砥石合戦でも、晴信公だからこそ、戦場を維持して、最後には威力を示して抑圧成された。兵数が多く討死したから負けたのだとする見解は、武略に精通しないものが、そのように言いふらすものだ。
つづく
「関八州古戦録」には、関東管領山内上杉憲政は三歳で実父憲房を失い九歳にして養父憲寛から位を譲り受けて以来、誰はばかる人もいないまま生い立ったので、政治に暗く、武に欠け、ただ歌、鞠、茶などの道以外は、舞や酒色におぼれ、遊芸にふけるばかりで、昼夜を空しく暮らしていた。いつの間にか家風も廃れ、長幼の序も乱れ、政治向きのことは佞姦たちに握られ、菅野大膳亮(高田憲頼)、上原兵庫両出頭(両者は政務に参与した側近の出頭衆)といった佞臣にいいようにされて今日に至ったとあり、いずれは滅亡する運命にあるものと言われていた。
天文十五年四月二十日の武州川越における夜戦では、北条氏康方はおよそ八千騎、これに対する古河公方足利晴氏の兵と、両上杉(山の内と扇ヶ谷)の兵を合わせて八万余騎である。氏康はこの八万余騎に対し、武州川越において夜討ちをしかけた。扇ヶ谷の上杉五郎朝定は討死したが、関東管領上杉憲政だけはようやく上野の平井城へ落延びることができた。今度の夜戦では佞臣の菅野大膳亮や上原兵庫は憲政よりも先に撤退したと言われている。
上州平井城には川越で大敗した上杉憲政がいたが、氏康の武威に恐れをなして小田原へ報復を挑もうとするものは誰一人いなかった。この時に側近の諂い重役菅野大膳亮、上原兵庫が隣国(信州へ侵攻していた。)の甲斐の武田晴信を討とうと言い出したのである。その理由として、武田晴信はこの年(天文十五年)の暮れに信州砥石において村上義清と戦って四千余りの兵を失っており、その上晴信自身は瘧の病に臥していた。一説には労咳に罹っていたともいわれている。こんな時に小田原の氏康が信州の佐久から攻め入ったら武田家の滅亡は必然であろう。従ってこちらの方から先手を打って武田を滅ぼすことができれば、あの川越戦の汚名を挽回するばかりでなく、憲正の威光が輝くであろうし、以後氏康も平井城へは手を出すことはなくなり、まさに一石二鳥の策であると考えられるというのである。
省略・・・皆が最もだと賛同する中で、弓矢の道にかけては巧者なる上野箕輪の城主長野業政は憂慮していった。「皆々方、筋の通らぬことを巧みに言っておられるように思われる。そもそも上杉の威力は武力面だけでなく政治面も今までと逆になり、従順な気風も薄れて、北条氏康に度々痛手を負わされている。何とかして北条氏康に上杉家が退治されぬように知慮を働かすこともなく、さして悪化した関係もない他国と合戦すると言われるが、武田勢と戦ってうまくいけばそれで一理あるかもしれないけれども、きっと各勢後れを取って敗れることは疑いあるまいと考えられる。武田晴信は九年前、十八歳から今年の二十六歳までの間に、一年に二度三度と大合戦をしながら敗れたことがなく、敵方に圧倒されたということを聞かない。とりわけ去る砥石合戦でも、晴信公だからこそ、戦場を維持して、最後には威力を示して抑圧成された。兵数が多く討死したから負けたのだとする見解は、武略に精通しないものが、そのように言いふらすものだ。
つづく