山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

須賀川城②

2018-01-31 15:06:34 | 山城ー野州
二の丸から本丸へ


二の丸の東側に廻っていきます。

二の丸東城壁

笹の葉に覆われていますが、二の丸東下曲輪

二の丸の土橋を経て

二の丸を西から見ています。

土橋を渡って本丸

本丸西空堀

俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より/font>

空堀から北側に廻り

北中央尾根第一曲輪

北尾根中央虎口

北尾根中央第二曲輪

第二曲輪北側先端部

第三腰曲輪

北尾根中央を引き返し本丸城壁を見ています。

次回 曲輪3から西北尾根

須賀川城は那須氏の城か佐竹氏の城かともいわれています。縄張りを見ますと西への防備が堅固で私は佐竹氏の山城と思われます。

那須氏の内紛、近隣諸豪との抗争①

 資房の死後、家督をめぐって家中に内紛が生じ、資房の子政資と孫高資が対陣するということもあった。のちに家を継いだ高資は小田原北条氏と意を通じたことから、天文十七年(1548)後北条氏と敵対する宇都宮尚綱が進攻してきた。尚綱は古河公方足利晴氏と結んで、那須氏領の西端喜連川五月女坂に攻め入ったのである。
 この戦いは、宇都宮勢二千余騎に対して那須氏は三百余騎であり、少数の那須氏が圧倒的に不利な状況であったが、那須勢は善戦して宇都宮尚綱を討ち取る大勝利を得た。「五月女坂の戦い」と呼ばれる合戦で、高資はこの勝利によって那須氏の力を内外に示し、所領も塩谷郡の東部にまで拡大し戦国大名として飛躍する端緒を掴んだのである。
 ところが天文二十年、那須家の主導権を握ろうとする大田原綱清と父尚綱を討たれた宇都宮広綱の謀略で、高資は千本城において謀殺されるという一大事件が起こった。高資は岩城氏の娘を母としていたが、弟資胤・資安らは大田原氏の娘を母としていた。綱清は何とかして那須宗家を資胤に継がせ、外戚の地位を得ることで、那須氏の主導権を握ろうとしていた。それが、父尚綱の復仇を図っていた宇都宮尚綱に利用され、高資暗殺事件につながったのである。
 戦国乱世とはいえ何とも悲惨な事件であり、下剋上が烏山の地にも横行していたことを如実に示す事件であった。名将の資質をもっていた高資を失ったことは那須氏にとって痛恨事であったが、事件後、那須氏の重臣たちが相談の結果、大田原氏の筋書通り資胤が家督を継いだ。以後、那須家の歴史は大田原氏を中心に動くようになったといっても過言ではない。那須氏の内紛に乗じ佐竹氏が今後介入してきます。 武家家伝より











信長殺しの黒幕説②

2018-01-31 14:58:31 | 日記

信長殺し将軍黒幕説に終止符を打つハリボテ「鞆幕府」の真相 ②

渡邊大門(歴史学者)


一方で、義昭が力を注いだのは、室町幕府再興の下地となる組織作りであり、手始めに毛利輝元に対して副将軍職を与えた。天正10(1582)年2月に書き残された吉川経安の置文(「石見吉川家文書」)には、「毛利右馬頭大江輝元朝臣副将軍を給り(以下略)」と記されている。

Ads by Kiosked
 室町幕府再興を目指す義昭にとっては、将軍の存在をアピールする意味での副将軍であり、大きな意味があったのかもしれない。実は、副将軍については、この時代に実際に存在したのかしなかったのか、よくわからない職でもある。

 室町時代の最盛期、将軍の配下に管領が存在し、将軍の意を守護らに伝え、逆に守護らの意見を取りまとめて将軍に伝達するなどしていた。しかし、享禄4(1521)年に細川高国が摂津国大物(尼崎市)で横死して以後、基本的に管領は設置されていない。
毛利元就の孫、輝元像=山口県萩市・萩城跡

 応仁・文明の乱以降、守護は自身の領国へ戻り、室町幕府の全国支配のコントロールはあまり効かなくなっていた。以後、将軍を支えたのは特定の大名たちで、義昭の場合でいえば、最初は織田信長であり、のちに毛利輝元になった。

 この頃、将軍を支えるのは単独の大名であり、それはかつての「管領」ではなく「副将軍」と認識されたのだろうか。同じような例は、義昭以前に歴代将軍を支えた大内義興や六角定頼などの例で確認できる。ところが、大内義興らには「副将軍」が与えられておらず、輝元に与えられた「副将軍」の意義はやや疑問であるといえる。

 自然に考えるならば、「副将軍」とは義昭が輝元に気を良くしてもらうために言い出したのかもしれない。しかし、注意すべきは輝元が副将軍に任じられたことを示す史料は、天正4年から6年後に成立した回顧談的なものに過ぎない。副将軍職を過大評価するのは、少々危険ではないだろうか。

 そして義昭の執念は、やがて「鞆幕府」という形で結実した。いちおう現役の将軍である義昭は、鞆に御所を構えて幕府を再興し、かつてのように多くの奉行衆・奉公衆を擁した。いうなれば幕府の必要条件を整えており、まさしく「鞆幕府」と言うべき存在かもしれない。ところで、「副将軍」の輝元以外の「鞆幕府」の構成員は、どうなっていたのだろうか。

 「鞆幕府」の構成員は、義昭の京都時代の幕府の奉行人・奉公衆、そして毛利氏の家臣、その他大名衆で占められていた。毛利氏のなかでは、輝元をはじめ吉川元春、小早川隆景、などが中心メンバーで、三沢、山内、熊谷などの毛利氏の有力な家臣も加わっていた。

 ここで重要なことは、彼ら毛利氏家臣の多くが義昭から毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)・白傘袋(しらかさぶくろ)の使用許可を得ていることである。そもそも毛氈鞍覆・白傘袋の使用は、守護や御供衆クラスにのみ許され、本来は守護配下の被官人には許可されなかった。本来、毛利氏の家臣が許されるようなものではなかったのである。
そうしたことから、将軍によって毛氈鞍覆・白傘袋の使用許可を得た守護配下の被官人らは、ごく一部に限られ、彼等は守護と同格とみなされた。つまり、毛利氏の家臣は、義昭から最高の栄誉を与えられたことになろう。

 しかし、現実には室町幕府の衰えが目立ち始めてから(16世紀初頭以降)、金銭と引き換えに毛氈鞍覆・白傘袋の使用は許可されるようになった。栄典授与の形骸化であり、インフレでもある。ただし、本来の価値を失っていたとはいえ、与えられたほうは大変に喜んだと考えられる。それが、将軍の権威だったのだ。

Ads by Kiosked
 さらに重要なのは、将軍直属の軍事基盤である奉公衆が存在したことだ。一般的に、明応2(1493)年に起こった明応の政変で将軍権力は大きく失墜し、奉公衆は解体したと考えられている。 ironnaより