三の丸から四の郭へを経て二の丸へ/font>
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三の丸
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三の丸で西を見ると本丸城壁
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三の丸から南下を見下ろすと四の郭
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四の曲輪に立って北を見ると三の丸城壁、左手に三の丸南虎口
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四の丸南虎口を見下ろすと、空堀
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空堀に立って四の郭南虎口を見上げています。
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空堀西先端から南下通路に通じています。
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通路は南側麓へ
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西から空堀を見ています。
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三の丸に戻って、本丸東城壁に沿って右手に進むと
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/76/2bbb9d256117f9e04238b1b8d37396e3.jpg)
本丸東下の通路を北に進むと
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/4d/33e484ed4787176c1a7e7fee956dea50.jpg)
二の丸、奥に見えるのが本丸北城壁
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/4d/520d2f19eeac7adc5187cee46a0fe906.jpg)
二の丸北の大堀切
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大堀切があまりにも深いため、この先には進まない人が多いようですが、本当にないのか確認するようにしてください。二の丸北下曲輪があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/91/e99054c0d28784cb0550c03032002025.jpg)
二の丸北下第二帯曲輪
次回 本丸西下の曲輪群
芳賀高勝について
父・景高が 明応6年(1497年)に没した後、芳賀氏の家督を継ぐ。その頃には宇都宮家中は宇都宮成綱派と芳賀景高派の二つに分かれて対立していた。当主・成綱と共に天英祥貞が開山した宝珠院を現在地(現栃木県真岡市)に移設し、寺名を海潮寺に改名したといわれている。また、宝珠院(宝珠庵)には永正7年(1510年)に下野国分寺内にある広済寺を寄進している[1][2]。
高勝も晩年の父同様、主君・成綱を軽んじて、横暴に長じた。所領安堵文書を勝手に発給し、成綱が追認するという主従逆転の状況も発生していた。この頃の芳賀氏は3万石(清党含めて6万石)という家中屈指の所領を持っていたため、家臣でありながら軍事力も主家に匹敵していた。
永正3年(1506年)、古河公方足利政氏とその子・高基が家督を巡って対立する永正の乱が勃発すると、高勝は古河公方家の争いに介入し、政氏を支持した。しかし、当主の宇都宮成綱は高基を支持したため家中の分裂が決定的になった。小規模な内訌もあったという。主君・成綱は宇都宮家中が一致していないことを危惧し、また自身への権力の集中も兼ね、芳賀氏の粛清討伐を決意。成綱は着々と芳賀氏を打倒するだけの兵力を整えた。永正9年(1512年)、高勝は成綱の器量を危惧し謀略によって成綱の嫡男・忠綱に強引に家督を継承させ、成綱を強制的に隠居させる。
同年、宇都宮城内で成綱によって謀殺された[3][2]。この出来事によって宇都宮錯乱という大きな内紛が発生し、宇都宮氏と芳賀氏が争う。成綱や家臣の壬生綱重、同盟国の結城氏らの活躍によって芳賀氏は敗北し、乱は鎮圧された。芳賀氏の勢力、軍事力は全盛期は約半分にまで弱体化した。ウィキペディアより
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三の丸
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三の丸で西を見ると本丸城壁
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三の丸から南下を見下ろすと四の郭
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四の曲輪に立って北を見ると三の丸城壁、左手に三の丸南虎口
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四の丸南虎口を見下ろすと、空堀
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空堀に立って四の郭南虎口を見上げています。
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空堀西先端から南下通路に通じています。
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通路は南側麓へ
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西から空堀を見ています。
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三の丸に戻って、本丸東城壁に沿って右手に進むと
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本丸東下の通路を北に進むと
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二の丸、奥に見えるのが本丸北城壁
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二の丸北の大堀切
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大堀切があまりにも深いため、この先には進まない人が多いようですが、本当にないのか確認するようにしてください。二の丸北下曲輪があります。
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二の丸北下第二帯曲輪
次回 本丸西下の曲輪群
芳賀高勝について
父・景高が 明応6年(1497年)に没した後、芳賀氏の家督を継ぐ。その頃には宇都宮家中は宇都宮成綱派と芳賀景高派の二つに分かれて対立していた。当主・成綱と共に天英祥貞が開山した宝珠院を現在地(現栃木県真岡市)に移設し、寺名を海潮寺に改名したといわれている。また、宝珠院(宝珠庵)には永正7年(1510年)に下野国分寺内にある広済寺を寄進している[1][2]。
高勝も晩年の父同様、主君・成綱を軽んじて、横暴に長じた。所領安堵文書を勝手に発給し、成綱が追認するという主従逆転の状況も発生していた。この頃の芳賀氏は3万石(清党含めて6万石)という家中屈指の所領を持っていたため、家臣でありながら軍事力も主家に匹敵していた。
永正3年(1506年)、古河公方足利政氏とその子・高基が家督を巡って対立する永正の乱が勃発すると、高勝は古河公方家の争いに介入し、政氏を支持した。しかし、当主の宇都宮成綱は高基を支持したため家中の分裂が決定的になった。小規模な内訌もあったという。主君・成綱は宇都宮家中が一致していないことを危惧し、また自身への権力の集中も兼ね、芳賀氏の粛清討伐を決意。成綱は着々と芳賀氏を打倒するだけの兵力を整えた。永正9年(1512年)、高勝は成綱の器量を危惧し謀略によって成綱の嫡男・忠綱に強引に家督を継承させ、成綱を強制的に隠居させる。
同年、宇都宮城内で成綱によって謀殺された[3][2]。この出来事によって宇都宮錯乱という大きな内紛が発生し、宇都宮氏と芳賀氏が争う。成綱や家臣の壬生綱重、同盟国の結城氏らの活躍によって芳賀氏は敗北し、乱は鎮圧された。芳賀氏の勢力、軍事力は全盛期は約半分にまで弱体化した。ウィキペディアより