山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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口粟野岩鼻城

2018-01-02 21:01:52 | 山城ー野州
口粟野岩鼻城は栃木県鹿沼市(旧粟野町)口粟野にあります。

口粟野岩鼻城地図

地図の成和工業の会社の東200mくらいに、道を挟んで教育委員会のバスが止まっています。(生徒送迎バス)この敷地の裏山から西尾根を進み、最長部に岩鼻城はありました。この山城は西3kmに大塚城があり。東1.8kmに粟野城があります。この中間にあることから、繋ぎの城であったようです。

西尾根を登り進むと、北尾根に代わります。

一段目の帯曲輪

帯曲輪を見下ろしています。

本曲輪

縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より、岩鼻城は単曲輪です。曲輪4から登りました。

堀切3とある南東尾根を下ります。空堀が目立ちます。

二つ目の堀切

南東尾根が下っています。

本曲輪側を見上げています。

北西尾根を下り

第一堀切

北西尾根を進み

第二堀切

北西尾根の先端部、物見?

以上で口粟野岩鼻城は終ります。


次回 旧粟野町 諏訪山城

皆川広照の信長・家康との繋がり
広照は乱世を生き残るために当時、勢力を拡大しつつある織田信長への接近を模索し、天正8年(1580年)徳川家臣の中川忠保と親交を深め徳川家康への接近を試みた。
天正9年(1581年)10月、中央政権と関わることの多い紀州根来寺で修行していた広照の叔父の玄宥を道案内とし、家臣の関口石見守を安土城へ遣わした。取り次ぎは織田家臣・堀秀政が行い念願叶って織田信長に黒脚毛の馬を含む名馬三頭を送って誼を通じたのである。馬好きでもある信長は大変喜び、「天下布武」の朱印状と縮羅百端・紅緒五十結・虎革五枚など馬七頭分を贈答した。また堀秀政の副状が添付された。当時の畿内は皆川氏の知名度は薄く、信長らが広照に出した書状は長沼や常陸国蜷川などと名前を間違えている。信長は関口石見守の帰還における安全担当として、家臣の滝川一益に命じ、東海道の安全を保障した[5]。
また、関口は帰還の折、浜松城の徳川家康と面会し、家康は広照が信長に近づいたことを祝福して広照との今後の交流も約束した。土産として宇治茶も贈った[6]。
翌天正10年(1582年)織田家の甲州征伐後、関東に赴任した滝川一益に仕えた。上野国厩橋城を拠点とした滝川一益に広照をはじめ、宇都宮国綱、佐竹義重などの関東の反北条方領主は従属の姿勢を見せたが、織田家は北条氏とも友好関係であったため複雑な外交を求められた。ウィキペディアより








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