山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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山本勘助と山本菅助「西上州の中世」③

2016-04-04 09:41:38 | 歴史資料
その後の山本家
永禄四年九月川中島の戦いで、初代山本勘助戦死後、山本氏はどうなったのであろうか。初代勘助には、養子十左衛門尉(幸俊)がいた。「山本家文書」によると、山本十左衛門尉は甲斐の武士饗場越前守の息子で、天文二十年に勘助の娘婿になったという。ところがその後、天文二十二年(1553)に初代勘助に男子兵蔵(のちに菅助)が誕生してしまう。そのため十左衛門尉は、兵蔵の後見人と成り、初代勘助戦死後は陣代という立場にあったと推察される。
 そして永禄十一年(1568)に兵蔵は元服して菅助と名乗り、武田信玄より朱印状を与えられたという。これが「真下家所蔵文書」の中に含まれている戊辰(永禄十一年)六月七日付の山本菅助宛武田家朱印状である。これが軍役勤仕と武装既定の遵守を指示した内容であることから、元服に伴う家督相続を受けて武田氏が軍役賦課を実施した文書であるとみなされる。
 ところが山本菅助は、天正三年(1575)五月の長篠の合戦で戦死してしまったため、後見人であった山本十左衛門尉が正式に山本氏を継いだ。これを受けて、山本十左衛門尉が長篠戦後の武田氏による軍役定書(天正四年五月十二日付)を授与されたのである。そして武田氏滅亡後、山本十左衛門尉はいち早く徳川氏に帰属することになり、旗本に編入され、知行を安堵された。
 山本十左衛門尉は慶長二年(1597)に死去し、家督は十左衛門尉の子平一郎(幸明)が相続した。彼は徳川家康の旗本として伏見城に在番していたが、慶長十年に早世してしまう。嗣子なきにより、旗本山本氏は改易処分となった。「山本家由緒書控」などによると、平一郎には三人の弟がいたが、弥八郎は慶長十三年(1608)に素一郎は慶長十八年(1613)に相次いで没し、ただ一人三郎右衛門が残されたという。
 三郎右衛門は、徳川氏の旗本として登用されることを望んだが叶わず長きにわたっての浪人生活を強いられた。その後前回記述②のように寛永初年には水戸藩との交渉が進められたが成就せず、寛永十年に「甲陽軍鑑」を読み山本勘助の活躍を知っていた淀藩主永井尚政が、武田遺臣平岡和由、日向清庵を仲介役に山本三郎右衛門を招き、彼を家臣として登用した。
 その後、永井家は淀から丹後宮津へと国替えになったが、延宝八年(1680)不幸にして改易となった。このため山本菅助(晴方、三郎右衛門の子)は浪人することになる。
 またこの後、山本菅助(晴方)は、松平信興(松平信綱の五男)に仕え、以後山本氏は幕末まで松平氏に仕えた。この松平氏は、常陸土浦藩、大阪城代、下野壬生藩、上野高崎藩、越後村上藩を経て再び高崎藩と成り、明治維新を迎えている。

この高崎藩士の山本菅助の娘が横尾家に嫁ぎ、文政九年に亡くなったということが分かっています。山本家と横尾家との縁がどういう経緯なのかは今後の調査になります

 

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