二の丸から本丸へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/20/f7ba13f79e9ea3b19565cfa64b1f25f0.jpg)
この階段の上が本丸ですが、右手の武者走りを進むと前回記事の縄張り図を見てもらえれば、二の丸東下に回れることが分かります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/fe/293e094bb522949269f255b7348c7500.jpg)
二の丸の東側
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/49/a81f6f5647f4c424b60a869163690e4e.jpg)
毛呂町を見下ろしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/ad/ea02c362d153bb4a64ecc518a154a36f.jpg)
二の丸から本丸を見ています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/fb/b3d41839ace8230a4d222a7b1477d312.jpg)
本丸の西下、曲輪4
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/09/5ac791a016c675462f951bf0e20ea673.jpg)
曲輪4から曲輪5を見下ろしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/14/3efcb403dae2fd8fc9dc071a27c9affc.jpg)
曲輪4から本丸城壁を見ています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/57/9accfc44f31bc230f51e52d8f500fe3a.jpg)
本丸から二の丸を見渡しています。
北条氏の制札が当麻宿に出されているが、それによると、「玉縄、小田原より武蔵国石戸、毛呂へ往復のもの、虎の印判をもたざる者、伝馬押立ていたすべからず」という内容が示されており、小田原から武蔵石戸、毛呂までが北条氏の勢力圏に組み入れられていたらしいことが伺える。その後も、この地方においては氏綱による禁制が出されており、上杉氏との間で緊張感が高まっていた。配下の豪族たちが北条氏に寝返る中、上杉氏もそうとうの危機感を抱いていたはずである。そして10月、上杉氏は毛呂城奪回に向けて動き出した。11月23日付の長尾為景宛氏綱書状には、上杉憲房が上州衆を率いて毛呂要害へ取り掛かったという記述がある。竜ヶ谷は「りゅうがい」、すなわち要害の転じたものであるから、毛呂要害とはすなわち毛呂竜ヶ谷城、つまりここのことであるだろう。このように当城は、北条氏と上杉氏とが取り合った要害であったと考えられる。「余湖君のお城のページ」より引用
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この階段の上が本丸ですが、右手の武者走りを進むと前回記事の縄張り図を見てもらえれば、二の丸東下に回れることが分かります。
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二の丸の東側
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毛呂町を見下ろしています。
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二の丸から本丸を見ています。
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本丸の西下、曲輪4
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曲輪4から曲輪5を見下ろしています。
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曲輪4から本丸城壁を見ています。
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本丸から二の丸を見渡しています。
北条氏の制札が当麻宿に出されているが、それによると、「玉縄、小田原より武蔵国石戸、毛呂へ往復のもの、虎の印判をもたざる者、伝馬押立ていたすべからず」という内容が示されており、小田原から武蔵石戸、毛呂までが北条氏の勢力圏に組み入れられていたらしいことが伺える。その後も、この地方においては氏綱による禁制が出されており、上杉氏との間で緊張感が高まっていた。配下の豪族たちが北条氏に寝返る中、上杉氏もそうとうの危機感を抱いていたはずである。そして10月、上杉氏は毛呂城奪回に向けて動き出した。11月23日付の長尾為景宛氏綱書状には、上杉憲房が上州衆を率いて毛呂要害へ取り掛かったという記述がある。竜ヶ谷は「りゅうがい」、すなわち要害の転じたものであるから、毛呂要害とはすなわち毛呂竜ヶ谷城、つまりここのことであるだろう。このように当城は、北条氏と上杉氏とが取り合った要害であったと考えられる。「余湖君のお城のページ」より引用