山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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『浦野一族の系譜』⑤

2015-09-26 21:39:04 | 氏族の追跡
二、川中島合戦と浦野城の役割

天文二十四年七月十九日川中島第二回の対陣に於いて、浦野新右衛門に首一つ討取りの武功を賞する信玄感状が発給されている。、この新右衛門は生島足島神社の起請文に名を連ねている新左衛門尉貞次ではないかという説もある。(信濃史料)永禄四年、第四回の合戦で「甲陽軍鑑」は「霧の深い中、信玄公信州先方浦野という弓矢巧者の侍を召し物見させ給う。」とあり信州侍の浦野という武勇優れた武士を斥候に出し、その報告から車懸かりの戦法を見破り備えを立て直したとある。この信州侍の浦野某については浦野民部とか、左衛門尉幸次とか諸説あって特定できない。
 この永禄四年の合戦に関して、信玄は八ヶ岳山麓の棒道を通り湯川から大門峠を経て茶臼山に至っているが、大門峠から茶臼山までの経路は明らかでない。「信陽雑誌」は「大門峠を越えて長窪に入り砂原峠を経て八月二十二日浦野に到着、滞在二日軍議を重ね、兵を整え八月二十四日早朝孫子の旗を靡かせつつ室賀峠を越え千曲左岸を経て茶臼山に着陣した」と浦野滞在とその重要拠点としての働きを伝えている。

三、大戸城主
大戸の浦野は信州海野氏の一流で、浦野の本領は信州小県であることはすでに述べた。海野氏は上信国境三原庄の領主であり、鎌倉期以来吾妻谷に進出していた。吾妻上流の羽尾・鎌原の地は一族が分出してその地名を苗字としている。上野国に所領を持つ浦野は大戸城を拠点としたが、大戸は吾妻川の支流温川沿いにあり、羽尾、鎌原からは須賀尾峠を越えて温川谷に出て岩櫃方面を結ぶ交通の要衝に位置する。
 大戸進出の時期については鳥子稲荷神社史料によると、健保三年(1215)信州小県郡より浦野玄蕃重治西上州に来て大戸に居を構えたとある。この史料により十三世紀初頭に浦野庄における浦野氏の存在が確立していたことが明らかであり、大戸浦野の系譜が次のようであることがわかる。 重治(健保三年信州小県郡より上野へ来たる)--弾正重勝(大戸に居住)--(長男)新左衛門(豊岡に移り住む、高崎市)次男 久左衛門(大戸に住む)

須賀尾峠地図

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