曲輪3へ戻り、曲輪2から本丸へ
曲輪3へ向かう南尾根、瘤が所々にあり登る敵に対しています。
曲輪3の南城壁
壕、虎口でもあります。
曲輪3から曲輪2の城壁を見ています。
曲輪2から曲輪3を見下ろしています。
曲輪2
曲輪2から堀切を越え、尾根を登ると
本丸南虎口
本丸
本丸東側は少し低くなっています。
本丸北下曲輪
本丸北下曲輪の北側にもう一段の腰曲輪
以上で諏訪山城は終わりです。次回 城之山城 佐野市下彦間(旧田沼町)
宇都宮国綱と佐竹氏
父母父:宇都宮広綱、母:南呂院(佐竹義昭女)
佐竹義昭 享禄4年(1531年)8月23日、第16代当主・佐竹義篤の次男として生まれる。異母長兄の義友が庶子のために、後継者に定められた。天文14年(1545年)、父の死により家督を相続して第17代当主となる。この頃の佐竹氏は内紛を収拾して、常陸北部を支配する戦国大名に成長していた。このため、常陸統一に向けて勢力拡大に励んだ。
小田政治と共同して江戸忠通と戦い、勝利した。弘治3年(1557年)、宇都宮氏で内紛が勃発すると、当主の宇都宮広綱の宇都宮城への復帰に協力し、のち娘を嫁がせている。永禄元年(1558年)には岩城重隆が常陸に侵攻してくるが、これを小里で破り、婚姻関係を理由に有利な和睦を結んだ。永禄3年(1560年)には結城晴朝を攻めて勝利し、さらに白河晴綱の寺山城を攻めて勝利した。永禄5年(1562年)には上杉輝虎(上杉謙信)と同盟を結んで小山城を攻めた。この年に長男の義重に家督を譲って隠居し、常陸府中城に移ったが、なおも実権は握り続けた。ウィキペディアより
曲輪3へ向かう南尾根、瘤が所々にあり登る敵に対しています。
曲輪3の南城壁
壕、虎口でもあります。
曲輪3から曲輪2の城壁を見ています。
曲輪2から曲輪3を見下ろしています。
曲輪2
曲輪2から堀切を越え、尾根を登ると
本丸南虎口
本丸
本丸東側は少し低くなっています。
本丸北下曲輪
本丸北下曲輪の北側にもう一段の腰曲輪
以上で諏訪山城は終わりです。次回 城之山城 佐野市下彦間(旧田沼町)
宇都宮国綱と佐竹氏
父母父:宇都宮広綱、母:南呂院(佐竹義昭女)
佐竹義昭 享禄4年(1531年)8月23日、第16代当主・佐竹義篤の次男として生まれる。異母長兄の義友が庶子のために、後継者に定められた。天文14年(1545年)、父の死により家督を相続して第17代当主となる。この頃の佐竹氏は内紛を収拾して、常陸北部を支配する戦国大名に成長していた。このため、常陸統一に向けて勢力拡大に励んだ。
小田政治と共同して江戸忠通と戦い、勝利した。弘治3年(1557年)、宇都宮氏で内紛が勃発すると、当主の宇都宮広綱の宇都宮城への復帰に協力し、のち娘を嫁がせている。永禄元年(1558年)には岩城重隆が常陸に侵攻してくるが、これを小里で破り、婚姻関係を理由に有利な和睦を結んだ。永禄3年(1560年)には結城晴朝を攻めて勝利し、さらに白河晴綱の寺山城を攻めて勝利した。永禄5年(1562年)には上杉輝虎(上杉謙信)と同盟を結んで小山城を攻めた。この年に長男の義重に家督を譲って隠居し、常陸府中城に移ったが、なおも実権は握り続けた。ウィキペディアより