山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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戦国の争乱と榛名地域(榛名町史)⑥

2016-07-06 20:25:32 | 氏族の追跡
第五節 後北条氏の西上州支配

一、滝川一益と神流川合戦
 武田家を滅ぼした信長は三月二十三日に腹心の滝川一益に上野一国と信濃二郡を与え、関東管領の名目を与えて上野への進出を命じた。一益はまず箕輪城に入城したという。六月二日、織田信長は家臣明智光秀によって本能寺で殺害された。この知らせは七日飛脚によって一益の下に届けられた。老臣らはこれを上野の国衆に秘密にし、国衆から集めた人質も返さずに上洛すると決めたが、これに対し一益は、秘密は漏れるものでかえって人々の不信を買うとして、国衆を集め事態を包み隠さず伝えたところ、国衆はこれに感激して一益に最後まで従うことを申し述べたという。
 六月十一日、後北条方から一益の窮状を察し、相談があれば粗略にしないとの書状が届いたが、一益はこれを謀略と断じ、上野の国衆に後北条方と戦って勝利し、関東の仕置きを行ったうえで上洛すると伝えたという。国衆らの同意を得て、一益は後北条氏との決戦のため出陣した。
 滝川軍は手勢八千、上野国衆一万の合計一万八千であり、後北条方にもそれに勝る軍勢が居たと思われる。午前は滝川軍が優勢であったが、午後になって後北条方が滝川軍を誘い込んで伏兵による奇襲により優勢になったという。敗れた一益は厩橋に退き、翌日碓氷峠から上方に向けて退去した

二、北条氏邦の箕輪入城
神流川合戦で勝利した後北条軍は上野の各地に進撃した。北条氏邦は六月二十二日には祖母島(うばじま)・川島・白井村(以上は渋川市)などに、同二十九日には一宮(富岡市)に禁制を掲げている。一方氏直は六月下旬に碓氷峠を越えて信濃まで侵入した。松井田城には大道寺政繁が入った。上野はほぼ後北条氏が制圧したことがわかる。越後の上杉景勝、遠江の徳川家康らも信濃・甲斐に侵攻し、それぞれ織田旧領の切り取りを進めていった。
 箕輪城に入り、箕輪を支配したのは北条氏邦である。天正十一年五月十六日の糟尾法眼寿信の書状に「房州様当地箕輪ご在城」とあり、この時、氏邦が箕輪城に居たことがわかる。

つづく 次回 北毛の抗争

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