七二会歴史講演会は平成28年度の古い情報でしたお詫びします。
長井坂城は群馬県昭和村川額(かわはけ)にあります。
長井坂城地図
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/f1/eee508bbdadb4116b4f78f996775d5dc.jpg)
昭和村から赤城村(現渋川市)に向かう県道255号線でバス停永井口から東に村道を進むと1.8kmくらいに案内が出ています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/ae/4c89943356df0aca6127b7c9bc137177.jpg)
林道を登りきると本丸への案内があります。車は戻り100mくらいに路駐帯があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/08/793419748992fd63e238d633ea21bd64.jpg)
関越自動車道の上にあり、地元教育委員会の頑張りがあって、この長井坂城を突っ切る予定が、トンネルによって破壊を免れたそうです。道路建設のためには歴史的遺構を破壊されても黙認してしまう自治体も多く、この昭和村は大変評価されるべきと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/a5/28a719935859f3025d54692f1c6453d6.jpg)
広大な畑が三の丸です。奥に見える城壁が二の丸
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/f8/fd8a1f71dee5a6462bfd9b3097bf9ac5.jpg)
虎口に入り
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/57/76af907a4f75c99c939ae39739520e02.jpg)
右に進めば南雲宿へ(沼田街道 南雲 群馬県勢多郡赤城村長井小川田)、前方が馬出
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/b0/ab1ba863d6f3dd25f71db2fc700835bc.jpg)
馬出、左手が本丸
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/ed/126caaab565a9a64863dbcc0af966ca5.jpg)
馬出は奥に広くなっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/3e/76e919feea4c038bba241429a3c83e42.jpg)
本丸北側城壁
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/93/62a0bd3af3e714be29ed8abf576996fa.jpg)
馬出から東前方に二の丸虎口
次回 二の丸から本丸へ
戦国期のものと推定されている年未詳11月26日付の阿久沢能登守宛北条家朱印状によれば「先段長井坂番与申遣候へ共、彼地相止、阿曾之寄居番ニ定候、参拾人自身召連、来月5日阿曾へ打着、6日に番所請取」と記され、阿久沢氏(赤城山南麓の神梅城を本拠地とした上野国衆)は長井坂城の城番から阿曾の寄居にその任務が変更されたことが窺える。(京都大学所蔵阿久沢文書/群馬県史資料編7巻)真田氏と後北条氏による沼田の領有争いが繰り広げられた天正年間後半のものであろうか。また天正15年と推定される9月11日付の須田弥七郎宛猪俣邦憲充行状写によれば、「右長井坂在城ニ付而出置候」(長井坂城在城について送ったものである)として、塚本舎人分のうち15貫文を長井坂城の在城のために給付していることが窺われる。(須田文書/群馬県史資料編7巻)
また後世の江戸時代初期に記された「加沢記」によれば、永禄3年(1560)に後の上杉謙信である長尾景虎が越山、長井坂に布陣し、沼田氏が降服したとされている。しかしこの部分については「ぐんまの城30選」など近年の刊行物では史実としては認識されていない傾向が窺える。「加沢記」にはその後の天正8年8月に真田昌幸の侵攻により、白井長尾氏傘下にあった長井坂城の津久田周辺の地衆である牧弥六郎、須田加賀守、狩野左近介、石田平左衛門らが降服して真田氏の支配下に置かれたが、天正10年10月に北条氏邦は五千の兵でこれを攻略し猪俣範直に守らせたともいう。その後一時は真田氏側の攻勢もあったが、天正18年(1590)の後北条氏滅亡の時期まで引き続いてその支配下に属していたとされている。 「城跡ほっつき歩記」ブログより
長井坂城は群馬県昭和村川額(かわはけ)にあります。
長井坂城地図
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昭和村から赤城村(現渋川市)に向かう県道255号線でバス停永井口から東に村道を進むと1.8kmくらいに案内が出ています。
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林道を登りきると本丸への案内があります。車は戻り100mくらいに路駐帯があります。
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関越自動車道の上にあり、地元教育委員会の頑張りがあって、この長井坂城を突っ切る予定が、トンネルによって破壊を免れたそうです。道路建設のためには歴史的遺構を破壊されても黙認してしまう自治体も多く、この昭和村は大変評価されるべきと思います。
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広大な畑が三の丸です。奥に見える城壁が二の丸
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虎口に入り
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右に進めば南雲宿へ(沼田街道 南雲 群馬県勢多郡赤城村長井小川田)、前方が馬出
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馬出、左手が本丸
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馬出は奥に広くなっています。
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本丸北側城壁
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馬出から東前方に二の丸虎口
次回 二の丸から本丸へ
戦国期のものと推定されている年未詳11月26日付の阿久沢能登守宛北条家朱印状によれば「先段長井坂番与申遣候へ共、彼地相止、阿曾之寄居番ニ定候、参拾人自身召連、来月5日阿曾へ打着、6日に番所請取」と記され、阿久沢氏(赤城山南麓の神梅城を本拠地とした上野国衆)は長井坂城の城番から阿曾の寄居にその任務が変更されたことが窺える。(京都大学所蔵阿久沢文書/群馬県史資料編7巻)真田氏と後北条氏による沼田の領有争いが繰り広げられた天正年間後半のものであろうか。また天正15年と推定される9月11日付の須田弥七郎宛猪俣邦憲充行状写によれば、「右長井坂在城ニ付而出置候」(長井坂城在城について送ったものである)として、塚本舎人分のうち15貫文を長井坂城の在城のために給付していることが窺われる。(須田文書/群馬県史資料編7巻)
また後世の江戸時代初期に記された「加沢記」によれば、永禄3年(1560)に後の上杉謙信である長尾景虎が越山、長井坂に布陣し、沼田氏が降服したとされている。しかしこの部分については「ぐんまの城30選」など近年の刊行物では史実としては認識されていない傾向が窺える。「加沢記」にはその後の天正8年8月に真田昌幸の侵攻により、白井長尾氏傘下にあった長井坂城の津久田周辺の地衆である牧弥六郎、須田加賀守、狩野左近介、石田平左衛門らが降服して真田氏の支配下に置かれたが、天正10年10月に北条氏邦は五千の兵でこれを攻略し猪俣範直に守らせたともいう。その後一時は真田氏側の攻勢もあったが、天正18年(1590)の後北条氏滅亡の時期まで引き続いてその支配下に属していたとされている。 「城跡ほっつき歩記」ブログより