馬場城は群馬県高崎市吉井町上奥平にあります。
馬場城地図
国道254号線の信号白井を北に県道171号線を進み、岩平小を過ぎての信号を右折し600mくらいでバス停徒坂で市道を右折します。
市道を300mくらいでモーターサイクルの店の脇道に入り、すぐにまた二又を右折すると
馬場城祉の碑があり、奥の山が山城です。
碑から西に50mほどで、北回りに道をあるくと、この林道入り口があります。
100mくらいに林道を歩くと、この階段があります。
馬場城本丸
北曲輪
北側堀切
東側通路から
東曲輪
北曲輪から本丸北城壁を見ています。
本丸に戻って
西北堀切
西北曲輪
堀切
縄張図は「群馬県古城塁祉の研究 下巻」
凸奥平氏一族の詰城か
申田川とその支流である細田川の合流点丘陵先端部に占地した戦国期の小規模な梯郭式城郭で奥平城の北方約800mに所在しています。稜線続きの主郭北西に堀切等で防御された小規模で細長い2か所の郭を伴ってはいますが、城郭としての機能はその眺望などから見ても、南方の申田川下流及びその本流である鏑川対岸方面を意識した構造を有しているものと考えられます。元来は岩崎城などと同様に主郭とその帯郭などを中心とした単郭構造であった形態のものを、後に武田氏などの進攻に備えて改修強化したものとも考えられます。
「中津藩史」の奥平氏の系譜を記した「総叙」「世譜」「歴世」の項において、奥平氏は村上天皇(在位946-967)の皇子具平親王(ともひらしんのう)を祖先とする源氏後裔とされ、その第11代赤松播磨守則景の代に東国へ下り、源頼朝に従い甘楽郡司畠山小幡右衛門尉政行の娘と婚姻。その子氏行は児玉本庄左衛門尉家定の婿となり文治年間(1185-1189)甘楽郡司として、甘楽郡小幡庄奥平邑(下奥平)に「奥平城」を構えて奥平姓を名乗り鎌倉期を通じて代々甘楽郡司を務め大いに繁栄したとされています。(一部「吉井町誌」からの記述を引用)「城跡ほっつき歩記」記事より
馬場城地図
国道254号線の信号白井を北に県道171号線を進み、岩平小を過ぎての信号を右折し600mくらいでバス停徒坂で市道を右折します。
市道を300mくらいでモーターサイクルの店の脇道に入り、すぐにまた二又を右折すると
馬場城祉の碑があり、奥の山が山城です。
碑から西に50mほどで、北回りに道をあるくと、この林道入り口があります。
100mくらいに林道を歩くと、この階段があります。
馬場城本丸
北曲輪
北側堀切
東側通路から
東曲輪
北曲輪から本丸北城壁を見ています。
本丸に戻って
西北堀切
西北曲輪
堀切
縄張図は「群馬県古城塁祉の研究 下巻」
凸奥平氏一族の詰城か
申田川とその支流である細田川の合流点丘陵先端部に占地した戦国期の小規模な梯郭式城郭で奥平城の北方約800mに所在しています。稜線続きの主郭北西に堀切等で防御された小規模で細長い2か所の郭を伴ってはいますが、城郭としての機能はその眺望などから見ても、南方の申田川下流及びその本流である鏑川対岸方面を意識した構造を有しているものと考えられます。元来は岩崎城などと同様に主郭とその帯郭などを中心とした単郭構造であった形態のものを、後に武田氏などの進攻に備えて改修強化したものとも考えられます。
「中津藩史」の奥平氏の系譜を記した「総叙」「世譜」「歴世」の項において、奥平氏は村上天皇(在位946-967)の皇子具平親王(ともひらしんのう)を祖先とする源氏後裔とされ、その第11代赤松播磨守則景の代に東国へ下り、源頼朝に従い甘楽郡司畠山小幡右衛門尉政行の娘と婚姻。その子氏行は児玉本庄左衛門尉家定の婿となり文治年間(1185-1189)甘楽郡司として、甘楽郡小幡庄奥平邑(下奥平)に「奥平城」を構えて奥平姓を名乗り鎌倉期を通じて代々甘楽郡司を務め大いに繁栄したとされています。(一部「吉井町誌」からの記述を引用)「城跡ほっつき歩記」記事より